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ジセダイ総研

械闘と日中歴史問題 ~広東省から考える「ムラの戦争」と「国家の戦争」~

安田峰俊
2015年08月13日 更新
械闘と日中歴史問題 ~広東省から考える「ムラの戦争」と「国家の戦争」~

 2015年は、第二次大戦の終結から70年目の節目の年だ。日本のみならずアジアの各国は、この夏、各国それぞれの経験に基づいて歴史を振り返っている。中国においても、「抗日戦争勝利」を記念するパレードが9月3日に挙行予定だ。もっともこのパレードについては、日中戦争の話題それ自体よりも各国のどのクラスの代表者が出席するかの方が内外のメディアの関心が集めている点からもわかるように、その濃厚な政治性は明らかである。

 過去、中国は日中間の歴史問題を極度に政治化してきた。それが長年にわたり、いまや多くの日本人にうんざりした感覚を覚えさせていることも、改めて指摘するまでもないだろう。結果、近年の日本では、たとえ日中戦争を「あやまち」だったとみなす人ですら、「現在の中国が過去の日本の『侵略』を批判できた立場か」「『過去の歴史を直視』などと厚かましいことを言う資格はあるのか」といった思いを多かれ少なかれ抱くようになっている(もちろん私も例外ではない)。

 一方、こうした政治問題や国民感情の陰で、往年の「日本と中国が戦った戦争」の実像が極めて見えづらいものになっているのもやはり事実だ。例年、日本のメディアにおける戦後特集では、原爆や特攻の話題が繰り返し登場する一方、日中戦争の影が極めて薄い。その一因に、現代の日本人の中国の政治姿勢に対する反発や、歴史問題への「うんざりした感覚」があるのはほぼ間違いないだろう。

 だが、それでも日本と中国は70年前に「戦争」をおこなっていた。今回の記事では、広東省のある村の日常と過去を紹介しつつ、政治的な切り口とは違った角度から日中戦争を考えてみることにしたい。

激突! 村の戦争

 2013年3月17日、私は取材のために広東省の掲陽市を訪れていた。広東省はGDP総額が中国1位の豊かな省だが、東部の潮州・汕頭・掲陽一帯(潮汕地域)は発展から取り残された辺鄙な地域だ。往年は香港や東南アジアに大量の移民を輩出し、還流する華僑マネーでずいぶん潤っていたともいうが、いまや経済的には見る影もない。旧市街にはいまだに文化大革命時代のスローガンが消えずに残っているほど、さびれた街並みが広がっている。

 

掲陽市の場所


掲陽市の旧市街(筆者撮影)

 

 この掲陽市の郊外にある寮東村と劉畔村が、私の目指した場所である。中国五千年の歴史で、きっと一度も表舞台に登場したことがなかったであろう、何の変哲もない華南の小集落だ。

 だが当時、この村々はちょっとした事件で世間を騒がせていた。以下に中国ジャーナリストの高口康太さんが運営するニュースサイト『KINBRICKS NOW』の記事と、当時の村民がYoutubeにアップした動画を紹介しておこう。

 

2013年2月22日、中国では旧暦1月15日までが旧正月期間なので、旧暦1月13日のこの日はまだお祭りだ。広東省掲陽市掲東県月城鎮の寮東村では、村民たちが御輿をかついで祝っていた。事件が起きたのは行列が隣村の劉畔村と共有の道にさしかかった時のこと。

ある民家が大音響で音楽を鳴らしているではないか。その爆音ぶりたるや御輿行列のドラの音がかすむほど。ちょっと音を小さくしてもらえないかと頼み込んでも、民家の主はそしらぬ顔。かくして激高した寮東村の若い衆が爆竹を投げ込んで攻撃。主は汚水を投げ返して反撃。若い衆が殺到......と事態は順調にエスカレート。やってきた民家の門は壊れ、劉畔村の村民数人が負傷する騒ぎとなった。

そして翌23日夕方、決戦の火ぶたが切られた。(略)ヘルメットをかぶり棍棒をにぎりしめた村人。寮東村、劉畔村あわせて数百人の大乱戦が開始された。武器は棍棒だけではない。石、爆竹、火炎瓶、硫酸を互いに投げつけ合う凄惨な戦い。警官数十人がその場に居合わせたというが、ぼけっと殺し合いを眺めているだけ。止めようとしなかったという。
(『KINBRICKS NOW』の記事より)

 

 

 こうした村同士の武力抗争を「械闘」という。特に17世紀から20世紀前半ごろまで、中国の南方各省を中心に多発していたとされる古俗だ。例えば、清朝末期の光緒20年(1894年)に広東省陸豊市(現地名)に赴任していた官僚の著書『圭山存牘』には、往年の実例についてこんな記事がある。 

