1964年の東京オリンピックの直前まで、東京の道路には名前がなかった。こういうと驚かれるかもしれない。正確には、道路法上または都市計画上の名称や、地元住民が日常的に使っている名称などはあった。だが、地図や標識で広く使われる、オフィシャルな通称は実はなかったのである。
カーナビもグーグルマップもない時代、これはとても不便だった。欧米の都市では、古くからほぼすべての道路に名前がついている。住所も道路が基準になっている。そのため、Xストリートをまっすぐ進み、Yアベニューで右に回り......と簡単に目的地までたどりつくことができる。これは京都市の一部と一緒だ。
これに比べ、1960年代初頭までの東京では、頼りとなる道路名がほとんど存在しなかった。これでは、土地勘のない旅行者はなかなか目的地にたどりつけない。1961年日本をおとずれたソ連の作家は、このころの東京の様子をこう記している。
「ザリヤーンは、ぼくたちが走っている通りは、何という通りかと、しつこくたずねる。日本学者のリヴォーヴナは、東京の街路の大部分には名称がないんだと答えていた。だがザリヤーンは納得しようとしない。だが日本の家屋には番号がついていないということを聞くと、すっかり激昂して――それなら、日本人はどうしておたがいに相手の家をさがし出せるんだというんだ」(ミハイロフ、コセンコ『ソ連人のみた日本人』黒田辰男訳)
同じような不便さはアメリカ占領軍も感じていたらしく、無名の道路を「A通り」や「15番街」などと便宜的に名づけた。こうした名称や標識は、日本の独立後もしばらく使われていた。
では、日本人はまったく不便を感じなかったかといえばそうではない。作家の小田実は、1963年の『中央公論』にこう書いている。
「東京の(と言わず、日本の)街路には名前がない。名前がなくて、未知の目的地に到着することは外国人のあいだではもっぱら奇蹟だということになっている。日本人だって困っていることじゃないか」
1960年代初頭。戦後復興により、ハード面での道路は着実に整備されつつあった。だが、そのソフト面での整備はまだまだお粗末だったのである。
これでは、東京オリンピックでやってくる国内外の観光客に不親切すぎる。都民にとっても不都合だ。そこで東京都は、道路にオフィシャルな通称を設定することを計画。1961年4月、都知事の諮問機関として東京都通称道路名設定審議会を設置し、官公庁や関係業界の代表者、学識経験者など35名を委員に委嘱した。
審議会(会長=司忠・東京商工会議所副会頭、副会長=間島大治郎・東京都観光事業審議会委員)では、地元の意見もききながら、慎重に通称名の設定を行った。由緒があり、住民に親しまれている名称はできるだけ尊重した。また、人名や「桜通り」などどこにでもつけられる名称などは避けた。ローマ字にしたとき長すぎないことも考慮した。
こうして審議会は、まず1962年2月付で基幹的道路とそれに準ずる道路44路線について、次に1963年3月付で補助的性格を有する連絡路線25路線について、それぞれ通称名の答申を行った。
審議会の答申は理にかなっていた。そのため、東京都は答申どおりに通称道路名を設定し、東京都広報に公告した(第一次は1962年4月付、第二次は1963年6月付)。整理番号順に記せば、つぎのとおりである。
通称名を設定された道路の延長キロメートル数は、都内公道の約8.9%に達した。東京都は通称名の普及をはかるため、沿道の主要な地点1327箇所に道路標識1442本を設置したほか、地図を制作・配布し、官公庁や関係業界に対して通称名の積極的な利用を呼びかけた。また、在日米軍とも交渉し、占領下に設置された道路標識の撤去も行った。
こうした事業が奏功して、通称名は広く浸透した。今日では、すっかり日々の会話になじんでいる。特にタクシーで行き先を告げ、道順を案内する場合、通称名は必須といってもいい。
「東京都通称道路名設定道路図」。東京都オリンピック準備局『東京都オリンピック時報』(1963年)より。
残念ながら、通称名の由来すべてを断定できるに足る文献は見当たらなかった。ただ、当時の新聞報道などから、ある程度推測することはできる。
通称名の終わりはほぼ「通り」と「街道」だが、これは道路設備に違いがあるわけではない。「街道」は、基本的に江戸時代以前に整備された街道に由来する。そのため歴史は古い。同様に「中仙道」も、五街道から取られたものだ。
これに対し、「通り」の歴史は比較的新しい。「昭和通り」のように、戦前から使われていたものもあるが、基本的に通称道路名の設定で広く知られるようになった。「銀座通り」のように、戦前からの知名度があっても、対象の範囲を広げて「中央通り」と改称されたものもある。
また、東京東部では橋梁にちなんだネーミングが多い。「言問通り」「永代通り」「新大橋通り」「三ツ目通り」「蔵前橋通り」「清洲橋通り」「四ツ目通り」などがそうだ。「第一京浜」「第二京浜」「環七通り」などは、やや生硬だが、民間の愛称や略称を取り入れたものである。
そのほか、通称名の多くは通過点や起点・終点の地名またはランドマークから取られた。全体的に無難な設定である。もし欧米のように人物名を採用していれば、歴史認識との関係で混乱もあっただろう。ちなみに「自由通り」は、観念的なネーミングではなく、自由が丘を通過することによる。
こうした東京都の通称道路名設定事業を受けて、ほかの都市でも同様の事業が行われるようになった。なお、東京都では1984年と2014年にも改めて通称道路名設定事業を行い、新たに通称名を設定したほか、既存の路線についても道路網の整備を受けて起点・終点の見直しを行った。
やはりネーミングは無難であり、既存の愛称や地名を使っている。1984年には、六本木通り、環八通り、湾岸道路などの通称名が設定され、2014年には、環二通り、国分寺街道、多摩大橋通りなどの通称が設定された。ちなみに、有名な「マッカーサー道路」は、以上の事業とは別に、2013年新虎通りと正式に命名された。
もっとも、そもそも日本では道路名と住所が対応しておらず、こうした事業によって欧米の都市ほど移動上の利便性があがったわけではない。たとえば、国会議事堂の住所は「千代田区永田町一丁目7の1」だが、近くの通称道路名は、内堀通り、外堀通り、青山通り、六本木通りであり、まるで関連性がない。
では、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けてこの不便さが問題になっているかといえばそんなことはあるまい。いまやカーナビやグーグルマップがある。そのガイドにしたがえば、もはや迷う可能性はほとんどなくなったのだ。
とすれば、フリーWi-Fiなどインターネット環境を十分に整えることが絶対に必要となってくる。住所変更や道路標識の設置に比べれば安価な対策にちがいない。かつて訪日外国人を悩ませた道路名問題も、新しい技術により今回はさほど問題にならないはずである。
辻田真佐憲氏によるこちらの記事もあわせてどうぞ。
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