月一回の掲載と言いながら、しばらく滞っていたのは、何かを考えていたのではなく、そういうことが書いてあるとわかっていながら、泥沼であることはわかっているので遠ざけていた、戦時下の陸軍と東宝の映画資料にとうとう手を出して、案の定、深みにはまってしまったからだ。次から次へと調べることが出て来る。まあ、楽しいったらありゃしない。資料の落札で、100万近く久々に使ったし。
資料というのは、戦時下上海で東宝が陸軍の指示で行った文化工作の詳細を、お金の動きまで記録した東宝上層部への報告書を含む戦時下東宝の内部資料だ。それを補完する資料を手に入れて、「本体」を持っている持ち主とセットにして資料の全体像が復元できた。この映画会社が本当に国策工作機関だったのだと生々しく伝わってくる。
工作の内容はえげつないというか、上海に侵攻した陸軍が偽装中国映画を、東宝を介して制作させた記録だ。公開すると、中国映画として製作された何本かの映画がそうではなかったことが明らかになってしまう。プロキノ出身の東宝の有力プロデューサー・松崎啓次(戦後は実写の「アトム」「鉄人」をつくる人である)の上海での活動は知られているが、この人はネトウヨの人たちが今言うよりはるかにリアルな「工作員」だったこともわかる。
資料を読んでいくと李香蘭の恋人と言われた台湾人がちらほら登場し、謎とされた彼の暗殺の理由もこの偽装中国映画に関わったことが原因なのかと思えてきたり、何気なく千田是也が通訳としてドイツのエージェントっぽい人物と接触していたり、登場人物の顔触れは不謹慎だが絢爛豪華である。研究するでなく、小説が書きたくなる。
だが、ぼくがこの資料にはまったのは、その中身もさることながらこれを記録した市川綱二という人物に興味を持ったからだ。映画史には録音技師としてのみ名を残すが、大正時代にコロンビア大で映画学を学んでいる、というキャリアにまず驚いた。そんな頃からコロンビアには映画学があったのか。プロキノ出身者たちが幅を効かす戦時下の映画業界の現場では逆に傍流となってしまったのか、日中戦争以降は東宝の事務方として生きたようだ。文化工作はまず記録映画の形でなされるが、その場合、監督は現地には行かない。撮影と録音の技師と通訳ぐらいで行く。すると一番手の空く録音技師が自然と事務方を引き受けることになるのか、市川はひたすら東宝の文化工作を前身のPCL時代から記録し続けたのである。当然それは報告書として東宝なり軍へと挙げるためのものである。そこには中身を裏付ける書簡や出納帳なども含まれ、これは単に市川という人が几帳面だったのではなく、恐らく戦時下のあらゆることがらがこのように報告書となり、しかし敗戦後に処分されてその痕跡を消したのだと想像がつく。
森友・加計問題で公文書の破棄や改竄は歴史の隠蔽だと一部の人が真面目に指摘しても、意味がわからない人が多々いたようだが、戦時下の日本にとっての様々な不都合な真実が「その記録が確認できなかった」からといって、必ずしも「事件が存在しなかった」ことにならないことをこの市川資料の存在が図らずも物語っている。歴史を消す、というのは大抵、記録を始末する、ということに他ならない。
そこから改めて松崎啓次の仕事を追っていくと、彼がプロデュースした終戦直後の衣笠貞之助監督、円谷英二特撮の「間諜海の薔薇」がひさしぶりに気になって、そうか、円谷は衣笠の「狂った一頁」からの腐れ縁だしな、などと思っていると、なるほど、この流れで実写版「アトム」に円谷が起用される、されないみたいな記事が、戦後、少年雑誌に出たのかと納得が行く。
さらに、この「アトム」の監督の志波西果って、確か、無声映画の生き残りの人だよなあ、と余計なことが気になりだし、竹中労か誰かが、戦争中従軍して南京で行方不明と書いていたような、と思い出して書庫を漁るが載っていたはずの「キネ旬」増刊が見当たらない。Amazonで古本を注文してしまう。webでも誰か他人が、志波の名を騙った、と書いている人がいた。
そういえば映画史家の牧野守が実写版「アトム」の現場で助監めいたことをやっていたとはずだと訊いてみたら、実写版「アトム」で彼が直接関わった監督は志波西果と名乗っていて、年齢から考えても本人じゃないか、とのこと。戦前は名監督だったが、戦後、「アトム」の後は企業PRの映画をやっていたらしい。では死亡説はどこから出たのか。南京でなにかを撮ってしまったのか。実写版「アトム」は、どう見ても「大陸」(中国)にしか見えない「メキシコ」の話が無駄に続くが、志波西果本人の作ならまた意味が違ってくる。
