2011年度は勝率第1位(8割5分 40勝7敗)、今年は羽生善治棋聖に対し自身初のタイトル挑戦を果たすなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍しているプロ将棋棋士・中村太地。「大の中村太地ファン」と公言する憲法学者・木村草太先生と共に天才若手棋士の素顔に迫ります!
取材 木村草太・柿内芳文・岡村邦寛 構成 岡村邦寛 撮影 山崎伸康
本日はよろしくお願いします。今回は将棋ファン以外の人にも興味を持って読んでもらえるように、基本的なことから伺わせていただければと思います。あと大の中村棋士ファンである憲法学者の木村草太先生(インタビュー記事はこちら)にもお話に加わっていただきます(笑)。
木村 この度は中村棋士とお話できて本当に嬉しいです。よろしくお願いします!
中村 僕も先生の著作『憲法の急所』をとてもおもしろく読ませていただきました。こちらこそよろしくお願いします!
さっそくですが将棋を始めたのはいつ頃からですか?
中村 4歳のときです。当時は北海道に住んでいたので、冬は降雪のため外で遊べなかったんです。それで家の中で遊べるゲームを父が教えてくれました。将棋以外にもチェスやオセロ、ダイヤモンドゲームなどいろいろなゲームを教わりましたが、なぜか将棋にはまって……そのうち父と休日に将棋を指すのが楽しみになりました。ただその頃はあくまで“楽しむ”という感じで、あまり真剣には取り組んでいなかったんです。その後、正月に従兄が家にやって来て将棋を指す機会があったんです。その時まで将棋をやったことがなかった従兄相手に、僕は負けてしまったんです。本当に悔しくて……そこから自分の負けず嫌いな性格に火が着いて、将棋を本格的にやり始めました。
木村 いや、4歳って幼稚園児ですよね。普通は「砂場でお城」とかで、将棋のルールを覚えているだけでも凄いと思うんですけど……。大会に参加し始めたのはいつ頃からですか?
中村 小学校1年生ぐらいからです。その頃は宮城に引っ越していまして、カルチャースクールの将棋教室に通っていました。そこの先生に大会に出てみたらって勧められて、出場するようになりました。それまで将棋を指す相手は自分より年上の大人ばかりだったんですけど、大会に参加すると同じ世代の子供と将棋を指せたり、友達になれたりしてとても楽しかったですね。
木村 ちなみに当時の棋力はどのぐらいでした?
中村 小1のときはアマチュア初段ですね。僕は将棋を始めてから初段くらいまでは早めになれたんですけど、その後はけっこう子供にしては遅いペースで、1年ごとに一段ずつ上がっていく、という感じでした。
木村 それはちょっと意外です。初段になれちゃう子供ってそれからどんどん強くなっていくイメージがあるので。
中村 そうなんですよね。僕は何故かそうではなくて(笑)。もっとプロになるのを目指して必死に取り組んでいたら強くなっていたかもしれないんですけど、その時はまだ土日の楽しみみたいな感じでやっていたので、ちょっと上達が遅れてしまいましたね。
プロを意識し始めたのはいつ頃ですか?
中村 僕が小3ぐらいの頃に羽生(善治)さんが七冠王の偉業を成し遂げてそれが大ニュースになったんです。将棋をしている身として子供ながらに「羽生さんすごいな、かっこいいな」という感じで、将来ああいう風になれたらな、となんとなく思い始めました。
プロになるのを目標としてから、小学校での生活は変わりましたか? 幼いころからプロ棋士を目指すとなると英才教育というか、放課後は友達とは遊ばず家に帰って将棋の研究、みたいなイメージがあるのですが……。
中村 いやー、それがそんなことは全然なくて放課後はみんなでサッカーをしたり、授業中にトランプやって怒られたりと、いたって普通の子供でした(笑)。確かに結構スパルタな将棋教育を受けてプロ棋士になった人も実際多いんですけど、僕の両親は全くそういう考えは持っていなくて、むしろ学校の友達とは仲良く遊びなさい、という感じでした。そんな生活をしながら「奨励会」に入ったのが小6のときですね。奨励会は日本将棋連盟のプロ棋士養成機関です、関東と関西に1つずつあります。一部の例外を除いてプロ棋士になるためには必ずここで研鑽を積むことになります。
木村 確か奨励会に入るためにはまず師匠を決めなきゃいけないんですよね? 中村棋士の師匠は米長邦雄永世棋聖ですけど、どういったきっかけで米長先生の門下に?
