百万都市・江戸の人々は、「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」といったしぐさを身につけることにより、平和で豊かな生活を送っていた。しかし、幕末に薩長新政府軍によって江戸市民は虐殺され、800とも8000とも言われる「江戸しぐさ」は断絶の危機に瀕した……。
このような来歴を持つ「江戸しぐさ」は、現在では文部科学省作成の道徳教材にまで取り入れられるようになった。しかし、伝承譚の怪しさからも分かるように、「江戸しぐさ」は、全く歴史的根拠のないものなのである。
実際には、1980年代に芝三光という反骨の知識人によって「発明」されたものであり、越川禮子・桐山勝という二人の優秀な伝道者を得た偶然によって、「江戸しぐさ」は急激に拡大していく……。
この連載は、上記の事実を明らかにした「江戸しぐさ」の批判的検証本『江戸しぐさの正体』の続編であり、刊行後も継続されている検証作業を、可能な限りリアルタイムに近い形でお伝えせんとするものである。
藤崎康彦氏は論文「「文化と型」再考―芝三光氏講義「はたらく」へのコメント―」(『フォーラム』1985年3月号初出、以下「藤崎論文」)において「芝氏にとっては、江戸文化は対象として研究すべきものではなく、自分がそれを生きるものである」と述べている。
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id=atomi-forum-3-6
たとえば、藤崎論文によると、芝はその跡見女子大学の特別講義において江戸での「はたらく」の意義を示すのに次のような例を挙げたという。
大工とか植木職人がある店に出入りを許され仕事を任されたとする。その職人は相手の店の名なり屋号なりを入れた羽織を新調する。そこの仕事をする時には必ずその羽織を着用して出掛け、もちろんそれ以外の時には一切着ない。いわば、その店の仕事にかける覚悟、心意気を示している。
そして藤崎氏によると芝は自らそれを実践して見せたという。
職人の心意気として、羽織を仕事に際して新調することを述べた。芝氏はそれを知識として語るのではなく、その前にそれを生きてしまっている。つまり跡見の公開講座に招かれたことを記念して、ワイシャツも背広も新調している。それらには記念の意の文字が書かれたり刺繍されたりしている。何回か跡見に足を運んで下さったが跡見に足を踏み入れる時は必ずその背広を着用していた筈である。私共も僅かばかりのお礼をさし上げはしたがその数倍の物入りである。
しかし、この芝の行動に「江戸文化」の実践だけではなく、別の意味を読み取ることも可能だろう。芝は、自分が大学の講師として招かれ、その主張がアカデミックな場で評価される機会を得たことを喜んでいたと思われる。
藤崎氏によると、芝が学内に足を踏み入れたことが確認できたのは講座当日のみであり「何回か跡見に足を運んで」というのは芝が事前に道筋を確かめたと述べたことによるという。これが本当だとすれば、芝は現地確認の手間を惜しもうとはしなかったのである。背広の新調もまた芝のその気負いの表れだろう。
しかし、前回述べた通り、芝と藤崎氏は問題意識の一部を共有していても、その向かおうとする方向は食い違っていた。特別講義は一回のみで、その後、彼が跡見女子大学に招かれることはなかった。
藤崎氏が芝に講義を依頼した時、最初に電話での連絡をとりついだのは「江戸の良さを見なおす会」主宰だった岩淵いせ氏(現・和城伊勢氏、「一般社団法人 芝三光の江戸しぐさ振興会」会長)だった。
芝の没後、和城氏は自らの編著による書籍を出版した際に、神田明神で芝の顕彰行事を行なった。その時、和城氏は藤崎氏をその行事に招いたが、思い出話の中で芝が藤崎論文で指摘された内容を晩年まで気にしつづけていたことを告げたという。
しかし、跡見での特別講義以降に弟子入りした越川禮子氏の著書にも、藤崎論文で指摘されたのと同様の限界が見られるところからうかがうに、芝は終世その限界を克服できなかったようである。
ところで芝の遺文の中に、この公開講座についてのまとめとして書き出されながら、最終的に脱稿できなかったと思われる文章がある。
和城氏の編著による『江戸しぐさ一夜一話』(新風舎・2004)に収録されたエッセイ「「公開講座」本音で書いた残しぶみ」である。
その中では「はたらく」について次のように述べられている。