そう考えた時、戦後のおたく文化的なものの出自としての、戦時下の敗者たち、という問題は改めて考えておいた方がいい気がしてくるのだ。「ハワイマレー沖海戦」などに関わった円谷英二が公職追放され、その周辺にいたうしおそうじや高山良策ら戦時下の記録映画や特殊撮影に関わった人々もまた戦後の映画史の主流から外れる。松崎啓次もその一人で、そこに志波西果も束の間、身を寄せる。
考えて見ればトキワ荘グループを産み出した「漫画少年」も公職追放された元「少年倶楽部」の編集長・加藤謙一が興したものだ。酒井七馬もやはり戦時下映画の周辺にいて、国策まんがを描き飛ばしていた(「翼賛一家」を書いていた!)こともよく知られる。一つ一つはおたく第一世代には知られた挿話であるが、しかし一つの流れとして見た時、戦後のおたく文化の出発は文化の主流から外された「戦犯」(無論、広義の)たちによって担われたのだ、ということが改めてわかる。
そういう事情を敗戦時、16、7歳で「青年」であった手塚はよく知っていた。手塚が「まんが記号説」の「記号」概念を戦時下のエイゼンシュテインの翻訳書から借用したり、「桃太郎 海の神兵」を「文化映画」と言い切ったり、手塚がまんが・アニメを語る時は戦時下の映画論が基調にあるということは散々言ってきたが、彼はまんが少年であるというより、戦時下のメディア環境の中で育って、敗戦時に「青年」となった。
そういう世代にしか見えなかった戦時下と戦後のつながりがある。
しかし、もう一回り下のトキワ荘グループの人々にはそれが見えない。それを語ろうにも戦時下にもの心がついた程度の下の世代にはそこまで理解できなかったのだろう。似たような世代の断絶が高畑勲と宮崎駿にもある。だからトキワ荘グループによって戦時下と戦後は切断される。
手塚は虫プロダクションをつくる前後、記録映画関係者に接触している。それは記録映画が戦時下の文化映画の流れを組むからであり、その周辺で育った手塚と同世代の人間が虫プロ周辺にも引っぱり込まれたりしている。そう考えると60年安保に敗れた人々の一部がかつては「仮面ライダー」の周辺にいたり(いまは違うが)、全共闘運動の敗者としての鈴木敏夫が『アニメージュ』やジブリをつくったりという形で、政治的敗者の屈託の中に戦後サブカルチャー史の基調があり、そして、次の世代は常にその上で無邪気に踊るという構図がある。
こういうことはあと少し年をとったら山口昌男の『「敗者」の精神史』サブカル版でも書いてみればいいのかもしれないが、そこから離れて、強引に現在に話を引きよせ考えて見る。今までは枕で、ここから話は大きく飛躍する。
いまは、「敗者の世代」というものの不在が案外と大きな問題なのかもしれないと思えてくる。「ロスジェネ」がそうだという向きもあるかもしれないが、そもそも「ロスジェネ」を言い出した一人は、昔、ぼくの事務所でアルバイトをしていて、まあ高学歴のそいつにしてみれば屈辱だったのかもしれないが、ゼミの先生(ぼくじゃないですよ)の文壇派閥に戻って文芸誌の新人賞をもらった処世を見ていると、何を失ったんだか、とは思う。得てるって。そいつはともかく、ロストジェネレーションってアメリカでは戦争で青春を奪われた世代をいうわけで、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの世代名、名乗るか。
気になるのは、このあたりから「若者」の自己像が「敗者」から「被害者」に変わったのかもしれない、と感じられることだ。言いかがりのように聞こえるかもしれないが、「ロスジェネ」の自己像は、バブル崩壊や失われた10年だか20年の無辜の被害者、という自己認識が基調にあるのではないか。
だが、時代の「被害者」になってしまうと、何もかも戦争のせいにしてきた、今の人々が忌み嫌う「戦後」のメンタリティーと基本、変わらなくなる。ここの問題を少し掘り下げる。
