百万都市・江戸の人々は、「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」といったしぐさを身につけることにより、平和で豊かな生活を送っていた。しかし、幕末に薩長新政府軍によって江戸市民は虐殺され、800とも8000とも言われる「江戸しぐさ」は断絶の危機に瀕した……。
このような来歴を持つ「江戸しぐさ」は、現在では文部科学省作成の道徳教材にまで取り入れられるようになった。しかし、伝承譚の怪しさからも分かるように、「江戸しぐさ」は、全く歴史的根拠のないものなのである。
実際には、1980年代に芝三光という反骨の知識人によって「発明」されたものであり、越川禮子・桐山勝という二人の優秀な伝道者を得た偶然によって、「江戸しぐさ」は急激に拡大していく……。
この連載は、上記の事実を明らかにした「江戸しぐさ」の批判的検証本『江戸しぐさの正体』の続編であり、刊行後も継続されている検証作業を、可能な限りリアルタイムに近い形でお伝えせんとするものである。
「江戸しぐさ」に関する江戸時代の文献は一切現存していない、これは芝三光から「江戸しぐさ」を伝授されたという越川禮子氏自身が繰り返し述べているところである。
しかし、芝が主宰した「江戸の良さを見なおす会」は、1980年代までは「江戸しぐさ」は文献や故老の聞き書きなどから掘り起こされたものだと主張していた(たとえば『読売新聞』1983年2月23日付朝刊の「編集手帳」)。つまり、その時点では「江戸しぐさ」の出典として何らかの文献も想定されていたわけである。
しかし、芝は結局、出典となる文献を偽作するという方向には向かわなかった。その理由を憶測するに、芝が偽書作成のスキルを欠いていたということなのだろう。
『東日流外三郡誌』偽作者の和田喜八郎は青年時代の郷土史家の手伝いを通じて、自らの作品を古文書らしく見せるコツを会得していた。また、骨董商を通じて用紙となる古書や由来の傍証とするための小道具となる品を入手するつてを持っていた。芝はそれらを得るための機会を持てなかったのだろう。
それはさておき、その80年代における設定の名残と思われる用語に「江戸食事仕様」がある。
「非常食、加工食の教えも残っている。『江戸食事仕様』はグルメの話ではなく、実際は危急時に備える食事のことだ。一種の非常食のことで、生で食べられる物は生で食べ、少し煮て食べる物は少し煮て、よく煮なければならない物は、みんなで一緒に煮て食べるように、エネルギーの節約も教えていた」(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』149頁)
「(江戸の町衆は)健康維持のために食事にはことに気をつかった。『江戸食事仕様』というと、江戸時代のグルメのような気がするが、考え方、内容はまったく違う。「仕様」とは、その日の健康を保持して、生き生きさせる元気のもとになることを教えたものだ。たとえば、ここに一本、鯖や鰹があったとしよう。高たんぱくで脂肪のない赤身で消化のよい部位はお年寄りへ、脂ののったトロは血気盛りの若衆へというように、年代と体調で無駄なく食べる食べ分け術がきちんと確立していた」(越川禮子、同、187頁)
『知恵袋』187頁からの引用後半における「トロ」の用法のおかしさはすでに『江戸しぐさの正体』で指摘したところである。
この2例の引用を見ても共通なのは食事関係だがグルメの話ではない、ということだけで一方は非常食のレシピ、もう一方は健康法で統一がとれていない。また、『江戸食事仕様』という書名は『国書総目録』にも国立国会図書館のアーカイブにもみることはできない。越川氏の語り口を見てもそれがまとまった書物の名であるとは言明されていない。
生前の芝も『江戸食事仕様』なるものの存在に言及している。それは『東京新聞』1985年5月2日付朝刊投書欄に「自由業 芝三光 62」という肩書で掲載された「『江戸しぐさ』効用あれこれ」という文章である。その一節には次のようにある。
「「江戸食事仕様」を守れば、私どもの体験が物語るように、花粉症やストレスなどで苦悩する方も激減するであろう」
この書きぶりからすると、1980年代半ば時点での『江戸食事仕様』なるものはどうやら食養生、一種の健康法として想定されていたらしい。あるいは芝にはこれを「江戸しぐさ」に関する文献として成文化する構想があったのかも知れない。
しかし、結局、芝はその構想を発展させることができず、名称のみが実態不明の用語として越川氏に口伝で伝授されたということなのだろう。その結果、越川氏によって健康法とレシピ(しかも、江戸時代の実態にそぐわない)という形で、「江戸食事仕様」は整えられていく。
なお、考古学者・樋口清之が著した『梅干と日本刀』(1974)は江戸ブームの先駆となったベストセラーだが、その中ではさまざまな非常食・保存食を用意していた前近代の日本人の知恵が称賛されている。
たとえば戦国時代の武田信玄は保存食として塩分の強い「信玄味噌」を考案した、日本の集落に毒草の彼岸花が多くみられるのは飢饉の際に根を毒抜きして食べるために植えられたものだ、という具合である。
『江戸食事仕様』に非常食レシピとしての側面が与えられたのは樋口の著書の影響かも知れない。
なお、「江戸ソップ」や「一に眠り、二に眠り、三に赤ナス、四にめざし」など越川氏が語る「江戸しぐさ」にしばしば見られる食養生(健康法)への施行も「江戸食事仕様」の発想の延長線上にあるものとみてよいだろう。
なお、拙著『江戸しぐさの正体』では、芝は実際には1928年生まれだが、1989年以降に1922~23年生まれを主張するようになったと推測した。
先に紹介した1985年の投書の年齢表示から見るに、芝はこの頃にはすでに22~23年生まれを称していたようである。
実は芝の経歴に関する韜晦は、今は失われた(越川禮子氏らの著書に登場しない)「江戸しぐさ」の一つと関係するようなのだが、その問題については次回に譲りたい。
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歴史研究家。1961年生まれ、広島市出身。龍谷大学卒。八幡書店勤務、昭和薬科大学助手を経て帰郷、執筆活動に入る。元市民の古代研究会代表。と学会会員。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)メンバー。日本でも数少ない偽史・偽書の専門家であり、古代史に関しても造詣が深い。近年は旺盛な執筆活動を行っており、20冊を超える著書がある。主著に『幻想の超古代史』(批評社)、『トンデモ偽史の世界』(楽工社)、『もののけの正体』(新潮新書)、『オカルト「超」入門』(星海社新書)など。本連載は、刊行後たちまち各種書評に取り上げられ、大きな問題提起となった『江戸しぐさの正体教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の続編である。
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