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ジセダイ総研

牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵

広中一成
2018年08月18日 更新
牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵

牟田口を貶める逸話

 2018年7月、筆者は初の牟田口廉也の評伝である『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を刊行した。牟田口は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)下の1944年3月に始まったインパール作戦を計画実行した人物として知られる。

牟田口廉也。森千鶴氏提供。

 インパール作戦は、わずか1ヶ月の期間内にビルマ(現ミャンマー)からいくつもの峻険な山々を踏破して、インド北東部の都市インパールに攻めこむというものであった。牟田口は、第十五軍司令官として作戦部隊と統括する立場にあった。その牟田口が立案した作戦計画は、後方からの補給を軽視したきわめて杜撰な計画だったことから、多くの日本軍将兵がインパールにたどり着く前に命を落とした。そのため、こんにち牟田口は、惨憺たる結果に終わったインパール作戦を指揮した「愚将」という不名誉なレッテルが貼られている。

しかし、インパール作戦の失敗だけで人格を貶めるような評価を下してよいのか。インパール作戦以外の牟田口の動向をも含めて見なければ、その人物像を検証することができないのではないか。筆者のこのような疑問が、拙著を執筆する動機となった。

 拙著の刊行が公になると、ツイッターなどSNS上では、巷間で知られた牟田口に関するエピソードが次々と投稿された。そのなかで筆者が気になった書き込みがあった。それは、インパール作戦において、前線で激しい戦いが繰り広げられているなか、後方の軍司令部で牟田口が連日宴会を開き、酒をあおり、芸者を呼んで大騒ぎしたという逸話であった。筆者は拙著執筆にあたり、牟田口廉也に関する文献を網羅的に調べた。しかし、彼がインパール作戦のさなかに、連日宴会を開いていたことを立証する一次史料は見つけられなかった。

宴会逸話の初出は高木俊朗の著作か

 この逸話はどこに記されているのか。筆者が改めて関連文献にあたったところ、高木俊朗『憤死 インパール作戦―痛恨の祭師団参謀長』(文藝春秋、1969年)にそれを見つけた。

高木俊朗『憤死』(文春文庫)。現在文庫版は品切れだが電子書籍化されている。

 高木は元映画監督で、アジア太平洋戦争中の1939年から1945年まで陸軍報道班員として、中国から東南アジア、さらにはビルマ方面の戦線に従軍した。戦後、高木は、『憤死』を含むインパール作戦をテーマにした5つの著作を発表した。『憤死』は、牟田口にインパール作戦の中止を求めたため、作戦途中で第十五師団長を更迭された山内正文中将と参謀長の岡田菊三郎少将が主人公のノンフィクション小説である。

 同書には、牟田口が夜ごと開いた宴会の様子が次のように記されている。

 「牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった(引用者中略)一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である」(『憤死』261〜262ページ)。

 高木のインパール五部作は、いずれも牟田口に対する評価が厳しい。その厳しさは、ときには感情的とも受け取れる。この牟田口の宴会での様子は、彼の愚かさを表すにはもってこいのエピソードである。しかし、この記述は出典が不明確で、当時の牟田口がつけていた日記などもないため、史料的裏づけがとれない。よって、実証を旨とする拙著では、これを取り上げなかった。

 ちなみに、晴明荘のあったビルマ中部のメイミョウは標高が高く、日本人をして「ビルマの軽井沢」と呼ばれた。ある新聞記者によると、牟田口はインパール作戦を進めるにあたり、ここに軍司令部を置き、前線の苦闘をよそに貴族のような生活を過ごしていたという。

 しかし、それまで先陣を切ることの多かった牟田口は、その無鉄砲ぶりが災いしてか、しばしば戦中でケガや病気に冒され、メイミョウに来る前にもデング熱に罹患し苦しんでいた。

 よって、牟田口が貴族のような生活を過ごしたと聞くと、私たちはすぐさま彼に悪いイメージを抱くが、実際にこのときの牟田口にそのような生活を送るような余裕はなかったのではないだろうか。やはり、これも牟田口のことを貶めるエピソードのひとつではないかと考える。

河邊は宴会に興じていたのか

 牟田口の宴会にまつわる逸話は、史料的裏づけを取ることができなかったが、それでは、インパール作戦の後方にいた牟田口以外の軍司令官や参謀たちは、戦いのさなか、宴会に興じてはいなかったのか。