実際「ロスジェネ」あたりから、「中国韓国によって歴史をねじ曲げられた被害者」、「民主党政権下での悪政でひどい目に遭った被害者」というのがウェブで垣間見る限りは若い世代の自己像になっている。それは「軍部の暴走で戦争に巻き込まれてひどい目に遭った被害者」のアップデート版のようだ。福島や沖縄のような本当に歴史の被害者である地域がそれを訴えるとかえって共感はされないのは、この「被害者」史観は自分を免責するロジックだからだ。基地や原発を押し付けてきた身には、福島や沖縄への現在の責任を感じざるをえないやましさがある。政府を批判することに彼らが反発を覚えるのは、自分に跳ね返って来るかもしれないブーメランに怯えているからで、だから「反日」認定して彼らを日本への「加害者」にポジショニングする。
しかし、中国や韓国の人々がやり過ぎなぐらいに歴史教科書に文句を言ってきたのは、それ相応のことをかつてこの国がやったからだし、民主党政権も、原発政策を推進してきた自民党を選挙で選んだのも有権者である。同じ意味で戦時下も普通選挙で選ばれた内閣が戦争を選択し、国民が喜々としてそれを支持したからだ。つまり、こういう時こそみんなが好きな自己責任、と言うことばを使うべきだ。しかし、他人に自己責任を求めても自分の責任を少しでも問われれば徹底して逃げていい、というのはこの国の今の首相が模範として示した美徳である。
そして、このような、「日本」なり「われわれ」なり「有権者」にブーメランで跳ね返ってくるべき責任を「被害者」になることでスルーする「被害者」史観とでもいうべき思考は、「加害者」を間違えるどころか、捏造する。だから、世界中で陰謀史観や工作が蠢いているように見える。
だが、ネットに書いていある「工作」など、戦時下の市川資料の「工作」一つと比べたってチープで頭が悪すぎるのは言うまでもない。
若い世代はぼくのいうことも含め、「戦後民主主義」の匂いのする文化や政治を胡散臭いと思うだろう。だが、それは戦後のメインストリームの文化のどこかに「被害者」史観を無批判で内在した正義としての脆さがあるからだ。それは、アジアへの戦争責任を口にしながら、責任は天皇やA級戦犯にあり、自分たち民衆とその子孫は軍国主義者の被害者だ、というスタンスによく表れる。民衆はいつも無辜の被害者なのだ、というスタンスだ。
アジアの側も、「侵略の加害者」は、軍や軍国主義者で、日本人一般は無辜だというのが、実は暗黙の了解で(日中国交回復のあたりを調べることです)、普通選挙で選んだ内閣が戦争を起こした有権者の責任や、ワールドカップに熱狂するように戦争に高揚した民衆の責任は不問なのである。無論、天皇を含めた為政者に責任はあるが、独裁政権ではなかった以上、主権者としての責任は国民にある。
だから、自らに跳ね返る責任をかわして「被害者」然とする、アップデートされた現在の右派の「被害者」史観やその文化や政治にも、ぼくは、若い世代が感じる「戦後民主主義への胡散臭さ」と同じような胡散臭さを感じる。安倍内閣やネトウヨ的メンタリティーは、「戦後民主主義」の腐った部分と同じというか、そのアップデートでしかない。だからぼくには彼らが「右翼小児病」にしかみえない。
とは言え、個人で歴史の責任はとうてい背負えない。だからこそ戦時下の映画人の一部は、「被害者」でなく「敗者」に甘んじ生きた。表舞台から消えることだ。確かにあいつが戦犯だと、仲間を名指しして生き延びた人もいたし、それで成功したやつも事実としていた。それはもう生きかたの問題だ。
誰でも「敗者」となるのは嫌だろう。例えばぼくの父親は、勇んで少年開拓兵で満州に渡り、失意で引き上げ、戦後は共産党にいて、それこそ母とともに岸のいる国会前のデモ隊の中にぼくを抱いていたようだが、60年安保を境に共産党からも離れる。敗者である。何もなし得なかった。
しかし、そういうステージから始まるものもある。
昔話をしても仕方がないが、ぼくが就職する時も不況で、ぼくは就職すらできなかったが、かろうじて就職できた奴が「京都の花札の会社に行く」と言っていたのを思い出す。ファミコンをつくる前の任天堂である。たまたま上手くいっただけと言われるだろうが、ぼくたちの年代でこの業界に迷い込んだ連中はこの業界がまさかこうなると思うほどに先見の明はなく、先見の明がある奴はバブルを予見して不動産とかそっちの方にいったりもした。そういう昔話はうんざりで「今は違う」のかもしれないが、しかし「敗者」となることで始められる可能性というものが多分、ある。
