百万都市・江戸の人々は、「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」といったしぐさを身につけることにより、平和で豊かな生活を送っていた。しかし、幕末に薩長新政府軍によって江戸市民は虐殺され、800とも8000とも言われる「江戸しぐさ」は断絶の危機に瀕した……。
このような来歴を持つ「江戸しぐさ」は、現在では文部科学省作成の道徳教材にまで取り入れられるようになった。しかし、伝承譚の怪しさからも分かるように、「江戸しぐさ」は、全く歴史的根拠のないものなのである。
実際には、1980年代に芝三光という反骨の知識人によって「発明」されたものであり、越川禮子・桐山勝という二人の優秀な伝道者を得た偶然によって、「江戸しぐさ」は急激に拡大していく……。
この連載は、上記の事実を明らかにした「江戸しぐさ」の批判的検証本『江戸しぐさの正体』の続編であり、刊行後も継続されている検証作業を、可能な限りリアルタイムに近い形でお伝えせんとするものである。
「江戸しぐさ」という呼称が芝の造語であるというのは、後継者たる越川禮子氏も認めるところである。
芝の当初の構想だった江戸の二百五十戒五百律は、ついにその形を整えることはなかった。しかし、その構想の限界が見えてきた頃から「江戸しぐさ」に落ち着くまでに、彼が自ら制定したマナーをどのように名付けようとしていたかは興味深いところである。
その手掛かりとなるのは「江戸しぐさ」の設定上、それが江戸時代にどのように呼ばれたことになっているかである。そこに、試行錯誤の過程で捨て去られた呼称の痕跡があるかも知れないからである。
実は、芝の遺文には、「江戸しぐさ」の語が芝の幼少期(あるいはそれ以前)からあったとするものもある。
私の子どものころ、「江戸しぐさ」という言葉は年中耳にしたものでございます。半世紀まえまでは「江戸しぐさ」が生きておりました。(「江戸の良さを見なおす会・資料館」より)
この文の論旨は、現在通用している江戸の歴史は勝者の歴史だから、敗者の文化である「江戸しぐさ」が出てこない、と主張するものである。
つまり「江戸しぐさ」をめぐる世界観形成が、その失われた理由を説明するまでに進んだ段階のもので、この文が書かれた時期には芝の周辺ですでに「江戸しぐさ」の用語が定着していたとみなしてよいだろう。
NPO法人江戸しぐさでは、「江戸しぐさ」の別名として「繁盛しぐさ」「商人しぐさ」という用語も用いている。また、同法人の関係者は江戸時代に「繁盛しぐさ」「商人しぐさ」と呼ばれていたものを芝が「江戸しぐさ」と言い換えたと説明することもある。
その根拠は越川禮子氏の次の一文にある。
「江戸しぐさ」は「繁盛しぐさ」「商人しぐさ」ともいった。(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』14頁)
同じ書籍で越川氏は「「江戸しぐさ」は師がネーミングされた言葉だった。こんなことも、何年かたってポロリとおっしゃったのだ」と証言しており、越川氏と出会った頃(1991年)の芝は「江戸しぐさ」が自分の造語であることを隠そうとしていたことがうかがえる。
芝の遺文には「江戸しぐさ」という言葉について次のように解説したものもある。
この江戸しぐさ、江戸政権のころには、どう言われていたかと言うと、城内しうちとか、単におしうちと言われていたんですね。(正しくは、<言われていたそうです>と書きますね!) ところで、“しうち”という言葉を字引きで引いてみると、しわざ。しぐさ。しかた。方法。他人に対する取り扱い。俳優などの舞台における表情・動作。他人との接し方。身のこなし。関西では、興行主。などと出ています。 そこで、当初は、そのまま使うつもりでしたが、時代の変遷で曲解されるおそれが出てきましたので、ほとんど同じ意味の“しぐさ”という言葉を取り、城の内を共通語化して江戸と訳し、“江戸しぐさ”という言葉を創り出したわけです。(「“江戸しぐさ”という言葉」、江戸の良さを見なおす会『江戸しぐさ講』53頁)
現代語では「しうち」は「ひどいしうち」といった悪い用法に特化した言葉だが、江戸時代の用法はさまざまだった。
たとえば、恋川春町の黄表紙『妖怪仕内評判記』(安永8年=1779)は狐や河童をはじめとするさまざまな化物が変化を競い合う姿を描いたもので、表題の「仕内」はその化物たちの変化の技を意味している。
