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アジアIT闇鍋紀行

第1回:貧乏ITライター、中国のスラムに住む(昆明・城中村)

2014年07月01日 更新
第1回:貧乏ITライター、中国のスラムに住む(昆明・城中村)

この道12年のアジア専門ITライター、山谷剛史。そのキャリアの出発点は、中国の片田舎である雲南省昆明。最初に住んだスラムの思い出から、中国の変化が見えてくる──。IT事情から我々の知らないアジア諸国の姿が見えてくる、新連載第一回!

私はなぜ、スラムに住んだのか

私は、アジア専門のITライターだ。
「ASCII」「Impress Watch」「ITMedia」など有名なIT系サイトで書いているほか、経済系メディアやトレンド系メディアに書いている。本も何冊か出した。
 名前を出してライター業を続けていると、単発で別のメディアからコメントを依頼されたり、講演やテレビ出演をお願いされたりすることがある。私も中国をはじめとするアジア諸国のIT事情に詳しくなり、そういう話題がニュースになった時にたまに呼ばれることがある。

 ライター業をはじめたのが2002年のことだから、今年で12年目になる。つまり「アジア専門のITライター」という風に、かなりターゲットを狭めて書いていても、12年間生き続けられたわけだ。
 こういう言い方をするのもおかしいのだが、ITライターないしはITジャーナリスト、そうした人々は見ていて華がある。欧米を飛び回り、世界のITリーダーと対話し、現地のIT製品展示会や発表会に参加しては、己の語学力や積み重ねた知見で発表を解釈する。今週は欧州で展示会、来月は米国でメーカーの発表会なんて具合に飛び回っている人もいて、私などから見ると別世界の出来事のようである。しかし、どうもそうやって業界は動いているらしい。
 かたや私はといえば、ITライターにも関わらず、華もなければ業界のルールもよくわかっていない。12年間ずっと、アジア諸国を中心にバックパッカーのような風体と予算で這いずり回っている。いわゆるITライターとは、どうやら違う人種のようである。


 そんな私の最初の拠点は、中国の昆明だった。北京ではなく、上海でもない。中国西南端に位置する雲南省、その省都が昆明だ。
 雲南省は北はチベット、南はベトナムやラオス、ミャンマーと接しており、高低差が激しい。標高3500m級のところもあれば、100mを切る場所もある。多くの少数民族がいることで知られ、地域によっては、南国のバナナ林で踊りそうな裸踊りの文化や、体中へのペインティングの文化が残る。

 わざわざそんな昆明に来た理由は以下のようなものだ。
 当時の中国の大都市は、沿岸部で例外的に発展していた上海でもない限り、大抵は『スト2』の春麗ステージのような雰囲気だった。現在のような中国経済の発展はまだ果たされておらず、地域ごとの変化も乏しかった。
 だから、中国ネタだけで仕事をしていくのは厳しいという予感があった。それでも、タイやベトナムなどの話題を入れることで、なんとか書き続けられるのではないかという魂胆で、それらの国に近い昆明を目指したのだった。
 また、北京や上海なら物書きの同業者がいるだろうから、北京・上海は避けようという打算もあった。
 結果、2002年から12年、アジア一辺倒でやって来れたのだから、昆明を選んだのは間違いではなかったのかもしれない。

 けれど、当時の経済状況はキツかった。私の仕事は限られていて、日本で生活していたら収支はマイナスになるばかりだ。これでは食っていけない。
 しかし、中国、なかでも雲南はとりわけ物価が安かった。今では日本のバックパッカー(個人旅行者)は雲南省からほぼ消えたが、当時の雲南省は沈没(旅行者用語で長期滞在)者が続々と出ることで有名で──つまりは滞在費が安くて、おまけにのんびりした空気が流れていた。
 生活費を安く押さえつつ、ネタが入ってきて、他に誰もいない場所に住む──。つまりは、そういうことだった。

 そして私は、「城中村(チェンジョンツゥン)」と呼ばれる、スラムのような場所に狭い部屋を借りた。2002年9月のことである。



城中村の日常

 城中村は、はっきりいって汚い街であった。
 路上で歯磨きとしたり髪を洗ったりする人はいるし、痰はところ構わず吐くし、子連れのおばちゃんは子供を抱えて路上で便をさせるし、食堂からは残飯の液体を道に流すし、公衆トイレや公衆シャワーはそこらじゅうにあるしで、常に正体不明の液体が水たまりを作っているような場所だ。
 この水たまりにうっかり足を突っ込んでしまうと、精神に重大なダメージを追う。