例えば、今、この国は「敗者」なのではないか、と冷静に考えてみよう。
カジノや加計学園獣医学部新設が問題なのは、そもそも首相肝いりの「成長戦略」がこのレベルであるという点だ。人口が減り、高齢化が進み、その対策は付け焼き刃ではどうしようもなく、円安で生じた一部の企業の利益と極端な金融緩和を「種銭」とする株価の上昇は、次に繋がるものをほとんど生み出さない。企業は預金をタンスに溜め込むように内部留保をし、設備投資をしようにも成長の絵図を描く力が企業にない。さすがにうんざりする人たちも近頃は増えたが、「日本スゴイ」の連呼は自信のなさの裏返しだ。「私のどこがスゴイんですか」なんて他人に訊くなんて謙虚さが美徳の日本人にあるまじき態度とは言わないが、「勝っている」ことをわかり易く証明してくれるスポーツの世界大会やオリンピックの類がかくも盛り上がる。自信がないから一国の首相が、本当にただのジャイアンにしか見えないトランプにスネ夫並みに追従することさえ頼もしく見える。
だが、この「あまり認めたくない感」の正体は何なのか。
多分、それは歴史の次のフェイズへの変化にとり残された、という感覚ではないのか。
それが認めたくない「負け」感覚につながっている。
その変化とは、一つはwebによってもう一つの経済システムが生まれてしまった、ということ。うまく言えないがプラットフォーム上の新自由主義とでもいうべきものが、仮想通貨も含め「国境」単位だった経済が、わざわざグローバル化と言わなくてもいいほどに拡大し、産業構造も変わってしまったこと。
もう一つは国際間のバランスが変化して、中国という巨大な経済圏が誕生してしまったこと。
感情的に言えば、大抵の人はこの二つがとても「気に食わない」はずだ。
こういったフェイズの変化に対して、かつての自民党や旧民主党政権が対応できるはずもなく、そこで「改革」を言い出した安倍政権が支持を集めた。だとすれば、「既得権益の打破」や「構造改革」で行うべきは行政組織や産業構造そのものの作り変え、つまり徹底した新自由主義化でなければいけなかった。ぼくは新自由主義経済を支持はしないが、それを見せかけでやったふりをしているところがいまの始末の悪さだ。
新自由主義に本気で舵が切られて、新しい勝ち負けが見えてこそ、初めてカウンターとしてその「負」の部分に対応する思想や政治がデザインできる。
しかし実際は「既得権益」のお友達への付け換えや、IT系でもバカな人々の政権回りの利権への接近を許し、それを「改革」というから始末が悪い。日本型社会主義の企業の実態を残したまま、裁量労働だ、フリーランスだというのがおかしい。5分で一年分の成果を出したらあとは遊んでいていい、給料全額払います、というのが裁量労働制であるべきで、単に今まで通り残業して残業手当も過労死認定もない、というのは「改革」ではない。Mac一台で、どこにいても仕事ができて会議もできるのに同じ時間にひとところに集まりデスクワークをし、対面の会議をすることがやめられない。とは言え、誰も気づいてさえいないが安倍ちゃんは、「Society5.0」なる成長戦略を世に示していて、流石にその程度のことは書いてあるがこれを読んで行くだけで、安倍ちゃん周辺の「情報系」に税金が流れる方便だとわかることだ。これもあまり気が付いていない人が多いが、かつてのリアル「ハコモノ」の代わりにプラットフォームだ、データベースだ、プログラムの構築だといったウェブ「ハコモノ」に税金が投入され、web上で廃墟というか野良プログラムとかになっている。web土建屋なのね、今の情報系の一部は。
しかし主流はリアル「ハコモノ」で、オリンピックという将来使い勝手に困るハコモノに税金を投入するのでなく、福祉介護施設や保育施設をつくればそこで雇用が生まれ、介護や育児の負担が軽減されれば労働全体としてのそれこそ「生産性」も上がるとわかっているのにしない。「福祉」は雇用を生む公共投資だ、ということをスルーして「税金の無駄遣い」感を演出しているのは、ハコモノ業者を含め自民党の従来からの支援者へ公共事業を配分するスキームが壊せないからだ、と誰でもわかる。