「城内しうち」はいかにも苦労して古語らしく装った用語であるが、文献的根拠がないことは「江戸しぐさ」同様である。また、芝自身、この設定はすぐに忘れたようで、この文章以外に芝自身が用いた用例も特に見あたらない。
さて、確認できる「江戸しぐさ」最古の用例は1981年8月8日付『読売新聞』朝刊「編集手帳」である。
1981年8月8日付「編集手帳」
「江戸の良さを見なおす会」というのがあるという。(中略)「江戸しぐさ」も研究テーマの一つという。しぐさは①やり方。しうち②身ぶり。俳優の動作。所作(「岩波国語辞典」)だが、江戸の町人の間には独特の振りがあったとか
この「編集手帳」の執筆者は村尾清一氏であった。芝が現代語と異なる「しうち」の用法を知ったのも村尾氏のコラムによってと思われる。
このコラム以降、「江戸しぐさ」という呼称が定着して現在にいたる、といいたいところだがことはそう簡単ではない、1980年代に村尾氏が執筆したと思われるコラム・記事や村尾氏の署名入りの文章には「江戸しぐさ」の呼称について表現のぶれが見られるのである。
「江戸町人のしぐさ」を文献に当たったり、古老から聞き出したりして掘り起こす。それらを八ミリに撮る。もう百本近いという。(1983年2月23日付『読売新聞』朝刊「編集手帳」)
江戸時代のしぐさを研究している目黒区のグループ「江戸の良さを見なおす会」(芝三光代表)の指導で、中野区の「高校生」たちが、自演の「江戸しぐさ」のビデオ撮りを始めた。(「「江戸しぐさ」に学ぼう ギスギス社会返上へ高校生ら自演ビデオ」『読売新聞』1983年5月1日付都民版朝刊)
「江戸のしぐさ」とか「江戸しぐさ」とか言われるものが、三、四年前から新聞やテレビで、ごく簡単に紹介されたので、ご存じの方も少くないと思う。(村尾清一「よみがえれ江戸しぐさ」『新潮45』1987年12月)
これらからうかがえるのは村尾氏が芝の主張に含まれる「江戸」と「しぐさ」という要素に着目しながら、それを「江戸しぐさ」という一語にまとめるだけではなく両者を含む複数の表現で言い換えようとしているということである。
こうした言い換えを並べていくと「江戸しぐさ」もまた「江戸」「しぐさ」の両方の要素を含む表現の一つであり、そのもっとも簡潔な言い回しであることが明らかになる。
村尾氏は日本記者クラブ賞も受賞している。
http://www.jnpc.or.jp/activities/award/awards-prize/
村尾氏が「江戸の良さを見なおす会」と関わる以前の貴重な資料である1974年6月7日付『東京新聞』の岩淵いせインタビューでは「しぐさ」という言葉は一か所も用いられていない。
また、村尾氏が芝と出会う少し前に当たる1978年、多田道太郎氏の著書『しぐさの日本文化』(1972年初出)が角川文庫化しており、文化としての「しぐさ」というテーマに関心が集まってことがあった。
あるいは「江戸」と「しぐさ」の2つの要素を芝の言動から抽出し、それを強調していったのは芝本人ではなく村尾氏ではないだろうか。その場合、「江戸しぐさ」という用語の真の発案者は芝ではなく村尾氏だったということになる。
たとえ「江戸しぐさ」という用語の発案者が村尾氏でなかったとしても、80年代にこの用語を広め、越川氏の関心を引くまでにした功績が彼のものであることは間違いない。
「江戸しぐさ」の歴史を語る上で村尾氏の影響はさらに注目されるべきである。
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歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)メンバー。日本でも数少ない偽史・偽書の専門家であり、古代史に関しても造詣が深い。近年は旺盛な執筆活動を行っており、20冊を超える著書がある。主著に『幻想の超古代史』(批評社)、『トンデモ偽史の世界』(楽工社)、『もののけの正体』(新潮新書)、『オカルト「超」入門』(星海社新書)など。本連載は、刊行後たちまち各種書評に取り上げられ、大きな問題提起となった『江戸しぐさの正体教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の続編である。
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