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イベントレポート

「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」 広中一成 × 辻田真佐憲 トークイベント

2018年09月12日 更新
「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」 広中一成 × 辻田真佐憲 トークイベント

今年7月末に刊行された、星海社新書『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』

刊行後に73回目の終戦記念日を迎えたこと、また「2020年の東京オリンピックはインパール作戦を彷彿とさせる」という議論もあり、本書は発売一ヶ月を待たずに重版となった。

このイベントレポートは、8月30日に青山ブックセンター本店にて開催されたトークイベント「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」を再構成したものである。

登壇者は本書の著者であり、近現代史を専門とする愛知県大学非常勤講師の広中一成氏、広中氏の盟友であり、同じく近現代研究者である辻田真佐憲氏。また、司会として広中氏の担当編集者である平林緑萌が司会をつとめ、昭和陸軍の「組織」、そして牟田口廉也の「愚将」イメージ形成について再検討を行なった。

牟田口を通して見つめるべきもの

平林:本日司会を務めさせていただきます、星海社の平林と申します。本日の主役である、広中さんの担当編集者をしています。登壇いただく辻田さんは、広中さんとはこれまで何度もイベントでご一緒されていますよね。

辻田:僕が広中さんとこうやってお話をするのは、もう4回目ですね。前回は日中戦争初期に起きた虐殺事件をテーマにした広中さんの著作『通州事件 日中戦争泥沼化への道』(星海社新書)刊行イベントの時だったかと思います。新刊の『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(以下、『牟田口廉也』)ですが、どうして牟田口をテーマとして選ばれたのでしょう。

広中:僕は日中戦争、およびその周辺の出来事を主な研究対象としています。そうするとまず、牟田口は盧溝橋事件で日中戦争の火蓋を切った人物として登場するんです。また、マレー作戦やインパール作戦など、日中戦争──もっと言えば満州事変から始まる一連の戦争の中で、何度も表舞台に姿を表すわけです。そこで、彼を追っていくことで近代の戦争史の流れを掘り下げることができるのでは、と前々から考えてはいたのですが、盧溝橋事件やインパール作戦をテーマにしたものはあっても、牟田口で一冊、となるとそもそも前例がない。そんななか、『通州事件』刊行後に平林さんと「次は何をやりましょうか?」というお話をしていた時に、「牟田口は評伝が一冊もないので、逆にいいテーマだと思います」と言っていただいて、すぐに企画も通してくれたんですよ。

平林:企画を通したのは2年くらい前ですよね。「牟田口でいきましょう」という話をしたのが、新宿のバーだったのをよく覚えています。

辻田:タイトルにある通り、牟田口といえば昭和19年にインパール作戦という酷い作戦を強行したことで有名な軍人です。多くの方が良いイメージを持っていない人物かと思うのですが、「いける」という編集者的な勘が働いたわけですか。

平林:究極的には「自分が読みたいから、他にも読みたい人が何千人かはいるだろう」という感じなのですが、企画を進めていく中で、通説的にまかり通っている逸話が怪しかったりと、いろいろ新たな知見が得られていくんですね。それで自信を深めたところはあります。サブタイトルでは「愚将」と括弧書きにしてあるわけですが、これは広中さんとご相談して、あえて留保する形にしています。

広中:牟田口って、特定の見地からは、「インド解放のきっかけを作った」というような肯定的な評価を下されたりもします。いっぽうで、「インパールは全部牟田口が悪い」という考え方もあります。ただ、いずれにしても、政治信条と無縁とは言えない好悪が、グラデーションを帯びつつ含まれていることが多いと感じます。でも、好き嫌いをただ述べても仕方がない。しかしながら、今までの牟田口批判にはそういうものしかなかった。僕たちが注目したのは「牟田口が愚将と呼ばれるようになってしまったのはなぜか」という点です。彼の歴史的な存在意義を探っていくことで、終わりのない議論に終止符を打ちたかった。