しかも、そういう「これまでやってきたこと」の変化を役人は最も嫌うから、それを「守る」ために政権との間で、加計ぐらいの融通はいいか、と共犯関係が生まれる。既得権益の細かい付け替えで、根本が変わるわけではない。クールジャパンで何百億も無駄にするなら、「漫画村」に投資して、「曲り角」を曲がろうとしない紙の出版にトドメを刺して国内のコンテンツ産業の構造そのものをつくり変えることもできたはずだが、どうも海外にラーメン屋、作ってたらしいし。
まあ、ぼくには経済のことはよくわからないが、少なくとも曲がっているように見せかけて、というよりは、高らかに宣言はして停滞している、というのが今の状況で、その半端さが、新自由主義の半端なイデオロギー化、つまり、弱者に自己責任を要求し、出産の有無を「生産性」と呼び、「ヘイト」を思想だと本気で言えるような状況をもたらす。それが「保守」とはよく言ったものだ。そのあたりが結局、「変わりたくない」有権者のメンタリティーと呼応もしている。
「世論調査」でよく、内閣支持の根拠としてあげられる「替わりがいない」感も、与野党含め、誰も答えを持っていないので、間違った答えを自信満々押し通す安倍ちゃんを丸投げするしかない、ということなのだろう。とりあえず「勝ってる感」はなりふり構わず出してくれているから。まあ、根拠なく勝っているって、いきなり強いラノベの主人公状態で、冗談でなく、ニーズは被るはずだ。
そして、もう一つのフェイズが誰も聞きたくない中国である。
ちまちまやってる、口述筆記のツイッターで「中国」のことを書くと数百人しかいない、この期に及んでぼくをフォローする数百人しかいないフォロワーでさえ、2、3人必ず減る。それくらい、中国という単語を脊髄反射的に拒否する人は少なくないはずだ。
でもね、好きとか嫌いとか領土がどうとか、というレベルではなく、あの国が世界の中心の一極だということは認めなくてはいけないと書くと、もっと腹が立つだろうが、そこから始めないとどうしようもない。
この国ではもうずいぶん長らく、中国経済はバブルだ、いずれ崩壊すると呪うように語られ続けてきた。だが、あの国で進行しているのは日本で言ったら高度成長の後に巨大な中間層が形成された時代に相当するものであり、そこをわざとなのか、誤認している点を、まず改めなくてはいけない。
ほんの3、4年前の「爆買い」であれほど騒がしかった中国の観光客でも、気がつくと、話している内容を聞かないと彼の国の人とわからないような人々が増えているように、差別的形容になるけど、田舎のおじちゃんおばちゃんが初めての海外旅行で浮かれる程度に中国の地方が徐々に豊かになり、そして次に洗練もされていったという、かつて私たちが辿った途を辿っていることは日本にいても薄々感じ取れるだろう。極端な富裕層ではなく、かつ、都市と地方の間にあった極端な格差をも埋めていく中間層が形成されていっているのだ。だから、中間層形成の指標であるおたく産業が急成長しているわけで、重要なのは日本の十倍以上の人口の国で巨大な中間層が形成され、それが中国経済の成長の基盤になっている、ということだ。
普通はそれを「取りに行く」のが政治家の考える「成長戦略」である。
トランプは、だから中国を安全保障でなく「ディール」の相手と定義して外交を始めた。関税合戦もディールだから、いずれ、決着がつくだろう。
実は日本の経済方面の人たちも中国でとうに蠢いている。ぼく個人の経験で言っても、反対デモで日本人が全く姿を消し、北京行きの飛行機がプロペラ機になったことさえあったのに、さっき、ニュースで日航と中国東方航空が提携を強化すると流れていたが、これは当然、中国の人だけの需要ではない。
反日デモの頃、中国から撤退だ、これからはシンガポールだと言い、「反中」を国内で公言していた企業のトップが、この一年ちょっと、本当にこそこそと中国で動き回っていて、そのお供の下っ端の顔見知りの人はぼくと目が合うと目を逸らす。たんに嫌われているだけだが。KADOKAWAとか、よくいるよ。当然、財界一般の人々も同様なのは言うまでもない。普通に新聞を読んでいればとうに安倍政権下での財界の中国詣では再開しているとわかる。
反日デモの数日後、今、北京にいる日本人は柄谷行人とお前だけだと中国の友人に言われた(鈴木貞美先生もおられたことが後にわかった)のが嘘のようだ。
