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ジセダイ総研

リー・クアンユーと「賢いじいさん」の時代の終焉 ─1923年世代の黄昏─

安田峰俊
2015年03月29日 更新
リー・クアンユーと「賢いじいさん」の時代の終焉 ─1923年世代の黄昏─

 報道の少なさもあってか、一般の日本人の間では国情が十分に知られているとは言い難い国・シンガポール。琵琶湖とほぼ同じ面積の小国にもかかわらず、自由な経済・金融政策が奏功して一人当たりGDPはアジア1位。一方で政体は与党・人民行動党による事実上の一党独裁政治が敷かれ、口さがない外国人からは「明るい北朝鮮」とすら揶揄される――。そんなユニークな国家を作り上げたのが、同国の建国者(初代首相)のリー・クアンユーだ。シンガポールは、晩年まで強い政治的影響力を発揮し続けたリーの作品ともいえる国家だった。

 2015年3月23日、リーは91歳で逝去した。彼の死が象徴するものは、シンガポールのみならずアジア全体の代替わり。「あの戦争」によって創られた世界が、いよいよ転換をはじめる時代がやってきた。

ある戦中派世代の死 

 昨年の11月15日は、私のなかで「戦後」が終わった日だった。

 祖父が亡くなったのだ。1923年生まれ、91歳の誕生日を控えた逝去だった。官立滋賀師範学校を出ていた祖父は、穏やかな性格ながら頭の冴えた人で、亡くなる寸前まで矍鑠(かくしゃく)としていた。やがて故人の部屋の整理をするなかで、原稿用紙36枚に及ぶ手記を見つけた。うち16枚が、大戦末期に召集を受けた際の従軍記だった。 

 もっとも、勇ましい話など何一つない。1943年の秋に徴兵検査を受け、目が悪いフリをしたのに乙種合格の通知が届いたこと。入営先の名古屋歩兵第六聯隊の兵舎で、兵士になることが避けられない以上は階級が高い方が生き延びられると考えて幹部候補生(幹候)に志願、戦友たちが南方戦線に送られるなかで辛くも内地に留まったこと。幹候合格後に千葉県の工兵学校で東京大空襲に遭遇し、日暮里や亀戸で大量の焼死体の処理に従事しながら、無辜の市民が犠牲になる戦争を厭い、軍服をまとう自分を呪わしく思ったこと――。

 やがて祖父は、本土決戦用の師団(いわゆる「三ケタ師団」の急ごしらえ軍隊である)に組み込まれて九州に送られた。食糧難のなかでグラマンの機銃掃射から逃げ回り、上陸米軍を迎撃する「決号作戦」に向けて、敵戦車への「肉攻」(自爆特攻)訓練に明け暮れる日々。いよいよ自分の死を覚悟したときに、終戦の詔勅を聞いた。


祖父が所属した216師団の作戦内容(防衛庁防衛研究所所蔵『熊本師管区戦史』より)


 滋賀県の片田舎で、5人姉弟の長男に生まれた優しい青年の、苦しく虚しいだけの従軍記である。イデオロギーは何もないのに、字面を追うだけで戦争への憤りと嫌悪感がびりびりと伝わってくる点で、さながらベクトルの向きを正反対にした「逆『永遠の0』」とも言うべき記録だった。

 その後、帰還して家督を継いだ祖父は、逝去までの半世紀以上にわたり親戚の多い一族の中心であり続けた。温和な性格ながら現実的な判断能力が高く、様々な相談事に乗ることも多かった。また、開明的で学問好きな彼の個性は、「戦後」を生きる子孫たちの、それぞれの家庭にも強い影響をおよぼした(別の家で生まれ育った外孫の私も例外ではない)。

 私にとって祖父の死は、紛れもなくひとつの時代の終焉を告げる出来事だった。

 

南洋で日本軍に協力したプラグマティスト

 いま、同じく「戦後」の終焉を経験している人々がいる。 

 南洋に浮かぶ頭脳国家・シンガポールの国民たちだ。同国の建国者で、首相職を退いた後も強烈な個性で国民をまとめ上げてきたリー・クアンユーが、今年3月23日に亡くなったのである。

 リーもまた、1923年生まれの戦中派世代だった。「兵隊が心に染まなかった」という私の祖父が名古屋で幹候試験を受験していた頃、リーは遠く離れたシンガポールの街で、やはり心の底を焼く反感の炎を隠しながら日本軍に協力していたようである。