於光緒二十年三月二十九日、上山祭掃路、經鄭姓之潭頭、沿途施放爆竹、驚嚇小孩、鄭姓婦女出言詈罵。卓姓不服、愈爆竹亂發、村中耕牛盡行驚竄。以致鄭姓子弟羣起、而攻將卓姓人等所拾祭品打散。卓姓因眾寡不敵、奔囘橋涌。當時鄭姓老之明白者、卽將卓姓所失祭品收拾送還。無如、卓姓後生以爲大辱、不由父老收囘、其竹樹埔之卓娘東卓娘引等、平日本不安分、乘此搆衅先與鄭衅小互闘。老等大半懦弱、無能難以按壓、致釀成闘案......。

 要約すれば、A一族が墓参りの途中で爆竹を鳴らしていると、別の村のB一族の子どもが音におびえてしまった。そこでB側の女性が「静かにしなさいよ」と文句を言ったところ、A側はなんと余計に爆竹を鳴らして挑発。これにB一族の若者が激怒し、A一族を取り囲んで暴行、彼らの墓参り道具を奪って捨ててしまった。A側は多勢に無勢でいったん逃亡。後日、地元の長老による和平調停が図られたものの、A側は恥をそそぐために反撃に出る。結果、A一族とB一族の械闘に至った......という話である。

 この事件があった陸豊市と、前述の掲陽市は互いに100キロほど(中国でこの距離は「近所」である)しか離れておらず、よく似た文化圏の地域だ。1894年の『圭山存牘』の記事から2013年の『KINBRICKS NOW』の記事までは120年近く経っているのだが、現地の人たちはずっと似たようなことをやっているらしい。

 中国の民間社会では、伝統的にお上がさっぱり当てにならない。人々が民事紛争を法的手段ではなく実力で解決しがちな風潮があることも、械闘が起きる一因だと言われている。村同士の争いとはいえ、牧歌的なイメージとはほど遠く、ときには多くの死傷者を出す凄惨な抗争だ。地元のヤクザや人民解放軍からの横流し銃器や、爆薬を使った戦いに発展することすらある。

 械闘は、当事者にとっては紛うことなき「戦争」なのだ。

 

貧乏李世民と金持ち劉邦の戦い

 さて、私はそんな掲陽市の郊外にある寮東村(ステレオの音に怒って先に攻撃した側)と、劉畔村(ステレオを大音量で鳴らして先に挑発した側)を訪れた。現地で聞き込みをおこなうと、事件の背景もおぼろげに見えてきた。抗争の大きな原因はふたつ、寮東村と劉畔村の経済格差と歴史問題にあるようだった。

 そもそも寮東村は、人口約2200人の村人ほぼ全員が唐の李世民の末裔を自称する「李」という一族で構成されている。対して約1800人の劉畔村も、やはりほぼ全員が漢の劉邦の末裔を自称する「劉」という一族が集住する村である。

 劉畔村はこれまで郷鎮企業の経営に成功してきたらしい。一説には内外から200万元あまりの投資を集めたとの話もあり、村民委員会名義でガラス工場やレンガ工場を操業してきた。実際に村を歩いてみても、未舗装道路や煤けた古建築が目立つ寮東村に比べて、劉畔村はコンクリート舗装の道路や近代的な多層階の住居が目立つ。両者の羽振りの違いは明らかだった。

 

近代的な建物が目立つ劉畔村。2013年3月17日筆者撮影。

 

年季が入った建物が多い寮東村。2013年3月17日筆者撮影。

 

 地元の人の話では、劉畔村の村人は以前から「貧乏村」と寮東村をあなどることが多かったらしい。一方、劉畔村は経済発展の代償として工場の汚水や汚泥を付近へ大量に垂れ流しており、寮東村の村人は公害だけを引き受ける現状に不満を募らせていたようだ。そんな関係であるため、劉畔村は寮東村からの公害問題の抗議にも馬耳東風だったという。事実、両村内で話を聞くと、寮東村の村人は相手側の問題点をどんどん喋る人が多いのに対して、劉畔村では「この問題は当局が解決することだ」と背景への言及を避ける人が多かった。抗争の直接的な動機だけを見れば、どうやら劉畔村の方が分が悪そうだ。

 だが、背景にはさらに歴史問題も存在する。両村で族譜(一族の歴史書)や古老の話を確認したところ、唐の末裔を自称する寮東村が現在の場所に成立したのは約700年前。一方で漢の末裔を自称する劉畔村の成立は、約530年前だそうである(ちなみに寮東村と劉畔村の村人は、そんな互いの村のルーツについても「あんなものはデタラメだ」と激しく罵りあっていた)。

