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ジセダイ総研

習近平が引用するもっと奇妙な古典 ──「紅い皇帝」と3000年のクロニクル──

安田峰俊
2015年05月21日 更新
習近平が引用するもっと奇妙な古典 ──「紅い皇帝」と3000年のクロニクル──

 国家主席として現代の中国を統べる「21世紀の中華皇帝」習近平。黄信号がともる中国経済の安定化に取り組む一方で、「腐敗撲滅」を理由に共産党内の粛清を進め、国内言論の弾圧も大幅に強化。自身への個人崇拝キャンペーンを進めるなど、近年の中国の指導者には例を見ない個人独裁的な統治姿勢を見せている。そんななかで、今年2月に出版されたのが、彼が著書や演説で引用した中国古典を紹介する書籍『習近平用典』だ。 

 前回の原稿では同書の分析を通じて、習近平が父親の習仲勲とコネを持つ学者グループを、自身の「中の人」として引き継いだ可能性に言及した。今回も引き続き、『習近平用典』を取っかかりに、彼の知られざる素顔に迫っていこう。

「草野球選手」はなぜオールスター戦に出場できたのか

  前回、私が注目したのは『尹文子』などのマイナー古典が引用された背景についてだった。 

 だが、実は『習近平用典』にはもっと不思議な引用もある。こちらはマイナーどころか、「草野球選手がプロの選抜チームに混じっている」という感さえある、さらに不可解な登場だ。

 例えば1989年1月、当時35歳だった習近平は、福建省寧徳市という僻地の漁師町で党委書記(市のトップ)の職に就いていた。そのとき発表した「幹部の基礎的能力」と題した小論文で、下記のような引用をおこなっている。

 

廉不言貧,勤不道苦。
意味:清廉な人は自身の貧しさを口にせず、勤勉な人は自身の苦労を口にしない。
(※邦訳は『習近平用典』の解釈による)

 

 どうということもない内容に思えるが、問題は元ネタである。これは、河南省南陽市内郷県という田舎町の「県衙(けんが)」(=王朝時代の地方役場:以下「内郷県衙」)の建物内に掲げられた対聯(一種のスローガンのような格言)からの引用なのだ。小論文の原文を確認すると、習近平は語句の出所を一切示さないまま、さも誰もが知っている諺(ことわざ)であるかのような筆致で該当箇所を書き出している。

 

小論文の該当部分。さも誰もが知っている言葉のような書き方だが、別に有名な言葉ではない。

『中国共産党新聞網』より)

 

 しかし、なぜ福建省の漁師町の代表者が、直線距離で1000キロ以上も離れた河南省の県役場の格言に言及したのだろうか?

  参考までに言えば、習近平の1989年以前の赴任地は、北京と河北省正定県・福建省アモイ市の3地域である。また、彼は北京生まれで、青春時代を送ったのは陝西省。妻の彭麗媛は山東省生まれだし、父親の習仲勲は陝西省生まれだ。いずれも、河南省とは縁もゆかりもなさそうに思える。

 しかも、習近平は国家主席に就任した後の2013年11月にも、やはり同じく内郷県衙の対聯を引用している。こちらは『習近平用典』には未収録だが、下記に紹介しておこう。

 

吃百姓之飯、穿百姓之衣、莫以百姓可欺、自己也是百姓。
得一官不栄、失一官不辱、勿一官無用、地方全靠一官。
意味:(官僚も)民衆の飯を食べ、民衆の服を着ているのだ。民衆をいじめてはならぬ。あなた自身も民衆の一人なのだから。
ささやかな官職を得ることは栄誉にあらず、それを失うことも不名誉にあらず。「こうした官職は無価値だ」などとも言うべからず。地方の行政はすべてそうした官僚によって担われているのだから。
(※邦訳は筆者の訳出)

 

 山東省の菏沢市という地方都市の役人を相手に座談会を開いた際、習近平は「諸君に教えを授けよう」とばかりに、上記をいきなり暗唱したらしい。 

 どうやら、彼は内郷県衙の格言がよっぽどのお気に入りのようだ。

 

田舎の県役場は中国共産党公認の観光スポットだった!