 海峡植民地華僑の大商人の家に生まれたリーは、日本軍のシンガポール侵攻が始まった当時、マラヤ地域でナンバーワンの成績を引っ提げてラッフルズ学院高等部に在学中だった。だが、日本統治によって従来の学問が役立たなくなったと見るや、すぐさま軍政当局が設立した日本語学校に入学。やがて軍政当局の報道部に職を得て、15か月間にわたり働いている。 

 リーの自伝の中国語版『風雨獨立路 李光耀回憶録(1923-1965)』を紐解くと、「臭く汚く醜い」当時の日本兵たちへの徹底的な罵倒や、日本軍の残虐行為に対する非難の記述が数多く目に入る。生粋の英国植民地エリートだったリーにとって、自身のキャリアを破壊した日本軍が、恨んで余りある対象だったことは想像に難くない。 

 日本軍占領下のシンガポールでは、「粛清」(Sook Ching)と呼ばれる華僑虐殺が発生し、その反発から抗日共産ゲリラの武装闘争に加わる者も多くいた。だが、リーは自分の感情を措いたうえで現状に最適化した対応をおこなう策を採り、したたかに生き延びることを選んだ。

 機密情報を得やすい報道部に所属していたリーは、日本軍の劣勢を早期から把握。やがて職を辞すると、闇市で大きな財を成した。これらの経験が、戦後の飛躍の道に続いていった。

 

1946年、ケンブリッジ大に留学中のリーと、翌年結婚するクワ・ゲオチュー夫人とのツーショット。

中国サイト『中華網』より

 

シンガポールの「戦後」を作った男

 後年のリー・クアンユーが、シンガポールの独立と経済発展にいかなる貢献を果たしたのかは、1965年の独立当時に500ドル台だった国民の平均所得が、彼の首相退任時(1990年)には5万ドルを超えていたという一事を語るだけで充分に説明できるだろう。

 一方、日本統治時代を「かの暗黒にして残酷な日々」「私にとって最も大きな、かつ唯一の政治教育」だったと回想するリーは、力の信奉者であり、政敵や反体制言論を徹底して弾圧し、与党・人民行動党(PAP)による事実上の一党独裁体制を敷いた。また、能力至上主義者である彼はシンガポールを世界でも有数の頭脳国家に改造し、行政からも汚職をほぼ完全に追放。有名なチューインガム禁止令をはじめとした、病的に思えるほどの衛生管理政策やマナー政策も徹底した。

 また、外交面では個人的に旧仇を持つ日本とも積極的に接近し、現実主義的な姿勢を見せた。かなり強権的な国家体制にもかかわらず、米国をはじめとした欧米諸国とも極めて良好な関係を維持している。ときには「第三の中国人国家」(同国民の約77%は華僑である)としての顔も見せ、1990年代からは中台両国との絶妙な等距離外交もおこなった。

 打算的な商人気質、現状に柔軟に対応するプラグマティズム、極端なエリート主義と表裏一体をなした人民の政治決定に対する不信感(非民主主義思想)――。今年で建国50周年を迎えるシンガポールは、リーの強烈な個性のもとで半世紀の時間を歩んだ。彼の統治は独立前の自治政府時代から始まったことを考えれば、シンガポールの「戦後」はリーの時代とイコールであると考えていい。

 事実、リー譲りのプラグマティストが少なくない同国の国民も、さすがに彼の逝去には心が動いたようだ。ある在新日本人のツイッターアカウント「ディープシンガポール」(@deepsingapore )は、国会に運び込まれる彼の棺を見送る群集の様子をこう報告している。

 

李光耀リークアンユー元首相の国葬迄は 過去になかったくらいにシンガポールの多くの人々が感傷的になっている様 この先こういう事はないと思われます 
イスタナから国家議事堂へと 見送る人々の拍手とThankYouの声の中 棺は去って行きました
ちょっと感動的でもありました
https://twitter.com/deepsingapore/status/580628845432320000
 

 

 リーの生前、国民はときに厳しすぎる罰金政策に不満を抱き、与党PAPを「Pay And Pay」と揶揄して溜飲を下げていた。また、2011年の総選挙では(むろん政権交代などは決して起きないものの)PAPは過去最低の得票率を記録し、国民感情の離反も徐々に顕在化しはじめていた。

 だが、リーの方針を支持した人もしなかった人も、彼の死の報に接すると感傷的な思いが沸く。ひとつの時代の終焉とは、そういう出来事なのである。

 

アジアで最も豊かな国・シンガポール。こうした夜景が生まれたのも、リーの政策のおかげと言っていい。

 