 こんな具合だから、人によっては衛生状態がよくなくて我慢できない人もいるだろう。
 いや、大多数の日本人には我慢できないかもしれない。しかし、好んでこういった場所に居を構える人間もいる。
 昆明から国境を挟んで向かいにある、ベトナムのハノイ。ここに住んでいる知人の日本人も、青空市場近くのごみごみした場所に居を構え、人々をウォッチしていた。
 そして、幸いなことに私もこういった場所が嫌いではなかった。むしろ、肌に合ったと言ってもいいかも知れない。
 住めば都とはよく言ったもので、外の喧騒は活気と言い換えることもできる。コーラを飲みたくなればちょっと外に出て行って飲んで、お腹がすけば50円でチャーハンを食べる。ついでに、いろんな店を冷やかすこともできる。
 決して奇麗ではないが、人の営みが、体温を感じるほど近くにある場所──それが城中村だった。

 

写真1:2002年、昔の雰囲気が残る市2002年、昔の雰囲気が残る市


 そうそう、説明が遅れたが、「城中村」は固有名詞ではない。
 人口が集中し、市街地がどんどん拡大していった結果、都市は周辺の村々を飲み込んでいく。しかし、飲み込まれた村は、しばらく区画整理されることなく村のままであり続けるので、都市(城)の中の村、すなわち「城中村」となるのだ。
 つまり、都市の中にある、村の面影を残した区画……ということになる。
 城中村は、周囲のマンションとは異なり、家は手作りの4,5階建てのレンガ造りの家が多く、また衛生面やイメージ面からも、家賃はうんと安くなる。当時の記憶では、月数千円だったと思う。もう少しまともなところを借りても1万円あれば済んだはずだ。
 レンガ造りの建物の2階にある、3DKの部屋。そこが、ITライターとしての私の最初の拠点だった。スラムとは言え、数千円で3DKが借りられたのは、やはり当時の昆明の物価が安かった証拠である。
 今の昆明では、個人用の1DKクラスで2、3万円、ファミリー向けの3LDKなら4,5万円、ないしそれ以上するだろう。
 私の住んだ家は、城中村の中ではまだましな方だったので、日本の出版社などからの業務連絡の郵便が辛うじて届いた(つまり、ちゃんとした住所がある)。この部屋で原稿を書き、月に数回、業務連絡の郵便に日本から持ってきたシャチハタを押して、中国のスラムから東京砂漠へと業務連絡を送り返していた。



スラム、そして学生街

 低所得者が多いの場所が危険なのは、どこの国でも同じことだと言われる。
 ただ、城中村は数あれど、私の住んだそこは大学に近い城中村だった。だからスラムなようでいて、1980年代生まれの「80後(パーリンホウ)」の大学生が生活する学生街でもあった。
 細い道が入り組んだ迷路のような城中村には、食堂と商店が並び、ところどころにクリーニング屋や、シャワー屋や、VCD屋があった。
 VCDというのは、中国においてはブルーレイビデオの2つ前、DVDの1つ前の規格で、画質はあまりよくなかった。
 VCD屋で売っているものは100%海賊版で、しかもそれをレンタルしていたり、店内の黒カーテンの奥で上映していた。つまり、当時は正規版を買うという選択肢がなかったのである。
 海賊版は円盤1枚5元ほどで売られていたが、もっと金をセーブしたいときには2元でレンタルもできたし、独特の土臭い香り漂う中、店内で開かれる上映会で映画を見ることもできた。

 学生の多い街だったので、どこの家からかしょっちゅう「ピピピピ」という電子音が鳴り響いてた。この音は中国製チャットソフト「OICQ」のメッセージ着信音だ。
 このOICQは騰訊(tencent)という会社がリリースしたもので、後に10億アカウントを超す「QQ」や、中国版Twitterである微博(Weibo)や微信(WeChat)をリリースし、中国を代表する企業のひとつとなった。
 騰訊のような小さなネットベンチャー企業がOICQをリリースした背景には、当時世界中で大人気の「ICQ」というチャットソフトの存在があった。当時中国からはOICQだけでなく、「アルファベット1文字+ICQ」のチャットソフトがそれはそれはたくさん生み出された。
 この時から12年経ったけれど、世界で人気のあるサービスを真似て、中国の会社がそっくりのサービスをリリースするという根っこの部分は今も変わらない。

