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苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会

第3回「考えること」と「書くこと」

千葉雅也 , 山内朋樹 , 読書猿 , 瀬下翔太
2020年05月27日 更新
第3回「考えること」と「書くこと」

思考を階層的に整理することによって、「書くこと」と「考えること」の強力な武器となるツール、「アウトライナー」。普段からアウトライナーを利用して執筆をおこなっている、哲学者・千葉雅也さん、美学者・山内朋樹さん、読書家・読書猿さん、編集者/ディレクター・瀬下翔太さんの4名に集まっていただき、執筆論や思考術などなど、縦横無尽に議論を交わしていただきました。(全3回)

この対談が書籍化されました!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』
  


著/千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太
カバー装画/あらゐけいいち
  
定価:1100円(税別) 
レーベル:星海社新書
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そもそもなにを書けばいい?

千葉 「どうしてギリギリになると書けるのか」という問いに対しては、有限化が起こるから書けるという答えはそうなんだけど、それと同時にもうひとつ思うのは、われわれってなんだかんだいって文章が書ける人間なんですよ。そもそも、「一般の読者」っていう言い方はアレだけれど、文章がそもそも書けない人、そもそも書けるってどういうことなんですかっていうくらいに話を広げると、そこはどうなんですかねっていうのはある。たとえばぼくも、規範的に書くのではなくて、ぐちゃぐちゃでもいいからとにかく最初にばーっとドラフトを書いちゃう。それは読書猿さんがレヴィ゠ストロースの書き方について書いていた記事をぼくも参考にしていて、というかあの記事はたぶんいろんな人が参考にしているんですが、そもそも最初にぐちゃぐちゃのドラフトを書くっていうこと自体ができない人がいる。むしろそのほうが大多数なんですよね。ぼくは「土石流みたいな文章を書けばいい」って言うんですけど、土石流すら出てこないんですよ、なかなか。それはどうなのかなって。

読書猿 それは教育との関係ですごくあります、あります。卒論指導とか。

千葉 なにも出てこないんですよね。

読書猿 なにかあればね、これがこうなってこうなってっていう話ができるんですが。ぼくもノンストップ・ライティングについての記事、書きましたよ。実はぼくはあれ苦手なんです。たしかに書けます。でも、そんなに続かない。10分間延々書き続けているかっていうとそんなことはなくて、「書けない書けない書けない」って1ページ。つらいですよ。じゃあこんなつらいことに対して、自分がどうしているかっていうと、瀬下さんがお話しされていた白いページへの恐怖といっしょで、枠がないとかえってフリーってできないんだと思って、「フレームド」って付けて、「フレームド・ノンストップ・ライティング」にしたんですよ。

千葉 「フレームド」はそのとおりですよね。

読書猿 まずアウトラインを分割していくことで枠、フレームをつくる。そのフレームのなかでフリーライティング、暴れ書けと。このテーマについて書ければいいし、そのときは他のフレームについては気にしないでいい、書けるだけ書けと。でもそんなに書けないですよ。10文字のときもあるし、200字も書ければ御の字です。ほとんどのときは1ツイートぶんも埋まらない(笑)。ぼくは本当に書けない人間なので。それでも、フレームのなかを埋めることなら執筆というよりは作業なのでまだできる。それをやっていってもうこれ以上できないとなったときに、アウトラインをもう一回俯瞰して、どこが書けていてどこが書けていないのか確かめながら、書けたところを次の展開に持っていく。ちょっとよさげなところには線を引いて、自分を褒めてあげたり(笑)。で、線を引いたと頃はなんで引っかかったの? ということについてさらにフリーライティングで書いていく。そういう、自分で言っていて涙ぐましい努力をしながら、穴埋めをだんだん豊かにしながら、っていう感じですね。だーっと書けるときがないことはないですよ。でもそれは自分の執筆人生においてごくごく例外的で、80%くらいは2語文の世界ですよ。「あいつ嫌い」とか「◯◯バカ」とか、そんなことしか書けない。

読書猿さんによるノンストップ・ライティングの例。Treeを使用。(2018年撮影)

瀬下 ぼくは本当になにも書けなくなってしまうと、自由自在に喋るように書けていたときのことを思い出して、動けなくなってしまいます。

山内 「神感」ですね。

瀬下 そういうときの手っ取り早い「神感」調達手法として、酩酊というのがあるのですが、あんまりよくないですよね......。

千葉 いやいや、ありますよ。

「物真似」で書く

瀬下 そういえば、フリーライティングの際にモノマネをやってうまくいくことがあります。

山内 誰かみたいに書くということ?