その中国の経済圏に「核」カードを切って、「入る」と決めた、つまり新しいフェイズに乗ろうと決めたのが北朝鮮である。韓国がアメリカと「北」を仲介したのも、民族融和や軍事衝突の回避だけが目的ではない。問題はむしろ「経済」だ。単独の経済圏として「内需」の部分が人口面からどうしても脆弱な(だからK─POPや映画は海外市場を目指した)韓国にとって「北」の経済成長がどれほどのポテンシャルであることか。同時に、中国一つとっても「資本主義化する共産主義」のエリアが「北」に生まれることは悪い話ではない。「北」に隣接する中国東北地方はまだ中国では、経済的に弱い。「北」が経済成長する波及効果はかなりメリットとなる。
何より「北」にとっては市場経済に参画し、経済成長の対象となることが一番の安全保障でもある。冷静に考えてほしいが、第二次世界大戦以降、戦争は第二次世界大戦の延長戦としての朝鮮戦争を除けば西欧の経済圏の「外」というと失礼だが、そういう地域でしか事実として起きていない。だから、東アジアの安全保障が中国という経済圏を前提としたディールに変わったタイミングを「北」は見逃さなかった。
いや、戦争だってアメリカにとって重要な経済じゃないか、という向きもあろうが、だから「北」や中国の脅威を煽っておけばこの国はアメリカの軍需産業の良いお客さんとなるのはトランプさんには織り込み済みだ。安倍ちゃんがトランプに「とてもたくさんの兵器を買う」と約束してしまったし、イージス・アショアの価格の跳ね上がり方一つとっても、殆ど「親の財布から金盗んでいじめっ子に渡す、いじめられっ子状態」であるのが、今や、日米同盟である。トランプが身も蓋もないのは、国際政治を理念もへったくれもないディールと言い切ったことで、政治的思想でなく、ディールが平和さえつくれることをあからさまにしてしまった。
こういう、二つのフェイズの変化が認めたくなくても進行している。
今年に入ってこのコラムを始めた頃、森友・加計問題でさすがに安倍政権は終わるか、と思っても30%の支持率が強固で、そこまで落ちるとその後は何もしなくても支持率は戻る。米朝会談でも、そこに乗るまいと露骨だった。
一体、この国内と国外の変化への揺り戻すエネルギーは一体何なのか。それがずっと疑問だったが、それはフェイズの変化に対応したくないという「変化」を心から拒否する感性だと考えてみる。しかし、国内では既得権益の付け換えを「改革」と言い、「北」の核ミサイル実験への最大級の抗議が在北京の北の大使館にファックスを送る、であったことが暴露されても、「強いことば」で国内に発信することで充足している。こういうのを洗脳というのではなかったか。
反安倍勢力は「森友・加計」が、既得権益の身内への付け換えという「改革」のむしろサボタージュであることを上手くつけず、福祉や教育や学術への公共投資が1、2年のスパンでのリターンという経済性でなく、長期的な経済システムの転換となるプログラムを描けないから、そこを逆につかれる。
新聞だって「朝日」一つ見ても、森友・加計で安倍ちゃん本気で倒すのかと思ったら、安倍ちゃんの対立候補の野田聖子を文春とタッグで潰しにかかっていて、結局「停滞」を望んでいるようにしか見えない。ジャーナリズムが政権を批判するという時代は終わった的な記事の見出しだけどこかで見たが、メディアは政権批判をすべきでない、という空気に流されている。新聞が空気読んだらどうなるか、反省してなかったのか。原稿渡しても校閲がまるで検閲みたいに政権に配慮する赤字が入ることも少なくない。
そうやって有権者も政治も旧メディアもネットも、次のフェイズから下り続けて停滞していくことが平成30年のどうやらパラダイムのようだ。だからオウムの13人でも死刑にして「終わった感」を演出しなくてはいけないのだろうが、そういうことに何の意味もない。何か派手なイベントで無理やり歴史に区切りをつけようというのはオウムの歴史観のパチでしかない。
この国はフェイズの変化に乗り遅れた。そして停滞している。
それは「敗北」を認めたくないからで、その感情を困ったことに「被害者」になることで辻褄を合わせようとしている。
それがすでに触れたように戦後の一貫したメンタリティーで、しかし「敗者」の烙印を押された少数の者が流れついた場所で、サブカルチャーに限って言えば、良くも悪くも次のステージを切り開いてきた。ぼくはもう年をとってしまったから、ただ、そういう「敗者の歴史」を辿ってみるしかない。