 もとは寮東村の方が規模が大きく豊かで、後発の劉畔村は小さな村に過ぎなかったらしい。人々の口ぶりからすると、古い世代の寮東村の村人の間では、現在の経済問題とは逆に劉畔村の側を「新参者」だとバカにする風潮が長年存在したようだ。両者の力関係が明確に逆転したのは、劉畔村が郷鎮企業で大儲けしたここ数十年のことである。 

 劉畔村の60代の村人いわく「詳しいことはわからないが、昔からあっち(寮東村)とは仲が悪い」という。一方、寮東村の85歳くらい(当時)の古老・李老人によると、劉畔村との対立は大昔から存在してきた。"近年"では清朝末期の宣統二年(1910年)に劉畔村との間で境界線をめぐり大規模な戦闘があり、双方の在外華僑の親戚たちが戦費や銃火器を大量に援助。両村が10年以上も戦い続けたことがあったという。 

 李老人は一族への愛が強い人で、唐の末裔(自称)たる寮東村の輝かしい歴史をずいぶん熱心に語ってくれた。だが、一方で1世紀前の械闘の結果については、渋い顔で口を濁した。もしかすると、当時は弱小だった劉畔村がまさかの大金星を挙げ、両村の関係がより複雑化したのかもしれない。

 

私は日本軍の苦力(クーリー)だった

 ところで、この寮東村の李老人については忘れられない話がある。械闘の歴史を知りたがった私が、「過去の怨恨は、現代のみなさんの考えにも影響を及ぼしていますか?」と、村の若者を通訳にして尋ねた際のことだ。しばらく時間を置いて考え込んでから、李老人は潮州語でこんなことを言い出した。

「及ぼしている。ただ、過去の怨恨と言うなら、おまえさんら日本の兵隊に対してもある」

 ちなみに李老人は、寮東村の一族の廟(宗廟)の守り主で、普段は一日中お茶を飲みながら村の子どもの相手をして暮らしているただの田舎のじいさんだ。私が彼と知り合ったのは村の若者からの手引きで、まったくの偶然。決して地元の共産党支部から押し付けられたプロの語り部のような人ではない。

「わしが十......何歳だったかな、ある日いきなり日本人が村にやってきた。村人が降伏しているのに片っ端から銃をぶっぱなして、人を殺して家を焼いた。ひどいもんだった」 

「わしは軍の苦力(クーリー)にされて、近所の桂西村までよく物資を運ばされた。日本兵の虫の居所が悪いといきなり殴られた。整列の時に『手』の位置が悪いという理由で殴られたことがあった。銃底で殴られて腰が曲がった者もいる。友達は軍刀で斬られて死んだ」

 後に調べたところでは、現地一帯は1939年6月から日本陸軍の上陸攻撃を受け、やや奥まった場所にある掲陽地域は中華民国軍の抗日防衛の最前線になった。掲陽市中心部が最終的に陥落したのは大戦末期の1944年12月で、大陸打通作戦に呼応した日本陸軍の独立混成第19旅団による侵攻だった。寮東村は掲陽市の西方に位置するため、李老人が苦力にされたのも同年末以降のことかと思われる。

 

1939年、汕頭市に攻め込む日本軍。中国のウェブ百科事典『百度百科』「汕頭陥落日」より。

 

 当時は大戦も終盤で、日本軍は中国戦線でこそ大陸打通作戦の戦果を挙げていたものの、戦局を全体的に見ればすでにサイパンが陥落してレイテ沖海戦にも敗北、敗勢が覆い難かった時期だ。日中開戦当初には多少なりとも意識されていたはずの、「新支那の建設」というスローガン(これはこれで独り善がりな話だが)も、戦争の泥沼化ですっかり色あせていた。 

 加えて、掲陽は戦争初期から末期まで日中両軍の最前線であり、日本側から見れば周囲一帯で最も攻略に手こずった憎っくき場所だ。当時の寮東村にやって来た日本陸軍(支那派遣軍)の末端部隊の軍規が、お世辞にも褒められたものではなかっただろうことは想像に難くない。

 

 

当事者から見た歴史問題

「日本兵が行進する靴の音が怖かった。上官を相手に絶叫する兵隊の様子が気持ち悪かった。いちばん耐え難かったのは兵隊が村の女を犯すことだった。女たちの顔に墨を塗り森の中へ逃げさせたが、それでも見つかった。かくまった男は殺された」 

「解放前の軍閥やら匪賊やら、文革のときの紅衛兵よりも、自分の人生のなかでは日本兵が一番怖かった。言葉が通じないし、何がやりたいのかもよくわからない。交渉や説得もできない相手だからだ」

