本稿を書いているのは4月8日。宇多田ヒカルの約5年5ヶ月ぶり(休業中にリリースされた「桜流し」を除く)の新曲となる「花束を君に」と「真夏の通り雨」がそれぞれNHKの連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌、日本テレビの『NEWS ZERO』のエンディングテーマとして初放送された4日後である。本当は放送の翌日に原稿を書く予定でいたのだが、その2つの曲があまりに壮絶で、すっかり打ちのめされてしまい、筆をとるのが3日間遅れてしまった。正直、今も何を書いたらいいのかわからなくて途方に暮れている。
最初に言っておくと、放送で流れている「花束を君に」は最長で約1分30秒、「真夏の通り雨」は毎日1分きっかりと、現段階で曲全体を聴くことはかなわない。曲の全貌がわかるのは配信リリース日の4月15日だ。主題歌やエンディングテーマというのは曲の最も「おいしいところ」を使用するのが常なので、それでも曲の概要はつかめるわけだが、そのような「おいしいところ」といった意味ではなく、いずれの曲も放送されているエディット・バージョンの時点で音楽的にも詞作的にも異常なまでに濃厚な曲で、フルで聴けるのが待ち遠しいというより、むしろ怖いくらいだ。
宇多田ヒカル新曲「花束を君に」「真夏の通り雨」ジャケット
最初にサウンド面。両曲ともゆったりとしたスロー〜ミディアムなテンポ。そして、耳を引くのは、そこで使用されている楽器の音がすべてアコースティック主体の生音だということ。旋律を引っぱっていくのは、いずれもピアノとストリングス。「花束を君に」ではそこにドラムとベースも入っているが、「真夏の通り雨」にいたっては(少なくとも放送用のエディット・バージョンには)リズムトラックさえない。音数の少なさだけで言うなら、同じく曲の前半はピアノとストリングスだけ(後半からアコースティック・ギターが加わる)をバックに歌った2004年「誰かの願いが叶うころ」以来だ。
そう、アレンジだけ取り上げれば初期はR&Bテイストの、後期(というか、喜ばしいことにもう「中期」と言ってしまってもいいですね)はエレクトリック・ポップの印象が強い宇多田ヒカルだが、もちろんこれまでにもスロー〜ミディアムのアコースティック系の楽曲はあった。しかし、5年5ヶ月ぶりの復活のタイミングでリリースする2曲がどちらもそうであること、そして、その間に唯一発表された「桜流し」も同系統の楽曲であることを考えると、話は別である。
今回の2曲に関して、現在のところ発表されている参加スタッフは一人だけ、ミックス・エンジニアのスティーブン・フィッツモーリスだ。フィッツモーリスは近年ではサム・スミスの作品でグラミー賞を受賞、過去にはスティングやU2など、宇多田ヒカルが自身の楽曲で引用をしたり、アンプラグド・ライブでカバーをしてきた音楽家たちとも仕事をしてきた英国を代表するトップ・エンジニアだ。
「桜流し」から続く、まだ告知はされていないものの来たるべきニューアルバムのリードシングル3作品すべてに通じるスロー〜ミディアム&アコースティック路線が示しているもの、そして、フィッツモーリスが手がけてきた仕事の膨大なリストの中にその名前はないが、今回、宇多田ヒカルが英国のトップ・エンジニアとの仕事で視野に入れているもの、それはアデルのアルバムのような質感を持った作品なのではないかと推測する。
そして、詞である。放送では《普段から メイクしない君が 薄化粧した朝 始まりと終わりの狭間で 忘れぬ約束した》と歌いだされる「花束を君に」、そして同じく放送では《自由になる自由がある 立ち尽くす 見送りびとの影》というフレーズで終わる「真夏の通り雨」。いずれも、3年前に亡くなった母への想いが込められていると想像せずにはいられない、文学的な比喩表現に長けた宇多田ヒカルにしてはいつになくストレートな言葉が紡がれている。なにしろ、「花束を君へ」の《花束》の前には《涙色の》という言葉が添えられていて、「真夏の通り雨」の《真夏》という言葉からは3年前の8月のことが容易に連想できてしまうのだ。
とはいえ、これ以上の分析はまだ時期尚早だろう。ただ、もう一つだけ指摘しておきたいのは、「曲の一部を使う」ことが可能な、つまりいくらでも別の場所を使うこともできるはずの放送エディット・バージョンの時点で、ここまで宇多田ヒカルの想いが溢れ出ているということだ。
音楽家が真摯に自分の表現へと向かった時、私生活で起こった大きな出来事がそのテーマになるのはむしろ自然のことだ。それこそ、先ほど名前を挙げたアデルの(特に初期)曲はほぼすべてが彼女の実人生における痛切な失恋の歌だし、U2のボノは2003年のアルバム『ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』を亡き父親に捧げたアルバムだと公言している。
もはやこれ以上の名声や富のために仕事をする必要のない世界のトップ・アーティストにとって、わざわざその「自分にとって一番大事な部分」を避けてまで自己表現をしなくちゃいけない理由なんてないのだ。別に歌いたくなければ、歌わなくてもいいのだから。
それでも、宇多田ヒカルは「新しいうた」を歌った。今はそのことに喜びと畏怖の気持ちしかない。拙著『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)の中でも予想したように、今回の「花束を君に」と「真夏の通り雨」は、CDシングルでのリリース予定がない。レコード会社の衰退とともに、大きな芸能事務所に所属するアイドルやダンスグループが入れ替わり立ち替わり初週だけ1位になる現在の日本のシングル・チャートは、もうとっくに宇多田ヒカルにとってどうでもいいものなのだ(当然だろう)。
「宇多田ヒカルが今復活したとして、どれくらい売れますかね?」。『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)を上梓して以来、いろんな場所でそんな質問をされるが、「花束を君に」と「真夏の通り雨」を(部分的に)聴いた今となっては、売れるか売れないかなんて心の底からどうでもいいと思える。これは最近よく誤解されているように思うのだが、世界進出=世界基準の作品ではない(世界進出に関しても宇多田ヒカルはまだ諦めてないと思うが)。2016年の宇多田ヒカルが証明しようとしているのは、日本の音楽シーンの中で、日本語で歌われた作品にだって、世界の頂点と同じメンタリティ、同じクオリティの音楽は可能であるということなのではないか。宇多田ヒカルの新作がもし売れなかったとしても、困るのは宇多田ヒカルではなく、さらに世界から孤立して取り残されることになる日本の音楽シーンの方だ。
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宇野維正
1970年、東京都生まれ。音楽/映画ジャーナリスト。洋楽誌、邦楽誌、映画誌、海外サッカー誌などの編集部を経てフリーに。現在は映画サイト「リアルサウンド映画部」で主筆を務める。『装苑』『GLOW』『MUSICA』『NAVI CARS』などで批評やコラムや対談を連載中。著書「1998年の宇多田ヒカル」(新潮社)。
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