 調べてみたところ、内郷県衙が現在の場所に設置されたのは元朝の大徳八年(1304年)。現存する建造物は光緒二十年(1894年)の建造とされる。文化大革命期に損傷を受け、1984年に再度の改修がおこなわれた。例の対聯を書いたのは、清朝初期の17世紀末に現地に赴任していた高以永という地方官だ。

 県衙の面積は8500平米で、王朝時代の県役場の建物としては、中国でも有数の良好な保存状態だという。1996年に 「第4回全国重点文物保護単位」に指定、2006年に 「国家4A級観光地」に指定された。

(ちなみに、 中国の「国家5A級観光地」である八達嶺長城(万里の長城)が重文単位に指定されたのは1961年、西安の兵馬俑が指定されたのは1981年と、内郷県衙の指定よりもずっと前である。これらの超エース級の観光地と比べると、内郷県衙はあくまでも三線級の場所だ)。

 

内郷県衙の様子。(中国の評価サイト『大衆点評網』より)

 

 もっとも、 近年の内郷県衙は習近平以外の政治家からも人気であり、これまでに党の常務委員クラスの幹部やその候補者たちがかなり多く訪問している。以下、過去の主な訪問者を列挙しておこう(下記の名前にピンとない人は、だいたい 『ダイの大冒険』の魔王軍の六軍団長とか、『るろうに剣心』の志々雄十本刀ぐらいの偉い人たちが大勢やって来ていたのだとイメージしてほしい)。

 

・1995年6月8日:朱基(当時は副総理。後に江沢民政権下で総理)。李長春(当時は河南省委書記。後に胡錦濤政権下で党イデオロギー部門のトップ)

・1996年10月31日:羅幹(当時は国務院秘書長。後に胡錦濤第一期政権下で公安・司法部門のトップ)

・2004年秋:李克強(当時は河南省委書記。現総理)

・2009年4月18日:賈慶林(当時、胡錦濤政権下で全国政治協商会議主席) 

・2010年12月21日:呉官正(元、胡錦濤政権下での党中央規律委員会書記

 

 ほか、1990年代末には国家主席の江沢民が、内郷県衙の対聯を称賛したという話も伝えられている。上記の訪問者たちも、どちらかと言えば江沢民との関係が良好な政治家(上海閥)がやや多いようだ。

 江沢民は1994年末から、いわゆる愛国主義教育政策(≒「中華民族」のナショナリズムを高揚させて国民統合を図る政策)を提唱している。内郷県衙への党高官の訪問ラッシュや重文単位の指定も、この直後から始まった。どうやら1990年代なかばを境に、内郷県衙は「中華民族の伝統」を体現する「清廉な地方統治」の象徴として、中国共産党によって独特の政治的な意味を持たされるようになったらしい。

 ここは、党がお墨付きを与えた観光スポットというわけなのだ。

 

習近平ファミリーの「血の故郷」はどこだ

 ──もっとも、それでも腑に落ちない点は残る。

 習近平が初めて内郷県衙の対聯を引用したのは、現地が脚光を浴びるずっと以前の1989年1月なのである。

 当時の中国のリーダーは趙紫陽であり、六四天安門事件が起きるよりも前だ。いわゆる「愛国主義教育」や「上海閥」はその言葉すら存在せず、当の江沢民本人からして、半年後の自分が国家主席に就任するとは夢にも思っていなかった頃である。内郷県衙もまた、全国的な知名度は現在よりもずっと低く、党のお墨付きも何もない「古い建物」でしかなかったはずだ。

 また、習近平が2013年11月に再び引用をおこなったのも不思議である。当時、彼はすでに政敵である元公安・司法部門トップの周永康に対して、激烈な追い落とし作戦を開始していた。結果、周永康の後ろ盾だった江沢民との関係も、既に悪化していた(その後、周の失脚などを経て、現在の習近平と江沢民の関係は「最悪」だと考えられている)。

 習近平はどうして、江沢民政権の影響が強いマイナーな観光地の格言をわざわざ再び引用し、メディアを通じて大々的に宣伝させるような行為をおこなったのだろうか?