だが、余計なお世話だが、さて、現在の「敗者」はどこにいるのか。彼らの流れつくべき場所はどこにあるのか。
少し前、ネットで「日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと」という若いライターのコラムを読んだことがある。ゲーム雑誌か何かの取材で中国の深圳に行き、そこで見たものが、かつての日本の「高度成長期」なのかと愕然とする、という調査だ。彼はこう書く。
中国の経済成長はいわば身体的なものであって、のびのびと身体を動かせばそれだけで充分な対価が返ってくる性質のものなのだ。
そしてこの国は、身体を動かせる若い労働力にあふれている。
私はバブル崩壊の暗雲のなか生まれた。そうして26年が経ったが、はっきり言おう、人間がここまで希望を持って生きていいものだとは、想像だにしなかった。
彼の目にうつる中国の活力とは、例えば、日本であればすぐに却下される詰めの甘い企画が、とりあえずやっちゃえ感で実行されたものにあふれていることだ。杜撰だが勢いがある。何でもありである。
そして、何で、今、ここに生まれなかったのか本気で泣いた、という。
ネトウヨから叩かれかねないが、とても正直だと思う。
だから、この若いライターはここまで言う。
中国の物量をいいかげんに認識して、彼らに魚の味でなく、釣り方を教える戦略に切り替えろ。
私たちは国際社会に協調することにかけては一流なのだから、米や旧EU圏とのパイプを維持しつつ、中国とも独自の協調路線を取れ。
そして、この新しい場所でどう生きられるのか彼は考える。
甘いし、考え浅いし、言ってることも大きいのか小さいのかわからないが(ごめんな)、でも、コラムが書かれたのは去年の12月だ。この国が「北」との戦争を待望していた時、ここまで書いている。
いいぞ。
確かに彼の感覚はいささか極端かもしれないが、ロスジェネより一回り下の世代の彼が「被害者」でなく「敗者」として始めようとした瞬間に見えたものが正直に書かれている。
確かに表現の規制はあるが、日本に今やどこまで表現の自由があるのか。規制する相手が国家という明確な存在である中国の方が、互いに同調圧力でものを言えなくしている日本よりは多少はましだとさえ言える。
彼は中国の更なる敗者の、深圳ネットカフェ名物のネトゲ廃人たちを取材もしている。
そういうとんでもないリスクもわかっている。後はみんなの大好きな「自己責任」というやつだが、他人の自己責任をあげつらうより、自分で自己責任のオトシマエをつけられる場所の方が生き易い。それが本当の自由競争である。
ぼくもまた北京に授業や学会で行く度に、何ものでもない若者が何かになっていく可能性が開かれていることを実感する。日本人の教え子の一人は、そこに彼が生まれる前の「80年代」を見つけたらしく、海を渡って帰ってきやしない。
だが、ぼくが言いたいのは中国に答えがある、ということではなく、「敗者」であることを認めた時、いつの時代も見えてくるフェイズや居場所がある、ということだ。無論、その場所でどうにもならい可能性も相応にある。そういう場所は今もそこかしこにあるし、日本の中にもあって、なるほどね、と思う時もある。しかし他人から「ここだよ」と言われても決して辿りつけない。
「工作」や「公文書」問題と絡めて陸軍映画工作の話を書くつもりだったが、筆が滑ってこういう話になってしまった。でも「被害者」より「敗者」の方が魅力的なのは、彼らがちゃんと戦って(戦争のことではないよ)負けたからで、ここまで書いて、本当は、いまの人は皆「被害者」という立ち位置を好むという話でなく、常に「観戦者」であるという話に持って行くはずだったのを思い出した。
「観戦」という言葉は日露戦争で従軍記者たちが山の上の安全地帯から指揮官と一緒に「戦争」を「観る」ことを言った言葉で、「観戦場」と言う観客席があった。何だか戦場に行くと「現場感」満載だけれど、多分、ネットって現実に対する「観戦場」で、「観戦」している限りは安全だがどこにも辿り着けない。それを掘り下げるため、日露戦争時の「観戦」写真も用意したが、まあいいや。