辻田:これまではアンチ牟田口的な言説しかしてはいけない、といった風潮がありましたからね。

広中:牟田口肯定派は、まるで変な人扱いでした。

平林:その先入観をきちんと据え置いて、まずは実証的に客観視してみようというのがこの企画の出発点でした。曖昧な証言やそれを元に書かれた文書ではなく、できるだけ一次資料として扱える素材をもとに彼を追っていくことで何が見えるのか? ということをまずはやってみようということで。今回は牟田口廉也という人物の本当の姿、盧溝橋事件や日中戦争の引き金を引くことになった理由、作戦失敗における責任の所在など、幅広く語っていただければ幸いです。

「真面目」で「極悪人」な「エリート」? 不確かなパーソナリティー

辻田:まず気になるのは、牟田口の人物像についてです。日本軍という組織の中で、彼はどういった立ち位置だったのでしょうか。広中さんは牟田口をどのように理解されていますか。

広中:牟田口の判断が軍の命運を左右するポイントになっていたのは確かですが、第一に彼が割り当てられてしまった役割について慮る必要はあると思っています。実は僕、牟田口に対してあまり悪いイメージを持っていないんですよね。真面目で、決めたことは突き通す。それが正しいかどうかは別として、何事も懸命に遂行する人間だなあと。上からの指示には従うのだけれど、自分の考えと異なる部分があればその限りではない、という。

辻田:広中さんが書かれている通り、牟田口は陸軍大学校を卒業して、参謀として軍官僚のキャリアを持つ人物だったわけですよね。そこでは上手く立ち回れていたのでしょうか。

広中:そうですね。集団の目的を優先して動いていたと思います。本当はこの本でもそこをもう少し掘り下げたかったのですが、ページ数が大変なことになりまして......(苦笑)。陸大を出ていますしエリート参謀ではあるのですが、「超エリート」というほどの人ではなかったと言えます。辻田さんの専門で言うと、現在の文科省でもそういう人、いますよね?

辻田:まぁ、官僚組織全体にそういう方はいるでしょう。牟田口もおそらく戦争がなければ、ある程度の時期で退役する予定だったのではないかと思うんです。

広中:その可能性はありますね。あと、やはり軍は組織ではりますが、それを構成しているのは所詮人間ですから、個々人の関係があり、派閥がある。そこからはじき出された人は本来いるべきところにいない場合がままあるんですよね。本来しかるべき場所にいればきちんと機能するはずの人間が、他者との関わりの中で不得意なポジションに立たされることがある。今回の牟田口問題に関しては、日本軍の持っていた組織的な欠陥を調べてゆくほうが、不確かな逸話に頼るよりも実証的であることは明らかだと考えました。

昭和陸軍という人災

辻田:牟田口は軍官僚としてはとしてはそこそこのエリートだったのだけれど、左遷されて現地指揮官になってしまったんですよね。

広中:そうです。二・二六事件の余波で、皇道派人脈に属する牟田口は、支那駐屯軍に左遷されてしまいます。これは、特に牟田口が事件に深く関与したというわけではなく、佐賀県出身だったために自然と皇道派人脈に属してしまったという、単なる不運です。そして、参謀が連隊長として支那駐屯軍に飛ばされて、配置された場所も前線、盧溝橋だったわけですから、とことん運が悪い。

平林:指揮経験者でもなく、中国人との接触の仕方もわからないような人間の判断が国の命運を左右してしまう。これはもう人事がおかしいのは確実ですね。

辻田:帝国陸軍の人事面でのおかしさが、日中戦争を引き起こしてしまったともいえるわけですね。では、牟田口が次に従軍した大きな作戦である、シンガポール攻略についてはどうでしょうか。

広中:当時、イギリスの東洋の拠点がシンガポールでした。牟田口は師団を任され、その麾下の部隊がマレー半島に突入したのですが、これは真珠湾攻撃よりも早いんです。なので、彼は太平洋戦争でも先陣を切った......と言えなくもないでしょう。

辻田:日中戦争のみならず......。

広中:牟田口としては、日中戦争を始めたのは俺だから終えるのも俺だという意識があったようです。マレー半島突入の際、牟田口本人は上陸ができませんでしたが、シンガポール攻略時には自ら陣頭に立って、敵の手榴弾で負傷しつつも攻略に成功しています。

