この道12年のアジア専門ITライター・山谷剛史が、思い出とともにアジアの変化を語る本連載。
第2回は、「昆明に居を構えたものの、中国だけでは食えない……」というところからのバンコク行き!
消費者目線での取材のため、ゴーゴーバーにまで突撃する山谷氏の命運やいかに──。
前回の記事で、2002年から中国雲南省昆明を拠点に、IT事情を中心とするライター業を続けているという話をした。
今でこそ、中国の存在感は大きい。しかし、2002年当時──いや、2005年くらいになっても、中国は今と比べて全然目立たない国だった。
そんなわけで、私は昆明に居を構えた2002年から、しばしばタイの首都・バンコクに飛ぶ生活をしていた。やはり、「中国一本で仕事を続けるのは難しい」という実感がかなり強かったのだ。
今では、中国は日本にとって最大の貿易相手国だし、差し迫った脅威だと考える人も多い。当時の日本人の多くは、そんなにまじめに中国のことを考えていなかったように思う。
ともあれ、今回の舞台はタイである。
バンコクは、地図で見れば昆明から結構近い。おまけに、当時の昆明空港は福岡空港並に市街地に立地していた。そんなわけで、昆明は城中村の我が家から、5時間もあれば到着してしまう。なお、今の昆明空港は空港が霧立ち込めやすい郊外に移転してしまって、遠いわ飛ばないわで市民は大ブーイング。困ったものだ。
さて、バンコクは今も昔も東南アジアのハブとして、多くの旅行者がやってくる都市だ。かなりの数の駐在員も滞在している。これは当時から変わらない。
とはいえ、滞在者にとってのIT事情は幾分違っていた。
今でこそバンコクに滞在するなら、馴染みのあるセブンイレブンやファミリーマートで旅行者用SIMカードが購入でき、スマートフォンや携帯電話に挿すだけで利用できる(日本のはSIMロックなるものが掛かっているのでできない製品が多い)。
また、無線LANも充実していて、観光客向けカフェで休憩すれば、そのときに店の無線LANが利用できる。
だが2002年当時は、世界中のバックパッカーが集うカオサンロードですらも、カフェにノートPCを運んでネットを利用している人は少なかった。
SIMカードを利用したデータ通信のサービスはあるのはあったが、ケーブル類のモノを揃えるにもサービスを享受するにも今よりハードルが高い上に、速度は4Gでも3Gでもなく2Gだから大変に遅かった。
回線速度にいらいらしながら、原稿や写真を日本に送ったのも今は昔である。
12年前、タイを訪れるバックパッカーの国籍は、日本が一大勢力だった。それに次ぐのがアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ各国、そしてイスラエルだった。やがて韓国人バックパッカーが目立つようになり、さらに中国ほか新興国が目立つようになる。今となっては、日本人の姿はかなり少なくなった。
その中で2002年当時、VAIO note 505シリーズにはじまる薄型軽量の“銀パソ”を持ち運んでいるのは、一部の日本人旅行者くらいだった。
SIMカード自体は売っていたけど、携帯電話でインターネットなんていう状況ではなかったし、バンコク市内でも観光客がいるところから外れると、ブロードバンドに繋ぐことすら難しかった。
ほとんどのバックパッカーが、カオサンロードとその周辺に無数にあるインターネットカフェで、hotmailを利用してメールを送受信していた。
2002年、大盛況のネットカフェ
私の場合はどうだったか。バンコクのネット環境が貧弱であったとしても、日本からの仕事は容赦がなかった。
ADSLが普及し大量のデータが個人でも投げられる日本において、「外国に出張中で街歩きしているから」なんて言い訳は通らない。これは今も同じ、いや、さらに度合いは強くなっているかもしれない。
そんなわけで、日本の社会人として、1日数回はネットにアクセスしメールをチェックしなければならない。タイにいようがどこにいようが、いきなり「中国で事件発生。このことを書いてくれ」という仕事が飛び込んでくる。
そういう時、メールをチェックすべく、星のあるそこそこのホテルに備わる「ビジネスセンター」を利用することが頻繁にあった。
ビジネスセンターとは、PC端末を利用したり、ホテルのLANを借りたり、プリンターが利用できる施設だ。海外旅行好きの方には知っている人もいるだろうが、実際に利用したことのある人は稀だろう。
私は、けっこうなヘビーユーザーだったかもしれない。しかし、安上がりの取材が持ち味(予算がないとも言う)なので、ビジネスセンターを備えているようなホテルには泊まら(れ)ない。