「もちろん、(外国との)戦争はそういうものなんだろう。だが、時間がたっても恨みは残る」

 中国の民間社会(特に伝統的な農民の社会)の時間のスパンは、一般的な日本人の肌感覚とは異なる。700年前にできた村が530年前にできた村を新参者扱いしたり、103年前(当時)の械闘の恨みで現在も隣村とギクシャクしている人たちの時間感覚からすれば、わずか68年前(当時)の日本軍の侵攻などはついこの間の出来事でしかないはずだろう。

 

掲陽市の旧市街。戦前は金属工業で栄えていたという。

 

 ところで、私は李老人の話を聞いて、心の底から「お気の毒です」と言ったものの、「ごめんなさい」とは言わなかった。

 そう言ったのはもちろん、いつもの私が政治化された歴史問題に対して完全にスルーしているのと同じ理由からではない。自分の戸籍や国籍の背後にある支配体制につながる存在とはいえ、直接的には自分と何の関係もないはずの支那派遣軍の行為について、代弁してものを言うのはかえって不誠実だと思ったからだ。

 だが、これは李老人についても同様だった。彼が暮らす国の支配体制の頂点にいる中国共産党は、各種の政治運動を通じて日中戦争の犠牲者よりもずっと多くの自国民を死に追いやり、現在もチベットや新疆で往年の日本軍を笑えないようなひどい振る舞いをおこない続けている。だが、そのことはやはりこの寮東村のじいさんと直接的な関係はない。彼はとにかく、多感な十代の頃に村を占領され、隣人を殺されたり家を焼かれたりして、本人も兵隊に殴られた記憶を持って生きている人なのである。

 共産党宣伝部がテレビの抗日ドラマを通じて全中国に撒き散らしている「反日感情」や、もっぱら外交カードとして使うためだけに繰り返しているかに見える「歴史問題」は、私たち日本人が誠実に向き合えば向き合うほどバカを見るような代物に他ならない。

 だが、この手の上滑りの話とは別の次元で、中国の民間社会に土着的な反日感情や歴史問題が存在することは、やはり日中戦争の姿を知りたいならば理解しておくべき事柄だ。恨みの当事者や、その体験を一族の言い伝えとして聞いて育った人たちにとって、許せないものは許せないはずなのである。

 

戯画化された戦争

 やや硬い話が続いた。話を械闘に戻そう。

 今回の寮東村と劉畔村の械闘は、基本的には中国のいわゆるB級ニュースとかおもしろニュースに属する事柄だ。戦いで死者が出なかったこともあり、当時事件を調べていた私自身からして、やはり動機の9割くらいは下世話に面白がって追いかけていた。ご近所同士の仁義なき武力抗争というのは、筒井康隆や中島らもの小説を地で行くような話だからだ。

 たとえ双方が主観的には深刻な問題を抱えていたにせよ、傍目から見ればくだらないことをきっかけに始まる豪快なドタバタ劇。しかも数百年前から変わらないことを延々とやり続けているともなれば、当事者には悪いがやはり笑うしかない話なのである。

 

劉畔村にて。地元のカミサマ「老爺」を祀るちょうちん。

 

 だが、不粋を承知で今回の抗争の構図を最大公約数的に単純化すると、別のものも見えてくる。

 それぞれが架空の「起源の神話」を持ち、大昔の事件に由来する確執を互いに抱き続けているふたつの共同体。片方は新興勢力である相手に対して歴史的経緯にもとづく屈折した優越感を抱き、もう片方は近代化や経済的優位を理由に傲慢な姿勢で相手に接する。積もり積もった両者のコンプレックスと利益の衝突が、バカバカしいような事件を契機に噴出して深刻な武力衝突に発展する......。

 よくよく考えてみると、広東省の田舎の村の械闘と国家の戦争とでは何が違うのか。盧溝橋事件の勃発前夜や、近年の尖閣問題の際の日中対立の構図を思い出してみると、実はそれほど違いがなさそうな気もしてしまう。

 人間のおこないは規模の大小を問わず愚かだという話かもしれない。だが、村と違って国家の場合は、それが決定的におかしな事態を引き起こす前になんとかして踏みとどまらないと、まったく笑いごとでは済まない結果が発生する。

 戦後70年目の夏。そんなことを考えた。

 

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ノンフィクション作家。 1982年滋賀県生まれ。立命館大学文学部卒業後、広島大学大学院文学研究科修了。当時の専攻は中国近現代史。一般企業勤務を経た後、運営していた中国関連のブログが注目され、見出されて文筆の道に。 著書に『中国人の本音』(講談社)、『独裁者の教養』(星海社新書)、『境界の民』(KADOKAWA)、『和僑』(角川書店)など。週刊誌・月刊誌への寄稿を続けつつ、多摩大学経営情報学部で講師も務めるなど幅広く活躍中。

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