 

習近平が引用した対聯の文句を、全力でプロパガンダする特設ページ。(『南陽網』より)

 

 そろそろ種明かしをしよう。実は習近平は、江沢民とも中国共産党ともまったく無関係な理由で、内郷県衙との深い縁を持っていたのだ。上記の画像のサイト『南陽網』から、例の対聯への解説を引用しよう。

 

この対聯は、往年の無産階級革命家・習仲勲同志の祖籍の地である河南省南陽市の内郷県衙より出たものであり、官民の関係・民本思想と責任意識について深く指し示したもので、何度も朗読すると、深く考えさせられるものがあります。
『南陽網』2013年12月4日「從内郷県衙名聯談基層幹群関係」 )

 

 「祖籍」とは中華圏の伝統的な概念だ。 ある一族の内部で「自分たちの共通の祖先」(太祖)だとみなされた、特定の偉いご先祖様の居住地を指す言葉である。これは現在の本人の出生地や、戸籍上の本籍などとは必ずしも一致しないのだが、一族の歴史が続く限りは半永久的に語り継がれていく「血の故郷」とも言うべき場所である。

 内郷県衙がある地域一帯は、実は習近平の十数代前の祖先にあたる太祖・習思敬(しゅうしけい)が、現地の氏族集団「南陽の習氏」の基礎を築いた場所だった。そして現代までおよそ650年間にわたり、習氏が本拠地を置いてきた場所でもある。

 これが、習近平が内郷県衙の対聯を喜んで何度も引用した、本当の理由だと考えられるのだ。

 

ルーツのヒントは「オヤジの伝記」にあり

 以下、習近平のルーツとなった「南陽の習氏」と、その子孫たちの歴史を見ていこう。

 2008年に出版された習近平の父親の伝記『習仲勲伝』(中央文献出版社)には、習氏の祖についても記述がある(余談ながら、この『習仲勲伝』は習近平の権力掌握によって共産党内でもてはやされるようになり、今年4月に発表されたスマホ向けの習近平礼賛公式アプリ『学習中国』で全文を無料閲覧することも可能になった)。

 

習近平アプリ『学習中国』。あなたもスマホで習主席の思想を学習しよう!

 

 以下は『習仲勲伝』の第一章の内容だ。

 

 習姓の歴史の源は久遠の昔にさかのぼる。伝わるところでは春秋時代に諸侯国(現在の貴州省習水県一帯)があり、国が滅びた後にその遺民が国名を姓として名乗ったという。後に習姓の人々は襄陽郡、現在の湖北省襄樊市一帯に集い住み、偉人を排出、特に慷慨忠烈の士が多かったと伝わる。
『晋書』には「習族の諸氏、乃(すなわ)ち荊土の豪族と為る」との記載がある。前漢の襄陽公・習郁(しゅういく)および、『漢晋春秋』五十四巻を著した東晋の史家・習鑿歯(しゅうさくし)は、習姓氏族の著名な人物である。

 

 実に怪しげな話だが、とにかくそう伝わっているそうだ。もっとも、中国人は春秋戦国時代の諸国(陳・宋・韓・魏・趙などいろいろ)の王族の末裔を家伝として自称する(本人も本気で信じているとは限らない)場合が少なくないので、こちらは優しくスルーしておこう。中国の他のサイトでは、春秋時代に滅びた「鰼(しゅう)」という国の王族が、国名から「さかなへん」を取って名乗ったのが習姓の起源だ……という、一休さんのトンチのような説明もなされている。 

 一方、上記の『晋書』の原文を確認すると「諸習氏,荊土豪族,有佳園池,簡毎出嬉遊,多之池上,置酒輒醉,名之曰高陽池」(巻四十三、列伝第十三)となっていて、『習仲勲伝』の説明とはややニュアンスが違う。どうやら「竹林の七賢」で知られた文人・山涛の息子に山簡という人がいて、彼が征南将軍として荊州に滞在した際に、現地の豪族の「習氏」から接待を受けて彼らの庭園で舟遊びをした、という出来事があったようだ。

 どうやら「竹林の七賢」で知られた文人・山涛の息子に山簡という人がいて、彼が征南将軍として荊州に滞在した際に、現地の豪族の「習氏」から接待を受けて彼らの庭園で舟遊びをした……、というエピソードがあったようだ。

 後漢から西晋(1~3世紀ごろ)にかけて(1~3世紀ごろ)の荊州・襄陽付近に「習」という豪族がいて、王朝の高官を接待できるほど繁栄していたことは史実とみていいだろう。ちなみに襄陽には現在でも、「習家祠」という遺跡があるようだ(もっとも、彼らが習近平の直接の祖先かどうかは検証のしようがない)。

 