日露戦争に従軍した花袋は、戦場で負傷一つせず、大腸カタルか何かにかかって帰国途中の中国の港の街で馬車に足を轢かれる。それが唯一、従軍で負った傷であり、その程度のリアルにしか触れ得ない自分を自覚したことで彼の文学は出来上がる。そういうこともある。余談。
さて、件のコラムのライターの名は敢えて書かない。でも、中国の同じ環境に身を投じているぼくの教え子や、あるいは魔が差して「そこ」を老後(もうおたく世代は還暦)に徘徊しているかもしれないぼくと、どこかですれ違えればいい、と思う。
元気で。
備忘録替わりにメモしておく。
少しの間、中国で戦時下日本の文化工作の一次資料の調査(図書館で当時の日本側の文書や新聞を読みまくる)をしていて、日本に戻ったらサマータイムの話が出ていた。国民の関心も高い、と安倍ちゃんが言ったとか。
それで中国で読んだ「宣慰月報」なる、国務院広報処という日本統治の宣伝工作を進める部署が刊行していた内部向けプロパガンダ専門雑誌に、宣伝の第一歩はとにかく「標準時」を設けることだと書いてあったのを思い出した。天皇の代替わりで元号が変わるのは、あるいはそもそも天皇がかつては災害の折などにも改元をしたのは天皇が時間の管理者であるからだが、フェイクの皇帝溥儀の元号でも内地の天皇の元号でもなく、満州の実質統治者である陸軍の連中が「標準時」という時間の管理者たらんとしたことは自分たちに権力があるという誇示である。一人だけ時間を無視するわけにもいかないから、権力の管理する「時間」に人々を従わせるのは国民動員の基本ということなのである。
だから、別に国民が望んでいないサマータイムがオリンピックの猛暑対策だとか、どの口が言うという森元首相の地球温暖化対策であるとは素直には信じ難い。
第一、来年から実施したいというが、それって「改元」の直後ではないか。
ただでさえ今の天皇の「お気持ち」発言は、戦後憲法下の象徴天皇を「機関」として位置付けてくれ、機関である以上、その役職はスムーズに交代するシステムにしてほしいという訴えだったのに、「退位」の部分のみを忖度した結果の「改元」である。その「改元」に被せて「サマータイム」導入という「標準時」の変遷を持ち出してきたのだから、右翼の人は怒った方がいい。
ネットでは次の元号は「安久」「安始」だという都市伝説も散見する。「安」の文字はたしかに元号で過去幾度も使われたが、噂の根拠は「安」を「安らか」の意味でなく、「安倍」の「安」からの連想であることは明らかだ。「安」の使用は前例がある、あくまで「安心」「安定」「安らか」の意味(まあ「安保」とは流石に言わんだろうが)ととぼけることもできる。流石に安倍ちゃんに忖度した元号はないと思うが、webのこの種の噂はたまに政権周辺の観測アドバルーンだったりするから油断はできない。
そういえば、豪雨の被災地に安倍ちゃんが膝を折って被災者の話に頷くというシーンをテレビは報道したが、それは今の天皇が自らに厳粛に課した役割だ。政治家がやるのは法の整備や予算の迅速な執行である。
何だかずっと思っていたのだが、まるでボクシング連盟の終身会長に納まろうとルールを変えたあのおっちゃんみたいに、自民党の総裁の三選を可能にするようルールを変えた安倍ちゃんは、もしかすると無自覚に、ひょっとしたらわかっていて、天皇に取って代わろうとしているのではないか。無論、比喩としてだが。戦後、天皇にかろうじて残った権能を横取りしている印象はどうしても拭えず、これって実はクーデターか革命ではないか。王制復古の対極。左翼がやるならわかるが。
天皇はどの時代も時の為政者に利用されてきたが、近代以降でいけばここまで天皇を無下にした政治家はないのではないか。こじつけに思えるかもしれないが、サヨクで非国民なぼくはかく思うのである。
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大塚英志
1958年東京都生まれ。まんが原作者としての近作に『クウデタア<完全版>』『恋する民俗学者』(http://comic-walker.com/)、海外のまんがアニメ研究者の日本語による投稿論文に門戸を開く研究誌『トビオクリティクス』を主宰。批評家としての近著に『感情化する社会』、『まんがでわかるまんがの歴史』、『動員のメディアミックス』(編著)など。
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