百万都市・江戸の人々は、「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」といったしぐさを身につけることにより、平和で豊かな生活を送っていた。しかし、幕末に薩長新政府軍によって江戸市民は虐殺され、800とも8000とも言われる「江戸しぐさ」は断絶の危機に瀕した……。
このような来歴を持つ「江戸しぐさ」は、現在では文部科学省作成の道徳教材にまで取り入れられるようになった。しかし、伝承譚の怪しさからも分かるように、「江戸しぐさ」は、全く歴史的根拠のないものなのである。
実際には、1980年代に芝三光という反骨の知識人によって「発明」されたものであり、越川禮子・桐山勝という二人の優秀な伝道者を得た偶然によって、「江戸しぐさ」は急激に拡大していく……。
この連載は、上記の事実を明らかにした「江戸しぐさ」の批判的検証本『江戸しぐさの正体』の続編であり、刊行後も継続されている検証作業を、可能な限りリアルタイムに近い形でお伝えせんとするものである。
2015年6月25日、それは後世の人が社会問題としての「江戸しぐさ」を振り返る上で一つの転機とみなす日付となるだろう。その日のTBSテレビ『NEWS23』では「伝統か空想か ”江戸しぐさ”に疑問の声」として、テレビで初めて「江戸しぐさ」の主張を批判的視点から報じたのである。
その番組には私も登場したが、コーナー全体のまとめにあたる位置を占めたのは田中優子氏のインタビュー映像であった。ちなみに番組での紹介テロップは「江戸文化に詳しい田中優子法政大学総長」である。以下は番組で放送された田中氏のコメントである。
「(江戸っ子大虐殺について)聞いたことないです。初めて聞きました。虐殺する理由がありませんのでありえないと思います」「(江戸しぐさとは何か、について)想像ですよね。つまり空想と言えばいいのでしょうか」「(江戸しぐさの教科書掲載について)それが本当かどうかについていろんな研究者に尋ねる、ヒアリングする、というプロセスがあるはずなんですが、なぜこれに関してはなかったのか。じゃあ道徳の教科書だからどうでもいいのかとなると、やっぱりそれは非常に大きな問題ですので」
田中氏はこのインタビューにおいて「江戸しぐさ」も「江戸しぐさ」の教科書・教材掲載を許した文部科学省もともにばっさり斬ってしまった。田中氏はこれにより近世文学専攻の研究者として当然の責任を果たしたといえよう。
「江戸しぐさ」が社会に受容されるにあたっては、樋口清之『梅干と日本刀』(1976)に始まる江戸文化見直しやさらにその延長線上にある江戸ブームが受け皿となったことは否めない。
田中氏は1986年の『江戸の想像力』(芸術選奨文部大臣新人賞受賞)以来、数多くの著書で江戸ブームの推進役となってきた論客である。その田中氏が「江戸しぐさ」に否定的なコメントをした意義は大きい。
だが、一方で田中氏は過去の講演会において「江戸しぐさ」に好意的な発言をしたことがある。2013年6月8日に麗澤大学で行われた麗澤オープンカレッジ特別講演会でのことである。
2013年6月8日に麗澤大学で行われた、田中優子氏による麗澤オープンカレッジ特別講演会の様子
この発言からすれば、田中氏は「江戸しぐさ」を肯定していたと考えざるを得ない。
田中氏は法政大学総長だが、法政大学の文学部心理学科におられる島宗理教授(行動分析学専攻)は長年にわたって「江戸しぐさ」に関心を持ち続けているという。
島宗氏のブログによると、島宗氏が「江戸しぐさ」を知ったきっかけは地下鉄で見かけた公共広告機構のポスターだったという(2006年6月26日付ブログ「江戸しぐさ」)
その後の著書において、島宗氏は越川禮子氏の主張が事実であることを前提に「江戸しぐさ」の復活を提唱しているにいたった。
家族や近所の人が江戸しぐさができている人を褒め、そうでない人を批判するのを日常的に見聞きすることも重要だったに違いない。そうすることで、「傘かしげ」だけでなく、「こぶし浮かせ」や「肩ひき」や「うかつあやまり」など、江戸しぐさという数々の行動見本がそれをすれば強化される行動群となり、反対に「逆らいしぐさ」や「うかつしぐさ」のように、恥じるべきとされた行動見本は、それをすれば弱化される行動群となったのだろう。(中略) 江戸しぐさについて視考(ママ)した限り、江戸しぐさを現代日本に復活させるには、そのような行動見本づくりと見本の提示、それをもとにした教育的随伴性、社会的随伴性の整備が欠かせないと言える。困難な仕事ではあるが、挑戦的でやりがいのある仕事ではないだろうか。(島宗理『人は、なぜ約束の時間に遅れるのか』2010年、145~147頁)
あるいは田中氏は2013年時点では「江戸しぐさ」の細かいことを知らず、島宗氏の著書などから断片的な知識を得ていただけかもしれない。
しかし、その場合、仮にも「江戸」を称するものに対して、精査することなく、いわば江戸文化の権威の立場からお墨付きを与えてしまったことになる。その言動は軽率といわざるをえないだろう。
2013年6月時点での田中氏の「江戸しぐさ」解釈がどのようなものだったか。さらにその後、どのような経緯を経て『NEWS23』でのインタビューのような認識にいたったのか、田中氏ご自身による説明をぜひ伺いたいものである。
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歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)メンバー。日本でも数少ない偽史・偽書の専門家であり、古代史に関しても造詣が深い。近年は旺盛な執筆活動を行っており、20冊を超える著書がある。主著に『幻想の超古代史』(批評社)、『トンデモ偽史の世界』(楽工社)、『もののけの正体』(新潮新書)、『オカルト「超」入門』(星海社新書)など。本連載は、刊行後たちまち各種書評に取り上げられ、大きな問題提起となった『江戸しぐさの正体教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の続編である。
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