南陽の習氏の『創世記』伝説をひもとく

 引き続き『習仲勲伝』の内容を追う。どうやら次の記述あたりから、多少は信憑性がありそうな話が出てくる。

 

 時代の変遷にともない、襄陽の習族の人々は各地に移り住んでいった。江西省臨江府新淦県(現在の新干県)の華成門村の習姓の人々が、すなわち過去の習姓氏族の末裔であった。『習氏家族譜』の記載によれば、(※訳者注:現代の習仲勲・習近平につながる)習氏は、太祖・習思敬とその夫人・趙氏であるとされる。
 明朝の洪武二年(1369年)、朝政は大いに乱れ、連年の旱魃もあり大凶作となった。習思敬は生活が窮迫し、飢饉から逃れるために家族を連れて、河南省南陽府鄧県西堰子の老営という村(現在の南陽市鄧州市十林镇習営村)に移って定住し、農業を家業として、子孫を生み増やし繁栄させた。
習思敬の夫婦は七十歳あまりで没したが、その子孫は大いに栄えて老営村を満たし、さらに西の習家(西戸)・北の習家(北戸)・南の習家(南戸)に分かれ、それぞれに村を開いていった。

 

 

 この習思敬が、習近平の十数代前の祖先だ。こうして生まれた南陽の習氏は、老営村の付近で数千人の人口を抱え、村名を「習営村」と自分たちの一族の名に変えてしまう程度には繁栄したらしい。『真話』という別のサイトの記事によれば、現地でも有数の豊かな農民になった子孫もいたという。

 ただし、どうやら王朝時代のエリートコースである科挙(現代の日本でいうキャリア官僚試験)に合格して官僚になった人は誰もいない。良くも悪くも田舎の旧家という感じだったのだろう。

 

「南陽の習氏」の別の子孫は漢方薬店を営んでいる模様。ネットショッピングでも購入可。

  

(自分が知らない場所でも)故郷忘れじ難く候

 さて、南陽の習氏のうちで「西の習家」こそが、習仲勲・習近平父子の直接のルーツである。

 清朝末期の光緒八年(1882年)。「西の習家」七代目の習永盛(しゅうえいせい)は、相次ぐ戦乱と凶作、バッタの大量発生(蝗害)、悪代官の搾取などに苦しみ、一家を連れて他の場所へと逃げ出すことにした。

 彼らはその後、紆余曲折を経て陝西省富平県に定住する。習永盛は間もなく死んだが、次男の習宗徳(しゅうそうとく)は、やがて自分たちと同じような南陽からの逃亡民の子孫・柴菜花(さいさいか)と結婚。そこで生まれたのが、後に中国共産党の大幹部となる習仲勲――すなわち、習近平の父であった。

 習仲勲は成長して共産主義にシンパシーを持ち、故郷の陝西省一帯で革命闘争を開始。1930年代から現地における党のの主要なポストを任されるようになっていった。

 

革命根拠地「陝甘寧ソビエト政府」の主席に就任した若き日の習仲勲。2015年5月、延安革命記念館で筆者撮影。

 

 当時、習仲勲とは遠縁にあたる習正興(しゅうせいこう)や習中志(しゅうちゅうし)といった一族の人たちも、南陽の習営村と陝西省との間を往復しながら、習仲勲の革命闘争に協力していた。また、中華人民共和国の建国後の1958年に、習仲勲が上司の周恩来との雑談のなかで、自分のルーツを告白していたというエピソードもある。

  習仲勲は明らかに、祖先が暮らしていた河南省との縁を濃厚に意識して生きていたのだ。

 

田舎の村と習近平、お父様とお母様が結ぶご縁

 そして現代である。祖先を重んじる伝統的中国人である習近平ファミリーは、「血の故郷」との関係をいまなお継続しているようだ。

 南陽の習氏の本流が暮らす習営村には、「習氏宗祠」というお堂がある。これは一族が祖先の祭祀をおこなうための場所(宗廟)で、中国の旧家ではお馴染みだ。宗廟は、一族の精神的な結びつきを象徴するモニュメントとしての意味を持つ場所でもある。

 習営村にある習氏宗祠は、太祖・習思敬以来の一族の祖先をまつったものだ。以下、中国メディア『鳳凰網』の報道から、画像を紹介していこう。

 

http://qd.ifeng.com/chengshijiepai/detail_2012_11/20/435702_0.shtml

 