中村 特に知り合いだったとかそういうことではなく、両親が師匠のファンで、いきなり「弟子にしてください」という手紙を出したんです。そしたら「一度面接に来なさい」とお返事がありまして、面接を経て入門しました。普通は通っている道場の師範の先生に弟子入りすることが多いんです。両親がファンだったから弟子入りするというのは珍しいパターンだと思います(笑)。
木村 奨励会の入会試験というのはどういうものなんですか?
中村 一次試験と二次試験があります。一次試験は受験者同士で対局します。6局指して4勝2敗以上ですと二次試験に進むことができます。二次試験は奨励会の会員と対局して3局やってそのうち1局でも勝てれば合格です。合格率がだいたい1/5くらいですね。
入会してからプロになるまではどういう過程を経るのでしょうか?
中村 奨励会員のクラスは6級から三段まであります。四段=プロとなります。そして四段になれるのは26歳までという年齢制限があります。6級で入会して実力を高めてプロになるまでかなりの苦労と時間がかかるので、大体12〜13歳ぐらいに入会する人が多いです。そして三段になるとそれまでとはガラリと変わって、三段会員同士で対局する「三段リーグ」に参加することになります。半年に1回のペースで開催されて約30名の三段のうち上位2名、つまり1年に4人だけがプロになることができます。厳しいサバイバルレースですね。
学業をしながらそういうサバイバルレースにも勝ち抜かなければならないわけですが、負ける時もあるわけですよね。そういったときはどうしてましたか?
中村 いやー、将棋に負けることほど辛いことはないんですよね……。
木村 そうですよね。
中村 今でも負けると本当に辛いです。辛いけど結局将棋が好きなので続けています。「ああ、こんな手があるんだ」という発見とかもあったりして楽しいですし、負けても「次はこの相手に絶対勝つ!」と発憤材料に出来ます。自分は負けず嫌いなところがあるので、それが将棋に活かせているのだと思います。
自分で感情をコントロールする術を、将棋を通じて身につけていったということでしょうか?
中村 そうですね。将棋に運はないので、負けたら全部自分の責任なんです。そこが辛いところでもあり、面白いところでもあります。昔は負けたら何日も引きずっていたんですけど、あるとき「タイガーウッズはパットを外すと、その時はめちゃくちゃ悔しがるけど、次の瞬間にはその悔しさを忘れることができる」という話を聞いたんです。「反省はするけど後悔はしない」という感じですよね。それは他のトップアスリートや棋士も持っている能力だと思うんですけど、自分もそういうのを見習おうと心掛けましたね。
三段リーグは実際に経験してみていかがでしたか?
中村 厳しくて、熱くて、ドラマがありますね。約30人の三段会員で18局の成績を競い合うリーグなので、対戦相手は総当たりではなく、誰と当たるかは抽選で決まります。先程も話しましたがプロになるチャンスは半年に1回、しかも2名という人数制限付です。さらに奨励会には26歳までにプロになれなければ退会、というルールがあるので会員には年齢的な焦りも出てきます。
木村 25歳で三段リーグに在籍している会員がいて、自分がその人と対局する可能性もあるわけですね。
中村 はい。それまでは同じ研究会で切磋琢磨して将棋を指していた仲だけど三段リーグで対局することもあります。それこそ自分の手でその人に引導を渡すこともありえるわけです。
リーグ戦と26歳までの年齢制限……シビアなシステムですね。
中村 確かにシビアですけど、実は優しい制度でもあると思っています。30歳までプロを目指していて結局なれなかったら、その人はその先どうしたらいいかわからなくなってしまう可能性もあります。26歳までだと違う分野に転向する幅がまだ確保されていると思うんです。実際プロになれなくて大学に入りなおして、別の分野で活躍されてる方もいらっしゃいます。勝負の世界で揉まれて身に付けた強靭な精神力が、その後の仕事に役立っている方も多いのでそういう意味では良い制度かな、と思う事もあります。
木村 そういうサバイバルレースを勝ち抜いて中村棋士がプロになったのは確か高校2年生のときでしたよね。一将棋ファンの私からすると奨励会にいる人というのは神様みたいな感じなんですけど、高校の友人とかはどのくらい将棋のことを知っていましたか?