千葉 賢者会議みたいな。

瀬下 そうですね。必ず難癖をつけてくる人や、逆になにを書いても褒めてくれる人を頭のなかで召喚して、その人が言いそうなことを実際に書いてみる、というような感じです。あと、尊敬する書き手がもし自分の原稿を読んだらなんて言うだろうか、とか。

千葉 わかるなあ〜、めちゃくちゃわかる。

瀬下 読書猿さんがおっしゃっていた「無能」という言葉にかこつけると、自分の問題は「不能」だと思っています。もう一切「勃たない」ようなときがあるんです。これをどうにかするために、ある種開き直りのような感じで、他人が書くとしたらこんなことを書くかなあ、とモノマネをすることもあります。なんだかアホらしくて、恥ずかしいのですが。

千葉 めっちゃ実践的じゃないですか。この話、いろんな人が助かりますよ。

読書猿 逆に、そこまでしないと書けないのかという絶望もあるかもしれない。書けないなら書けないでいいじゃないかという気にもなってしまいますね。

千葉 流れるように文章が出てくる人からすると、われわれは軽蔑されるかもしれないですね。松浦寿輝先生のような方からすると(笑)。「なんで君たちはこんなバカみたいなことを真剣に考えているのかな」。

一同 (笑)

瀬下 まったく出てこない自分からするとうらやましい限りなのですが、逆に、どこでどういうふうに止めているのかが気になります。

山内 レヴィ゠ストロースとかもそっち側の人なんでしょうね。

千葉 「出てくる」という意味では、ぼくは出てくるほうですよ。自由連想とかけっこうできちゃうので、止めるのがやっぱりポイント。精神分析って、寝椅子で自由連想するじゃないですか。あれもできる人とできない人にかなり分かれるみたいで、そもそも精神分析は患者の側に才能がないとできないんだと分析家が言ってました。向いている人と向いていない人が明らかにいて、まず自由連想をさせるのが大変だと。

山内 リミッターみたいなものを外すことがまず難しいでしょうね。規範的な意識が働くとなにも出てこなくなりそう。

千葉 それに関してぼくが思うのは、そもそもストックがないと出てこない。だから瀬下さんが真似をすると出てくるというのも、「真似によってストックが出てきやすくなる」んですよ。真似って自分のなかのストックを呼び出すためのトリガーみたいなもので、自分のなかにはストックがたくさんあるんだけど、なんのトリガーもなしに出してくださいって言われても出ない。
あ、そうか。自由連想にもなにか技法があるんでしょうね。たしかにぼくも、ある種の精神状態に持っていったりということを無意識にやっているふしはある。それは、「作家っぽい気分」をつくったり、美味しいコーヒーを飲んだりすると書けるようになるということはあって、そういうものも技術的な問題なのかもしれませんね。そういうことをまったく知らない、気分のつくり方すらわからない人に好きに出せって言ってもなにも出ないのかもしれない。

具体的なことから始める

――元も子もない話かもしれませんが、常にある程度のことを考えていないといけないですよね。自分が考える対象がなんなのかもある程度は知っていないといけない。

山内 そうですね。たとえば学生の卒論の相談に乗っていると、テーマを決める段階から固まってしまうことがあります。「論文書くんだ」みたいな難しいことは考えずに、まずは「こういうことについて書きたい」って思いついたものを書いてみたらって言っても難しかったりします。気持ちはわかりますけどね。大前提として書きたくないわけで。なので卒論では毎年この「どう始めるか問題」に直面するんです。うちは実技の人ばかりなので、つくることに関してはそれなりにやってる人もいるんですね。つくることと書くことはどちらもやってみた人間からすればよく似ていると思うんですが、扱う対象が言葉になると、急にわかりませんモードになってしまう。それをどう書くモードにするか。