写真2:2003年の城中村。左にあるのは道教の廟だ。2003年の城中村。左にあるのは道教の廟だ。



変わらないことと変わったこと

 今も変わらないといえば、チャットソフトOICQ(後のQQ)が知り合い作りに非常に重要であることもそうだ。
 知り合いの少なかった当時はよく、チャットソフトを介して知り合いを作って、週末に集まってお茶をしたり、ゲームで遊んだり、ハイキングをした。
 日本人は数週間前から週末の予定を入れることもあるが、中国人は週末に突然連絡して、いきなりイベントがスタートすることもよくある光景だ。とある日本の年間行事表を見せたら、「中国ではありえない」と言われたことがある。「中国人はビジネスがスピーディー」は「中国人は長期計画が苦手」と言い換えることも可能だろう。

 当時と変わったことについても述べておこう。
 知り合いの学生が、ICQと海賊版のゲームを楽しむためにパソコンを買ったことがあった。
 これは実は驚くべきことで、当時の中国では、日本円換算で月収1万円程度が普通だった。パソコンは、軽くその10倍はする。件の学生が買ったのは、パソコン屋が自作したと思しき無骨なタワー型パソコンだった。価格は日本円で10万円弱。しかし、それでも安いほうである。
 50円でチャーハンが食べられて、きっと月収1万円を稼ぐ人など殆どいないスラムの中で、80後の若者が10万円のパソコンでチャットを楽しむ……。あれは、中国の変化を予見させる光景だったのかもしれない。
 中国の半オフィシャルなネット統計を出すCNNICの発表した「第十次中国互聯网発展状况報告」によると、2002年6月末の段階でのインターネット利用者は5910万人。
 現在は6億人なので、この12年で10倍になったことになる。その変化の兆しは、城中村にもあったのだった。

 月収1万円の時期に10万円のパソコンを買うことに比べれば、今は2万円でパソコンが買えて、普通の人はそれ以上の給料をもらっている。スマートフォン本体に至っては、日本同様特定の月額プランを払えば無料だし、それが嫌でも5000円ほどあれば買えてしまう。
 日本人から見ても、ハイテク製品は価格面と性能面で日進月歩ではあるが、物価と給料が上昇する傾向にある新興国の人から見れば、ハイテク製品は年々ものすごいスピードで価格が下落していくことになる。
 いま現在の中国人がデジタル一眼レフカメラを所有し、AppleStoreに集まるのも金銭的にはなんらおかしくないことなのだ。


 私は、この城中村の部屋に、5年間住んだ。
 城中村を拠点に近隣国にも出かけ、沢山の記事を書いた。
 あの安い部屋、そして、汚くも活気に溢れた城中村の景色を、今でも時折思い出すことがある。
 しかし、あの城中村はいまはもうない。村だった地域まるごと、区画整理により跡形もなく綺麗に整地された上で、現在は巨大な高層マンション群とショッピングセンターが建設中である。
 もちろんそこに住もうものなら、ものすごく高い家賃を払わなければならない。
 中国の変化とともに、かつて城中村であったそこは、私とは縁遠い場所になってしまったのだった。

 

写真3:更地になる城中村.jpg更地になる城中村



次回予告

次回、タイの首都・バンコクで、IT事情調査のためにゴーゴーバーに……?
そして、10年の歳月は電脳街にどんな変化をもたらしたのか。
7月15日(火)の更新予定です。

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ライターの紹介

山谷剛史

山谷剛史

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東京電機大学卒。SEを経て中国やアジアを専門とするITライターとなる。この道12年。バックパッカー並の予算で、現地の消費者に近い目線での取材を行う。そこから生み出される、独自の切り口の記事に定評がある。著書に『新しい中国人 ネットで団結する若者たち』(ソフトバンク新書)など。「ITMedia」「ASCII」「東洋経済オンライン」「ダイヤモンドオンライン」 「JBPress」などの系Webメデイアで連載を多数持つ。

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