 上記の門に掲げられた「習氏宗祠」の扁額や、族譜(一族の歴史書)の表紙の「鄧州習氏」という文字は、習近平の母親の斉心が書いたものだ。彼女による族譜の表紙への揮毫は2005年であり、まだまだ新しい話である。 

 この習氏宗祠には、なかなか立派な習仲勲の記念館まで設けられている。習営村の村人たちは、一族の英雄を大々的に顕彰したい模様である。何十年後かの未来には、きっと習近平記念館も作られるに違いない。

 

http://qd.ifeng.com/chengshijiepai/detail_2012_11/20/435702_0.shtml 

 

 多忙な習近平自身が習営村に足を運んだことはないようだが、両親を通じた現地とのつながりが現在でも生きているのは明らかだろう。党総書記への就任前後から、自分自身のみならず父親の習仲勲への個人崇拝キャンペーンまで推し進めている孝行息子の彼としては、「血の故郷」との縁は重視すべきものに違いない。

 

習近平一族の「バルス」。祖先から伝えられし呪文

 習近平が何度も引用をおこなった対聯がある内郷県衙は、習営村と同じ南陽市の地域内にある。両者の距離は27キロ弱しか離れておらず、中国の地理感覚では「すぐ近所」と言っていい距離だ。壮大な内郷県衙の建物は、おそらく日本の姫路市民や熊本市民が地元のお城に親しみを持つのと同じように、周辺の住民から「故郷の誇り」として見なされていた場所ではなかったかと思われる。

 

中国の地図アプリ『百度地図』より。車で27キロ走っても信号が2ヶ所しかない模様。

 

 以下は想像なのだが、内郷県衙の対聯の文句は、南陽を離れて陝西省に移り住んだ習氏の子孫たちの間でも、遠い故郷の記憶として語り伝えられていたのではないだろうか。習近平もまた、子どもの頃に習仲勲からこの言葉を繰り返し聞かされていた。そして、35歳になって小論文を書くときに、頭に浮かんだ格言を「誰もが知っている諺」であるかのように錯覚して、つい書いてしまったのではないだろうか――?

 内郷県衙が全国的には無名の施設だった1989年1月の時点で、習近平が原典も明示せずに奇妙な引用をおこなった背後事情は、こういうことではないかと思える。

私は前回の原稿で、習近平の古典引用は父親の習仲勲のブレーンを引き継いだからではないかと書いた。だが、明らかに彼本人の頭から出てきた「古典」もまた、やはり父からもらった言葉だったのかもしれない。

 

 ──ところで、以下は少し蛇足である。

 習営村がある河南省南陽市は、日本の山形県南陽市と姉妹都市だ。今後、日本政府が中国を相手に交渉を進める上で、習近平に恩を売る必要があるならば、同市あたりを通じて習営村の近所に学校や病院を大量に建設しておくのは、意外に効果的な手段であるかもしれない(意地悪な言い方をすれば、彼の「血の故郷」で暮らす子どもの将来と老人の寿命を、わが日本国ががっちりと握ってしまうという意味でもある)。

 もしくは「日中友好のための農業支援」を名目として、山形名産のさくらんぼの苗木と技術スタッフを習営村に送り込み、習氏宗祠の周囲の畑にびっしりと植えてしまう手もある。そして、習近平が来日したときの晩餐会の席上で「あなたのご祖先もお召し上がりになっている果実の兄弟です」などと言って、山形県南陽市のさくらんぼを振る舞うのだ。

 習近平は質素倹約マニアで、むやみに高価な食事を供するような単純な接待を喜ばないという。そんな彼を懐柔するのに、この手のいかにも「中国的」なおもてなしは、ことのほか高い効果を上げ得るのではないかと思える。

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安田峰俊

安田峰俊

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ノンフィクション作家。 1982年滋賀県生まれ。立命館大学文学部卒業後、広島大学大学院文学研究科修了。当時の専攻は中国近現代史。一般企業勤務を経た後、運営していた中国関連のブログが注目され、見出されて文筆の道に。 著書に『中国人の本音』(講談社)、『独裁者の教養』(星海社新書)、『境界の民』(KADOKAWA)、『和僑』(角川書店)など。週刊誌・月刊誌への寄稿を続けつつ、多摩大学経営情報学部で講師も務めるなど幅広く活躍中。

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ジセダイ総研 研究員

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