中村 知っている同級生はほとんどいなかったですね。奨励会も有段者になると記録係というものがあって、学校を休まなきゃいけなかったりするんですけど「何で休むの?」とか聞かれましたね(笑)。仲の良い友人たちは休んだ日には「大変だったね」と声をかけてくれました。詳しくはよくわからないけど応援してくれている、という感じですね。学校では一切将棋の話はしなかったですし。将棋の友達は将棋の友達、学校の友達は学校の友達というスタンスでしたので。ただ高校になると単位を取らなければならないので大変でした。対局日と期末試験の日程が重なると将棋を優先しなきゃならないんですけど、公欠扱いしてくれるわけではないので……。優しい先生だと後日再テスト受けさせてくれて、何割かを成績に組み込んでくれました。
木村 学校の先生で将棋を指している人はいなかったんですか?
中村 いましたいました(笑)。本当に将棋好きな先生とは、今でもたまにお手紙のやりとりをしています。先生のお子さんが将棋をしていて、僕がたまたま教えたこともありますので本当にすごく応援してくださいますね。
木村 そこらへんは漫画『3月のライオン』の世界ですね。
一同 笑
その後高校を無事卒業して早稲田大学の政治経済学部に進学されるわけですが、高2の時点でプロになっていたのであれば、進学せずにプロ一本でやっていくという選択肢もあったと思うのですが?
中村 そうですね。実際高校を途中で辞めて将棋一本で行く、という棋士の方もいます。最近では大学に進学する棋士も増えてきましたけど全体から見れば少数派ですね。僕の場合は大学でいろいろな友達をつくっていろいろな世界の人と触れ合えたらという思いが進学した一番の理由です。将棋界というのはすごく狭くて濃い世界なので、それ以外の様々な世界を体験するために大学に行く、という選択は間違っていなかったと思っています。大学でしか学べないことも勉強できましたし、たくさんの人と出会う事も出来ました。
木村 早稲田実業から政治経済学部を選ばれたのは?
中村 もともと高校の授業で政治を学ぶ機会があって、おもしろいと思ったからです。法学にも興味があったんですけど……木村先生のいる前で恐縮なのですが風の噂で「法学部は出席が厳しい」とか「政経は少しくらいなら欠席して大丈夫」と聞いたもので……。
(笑)。でも大事ですよね、その判断は。勝ち進むほど対局する機会が増えて、欠席せざるを得なくなるわけですから。
中村 そこはジレンマですね。
近頃の大学生に話を聞いてみると「大学生活中に何をしたらいいのかわからない」とか「大学はやりたいことを見つける場所」という意見を持つ学生が多いんですけど、中村さんの場合は逆にもうやること決まっているわけですよね。アプローチが他の学生と異なるわけですがそこらへんはどうでしたか?
中村 みんながいろいろ違う世界に行こうとしている姿を見て刺激を受けました。サークルを楽しんでいたり、資格の勉強とか始める人とかいたりして。ただ将棋のプロの世界のことをよくわかっていない友達がほとんどだったので、3年生になると「おまえ就活どうすんの?」とかよく聞かれましたね。もう就職してるよ! という感じでした(笑)。
一同 笑
(後編へ続く)
※中村太地×木村草太の対談はNHK EテレのWebサイト「ジレンマ+」でも掲載されております。
是非合わせてご覧くださいませ。
■定跡を超えてゴキゲンに勝つ! 中村太地×木村草太(棋界×憲法学界)【前編】頂点(てっぺん)は、どこか
http://dilemmaplus.nhk-book.co.jp/talk/1507
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