金正男氏がマレーシアの空港で暗殺されてから、早くも一ヶ月が経とうとしている。その間、正男氏の検死で目の粘膜や顔の皮膚から、高い毒性を持つ神経剤VXが検出されたことで、俄に騒がしくなっている。インドネシア国籍とベトナム国籍の女2名が、空港で正男氏にクリーム状の物質を塗りつけ、これにVXが含まれていたとみられている。
猛毒の化学兵器であるVXを個人の殺害に用いた事は衝撃を持って伝えられたが、前代未聞という事態ではない。30代以上の世代には鮮明に記憶に残っていると思うが、日本ではVX を含む強力な化学兵器を個人の殺害やテロに用いた「オウム真理教(現・アレフ)」の例があるからだ。
そのオウムがVX製造に至った経緯に、全く異なる2つの組織に、一方は事件解決のため、 もう一方は新たな事件を引き起こすためという、正反対の読み方をされたひとつの解説記事がある。本稿では、正男氏襲撃に用いられたVXに注目しつつ、科学の持つ二面性について考えていきたい。
金正男暗殺にVXが使用されたことを報じるマレーシア紙報道
毒ガスが最も大々的に使われたのは、第一次世界大戦における西部戦線だろう。有名な使用例としては、1915年4月22日にイーペル戦線にてドイツ軍が塩素ガスで連合軍を攻撃し、この日だけで15,000人以上の死傷者を出している。翌年2月のヴェルダン戦でフラン スは報復として、より毒性の強いホスゲンによる攻撃を行うなど、双方で大規模かつ多種多様な化学戦が繰り広げられた。
第一次大戦で猛威を奮った毒ガスだが、戦後に結ばれた1925年のジュネーブ議定書で使用が禁じられ、第二次世界大戦では第一次大戦ほど大々的には使われていない。しかし、イタリアは1935年のエチオピア侵攻で毒ガスを用い、日本も日中戦争で散発的に毒ガスを使用し、撤退の際に遺棄した化学兵器の処理事業は現在も続いている。戦後のイラン・イラク戦争、最近でもシリア内戦で毒ガスは使われており、ISも化学兵器を獲得しようとしているとたびたび報道されるなど、現在でも深刻な脅威となっている。
国家やそれに準じる組織による化学兵器の使用は、現在でも十分な脅威ではあるが、前述のようにIS等のテロ組織による化学兵器使用の懸念は、国際社会への重大な脅威だ。そして、国家以外による化学兵器の使用の端緒を切ったのは、他でもない日本のオウム真理教である。
ガスマスクを装着したイーペルでのオーストラリア兵
VXは数ある毒ガスの分類のうち、被害者の神経を害する神経ガスの一種であり、毒ガスの中でも最強級の毒性を持つと言われている。もっとも、毒性の強さだけが化学兵器としての有用度を表すものではない。
たとえば、地下鉄サリン事件等で悪名高いサリンは高い揮発性を有するのに対し、VXは神経ガスの中では最も揮発性が低い部類に入る。揮発性の低さは戦場を長期間に渡り汚染するには都合がいいが、効率的に散布するには手間が伴う。一方、高い皮膚浸透性を有しているため、これまで知られているVXを用いた襲撃事件では、正男氏暗殺を含め、いずれも ガスとしてではなく、高い皮膚浸透性を利用している。毒性の強さに加えて、揮発性が低いことで、襲撃者がガスを吸う可能性が低いという利点があるからだ。
正男氏暗殺以前にVXを用いた襲撃事件は4件が知られており、いずれも日本でオウム真理教(現アーレフ、光の輪)引き起こしたものだが、死亡に至ったのは1名であり、3名は一命を取り留めている(1件は皮膚への付着に失敗し無症状)。今回の正男氏暗殺でも、実行犯2名はVXが皮膚に付着し、嘔吐等の症状を起こしたと報じられているが、命に別状は無いという。このことからも、「最強の毒ガス」とは言うものの、皮膚浸透では条件によっては助かる例があると言えるだろう。
地下鉄サリン事件で除染活動を行う自衛隊(2002年防衛白書より)