千葉 ちょっと話が広がりすぎるかもしれないけれど、具体的なことを書かせるというのは一歩目かなという気はします。抽象的に物事について判断したり、自分の価値観を言ったりさせるのは難しくて、たんに「こういうことがありました」とか、まずそこだけだったらやれるかなという気もする。
つまり、自由にものを書くという行為をどうガイドするかということだけど、「たとえば1年前の夏にあなたはなにをしていましたか?」みたいなことから始めて、それについてどう思ったかということを次のステップにして、抽象性を少し上げていくというアプローチは考えられますよね。
あまり普段ものを考えずに生きている人、という言い方はよくないかもしれないけれど、じゃあ「普段ものを考えて生きている」ってどういうことかというと、具体性と抽象性のあいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。われわれ学者みたいな人間は、日常で見たことなどに対して、メタレベルの価値判断を常に下して、メタレベルとオブジェクトレベルを行ったり来たりしながら生活している。頭のなかで言語化が常時起こっているから、なにか出しなさいと言われたらそれをそのままワープロにインプットすればいいので、出るんですよね。
それをやっていない人は、まず抽象的なメタレベルの思考をやっていない。具体的な経験すら言語化されていない。でも具体的な経験自体はしているから、それを言語化に繋ぐのは第一歩だと思うし、抽象的なことまでは考えていないけれど感情とか価値については多少考えているから、それを言語化して具体レベルと繋ぐことからかな、と思います。

アウトライナーと思考法

――みなさんは考えることと書くことが分かちがたく結びついていると思うのですが、アウトライナーのような書くための道具を導入したことで、思考の方法が変わったりはしましたか?

千葉 ぼくはもともと自由連想的にものを考えるタイプだったので、それにぴったりなツールが出てきた、という感覚です。仕事のプロセスに組み込めていなかった自分の思考癖を、やっと実装できたという感覚。むしろ、それまでの自由連想が散発的だったのに対して、アウトライナーに自由連想的な思考を実装することで、それを統御できるようになった部分はありますね。

瀬下 ところで、少し気になったのですが、みなさんはアウトライナー的な書き方を執筆プロセスのどの段階まで維持していますか? というのも、アウトラインって、WorkFlowyのようなツールを使わずとも、自分でナカグロを打ってインデントすればエディタ上でも再現できますよね。ある程度原稿の素材ができてきて、テキストエディタを操作してる段階にも、そうした簡易のアウトラインを使っていますか?

山内 ぼくはやらないですね。

千葉 本文を書いている途中にそういうメモを入れるということ?

瀬下 そうです。ぼくはどれだけ執筆が進んでいても、頭に新たに浮かんだことがあると、その場でテキストエディタ上にアウトライン的なメモを残してしまいます。

千葉 やらないですね。

読書猿 ぼくはやりますね。

千葉 ここで分かれるのは興味深いですね。ぼくがやらないのはなぜかというと、最後の原稿というのは原稿という存在物なので、そこにあまりメタデータを入れないからなんですよ。最近は少し入れるようになってきたんだけれど。

瀬下 なるほど。ぼくは逆のようです。ずっとブログのエディタで文章を編集していたからか、最後の最後まで「やっぱりここに画像を入れたくなった」とか「リンクを挿入し忘れていたから挿入しよう」とか、メタデータも含めた最終稿を触り続けてしまう癖があります。

千葉 情報として言語を捉えるか、言語は情報に対する剰余だというか、ある種の物質性を持つものとしての言語をどう操作するか、というふうに分けられる気もします。ぼくは言語の物質性に囚われた人間なので、そこが問題だったのですが、言語を情報的に処理するということをアウトライナーを使って学んでいって、書くのが楽になっていったという感覚なんです。なるべく言語の物質性に直面しない状態で書いて、一気に物質化する。ぼくは最後はやっぱりWordを使うし、そのときには字数なども印刷原稿とできる限り近い形にして、フォントもきれいにして、それで最後の仕上げをします。その段階で思いつくこと、書き加えることはけっこうあるんですよ。でもそれを最後の最後まで延期するということを最近やっています。徹底的に延期する。

山内 ドラフトの段階でほぼほぼ原稿に近い状態にしてしまって、Word内で細かくいじるのをなるべく避けるっていうのは本当に重要ですね。いじるのを早い段階に持ってきちゃうと神経症的にそればっかりやり続けてしまうので、この行為をゼノンのパラドックスのごとく無限後退させるために、たとえばEvernoteやWorkFlowyやstoneといった無数の中間地点が挟まれていく。