通りすがりの外国人としてビジネスセンターを訪れ、「ホテルの宿泊客ではありませんが、ノートパソコンを持ってきているので、それでネットを利用したいのですがよろしいですか?」とお願いし、床を這うLANケーブルを引き抜いて高速のネットに繋いでいたわけだ。
はっきり言って、ビジネスセンターには客が来ない。だからスタッフ(たいていが女性だ)は暇を持て余していて、四方山話ができる。
普段の生活のこと、地元民的な旬のスポット、マイブーム、ネットで何をやっているのか、などを聞いた。落ち着いた環境でネットを利用しつつ、あれこれ聞けるので安いものだ。ホテルのスタッフとしてか、微笑みの国のタイ人の気質か、英語を使っていろいろ答えてくれる。
記事のネタ集めもできて、私としては一石二鳥の穴場だった。
ビジネスセンターのスタッフとの会話も、もちろん取材として役に立つ。
しかし、外国人も滞在するような4つ星ホテルのビジネスセンター勤務とあれば、そこそこの教育水準だし、所得もそこそこだろう。
つまり、タイ人のなかでもハイな人である。バンコク出身のそういった人とだけ話しても偏っているわけで、例えば出稼ぎにやってくる人々とも話してみたい、と思った。
そこでゴーゴーバーという夜のお店の登場だ。
男性がのめりこみがちなこのお店について、女性読者のためにも(詳細になり過ぎない範囲で)説明しよう。ご存知の方は読まなくてよい。
2006年、バンコクのソイカウボーイ。ゴーゴーバーが軒を連ねる
2006年、バンコクはナナプラザのゴーゴーバー店内
まず、華美な照明に彩られた店内の、中央などにステージがある。
ステージでは、露出の多い衣裳に身を包んだ女性たちがポールダンスを踊っている。ほとんどが地方出身のうら若き女性たちである。
客は、その周囲の椅子やソファに座って、コーラやビールを飲みながら、女性たちが踊っているのを眺める。
そして、気になる女性がいれば飲み物をおごり、気に入れば外でデート(やほか色々)をするシステムである。
人によっては、女性自身が自らが住む小さな家に連れていくこともある。
ざっとこのようなシステムになっている。
夜の遊び場での写真撮影は外国人といえど危険極まりなく、また大音量で音楽が流れ話がまともにできない。
つまり、店内では取材にならないのである。
そこで、女性と外でデートできるシステムを利用して、彼女達の家に連れて行ってもらっていろいろ話を聞いた。断じて言うが、話を聞いただけである。
彼女達のほとんどは、日本でいうならワンルームの、狭い家に住んでいた。
幸い、バンコクは外国人が非常に多く訪れるため、夜の仕事で働くタイ人たちも英語が少しは話せる。
しかし、外国人と触れ合う仕事をしているとはいえ、彼女らはお金がない。だから、それほど遊べるスポットも知らないし、家にはパソコンもなかった。
普段使っているデジタルガジェットといえば携帯電話(フィーチャーフォン)くらい。しかし、彼女たちが携帯で何をしているのか、というのもまた、私にとっては貴重な情報だった。
彼女らは、少しの見栄を張るべく背を伸ばして、サムスンやシーメンスの携帯電話を買っていた。もう少し高いノキアは憧れの製品だったけれど、サムスンは妥協するのにちょうどよかったようだ。彼女らは携帯電話で音楽を聞いたり、地元で撮った友達や親族の粗い写真を見ていた。
ゴーゴーバーから彼女たちの家までは一緒にタクシーで移動するが、取材がおわり彼女の家を出た後は、地元民に愛されるバスで移動する。
彼女らが住んでいたのは、東京で例えるなら葛飾や板橋のような庶民的な場所だ。外国人の観光客はまず行かない。そこから市内中心部へのバス移動もまた、個人的に心がときめく時間であり、発見の連続でもあった。
滞在しているうちに、タイの学生たちとも話をしてみたいと思った。
そこでアプローチをかけたのが、「日本文化センター」というところだった。
日本文化センターといっても、私たちになじみ深い、電話番号が「2222」のあれではない。
タイ国内にあるそれは、国際交流基金による施設である。
日本語の本が集まる図書館があり、日本に関心を持つタイ人がそこにはいる。お昼前、あるいは3時ごろに館内のタイ人に声をかける。
昼時やおやつタイムを選んだのは、地元のソウルフードで胃袋を満たしつつ、いろいろ話を聞かせてもらうことができるからだ。
学生たちと話したところ、オタクでもない限りはやはりライトユーザーで、タイ国内における最先端のPC利用方法を教えてもらったり、ということはめったにない。
それでも日本人ビジネスマンにとって「そもそも、地場の一般庶民はパソコンや携帯、スマートフォンで何をしているの?」という疑問は常にある。
そして、実はそれに答えるレポートがない、というのもまた常なので、普通の人の使い方をレポートするだけでも感謝される。
このように、バンコク市内であちこちに突撃取材をして、情報を集め、記事を書いた。