「働く」これが私に与えられたテーマでございました。江戸のころ働くというのはこんにち式に言えば「考える」に近い意味を持つ言葉でございました。今日の「働く」に当たる言葉は「稼ぐ」と申しました。手間賃を稼ぐとか「稼ぐに追いつく貧乏なし」とか申しますでしょう、あれでございます。諺にも「働くに追いつく―」とは申しておりませんでしょう。すなわち、働くというのは頭を働かせてまわり(周囲)の人々を楽にさせてあげなさいといういたわり(労)りの心でございました。「明治以降、その労=働が結びついて労働という語が出来ました」と私の父が懇意にしておりました徳川無声氏(活動弁士、後に声優)からお聞きしたことがございます。 事実、昭和の十年ごろまでは東京の小学校でも「働くとはハタ(傍)をラク(楽)にさせてあげることです」と教えておりましたのでございます。決してお金を取る事を教えてはおりませんでした。 (『江戸しぐさ一夜一話』90頁)
前置きが長い割に、肝心の「はたらく=傍楽」の出典として示されるのは、昭和10年頃までの東京の小学校の授業のみである。これは、1928年生まれの芝が実際に子供の頃に受けた授業の記憶によると思われる。学校で道徳を教えるのに言葉遊びが用いられるのは、今ではテレビドラマ『3年B組金八先生』の一場面として知られる「人という字は人と人とが支え合う形」を引くまでもなく、今も昔もよくあることである。
昭和10年頃の小学校で子供の頃の芝が聞いたであろう「はたらく」の解釈も、そうしたこじつけだったのだろう。しかし、芝の「江戸」へのこだわりによって、それは江戸時代以来の伝統に化けてしまい、芝の弟子たちに受け継がれた。たとえば、NPO法人江戸しぐさでは「はたらく=傍楽」を公式の表記として広報資料などでしばしば用いている。
私は『江戸しぐさの正体』において、芝が語る「江戸」が彼自身の幼少時の記憶を下敷きにしていることを考証した。芝が跡見女子大学で講義した「はたらく」の解釈もまた、それを示す例の一つとして上げることができるだろう。
なお、余談だが藤崎論文には、芝が自らの生きる世界としている「江戸」が、実は物騒なところだとされていたらしい点についての言及がある。
跡見に来る時も、万が一の交通機関の事故に備えて、自宅から跡見までのハイヤー料を確かめ、財布とは別封筒でその額を懐に入れておく。行きと帰りは道を必ず違える……
(中略)芝氏と鍋をかこんで一杯飲んでいた時、私が手洗いに中座して戻って来たら、お立ちになった時のままですよと言われたことがある。相手が座をはずしている時は一切自分は手をつけずそのままの状態におくのが礼儀らしい。というのは、そのままにしておいて、毒など入れてありませんよ、ということを示すためだという。江戸では毒殺が日常化していたのだろうか。これでは親しい奴が一番あぶない、という、未開社会の妖術や呪術の話と余り変わらないなと思ったりしてしまう。
藤崎氏は「きっと私が本当の意味をよく理解できていないのだろう」と自戒しておられるが、私はこれらについて、芝の抱いていた人間不信や不安感が彼の「江戸」に投影されていことを示したものと考える。
ちなみに、芝が語る「江戸」のダークサイドは越川禮子氏にもうけつがれており、越川氏の著書にも「(江戸は)大伏魔殿ともいわれた」「商人たちは江戸を“まさかの町”と呼んでいた。いつ、どんなところで、何がおきても不思議はない」「“江戸しぐさ”をしない人は“ぽっと出”と思われ、スリが狙った」とある(『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』60~61頁)。
(次回は、6月25日放送の『NEWS23』における、「江戸しぐさ」検証特集を受けた臨時寄稿を掲載予定です)
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歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)メンバー。日本でも数少ない偽史・偽書の専門家であり、古代史に関しても造詣が深い。近年は旺盛な執筆活動を行っており、20冊を超える著書がある。主著に『幻想の超古代史』(批評社)、『トンデモ偽史の世界』(楽工社)、『もののけの正体』(新潮新書)、『オカルト「超」入門』(星海社新書)など。本連載は、刊行後たちまち各種書評に取り上げられ、大きな問題提起となった『江戸しぐさの正体教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の続編である。
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