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ジセダイ総研

通州事件が遺した傷痕 被害者遺族Kさんが語る事件とその後80年

広中一成
2017年07月05日 更新
通州事件が遺した傷痕 被害者遺族Kさんが語る事件とその後80年

 通州事件は、日中戦争勃発直後の1937年7月29日、中国・北京近郊の小都市、通州(現北京市通州区)で起きた冀東(きとう)防共自治政府保安隊による反乱事件である。冀東政府とは、中国を侵略した日本軍が樹立した傀儡政権で、保安隊は冀東政府を防衛する中国人部隊であった。通州事件では、通州に住んでいた日本居留民225人(諸説あり。死亡者の約半数は朝鮮人)が保安隊により殺害された。

 戦後の日本では、通州事件は戦争責任をめぐる右派と左派の論争のなかで取り上げられた。このとき、両派はともに都合よく通州事件の事実を切り取って独自の解釈を展開した。その一方で、通州事件の歴史的意義を探る実証研究はなおざりにされた。

 冀東政府について研究していた筆者は、以上のような通州事件の研究状況を問題視し、事件発生から80年目を前にした2016年12月、日中両国に残された史料や証言をもとに、星海社から新書『通州事件―日中戦争泥沼化への道』を発表した。

 拙著のなかでは、日本軍が反乱の予兆を察知しながらも、充分な対処をしなかったこと、事件の責任が冀東政府に押しつけられたこと、朝鮮人犠牲者への賠償額が少なかったこと、事件がメディアによりプロパガンダとして利用されたことなどを実証的に明らかにした。

 刊行後、版元には読者からの手紙が何通か寄せられた。そのなかに、何枚もの便箋からなるKさんからの手紙があった。Kさんの両親は戦前、通州で開業医を営んでいて、通州事件で三女とともに命を落としたという。

 筆者はKさんと何回か手紙のやり取りをした後、直接事件当時のお話をうかがおうと、Kさんのもとを訪ねた。

 本記事は、Kさんへのインタビューを構成したものである。

Kさんの生い立ち

 Kさんは、1928(昭和3)年生まれの89歳(2017年時)。女子師範学校卒業後、小・中学校で教師を務めた。現在は、湖畔に佇むケアハウスで静かな余生を過ごしている。

 筆者がKさんのお部屋におじゃまするなり、Kさんは「広中さんの本を読ませていただきました。初めてお会いするとは思えません」と、とても喜んで筆者を暖かく迎え入れてくれた。Kさんは89歳とは思えないほど若々しく、しぐさひとつひとつに上品さがあった。

 筆者と対面したKさんは、少しずつ半世紀以上前の体験を話し始めた(引用文中のカッコは筆者注)。

 「私は昭和3年に東京で生まれました。父は東京で医師をしていました。私が数え3歳頃、私たち家族は、東京を離れて、南満洲の大石橋(だいせききょう)というところに移り住みました。当時、父のおじが関東軍の飛行場長をしていて、父はおじに誘われて満洲に行くのを決めたのではないかと思います。大石橋には、満鉄で働く日本人が多く住んでいました。
 私たちが大石橋で生活を始めてからまもなくして、満洲事変が起きると、父は母と私たち娘を連れて、吉林省の樺甸(かでん)というところに移りました。父は樺甸で豪族の大きな屋敷を借りて病院を開きました。
 樺甸は田舎町で、日本人は私たち家族を含めほんの数軒しかいなかったのではないでしょうか。病院の患者さんのほとんどは中国人でしたが、コウリャン畑が生い茂る頃になると、中国側のゲリラと戦って傷を負った日本兵が多く運ばれてきました。
面倒見のよかった父は、中国人の患者のみなさんから"大人(ターレン)"(大人は成人男性に対する敬称)と呼ばれて慕われていました。村の運動会で、太った父がドタドタと体を揺らしながら走ると、村の人たちは喜んで、みんな盛んに父に声援を送ってくださいました。
 患者さんのなかには、大きなパン工場を経営している白系ロシア人の方もいました。そういう工場があったということは、樺甸にパンをつねに食べる人たちがかなり住んでいたのではないかと思います。
 病院では母が看護婦や薬剤師の仕事をやっていました。けれども、父も母も中国語ができなかったため、患者さんとの会話は、看護婦をしていらっしゃった可鳳岐(かほうき)(何鳳岐)さんに手伝っていただきました。可鳳岐さんは、当時の中国の女性としては珍しく医学校を卒業していました。おそらく、その学校で可鳳岐さんは日本語を学んだのではないかと思います。可鳳岐さんは、私たち家族ととても親しくしてくださり、私と妹はたびたび可鳳岐さんに遊んでいただきました。
 昭和10(1935)年、私は日本の小学校に入るため、両親と別れて帰国し、母の実家のある群馬県の田舎に預けられました。樺甸の家を離れるとき、ままごとをして遊んだ近所の中国人の女の子たちが、泣きながら私の乗った馬車をどこまでもどこまでも追いかけてきました。そして、どうしても追いつけなくなったとき、女の子たちは「ウァー」と大きな声をあげて、泣きながらしゃがみ込んでしまいました。あのときから、82年が過ぎた今も、私は道の真ん中にうずくまった彼女たちがみるみる小さくなっていく姿をはっきりと思い出します」。