平林:指揮経験がなかったからなのか、本人の性格なのかわかりませんが、牟田口は陣頭に立ちたがるタイプですよね。インパール作戦でも前線近くまで出て行っていますし。

広中:シンガポール陥落後、日本国内の新聞は牟田口を「常勝将軍」と呼んで賞賛しました。彼としては、もともといた軍中央に戻りたかったのかもしれませんが、指揮官としてそれなりに成功してしまったし、派閥人事自体も継続しているわけで、ついに中央には戻れませんでした。そして、彼の初めての挫折がインパール作戦となったんです。

辻田:しかし、その挫折を受け入れられなかった......ということでしょうか。しかし、軍の人事局って、どういったやり方で役職や配属先を決定するんですか? 普通に考えれば各人の適正は考慮されるかと思うのですが。

広中:当時は適正よりも派閥が重要視されていたようです。牟田口の生まれは佐賀県ですから、その時点で決まっていることがたくさんありました。

平林:シンガポール攻略で牟田口は大いに活躍を見せたわけですが、そういった場合にも特別な処置はなかったのでしょうか。あるいは、彼には陸軍を辞めるという選択肢もあったと思うんです。

広中:官僚組織にも人間臭いところが多分にあったのではと思います。いくら失敗しても降職しなかった人間もいるくらいですから。重要なのは、牟田口自身に軍人としての生き方の選択肢というのはあまりなかっただろう、ということです。

辻田:すると、牟田口個人が格別に悪かったわけではなく、周囲に翻弄されていたという見方もできますね。

河邊正三と牟田口

辻田:とはいえ牟田口には、数々の悪い点があったことも確かなように思います。

広中:やはり無謀な戦闘を強行してきたことが強く印象にありますよね。このことについても、本来ならば彼の上司や軍の人間がさらに判断を下すべき場面があるはずだったのではないかと。そのあたりが、牟田口をめぐる逸話で覆い隠されてしまっているのも問題です。

平林:前線の兵士たちの回想録にも、よく牟田口が出てきますが、常識的に考えて、兵卒が司令官と面識があるはずがない......このあたりはまた後で話すとして、牟田口だけ、そして彼をめぐる逸話だけを見ていても全体像が見えてこない、ということですね。

辻田:そうするとやはり、盧溝橋事件、そしてインパール作戦時に牟田口の上官であった河邊正三について考える必要が出てくるわけですね。『牟田口廉也』でも河邊にはかなり言及されていますが、彼はいつも牟田口に具体的な指示を出していないように思えました。

広中:そういった面はやはりあると思います。作戦が失敗して責任を取ることを恐れたのでしょう。ある種の逃げです。そして、指示も出さずに黙っているのに、問題が起きた後に「察して欲しかった」と言ってしまう......。

平林:牟田口という暴走しがちな司令塔に、最悪な相性の上司が付いてしまったと。しかも、盧溝橋事件だけでなくインパール作戦もこの組み合わせでした。なぜ人事部が同じ過ちを繰り返してしまったのかも、今後検討しなければいけない問題です。

辻田:河邊は同期の中では出世が遅かった軍人で、一般的には「反東條派」扱いをされていますよね? しかしながら資料を見てみると、東條と近いところにいるようにも思えるのですが。

広中:さすがに個人の一存だけで大規模な作戦は動きません。河邊は牟田口と東條の中継者として機能してしまったんですね。彼は富山出身なのですが、富山というのは陸軍内でこれといった派閥がないんですよ。なので、中継者として機能しうる条件を備えていたと言えます。インパール作戦の失敗後、河邊は一応責任を取って辞職していますが、特段損もしていません。しかも、終戦前に大将に昇進までしています。

辻田:今のお話を伺っていると、牟田口の暴走の原因のひとつに河邊の存在があるように思えますね。インパール作戦開始時、ビルマ方面軍のまとめ役が牟田口、その上に河邊がいたわけですが、二人とも中将で、かつ年齢も二つしか離れていないんですよね。階級的、年齢的な部分を含め、上下関係はきちんと構築できていたのでしょうか? 今回、河邊の日記も重要な資料のひとつとして上げられていますよね。