千葉 ぼくは最近Ulyssesも使ってるんですよ。Ulyssesは画面の状況をほとんど変えられないんですよね。説明を読むと「360度セマンティック」と謳っていて、とにかく意味だけ考えてくれというコンセプト、これはいいなあと思って。Markdownで多少強調とかはできるけれど、もはやいらないので、とにかくタイプライターモードであの画面に書く。最近はドラフトはそうやっています。

瀬下 原稿の執筆や編集だけでなく、仲間と一緒にデザインまで請け負うことがあります。そういう場合には、千葉さんの事例とは逆に、本文以外のコピーやデザインなど、いじれる要素が飛躍的に増えます。テキストを読むという体験を、工作舎の『遊』のように自由に考えられる反面、原稿そのものに向き合うことがブログ記事の更新以上に難しくなると感じます。

千葉 正直、大学1〜2年の頃のレポートは、ぼくはそういう発想でした。エディトリアルで、レポートのクオリティをごまかしていたかもしれない。

読書猿 ツールが思考に対してどんな影響を与えたかという話について、千葉さんの言葉を拝借していえば、「思考しないで思考する」ことに使えているのかなと。アウトライナー上で作業していることが、かなりの部分、全部ではないですが思考の肩代わりをしてくれている。アウトライナー上でどういう作業をどういう手順でやるかということも、手の動きとしてある程度決まってきていて。並べ替える、分割する、分析する、詳細を決めてもう一回隠して......ということを手が覚えていて、頭でやらないといけないことを肩代わりしてくれている、という影響はあった気がしますね。手続き化されている。
書きながらよく詰まることがあるわけです。詰まったらなにをするかというと、「これは知識が足りない詰まり方だから調査をする」「これはアイデアが足りなかったから、『アイデア大全』の技法リストのなかからふたつみっつ飛ばしてなにか使う。突破できたら次に行く」というふうにします。アウトライナーでやれる作業のリストになっている。頭が悪いんですよ(笑)。だからなるべく思考に頼りたくないという欲望があって、頭を使わずに思考の代わりをする手順を考えようとしています。

瀬下 外部化したいですよね。勝手に出てくるような感じにしたい。

千葉 ある種の自動生成プロセスですね。話を一般化しすぎるかもしれないけれど、クリエイティビティを発揮するって、自分のなかに自動生成プロセスが動き始めるみたいなところがある。人間の主体が自分の思いを表現するとかではなく、自分のなかに他者としての機械が動き始めて、なにかできてしまう、ということがクリエイティビティの根底にあるんじゃないかと思って、研究でもそういうことを考え始めたんですよ。詩人がなにかに取り憑かれて、他者化して書くというのも、自動生成プロセスが作動し始めるということだと思うんですが、アウトライナーによって思考を脱‐主体化することも、それに類する部分があるんじゃないか。

取り返しがつかなくなって、文章が生まれる

山内 ぼくも外部化されたものを見て判断したいんですよね。「無からの創造」ではなく。普段からアウトライナーに放り込んでいる雑多な与件が次の文章を導く、というように。これは庭の石組の話と似ていて、平安時代の『作庭記』という作庭指南書があるんですが、そこにはまずいろんな石を集めてきて並べてみろとある。Inboxのように。で、そこからいい感じのをひとつ立ててみろと。つまりはプロジェクト化する。するとその最初の石が次の石を乞うんだと、ある種の自動生成を導く手立てを書いています。なにかしら物質的にごろっと置いてしまえば、それが次を、次が次を求める......「求める」という言い方はちょっと微妙かもしれませんが。

読書猿 最初に石を置いたら、もう取り返しがつかないから。取り返しのつかなさから始まっていって、できないことが増えていくんですよね。そうやってできないことが積み重なっていった結果、残った道筋が見えてくる。

千葉 取り返しのつかなさの連鎖!

