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ジセダイ総研

関係を築くアイドルと「プレイヤー」 シンデレラガールズの正しい重苦しさ

さやわか
2015年03月20日 更新
関係を築くアイドルと「プレイヤー」 シンデレラガールズの正しい重苦しさ

 今期放映されているアニメの中でも、ひときわ大きな話題となっている『アイドルマスター シンデレラガールズ』。
 同作は、10年の歴史を持つ「アイドルマスター」の名を冠する作品群のなかで最新のコンテンツであるとともに、「アイドルたちが疑似家族的な描写から、より複雑な関係性を持つものとして描かれるようになったこと」、「ゲームを原作とするアニメ作品において、プレイヤーキャラクターをどのように扱うかという問題に一定の結論を出したこと」などの面から、アイドルをテーマとするアニメ作品の最新型と言うこともできる。
『シンデレラガールズ』は、女の子たちの関係を安全に描いていく作品ではない。しかし、そうであるがゆえに切実な作品となっているのだ。

最新型の「アイドルマスター」

 アイドルを主題にしたテレビアニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』が話題になっている。
 この作品は、基本的には2011年にサービス開始された携帯電話用の同名ゲーム(俗に言う「モバマス」)を原作としたもので、今年で10周年を迎える「アイドルマスター」シリーズの最新コンテンツである。
 このアニメが話題となった理由は何か。まずは第一話からしばらく、非常にクオリティの高い絵作りが行われたことが挙げられる。
 一例を挙げると、もともとアニメで登場人物の衣装を小まめに変更するのは大変な作業コストがかかるわけだが、本作は多数の登場人物の一人一人に私服やステージ衣装があり、さらにその描き込みがとても細かくなっている。
 少しでも作画が乱れれば作品の瑕疵としてあげつらおうとするうるさがたのアニメファンも多い昨今(本作ですらそうした声はある)、細部に注目すればするほど丁寧さをのうかがえる作品になっていたわけだ。

 

以前のアイドルマスターとの違い

 加えて、本作で注目されたのはその物語についてである。第一話から第七話までの物語前半を成すプロットは島村卯月、渋谷凛、本田未央という三人の少女が、アイドル候補生としてスカウトされ、思いがけずCDデビューし、しかしすぐにスターになるわけではないという現実とのギャップに悩むことになる。
 三人にスポットを当てつつ、他のキャラクターにもそれなりに触れていくファンサービスも見事だが、とりわけ注目に値するのはそのプロット自体だと言えるだろう。三人の少女はそれぞれアイドルになろうとするモチベーションも熱意も異なっていて、キャラクターごとに多種多様な思いを抱きながら次第に団結してアイドルらしく成長していくという姿は、心情描写として見応えがある。
 これについては、2011年に放映されたアニメ『アイドルマスター』(今回の『シンデレラガールズ』とは別の芸能プロダクションを舞台とした、いわばアイドルマスターの「本流」と呼べる作品)と比較するとわかりやすい。
 というのも同作では、初めから少女たちがトップアイドルを目指すことは前提となっていて、後に様々なトラブルに見舞われて夢をあきらめそうになったりもするが、彼女たちの根本的なモチベーションは揺らぐことがない。
 これは「アイドルマスター」がもともと現実のアイドルで言えばモーニング娘。などのように、あるグループの成長と発展を重視した物語を意識したせいでもある。
 そもそも物語の開始時点で同じ芸能プロダクションに所属している彼女たちにとって、帰属意識と絆は最初から半ば前提となっており、だから少女たちはアニメの終盤で仲間たちは家族同然なのだということを繰り返し言う。
 気持ちのすれ違いなどを経験しつつも、物語の焦点は、最終的に彼女たちがいかにして一丸となってトップアイドルを目指すことができるかということになっているのだ。

 

疑似家族から、より複雑な人間関係へ 

 ところが『シンデレラガールズ』のほうは、とりあえずアイドルグループという容れ物が用意されただけで、少女たちがどういう気持ちでアイドルになろうとするのかは人それぞれなのだ。
 こうしたアイドルのあり方はライブアイドルと呼ばれる今日的なグループアイドルの姿勢に照らし合わせても妥当なもので、端的に言ってリアリティがある。
 そもそもゲームとしてのモバマスは、プレイヤーが180人以上におよぶ女性キャラクターからプロデュースするアイドル候補生を選び出し、人気アイドルへと育てていくという内容になっている。
 膨大な数のアイドル、その成長を楽しみ、応援するという課程は、やはりAKB48に代表されるような今日のアイドルカルチャーと重なるところが大きい。握手会やライブが行われてアイドルとして力を付けていくという点も含めて、モバマスは今のアイドルカルチャーを正しく反映させたゲームになっていて、アニメ版はその路線を忠実に守ったものになっている。
 もともと相容れないものたちが歩み寄り、関係を築いていくからこそ、このアニメは少女たちのぎくしゃくした関係を見せつけ、特に第五話から第七話に至るまでの本田未央を中心としたエピソードは、重く描かれることになった。
 女の子同士が仲良くしている姿だけを見たいというファンもいるかもしれないが、こうして必ずしも一丸となっていない、より社会性を強調された描写は、膨大な数のメンバーがめいめい思惑を持ちつつキャラを立てたりコミュニケーションを図ったりしている昨今のライブアイドルの状況にもかなり近しいもので、やはり少なくとも現実のアイドルを見知っている者が見て違和感のないものになっている。
 言い換えればかつての「アイドルマスター」は疑似家族的であったが、『シンデレラガールズ』では社会規模が、より大きくなっている。