広中:河邊の日記の中では、牟田口は割と評価が高いんです。インパール作戦を開始した日の記述では、気配りのできる陽性な人物であることが書かれていたりします。差し向かいで食事をしたという記述もあります。

辻田:牟田口は、内々においては、うまく人間関係を構築できるタイプだったのかもしれませんね。指揮官としての牟田口の評価も難しいですが、どう考えればいいでしょう。

広中:これは、ほかの軍人とも比較してみないとはっきりとは言えないのですが、参謀畑から飛ばされてきて、盧溝橋でもシンガポールでもそれなりの働きをしていますから、「無能だ」「愚将だ」と言い切るのも現時点では難しいと思います。インパール作戦決行についても、過去の成功体験に固執していたのが遠因で、指揮官としての経験不足からくる失点は当然あるわけですが......その問題も、やはり陸軍人事に話が戻ってきてしまう。河邊と牟田口を二度組ませたことも含め、陸軍人事はもう少し網羅的に、戦史と付き合わせたりしないといけないですね。

平林:河邊で思い出したのですが、彼はものすごい悪筆なんですよ。とてもじゃないですが、普通には読めないレベルです。

辻田:当時はさまざまな文書が手書きだったので、きちんとした文字が書けることは最低限の事務能力だったはずですが......。

広中:平林さんに靖國神社の偕行文庫で、河邊日記の複写をしてもらったんですが、いわゆる「ミミズがのたくったような字」で......。過去の研究者も「これでは使えない」と思ったのか、わざわざ翻刻(活字化)されたものがあったのでことなきを得ました(笑)

辻田:近現代の人物で、「達筆すぎて読めない」ならまだしも、仮にも陸軍中将が「悪筆すぎて読めない」字を書いているのは問題ですね。河邊の出した報告書なんかは、上部組織でちゃんと判読できたんでしょうか(笑)

創作物の中の牟田口とイメージ形成

辻田:軍人の中でもそれぞれ長けている分野などはあるかと思うのですが、牟田口は陸軍において何を売り込んできたんでしょうか?

広中:学問の面で言うと、成績は可もなく不可もなくというところでした。本当に平々凡々で、問題を起こさなければまったく目立たずに軍人生活を終えるはずだった人物です。

辻田:牟田口と同程度の能力を持っていた軍人で、いわゆる「愚将」扱いされる人物についても、もっと実証研究があっていいですよね。たとえば、彼と並び称される人物に冨永恭次があげられます。まさに牟田口と同じく、中央の官僚から前線に行かされた軍人ですが、彼のことを詳しく書き綴ったものは少ない。

広中:軍人の評伝って、どうしても成功している方のものが多いんですよね。ノモンハン事件で奮戦し、インパール作戦でももっともインパールに迫った宮崎繁三郎や、あるいはその上官で牟田口の許可を得ず無断撤退した佐藤幸徳とかもそうです。彼らを持ち上げるのと、牟田口を下げるのって、パラレルな関係にあるように思えるのですが、それぞれのイメージ形成までの流れを、あらためて辿っていくべきです。

平林:こんなこともあろうかと、今日はいくつかネタになりそうな資料を持ってきました。たとえばこの本は、牟田口の「霊言」を収めたものですが、「インパール作戦を命じたのは天照大神である」というようなことが書いてある......。

―会場(笑)

平林:やはり牟田口を語る上で、メディアや書籍の存在は無視できませんね。

広中:高木俊朗氏の5部作もおもしろいですよ。最初に出た雄鶏社版『イムパール』(現在は『インパール』として文春文庫に収録)はルポルタージュと謳われてはいますが、従軍経験者たちの証言を集めただけのものに過ぎない。前半は出典もほとんど書かれていないですし、これはほぼ小説ですよね。我々が牟田口に対して持っているイメージの出元は大抵この作品からじゃないでしょうか?