あの戦争を知らないアジアの未来

 ところで、アジアの政界にはリー・クアンユーのほかにもう一人、1923年生まれの巨人がいる。それは台湾の李登輝だ。実のところ、植民地エリートの家庭に生まれた同年齢の客家(はっか)系華人で、旧宗主国に対する親和性が強く、英語・中国語・日本語・福建系方言(リーはババ・マレー語、李は台湾語)の四言語を操るなど、リーと李にはかなり共通点が多い。両者に違いがあるとすれば、実学志向の合理主義者であるリーに比べて、李には哲学や宗教のような「すぐに役に立たない」知的遊戯を好む傾向があり、ユーモアや人間臭さを愛する(結果、人望を集める一方でやや隙を見せやすい)性格を持っていることだろう。 

 李もまた、1943年に京都大学に入学した直後に学徒出陣、日本軍の一兵士として第二次世界大戦を経験している。戦後、李は帰郷先の台湾で228事件の粛清を辛うじて免れ、米国留学を経てから旧仇を持つ中国国民党に入党。意に沿わぬ支配者に対する柔軟な適応によって、動乱をしたたかに生き残り、やがて中華民国総統として1990年代の台湾の民主化を導いた。彼は2000年の総統退任後、(日本で一般に流布されているイメージと比べれば)台湾国内での人望や影響力を大きく後退させたが、やはり現代の台湾を作り上げた偉人なのは間違いない。特に本土派系の台湾人にとって、彼らの国家の「真の戦後」は、すなわち李登輝の時代を指している。

 李は2014年春のヒマワリ学運の際にも応援声明を出すなど、現在もなおご意見番として健在だ。だが、やがて未来のどこかで、台湾の人々が「ひとつの時代の終焉」に感傷を覚える日は、やはり必ずやってくる。

 

李登輝のフェイスブック公式アカウントより。こんな92歳になりたい。


(ちなみにリーや李と近い存命の戦中派世代で、アジア各国の時代を代表した他の人物には、マカオのカジノ王スタンレー・ホー(1921年生)、カンボジアのシハヌーク(1922年生)、マレーシアのマハティール(1925年生)、中国の江沢民(1926年生)らもいる。彼らの大部分が、大戦中に日本軍と何らかの関わりを持ち、各人なりに上手く立ち回った経験を持つ人々だ)。

 青年時代に大戦の災厄を味わった人には、心の中の考えを押し殺して不本意な現実を処理し、時代を生き抜いた経験を持つ人が少なくない。そんな彼らはやがて、戦争から半世紀以上も経った未来まで長寿を保ち、大小の「賢いじいさん」として子孫たちに影響力をおよぼし続けた。個々の家庭から一つの国家まで、アジアの現代はそんな老人たちが築いた時代のなかに存在した。それを、歴史は「戦後」と呼ぶ。

 だが、そんな「戦後」の時間は、大戦から70年を経たいまになって否応なし終わりを告げつつある。私たちは、いよいよ「賢いじいさん」がいなくなった世界を生きる時代を迎えているのだ。

 現在のシンガポール国内は、政府や企業のツイッターアカウントまで白黒アイコンを使用するほどの服喪ムード一色に染まっている。だが、やがて喪は明け、感傷が薄れた後には日常がやってくる。

 

シンガポール国家の公式ツイッターアカウントも服喪中である


「われわれのような面積が小さく資源の無い都市国家では、余分なことに費やされるエネルギーは無い。われわれは瘦せて健康的でいるか、もしくは死ぬだけである」

「西洋スタイルの民主主義は万国にふさわしいわけではなく、若い国には民主主義や個人の自由というぜいたく品に手が届くようになる前に安定性と経済発展が必要だ」

 かつてリー・クアンユーは、自国の政治体制についてそう呼号して憚らなかった。彼の考えは、「賢いじいさん」を欠いた子孫たちの社会でも受け継がれ続けることになるのだろうか――? 

 その答えが出されたとき、シンガポールの「戦後」は真の終わりを告げる。

 

 

*リー・クアンユーに関しては、星海社新書『独裁者の教養』(安田峰俊)にて一章を割いています。

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ノンフィクション作家。 1982年滋賀県生まれ。立命館大学文学部卒業後、広島大学大学院文学研究科修了。当時の専攻は中国近現代史。一般企業勤務を経た後、運営していた中国関連のブログが注目され、見出されて文筆の道に。 著書に『中国人の本音』(講談社)、『独裁者の教養』(星海社新書)、『境界の民』(KADOKAWA)、『和僑』(角川書店)など。週刊誌・月刊誌への寄稿を続けつつ、多摩大学経営情報学部で講師も務めるなど幅広く活躍中。

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