 高木が『憤死』に先立って発表した『抗命 インパール作戦―烈師団長発狂す』(文藝春秋、1966年。筆者が閲覧したのは1967年刊の第5刷)には、次のエピソードがある。なお、同書は、インパール作戦で牟田口の作戦命令に背いて独断撤退した第三十一師団長の佐藤幸徳中将の視点で描かれている。

 「翠紅園というのは、ラングーンで一番大きい日本料亭であった。たくさんの芸者をおいていた。方面軍司令部とか、各兵団の高級将校が毎夜、内地と同じような酒席を催し、盛況を極めていた(引用者中略)

 (佐藤に投降を勧告したイギリス軍から得た話によると―引用者注)「あなたがたが飢えている時に、方面軍の幕僚は庭つづきの翠紅園の芸者のところにかよっていました。兵隊は、方面軍参謀といわないで、翠紅園参謀と呼んでいました。これでは米も弾丸も送ってこないはずです」(『抗命』259頁)。

 方面軍とは、第十五軍の上位組織にあたるラングーンに司令部を置くビルマ方面軍のことで、このときの方面軍司令官は河邊正三(まさかず)中将が務めていた。拙著でも触れたが、ふたりは盧溝橋事件以来の上司と部下との関係であった。このコンビがいかに問題があったかも拙著で論じた。

 高木の言うように、方面軍幕僚がラングーンで毎夜宴会を開いていたのであれば、河邊もそこに加わっていたのだろうか。幸いにも、当時、河邊はほぼ毎日のように日記(『河邊正三大将日記』、防衛省防衛研究所戦史室所蔵)を書き留めていて、インパール作戦中の行動も日記からある程度追うことができる。日記は後日書き換えが可能な史料であるが、歴史学では一次史料に準じた扱いがなされるのが通例である。

河邊日記に見える会食記録

 筆者は、河邊の日記をもとに、彼がインパール作戦期間の1944年3月初めから7月にかけて、どれだけ会食をしていたのか調べた。

川邊日記分析表 川邊日記より会食に関する記述を抜き出し、インパール作戦の経過と照合したもの(筆者作成)。

 それによると、河邊はインパール作戦のさなか、毎夜ではないが、第三者としばしば夕食をともにしていた。河邊は日本陸軍のビルマ現地軍トップの立場であったことから、バー・モウなどビルマ側親日政権関係者が開く会食にときおり招かれた。

 河邊の日記には、これに関連する次のようなエピソードがある。インパール作戦が始まってからおよそ1ヶ月後の1944年4月16日、河邊はビルマ陸軍の招きで、バー・モウらビルマ国の閣僚級首脳が集った会食に参加した。ビルマ側は、河邊らを喜ばせるため、日本人が好みそうな食事を用意した。

 しかし、河邊はこのビルマ側の歓待について、「最も粗末なる支那料理に、土地にて出来たる日本酒なから、主人側の懸命の勉強にて、且歌ひ且踊ると云ふ所迄行く。予は歌を強いられ之に代ふるにビルマ軍万歳の発唱にて御茶を濁す」(『河邊正三大将日記』第4巻。句読点は引用者)と、困惑の色を隠せなかった。

 このビルマ側の過度な歓待は、日本側に取り入って親日政権の体裁を保持しようとするバー・モウらの必死さと苦悩の表れだったのではないか。

 これ以外に、河邊はビルマを離れる将官や、新聞記者などとも会食を開いた。しかし、どちらかといえば、河邊の会食は、親睦を深める宴会というよりも、職務のひとつという性格が強い。

 一方で、河邊はときおりプライベートな会食に顔を出し、部下と交流を図っていた。たとえば、インパール作戦が始まった直後の1944年3月12日、メイミョウの第十五師団司令部を訪れていた河邊は、牟田口とふたりで夕食をともにした。その日の河邊の日記には、「差向ひて鶏肉のすき焼きをつつき合ふ。四方山の話の末18.D(第十八師団のこと―引用者注)の作戦指導に関し司令官の最後の決定を打明け予も之に同意す」(同上第3巻。句読点は引用者)とあり、ふたりの関係の深さがうかがい知れる。

 もちろん、この河邊の日記には、実際にあったことでも書かれてないことは多々ある。ましてや、宴会で芸者をあげたとわざわざ記すこともないだろう。

 結局、史料だけではすべての真相を明らかにすることができないが、河邊の日記を見る限り、彼が毎夜ラングーンの日本料亭に通って芸者と宴会を楽しんだとは断定できない。

なぜ牟田口批判の逸話が生まれたのか

 この宴会の事例以外にも、インパール作戦をめぐる逸話はいくつも存在するが、総じて、そのなかで批判のやり玉にあげられているのは河邊でなく、やはり牟田口である。なぜ、牟田口だけに批判が集中したのか。