平林:現在は高木氏のインパール5部作は「ノンフィクション小説」とか言われています。

辻田:「ノンフィクション小説」って、矛盾している気がしますね。

広中:牟田口は特徴的な人物なので、いろいろな創作物にも取りあげられていますよね。その数だけ牟田口像があると思うんです。資料が少ない中、こうした書籍はどうしても際立ってしまいます。牟田口に対する偏見がよく表れている。

辻田:戦記ものはいちジャンルとして今も昔も大量に出されていますが、当時の刊行物には資料にあたって書かれたものとは思えない作品が多く見受けられますね。インパール作戦が必要以上に書かれがちなのも頷けます。

広中:自分の仲間が戦死して、その責任は牟田口だった......となれば当然恨みの矛先はすべて本人に向くことになるでしょうね。

辻田:作戦中に料亭「清明荘」で芸者と遊興していた、というエピソードも有名です。

平林:無能な軍人、失敗した軍人のエピソードにはかならず芸者遊びに関する記述が盛り込まれていますね(笑)

辻田:『三国志演義』などでもそういう手法は使われていますよね。スクープや色恋沙汰はストーリー性が出るというか、インパクトがありますし。

広中:一次資料がたくさん残っていればいいけれど、そうでない場合はどうしても全体像がぼんやりしてしまうから、悪者に仕立て上げやすいという面もあります。

辻田:「清明荘」の場所とか詳細ってわかるんですか?

平林:今のところ確実な資料は見つけられていないですね。あと、他にも牟田口逸話には怪しいものがいくつもあります。

広中:たとえばですが、高木俊朗の『抗命』の中に、牟田口が第十五軍司令部に作らせた遥拝場の前で、撤退してきた幹部の前で長々と精神訓話を垂れて、栄養失調の幹部たちがバタバタと倒れた......という有名な逸話があります。

辻田:ああ、誰でも知っているようなやつですね。

広中:ところが、おなじ高木の『戦死』にはこれに極めて類似した逸話が、桜井徳太郎のものとして出てくるんですよ。こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない。証言者についてもぼかされている。

辻田:切腹の逸話はどうですか?

平林:参謀だった藤原岩市の証言ですね。腹を切ろうかと思うと言った牟田口に対して、古来より腹を切ると言って切ったものはいない、切腹するなら誰にも言わずにしろ......というような応答があったという。

広中:この証言も取り扱いが難しくて、藤原ってインパール作戦推進派だったんですよ。なので、このような会話があったとしても、ニュアンスまで正確かどうかはわからない。だいたい、この藤原証言のなかで、本人はインパール作戦の実施に積極的であったことを隠していますから。

平林:誰がいつ、どんな人に対して証言したのかも重要で、その点、高木は往々にして曖昧な書き方をしているんですよね。取材メモが立命館大学に保存されているので、それを見れば判明するものもあるのかもしれませんが、逆に話を盛っているのが証明されるかもしれません。

辻田:ジンギスカン作戦についてはどうお考えですか? 牟田口が「日本人は草食だから、その辺の山々は食料だらけだ」という趣旨のことを言ったとか。

広中:部下に野草を研究しろと命じたのは事実だそうですが、そこから広がったのかもしれません。

辻田:やはり、話が盛られていった可能性はかなり高そうですね。現時点で、牟田口に関する資料はどれくらい見つかっているのでしょうか。

広中:インパール作戦前後に関係するものは大量にあります。関係者の回想、手紙、特に河邊の日記は貴重でした。逆に、盧溝橋事件までの資料、つまりは中央官僚時代のものはなかなかなかった。

平林:牟田口の出生や幼少期に関わる資料は全然見つからないです。牟田口家に養子に出された理由もわからない。

広中:資料の偏りが激しい人物ですね。それから、牟田口や河邊から見える戦争と、前線の兵士から見える戦争はレイヤーが違って、同じ作戦に従事していても、見ている景色はまるで違うんです。なので、牟田口に直接会ったこともないであろう兵卒が、戦後時間が経ってから書いた回想録に出てくる牟田口の逸話というのはそのまま使うのは危険です。高木俊朗の影響を受けたり、先日ウェブで発表した原稿に書いたように、英印軍が名指しで牟田口を批判する伝単をまいたりもしているので、その辺りも影響があった可能性があります。物語的には非常に興味深かったりもするのですが、やはり、実証史学ではできるだけ回想録は使用すべきでないんです。