1994年6月の松本サリン事件では、使用された毒物がサリンだと判明はしたものの、当時の日本にはサリンに関する情報・文献が少なかった。このため、化学系出版社の東京化学同人は、サリンについての解説執筆をアンソニー・トゥー(杜祖健)コロラド州立大学教授(現・名誉教授)に依頼し、『現代化学』1994年9月号にサリンと類似する神経ガスについての解説を掲載した。
これが警察庁科学警察研究所の目に止まり、9月19日にサリンを土壌から検出するための分解物データの提供をトゥー氏に依頼した。トゥー氏は米陸軍研究所から詳細なデータを入手し、翌20日には科警研にFAXでデータ提供を行っている。
トゥー氏による情報提供後の11月。山梨県上九一色町(現・河口湖町)のオウム施設(サ ティアン)周囲で異臭事件があり、第七サティアン周囲で採集した土壌を分析した警察はサリンの分解物を検出し、これは翌1995年1月1日の読売新聞にスクープとして報道された。トゥー氏の情報提供が、事件解決の端緒となったのだ。
ところが、科警研とは別に、トゥー氏の解説に注目した者がいた。それがオウム真理教幹 部の土屋正美死刑囚だった。実際にVX製造に携わった同幹部の中川智正死刑囚がトゥー氏 に語った所によれば、土屋は『現代化学』に掲載されたトゥー氏の解説を読み、トゥー氏 が悪用を防ぐため意図的に簡略化した解説からVX合成のヒントを得て、実際に合成に成功 させたという。解説が掲載された『現代化学』は8月15日に出版されたが、翌9月にはオウムでVX製造が始まり、12月にはVXを用いた襲撃が行われている。つまり、警察に事件解決の糸口を与えた解説は、同時にオウムによる犯罪にも悪用されたのである。
もちろん、VXはあくまで手段であって、VXが無くてもオウムは別の手段で実行した可能性は高い。また、土屋の能力ならトゥー氏の解説がなくても、いくらか遅れるもののVX合成に成功しただろうと中川は見ているという。同時にトゥー氏も、自分の情報提供が無くても、日本警察はサリンの土壌検出手法に行き着いただろうと見ている。なお、トゥー氏 の名誉のために付け加えるが、氏は2010年に「我が国における危機管理学の発展に寄与」した功績から旭日中綬章を授与されており、日本政府もその貢献を認めている。
現在、科学技術のデュアルユース性、二面性については、大学等での軍事研究問題からも議論が活発化しているが、トゥー氏の解説がもたらした両極端の現象も、その一端を示すものなのかもしれない。
前述した第一次大戦のドイツの毒ガス戦に関わったフリッツ・ハーバーは、空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法を開発したことで、1918年にノーベル化学賞を受賞するなど、合成化学の歴史に偉業を残した人物だ。しかし、第一次大戦が勃発すると、化学工業の副産物であった塩素の兵器利用に目をつけている。
そして、純粋に技術に過ぎないハーバー・ボッシュ法も、人類の食糧難を救い人口爆発をもたらした化学肥料を生み出した一方で、天然鉱物を用いない爆薬製造を可能にし、戦争の拡大をもたらした二面性を持っている。毒ガスとして使用された塩素もまた、塩素消毒された水道の普及により、水を通じた感染症の発生や乳児死亡率を顕著に減少させている。
1本の解説記事、1人の科学者、1つの技術。いずれも二面性を持ち、社会にどのような影響をもたらすかの予想は難しい。いずれの技術も使うものの意思によって、益にも害にも成り得るからだ。
現在進む大学での軍事研究解禁を巡る議論でも、防衛省からの研究資金出資の是非を軸にしている。しかし、あらゆる技術が二面性を持ち、人類に繁栄も破滅ももたらしたのを見ると、資金の出所よりも、その使途と内容に向けられるべきではないだろうか。
※本記事でも登場する「デュアルユース」。石動竜仁氏のこちらの記事もあわせてどうぞ。
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