 その理由のひとつとして考えられるのが、インパール作戦中に連合国軍が前線の日本軍将兵に向けて撒いた伝単(宣伝ビラ)の存在である。

 拙著刊行後、個人で戦争史料を収集している渡辺博明氏から、伝単のことについてご教示をいただいた。渡辺氏によると、連合国軍がインパール作戦で使用した伝単には、作戦が失敗した責任を牟田口に求める内容の一文が書かれていたという。

 たとえば、「牟田口大将への伝言!」と題する伝単では、インパール作戦を失敗に導き、多くの将兵の命を奪ったのは後方に退いた牟田口であると厳しく断じていた。

 前線の日本軍将兵は、牟田口が後方の軍司令部で何をしていたのか知る由もなく、伝単に書かれていることをそのまま鵜呑みにした。

インパール作戦の後期に撒かれたと考えられる伝単。牟田口の責任を喧伝し、前線の士気を下げる目的があったものか。なお、牟田口を「大将」とするが、彼の最終階級は中将である。

 上記以外にも、インターネット上で画像として見ることができるいくつかの伝単にも、牟田口を批判する文言が記されている。

 前線で命をかけて戦っていた日本軍将兵は、その伝単を見て、牟田口に対する憎しみを抱き、戦後、回想録やいくつもの逸話を通して牟田口を批判した。その逸話は、インパール作戦を題材にした小説に取りあげられ世の中に普及した。その結果、本来なら牟田口とともにインパール作戦の責任者として批判の声があがるはずの河邊に目が向けられなかったのではないか。

 なお、アジア太平洋戦争期の伝単に関する学術研究は、少しずつ成果があがっているが、伝単が前線にいた日本軍将兵の戦争観や、戦後に彼らが書き残した回想に与えた影響についても検証する必要があろう。

 今年は敗戦から数えて73年目を迎えた。さきの戦争を歴史として振り返るうえで、伝聞や思い込みなどから生まれた真偽不明な逸話とはそろそろ別れを告げるときではないだろうか。

*星海社新書『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』関連記事、続々公開中です。

文春オンライン:「愚将」牟田口廉也 "不適材不適所"を生んだ組織の病とは何か? | それぞれの戦後73年

現代ビジネス:インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理

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著者:広中一成

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「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」 広中一成 x 辻田真佐憲 トークイベント

日程:2018年8月30日 (木) 時間 19:00~20:30 開場 18:30~

登壇者:広中一成さん辻田真佐憲さん 司会・平林緑萌(星海社)

料金:1,350円(税込)

定員:50名様

会場:青山ブックセンター本店 店内小教室

お問合せ先:青山ブックセンター 本店 電話・03-5485-5511 受付時間・10:00~22:00

チケット販売:こちらのサイトにて受付中

*イベント概要

インパール作戦の責任者として悪名高い日本陸軍司令官、牟田口廉也。その牟田口初の実証的本格評伝として7月25日に刊行されたのが、星海社新書『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』です。著者は近現代史研究者の広中一成さん。 インパール作戦を失敗に導いた牟田口は、果たして本当に「愚将」なのか? 彼の無能や人格批判で作戦失敗を総括してよいのか? 責任の所在はどこに? 当日は最新著書『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』(光文社新書)も話題の近現代史研究家・辻田真佐憲さんをゲストにお迎えし昭和陸軍の「組織」、そして牟田口廉也の「愚将」イメージ形成について再検討します。

第一部:昭和陸軍の組織体質について

第二部:牟田口廉也の「愚将」イメージ形成 質疑応答

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一九七八年、愛知県生まれ。二〇一二年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。現在は愛知大学非常勤講師。専門は近現代日中関係史、日中戦争史、中国傀儡政権史。大学院時代より一〇年以上にわたり、通州事件に関する史料収集、現地調査、論考の発表を行ってきた。本書はその成果を一般向けにまとめたものである。ほかの著作に、『ニセチャイナ 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社、二〇一三年)、『日中和平工作の記録―今井武夫と汪兆銘・蔣介石』(彩流社、二〇一三年)、『語り継ぐ戦争―中国・シベリア・南方・本土「東三河8人の証言」』(えにし書房、二〇一四年)などがある。

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ジセダイ総研 研究員

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