Kさん一家を襲った悲劇

 Kさんの話は続く。

 「樺甸にいた私の両親とふたりの妹は、盧溝橋事件が起きる数ヶ月前の昭和12(1937)年春、通州に転居しました。なぜ、父たちが通州に行ったのかはわかりません。父は通州に移った後、私に手紙を送ってきました。そのなかには、通州で開業する病院の見取り図が入っていました。おそらく、父は通州に居を構えて永住するつもりだったのではないかと思います。通州には可鳳岐さんもついてきてくださいました。
 通州事件が起きたことを、私ははじめ知りませんでした。一緒に住んでいた祖父母や伯父夫婦は通州事件のことは知っていたはずですが、すぐには私に教えませんでした。
 いつものように小学校に行きますと、友だちや先生たちが一斉に私に振り向いて、何かを尋ねたそうにしては目をそらしてしました。私は何かおかしいと思い、家に帰って何気なく新聞を見ましたら、両親が通州で保安隊に殺害されたという記事が載っていました。それからの記憶は、なぜか私から抜け落ちてしまってほとんどありません。ただ、体がフワフワ宙に浮いて、上手に歩けなかったことだけは覚えています。
 その後、私は祖父から通州事件での両親の様子を聞くことができました。通州事件が起きると、両親の家に保安隊が押し入ってきました。保安隊は抵抗する父と母の命を奪い、母が抱いていた赤ん坊だった一番下の妹(三妹)を壁に叩きつけて殺しました。その部屋には私のすぐ下の妹(次妹)がいて、保安隊はその妹にも手をかけようとしました。そのとき、可鳳岐さんが中国語で「この子は私の娘です。連れ去らないでください。返してください」と言って、保安隊の手から妹を奪い返してくださったのです。
 可鳳岐さんは妹を抱えると通州から抜け出し、人の背丈まで伸びたコウリャンの畑に逃げ込みました。そして、通州事件が収まるまでの長い時間、ふたりはそこに身を潜めていたのです。
 可鳳岐さんは、通州から保安隊がいなくなったのを確かめてから、妹を日本軍に引き渡してくださいました。その後、可鳳岐さんは通州から姿を消してしまわれました。
 通州事件から一年たって、やっと可鳳岐さんから私のもとに手紙が届きました。その手紙には、可鳳岐さんが満洲の実家に帰られると、周りの人から日本人のスパイと罵られるようになったとありました。でも、いつかまたお互いにとっていい日が訪れたら、そのときはきっとお会いましょうと書いてありました。けれども、私は二度と可鳳岐さんにお会いすることは叶いませんでした」。

父の遺書の意味

 Kさんは、筆者に昔の記憶をひとしきり話し終えると、おもむろに席を立ち、書棚から2枚の写真を取り出し、筆者に見せながら次のように述べた。

 「この写真に写っているふたりの女性は、私の母と可鳳岐さんです。もう1枚に写っている恰幅のいい男性は、私の父です。
 通州事件から数年後、群馬県の私たちの家に、私の両親の遺品が届けられました。そのなかに、父の骨が入った骨壷や、母が生前かぶっていた帽子、父が書いたという私宛の遺書が入っていました。遺書には、「父と母は通州で一生を終えるやもしれぬ。私たちの大切なものすべてを可鳳岐さんに託していく。可鳳岐さんを母と思って仲よく暮らせ」と書いてありました。

病院で働くKさんの母(左)と可鳳岐(右)