親日とか言われている今行けば、様々な情報収集が前よりもすんなりできるかもしれない。
もちろんITライターだから、電脳街も毎度のように行き変化を見る。
街の中心「サヤーム(サイアム)」の北側にあるタイ随一の電脳ビル「パンティッププラザ」は、タイのその時々の最新IT事情が感じられる市場だ。
昔はパーツショップや自作PCショップが多数並び、客もたくさん来ていて賑やかだった。
新品に関しては、PCパーツは世界共通だ。だから、日本も中国もタイもそう変わりない。
一方で、中古PCが充実しているのがパンティッププラザや、地方のIT市場の特徴だった。
様々な本体、様々なパーツに紛れて、日本からの中古PCが多く流れていることは当時のタイならではの光景だった。
そして、日本のウェブサイトで毎週更新される「秋葉原PCお買い得情報」とも連動していた。記事が更新されてしばらく経つと、山積みになってることもしばしばだった。
日本から流れてきた中古PCの中でも特に多く見かけたのが、返却された企業向けリースPCだ。いくつかのショップでは、同じデスクトップPCと日本語キーボードが山と積まれていた。そうした商習慣は消えつつあるが、世界でニーズがなくなったわけなく、今でもフィリピンに行けば同様の光景を見かける。
また当時は、高価なソニーや東芝のミニノートPCを、日本から買い付けて転売するショップも点在した。
2002年、活気あるときの電脳街
バンコクは既に述べたように外国人の多い街である。
必然的にパンティッププラザを冷やかしにくる外国人も多くなるし、また仏教国だから僧侶も買い物にやってくる。
タクシン政権になってからの政策で、若干海賊版の肩身は狭くなったが、それでも国籍職業関係なく、多くの人が海賊版ショップに集まる。
私もそこに足を運ぶと、すぐに日本人だとわかり、日本の海賊版やアダルトビデオを勧められる。
そういった際には英語で話しかけられることが多い。
一般的には「タイ人は英語が話せない」と言われているが、パンティッププラザは例外で、店員は販売程度の英語は喋れるのである。
中国人は中古を買いたがらないが、先ほどPCパーツについて述べたように、タイ人は中古にそれほど抵抗がない。
そこで、2002年当時に私が行った、貧乏ITライターの職業を利用したささやかなテクニックをご紹介しよう。
まず、日本に帰った際に、型落ちのデジカメを安価に購入する。タイでの取材に、そのデジカメを使う。現地で写真を撮り、撮影データだけしっかり転送した上でパンティッププラザの中古屋店員に売る……というわけだ。
当時、タイではデジカメがそれほど普及していなかったからこそできた技である。
デジカメを売るついでに、中古屋のおっちゃんとIT談義に花を咲かせることもあった。
電脳街華やかなりし頃、の思い出である。
時は過ぎ、タイにも「PCからスマホへ」という大きな流れが押し寄せている。
その流れの中、電脳街の客は年々減り、さみしくなっている。
昔はPC販売もいい仕事だったのだろう、どの店を見てもかわいいタイ人女性が店番をしていたが、今やPC販売を続ける店員は、マニアックな男だけになった。
販売するものもハイスペックなパソコンなど、秋葉原のショップ同様にマニアックになっていく。
2013年、閑古鳥の鳴く電脳街
現在のバンコクでは、多くの人が電車内でスマートフォンをいじり、携帯電話を扱うマーブンクロンセンターではスマートフォンを買いにくる人でごった返す。
また、スマートフォンショップに混じって、(海賊版)ダウンロード代行店が軒を連ねる。
ダウンロード代行店はiMacが目印。ディスプレイには多数の定番のアプリのアイコンが置かれている。スマートフォンを買った後に、「これとこれを入れて」「定番のアプリを入れて」と頼めば、あっという間にすぐに使えて遊べるスマートフォンに早変わり。
そこにセットアップのための知識は必要ないわけだ。
かつては、ビジネスセンターの店員とゴーゴーバーの女性、そして学生たちそれぞれのIT環境は異なっていた。
しかし、PCからスマートフォンへの変化は、均質的に起こっているように見える。
ゴーゴーバーの女性たちのネット生活も様変わりした。私の取材と現地日本人の複数の“潜入取材”によれば、売れっ子の女性はiPhone、場末の女性はニセiPhoneを所有しているとのことである。
2013年、屋台の店員もスマートフォンをいじる
次回予告
次回の舞台はインド。
山谷氏を乗せたセダンが疾走するのはインド北部。
運転手は、完全にドラッグをキメている!!
同乗するネパール人家族と山谷氏の運命やいかに──。
更新は、8月5日を予定しています。
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