読書猿 いちばん取り返しのつかないことを最初にするといい、と(笑)。

山内 庭では、最初に置いた石がどうしても気になってしまう場合は、それを取ってしまえと言うんですよ。初手を省くと、結果として自動生成された取り返しのつかなさの連鎖それ自体が残る。

千葉 そういえば、松浦寿輝さんは最初に書いた5枚の原稿は後で捨てるってどこかで言ってましたね。

山内 千葉さんも自分がやったんじゃないという意識を持つことで作品化する、ということをどこかでおっしゃっていたと思うんですけど、たぶんこのプロセスもそう。最初の石にはなにか必要以上に念がこもってしまっているというか、自分と分かちがたいものとして据えられてしまっている。周囲には初手の石が物体的に触発してできた連鎖があるんだけど、どうしても最初の石にばかり目が行ってしまう。この念を取り払った瞬間に石組が完成する。

千葉 自分から距離がとられた、他者的なものだけが残る。ありますよね。実作しているとその感覚はとてもよくわかる。そういえばアウトライナーによって思考の変化が起こるってありました。ぼくにとってすごく大きいのは、ものを決めることができるようになった。

一同 ああー。

千葉 なんかそういうと自己啓発セミナーみたいなやばい感じがするけれど、前よりも意思決定ができるようになった。友達に相談しないで自分で決められるようになりました。どうしようか迷っていることがあったら、迷っていることを正直にアウトライナーに書くんですよ。そうすると、もうこれはこれに決めざるをえないなという結論が、おのずと分析的に出てくる。いままでだったら、そこまで自己分析する手前の段階で友達に電話をしちゃってたんですよ。でもアウトライナーによって、もうこうするしかないなということが可視化される。それによって、決断できるようになったというのが言い過ぎなら、少なくとも決断しやすくなった。それはあります。

山内 文章を書くうえでもそういうことが起きている。

千葉 有限性が可視化される感じがあります。

瀬下 頭のなかで選択肢をこねくり回すのではなく、具体的に書いてしまうことで、必要ない選択肢が自然に切られていく感覚はあります。

千葉 いくらでも可能性を考えてしまうと意思決定できないわけですけど、それをカットするひとつのツールになっているということですね。

読書猿 書くこと自体が、先ほどの「石を置く」ではないですが、取り返しのつかなさを重ねていくことですよね。書いた文に制約されるじゃないですか。それが文章を書く苦しみの大きな部分を占めていると思うんですけど、そこから先はきっと二通りあって、「最初の石」を取り除いて書き直してしまうか、あえて置いたまま制約に縛られながら、引きずりながら書くか。

千葉 それで思いましたが、Twitterにはなぜあんなにアイデアを書けるのか。ひとつは140字という字数制限が大きいと思っていましたが、オーディエンスがいることの効用についてはいまひとつ結論が出せていなかったんです。でも、取り返しのつかなさだなといま思いました。人に読まれてしまった、少なくとも何人かの人に読まれてしまったという事実は、消えるといえば消えるので本当に取り返しがつかないとは思わなくていいんだけど、まあまあ取り返しがつかない。それは大きい石を置いてしまったというのに近くて、その後その責任の引き受けから連鎖して、他のものが書けるんですよね。やっぱり、誰も見ていないところで書いた文章ってどうにでもなるわけですから。

山内 準‐発表の場としてTwitterがある。言ったからにはなにかやらないとな、となってしまう。この座談会の発端自体がそうでしたね(笑)。

千葉 ぼくはツイ消し推奨の人なので、消したら忘れてもらえると思っているし、忘れてあげるのが倫理だと思ってます。だからスクショが大嫌いなんですよ。あれほど野暮なものはない。ツイートは消される可能性のあるものなんだから、エビデンスを残すなんて野暮。

読書猿 ユングがフロイトと喧嘩別れした後に、紙で自己分析をやっていたらしいんですよ。紙に線を引いて、自分の台詞と相手=Xの台詞を区別して書き出していく。フロイトと付き合っていたときは、フロイトが聞いてくれていたけれど、そのような形で他者を設定していたと。

千葉 フロイト゠ラカン的にいえば、他者がいないとダメなので、成立しないんですよね。

読書猿 だからこそホロリとくるんですよ(笑)。

千葉 ユング派の根底にそういうことがあると考えるとおもしろいですね。精神分析はリアルの他人とふたりでやるということが根本的に重要で、ぼくの有限性の話とか、ツールというものを友人と繋げて考える発想って、根本には全て精神分析があります。精神分析は他者がいるということが大事で、それに対してぼくはツールとかノートとか筆記用具を準‐他者と呼んでいるんですが、これは「偽精神分析」なんですよ。ぼくが最近しているライフハック系の話は偽精神分析で、そのことにはいろいろと思うところがあるんですが、偽精神分析だとしても意味はあると思っている。むしろ、オーセンティックな精神分析がいうところの本物の他者というものを、準‐他者的なものに回収できないか、そう考えたいくらいなんですよね。人間と人工知能みたいな話ですが、人工知能的なもののほうを第一とする方法で考えたい。