 私が数え14歳の頃、父方の祖父に連れられて通州事件で保安隊と戦った青年将校のもとを訪ねました。人のよい祖父は、自分の息子の遺児がこんなに成長しましたと、その方に見せに行ったのです。
 けれど、その将校は、祖父と話すうちにふたりの間で意見の食い違いが出たらしく、力いっぱいテーブルを叩き、怖い目で祖父に向かってこう言い放ちました。「だから俺は貴様の息子に怒鳴りつけたのだ。一介の医者のくせに俺に向かって口出しするつもりか、ぶった切るぞと。奴さん、手をぶるぶる震わせておった」。
 父は通州事件が起こる直前、保安隊の不穏な空気を察知して、将校のところに行ったそうです。あの父のことですから、日本の居留民を守ってほしい、守るべきだというようなことを言ったのでしょう。すると、将校から「ぶった切るぞ」と追い返されてしまった。父は絶望して家に戻り遺書を書き残したのです。その後、その将校は生き残り、私の両親は赤ん坊の末の妹もろとも殺されました。
この将校にとって、何よりも大事だった任務は、日本の居留民を守ることではなく、日本軍の部隊の中に貯蔵されていたたくさんの武器や弾薬を守り抜くことでした。また、反乱を起こした保安隊の任務のひとつは、この武器や弾薬を破壊することだったのでしょう。通州事件のとき、日本軍の弾薬庫が大爆発して、高く立ちのぼる黒煙が遥か遠くからでも見えたそうです。その爆発の後、保安隊は日本軍の兵舎内に攻め入ることなく退散したそうです」。

安藤利男の苦悩

 Kさんは、戦後しばらくたったある日、親族を介して安藤利男が日本で存命であることを知った。安藤は、当時のニュース通信社である同盟通信社の元記者で、冀東政府の取材中に通州事件に遭遇し、いちじ保安隊に身柄を拘束された。しかし、安藤は保安隊の隙をついて通州を脱出し、数日かけて北京に逃げ延びた。安藤の脱出の顛末は、日本の主要紙で報じられ、通州事件の詳細が初めて日本で明らかにされた。

 Kさんは、通州事件の被害者遺族のひとりとして、生き延びた安藤に事件当日のことを直接聞きたく、安藤の自宅に電話を入れた。そのときのことを、Kさんは次のように述べた。

 「電話に出た安藤さんは、私を記者だと思ったらしく、「いったい、この私から何を聞き出したいのだ」と怒鳴りました。けれども、私は、これはかえってお話をうかがうことができると思いました。なぜなら、以前に脱出記を発表した安藤さんが、通州事件のことを言いたがらないなんて、何か考えが変わったのではないだろうか、被害者遺族として向き合ったら口を開いてくださるのではないかと思ったからです。
 案の定、私が通州事件で両親と妹を亡くしたことを告げると、安藤さんはお話に応じてくださいました。
 安藤さんは通州から北京に逃れる途中、農民に追いかけられ、持っていた財布や時計をばら撒いて逃げ延びたそうです。おそらく、農民が安藤さんを捕まえて保安隊に差し出そうとしたのでしょう。
 その後、安藤さんが裸同然の姿になって小さな水車小屋に逃げ込んだとき、そこの番人らしい親子ふたりがみすぼらしい服装でコウリャンのお粥をすすっていました。その親子は疲れ果てて倒れ込んだ安藤さんを見ると、驚いて駆け寄り、安藤さんに水を飲ませてくださったり、お粥を勧めてくださったりしたそうです。そればかりか、親子は新しい服を惜しげもなく安藤さんに着せて、「元気が出たらすぐ逃げろ。私たちは誰にも言わない。お前は中国語が上手だから大丈夫だ」と言って見送ってくださったそうです。
 安藤さんは、「私は、通州事件で中国人に嫌な思いをさせられたが、私の命を救ってくれたのも彼らだった。脱出記ではそのことを言ったはずだったが、記者たちは、中国人の悪い部分しか聞かなかった。また、私はジャーナリストの端くれでありながら、通州事件の真実を正確に伝える力がなかった」と、辛そうに話してくださいました。安藤さんが私を記者だと思って怒ったのは、そのような記者に対する不信感があったためでした」。

被害者遺族の苦しみと対立

 Kさんが、通州事件の記憶を語るようになったのは、今からほんの数年前からであった。Kさんは言う。

 「子どもが生まれてからの私は、教師の仕事と育児にかかりっきりで、とても昔のことを振り返る余裕はありませんでした。
 今から三年ほど前、あの戦争の時代をやっとの思いで生き残ったお年寄りたちが集まって、自分たちの戦争体験を書き残してからあの世に行くことにしようという話になりました。もちろん、私も仲間に入れていただきますとお願いして、話したり書いたりしはじめました。
 ところが、いざ通州事件について話し出すと、まだ30代の若さで死ななければならなかった父や母は、どんな思いで命を落としていったのかとか、どんな思いで私に遺書を書き残したのだろうとか、親として生きてきた私の思いと重なり、通州事件について話そうと思っても、足が震えだしてことばが出てこないのです。
 私は両親を失った後、ふたりの死を受け止めて生きてきました。どのようにもがいても受け入れるしかない現実でした。そうやって生きてきたつもりなのに、通州事件の話になると、両脚がまるで泣いているみたいにガタガタ震えてしまうのです。これが今いわれているPTSD(心的外傷後ストレス障害)でしょうか」。