OPでは大規模なステージ上で『star!!』を歌うアイドルたちの姿が描かれている。

このシーンに向かって物語は収斂していくのだろうか。

 

プレイヤー=目立たない男性という定説

 さらに、この人間関係を眺める上で見逃せないのが、彼女たちをスカウトしたプロデューサー(ファンからは俗に武内Pと呼ばれる)の存在である。
 従来、女の子たちが華やかにコミュニケーションを繰り広げるタイプのアニメでは、男性の存在はできるだけ目立たなくあるべきで、なのに、それなりに少女たちから愛されたりもするという、大変に都合のいい存在である。
 どうかすると男性はいっさい登場する必要がなく、たとえば『シンデレラガールズ』の監督をつとめている高雄統子がかつて所属した京都アニメーションの作品は、男性性が慎重に排除されていることも珍しくないとしばしば言われる。
 こうしたことは『シンデレラガールズ』のように、とりわけゲームを原作とする作品で、全般的に言えることだ。つまり男性キャラクターはプレイヤー自身の位置にあたるからこそ、彼はできるだけ無個性な存在であることが好まれる。
 たとえば以前のアニメ『アイドルマスター』にもプロデューサーはいるが(赤羽根P)、彼は爽やかで快活ではあるし、あるいは時に失敗をしてプロット上での窮地を招いたりもするが、基本的には全体を俯瞰で眺めている、言ってみれば引率者然とした存在である。
 つまり少女たちの形作る人間関係へ踏み込んでいくことはなかった。

 

武内Pの「あえて不自然」な無個性さ

 ところが『シンデレラガールズ』における武内Pは、無表情で寡黙であり、かつ必要な時でも敬語で話す、愚直さと控えめさの窺える性格になっている。その木訥とした描写はむしろ過剰であり、かえって彼には何か裏があると思わせずにはいないほどだ。
 実際、武内Pは過去にアイドルプロデュースで失敗した経験があるらしく、だからこそ必要以上に積極的なプロデュースができずにいるらしい。この設定は非常にうまくできている。
 つまりこの男性キャラクターはいかにも思わせぶりに無個性さをさらけだしているのであり、だからこそ視聴者は彼に気をとめずにはいられないのだ。
 武内Pは赤羽Pのようにさりげない存在になりきれていない。しかも作品は、わざと、そういうことをやっている。
 それはつまり、ゲームに立ち返って考えればプレイヤーキャラクターの立ち位置をはっきりさせるという意味にもなっている。
 とりわけ近年に盛況を迎えているソーシャルゲーム/スマホゲームの界隈では、従来のコンシューマゲームの物語性から遠ざかったことによって、プレイヤーが「誰」なのかという問題があまり意識されなくなった。
 たとえば『パズドラ』でも『モンスト』でも、そのモンスターを使役しているのが誰なのか、なぜ使役しているのかということはほとんど意識されない。
 こうした問題は、スマホゲーム以前から、プレイヤーキャラクターの姿が画面上に表示されないゲームではしばしば指摘されることだった。
 しかし特に映像化するとなれば、そこにいるのが誰なのか、なぜ彼は日陰者を装うのかに、制作者は向き合わねばならない。武内Pの、無個性さゆえに注目せずにいられないというバランス感覚あるキャラクター造形は、その問題意識じたいをうまく消化したもののように思われる。

 

アイドルと対等に関係を築く世界

 そして『シンデレラガールズ』でシリーズ構成/脚本をつとめているのが、高橋龍也だというのが面白い。
 彼は90年代後半に美少女ゲームで頭角を現した人物で、元祖「ビジュアルノベル」を作った人物でもある。つまり、彼は一人称視点を主体としたノベルタイプのゲームを描きながら、主人公とは誰なのかを考え続けてきたような人物なのだ。
 たとえば彼の代表作と言っていい『ToHeart』という作品には「藤田浩之」というプレイヤーキャラクターが設定されているが、この主人公はぶっきらぼうだが根は優しい、一人の人格として描かれており、ゲームに登場するヒロインたちと同等にファンから愛された。
 いま高橋が描いている武内Pにも、やはり同じようなこだわりを感じずにはいられない。
 それは、前述のようにさりげない存在を装おうとする武内Pが、どうしてもそれだけではいられないという描かれ方によく表れているように思う。
 武内Pは没個性的であろうとするが、前述の本田未央の騒動を通してプロデュースの方針に迷うことになる。さらにはアイドルたちも彼の指示に戸惑ったり、理解できずに失望することもある。
 しかも最終的に彼は、少女たちと対等の関係を結んで行かざるを得なくなる。これは言ってみれば女の子ばかりで人間関係を築くことも多い昨今のアニメやスマホゲームにおいて、主人公の位置、あるいは男性性の位置を再確認しようという試みになっている。
 その物語は女の子たちの関係を安全に描いていくものとしては完結しないかもしれないが、視聴者はだからこそ、この番組のオープニングのように、全メンバーが明るく歌う姿を努力して目指すべきゴールとして信じることができる。ゆえにこれは今日的なアイドルを描いたものとして、あるいは意見の異なる人々がコミュニケーションを築いていかねばならない社会を描いた作品として、切実なリアリティの感じられる、見応えのある作品になっているのである。

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ライターの紹介

さやわか

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ライター、物語評論家。1974年、北海道生まれ。大学卒業後、会社勤務を経て文畢業に入る。関心領域は音楽、ゲーム、アニメ、小説、マンガ、演劇など幅広く、ジャンル横断的に批評活動を行う。著者に『僕たちのゲーム史』、『AKB商法とはなんだったのか?』、『一〇年代文化論』などがある。

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