瀬下 準‐他者って素晴らしい概念ですね。文章を書くうえでは、いわゆるリアルな他者からコメントをもらうことも、アウトライナーのような準‐他者からフィードバックを得ることも、だいたい同じような効果を持っていますよね。

千葉 でもやっぱり、リアル他者に傷つくことを言われたらつらいでしょう。

瀬下 そうですね。ただ、場合によっては、意外と区別が難しい気もしています。たとえば、ぼくはTwitterで自分にいやなことを言う他者がいたらすぐブロックしています。他方で、自分が大事にしているツールからのフィードバックには、何時間も付き合っている。また、noteにアップしているエッセイは、公開範囲を限定する機能のおかげで、信頼できる人にじっくり読んでもらうことができている。連ツイは発想を広げるために便利なのでよくやりますが、炎上したら怖いので、書いたらすぐに消すようにしています。いま挙げた事例は、いわゆる他者性とツールの準‐他者性のようなものが入り交じっているように思います。

千葉 おもしろいですね。そう考えると、ぼくのなかでもソーシャルメディアとの関係のなかで他者というものの捉え方は変わってきていて、ソーシャルメディア以前って他者はもっと超越的なものだったんですよ。旧来の精神分析はそういう他者性をモデルにしていたんだけれど、これほどソーシャルメディアが発達して、他者性にグラデーションが生じる状況においては、もはや強い他者性は機能しない時代になっているのかもしれないですね。逆にいうと、グラデーション的にみてもっと弱いような他者......知らないアカウントでたまにリプライを送ってくる人とか、そういう人とのあいだにも、弱く精神分析的な関係が取り結ばれているような状態になっている。ぼくはそういうメディア状況について考えているのかもしれないですね。

瀬下 自分のなかから言葉が出てこないぼくにとって、さまざまなグラデーションの他者や準‐他者に触発されながら文章を書くことができるこの状況は、悪くないものに思えます。それでも、書くことはつらいですが......。

【了】

3回にわたってお届けしてきた『苦しみの執筆論』、いかがでしたでしょうか?
この4名でさえこれだけ苦悩している、という赤裸々な吐露や、それでもアウトライナーによってポジティブな変化が生まれるという予感、そして何より、書くこと/考えることをめぐる本質的な言葉の数々を楽しみ、活かしていっていただけたなら幸甚です。(編集部)

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ライターの紹介

千葉雅也

千葉雅也

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1978年、栃木県生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授、哲学者。ジル・ドゥルーズを中心とするフランス現代思想の研究、美術・文学・ファッションなどの批評、初の小説『デッドライン』(新潮社)など、領域横断的な執筆を展開している。著書に『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、『勉強の哲学——来たるべきバカのために』(文藝春秋)など。

山内朋樹

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1978年、兵庫県生まれ。京都教育大学教員、庭師。フランスの庭師ジル・クレマンの研究を軸に、現代の庭の可能性を理論と実践の両面から探求している。論考に「なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか──浪江町における復興の一断面」(『アーギュメンツ#3』)、訳書にジル・クレマン『動いている庭』(みすず書房)。

読書猿

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正体不明。読書家。メルマガ「読書猿」で書評活動を開始し、現在はブログでギリシャ哲学から集合論、現代文学からアマチュア科学者教則本、日の当たらない古典から目も当てられない新刊までオールジャンルに書籍を紹介している。著書に『アイデア大全』、『問題解決大全——ビジネスや人生のハードルを乗り越える37のツール』(いずれもフォレスト出版)。

瀬下翔太

瀬下翔太

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1991年、埼玉県生まれ。編集者、ディレクター、NPO法人bootopia代表理事。批評とメディアのプロジェクト「Rhetorica」の運営、海外のデザイン事例を紹介するウェブマガジン「design alternatives」の編集、島根県鹿足郡津和野町で町内唯一の高校・島根県立津和野高校に通う生徒を対象とする教育型下宿の運営などを行っている。

苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会

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