 いま、Kさんが憤っていることのひとつに、通州事件を見直そうと活発化する保守系団体の動きである。

 「いま、日本の一部の保守派のなかで、通州事件が南京虐殺を招いたと言う人がいます。では、通州事件を招いたものはいったい何だったというのでしょう。中国の後進性や残虐性を言う人がいます。では、日本軍が中国で行った行為はいったい何だったのでしょう。何より命がけで私の妹を救ってくださった可鳳岐さんや、安藤さんを助けてくださった水車小屋の親子は中国人ではなかったと言うのでしょうか。なぜ可鳳岐さんのような人々が中国にたくさんいたという事実を掘り起こして、今の日本の人たちに広く知らせないのでしょう。なぜ、今の中国や北朝鮮に対して、憎しみや恐怖ばかりを煽り立てるのでしょう。

Kさん一家。左下の次妹は、可鳳岐によって救出された(『讀賣新聞』1937年8月4日朝刊)。

 通州事件が起きたとき、私の妹はまだ幼く、両親が目の前で殺されたことや、可鳳岐さんに助けられたことをまったく憶えていません。もしかしたら、あまりにも衝撃的なできごとだったので、記憶に鍵をかけて奥に閉じ込めてしまったのかも知れません。
 その妹が、最近、保守派の人たちの意見を信じてしまい、私が「もっと中立的に通州事件を見なければ出口(結論)はないんじゃないの?」と電話で妹に言うと、妹は、「姉ちゃんは、いったい何を考えているの? 姉ちゃんは、彼らの本を読んだことはあるの? 読んだうえでそんなことを言ってるの?」と言ってガチャンと電話を切ってしまいました。その後、私と妹との会話は途切れたままです。でも、私には妹の気持ちが痛いほどわかります。妹にとっても通州事件は立っていられないほど辛かったのです」。

 Kさんは、インタビューの最後を次のことばで締めくくった。

 「私が戦争体験を書いた後、次男が悪性の肉腫にかかっていることを知らされました。結局、次男は末期癌で、それから五ヶ月足らずで亡くなりました。この体験で、私はいま中東で起きている戦争で、愛する者を失った母親が爆弾を抱えて自爆する、ある種の狂気の気持ちがようやくわかりました。その狂気を引き起こした原因は絶望であることも理解しました。愛情のエネルギーが大きいほど、絶望の気持ちも大きいのです。
 私たちはもう二度と戦争をしてはいけません。人類は誰しも大きな愛情を持っています。その愛情を絶対に絶望や憎しみなんかに変えて、再び戦争への道を突き進まないでください。広中さんのご著書に貫かれている戦争反対の思いに心から共感いたします」。

筆者のインタビューを受けるKさん

 通州事件が起きて80年がたったが、Kさんの心には事件による深い傷が残り、今もなお苦しみ続けている。そればかりでなく、通州事件の見方の違いで、同じ苦しみを分かち合ったKさんと妹は仲違いをしてしまった。

 通州事件の被害者遺族を今でも苦しめている原因は何なのか。それは、私たち戦後世代が、通州事件について真正面に向き合って考えず、当事者である日本人として事件を歴史的に総括してこなかったためである。その結果、いま保守系団体が自分たちの都合よく通州事件を解釈し、中国に対するヘイトスピーチの道具にしてしまっているのではないか。

 これ以上、被害者遺族を苦しませないためにも、また、真偽不明の言説を流布させないためにも、80年の節目を機に、私たちは、通州事件の歴史的意義について、真剣に問い直していく必要があろう。憎しみが憎しみを生む戦争を二度と起こさないためにも。

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ISBN:978-4-06-138607-5

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広中一成

広中一成

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一九七八年、愛知県生まれ。二〇一二年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。現在は愛知大学非常勤講師。専門は近現代日中関係史、日中戦争史、中国傀儡政権史。大学院時代より一〇年以上にわたり、通州事件に関する史料収集、現地調査、論考の発表を行ってきた。本書はその成果を一般向けにまとめたものである。ほかの著作に、『ニセチャイナ 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社、二〇一三年)、『日中和平工作の記録―今井武夫と汪兆銘・蔣介石』(彩流社、二〇一三年)、『語り継ぐ戦争―中国・シベリア・南方・本土「東三河8人の証言」』(えにし書房、二〇一四年)などがある。

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