辻田:2008年に起こった「田母神論文」問題を思い出しますね。現代史家の秦郁彦氏と、新しい歴史教科書をつくる会の会長も務めた評論家の西尾幹二氏が「田母神論文」を巡って対談されたことがあったのですが、秦氏が実証的見地から厳しい批判を加えたのに対し、西尾氏は文学的に価値があるというような意見で、物語性に評価を与えていました。

広中:全く噛み合っていませんでしたよね。そもそも、あれが仮に論文だとして、その物語性、文学性を評価するというのは、実証史学とは縁のない、どこか別の次元での話ですよ。

辻田:とはいえ今思うのは、他者を動かす力の有無、という意味では物語の重要性は捨て置けないということ。どうしても現実が物語に負けてしまうように見える場面もある。この点は、実証史学を旨とされている広中さんに訊いてみたいところです。

広中:実証史学はおもしろくないですから、売れない(笑)。だから高木本が今でも力を持っていたりする。

辻田:「2020年東京オリンピック=インパール作戦」という言説も流行っていますね。もっとも、それを強く主張されている本間龍氏の新書『ブラックボランティア』で引かれているのは、高木氏の書籍なのですが......。

平林:最近、僕もTwitterで「新しい歴史の教科書をつくる会」にフォローされたり、『月刊Hanada』にいいね!されたり......。

―会場(笑)

辻田:おもしろければデタラメな物語でもいいのか、と心配になってしまいますが、彼らには彼らの理想があるんですよね。それこそ、ゲンロンカフェで行なった『通州事件』刊行イベントにいらっしゃった藤岡信勝氏だとかも......。

広中:ただ、藤岡先生はお金を払ってイベントへいらして、質疑応答の時に発言されたので、敵の将軍が単騎で突入とはいえ、立派な態度だったと思います。議論はまったく噛み合いませんでしたが......。

研究の第一歩であること・今後の展望

広中:さきほどの資料の話に戻るのですが、ISBN(国際標準図書番号)が整備される前の資料をあたろうとしても、できることは国会図書館に内蔵されている書籍を探すことくらいなんですよ。歴史研究者、研究費の多い国には資料庫があったりしますが、日本はそこに関してはまだまだだと思います。戦後すぐに出されたような本になかなか行き着けない。

平林:市場が急速に縮小しているとはいえ、日本の出版産業はそれなりに社会的に存在感があるので、何かしら作ることは考えないといけないかもしれません。それから、研究者同士で対話するだけではなく、社会に対して何らかのかたちでアウトプットをしていかないと現状すら維持できない。本が売れたら売れたで、叩かれたりすることもありますけど。

広中:一般向けの本を書くと「遊んでる」なんて言われたりしますよね(笑)。

辻田:今日は、戦後に膨れあがり続けた牟田口にまつわる逸話について、いくつか例を取り上げて比較や推論をしてきたわけですが、事実であることも、時に作り話である事例もあり、一概に信用すべきではないという点は間違いないようですね。広中さんは実際に研究をしてみて、どういった印象を持ちましたか。

広中:当時の陸軍という組織、そして組織の中にいる彼の姿を見つめようとした『牟田口廉也』は、牟田口個人を否定した内容ではなかったのですが、刊行後、インターネットではさまざまな反響がありました。肯定派、否定派、いずれも目に入るのは「自分の持っている牟田口像と違う!」という意見。

辻田:牟田口の作戦によって犠牲になった人々への配慮について言及される方もいらっしゃいましたね。

平林:反対に、インド解放について褒め称える文言がないと怒りを露わにする読者がいたり(笑)。

広中:でも、この本で意識していたのは、できるだけ牟田口の視点に立つという書き方です。個人的な意見を書き連ねたり、彼を否定するだけの書籍はたくさん出ているので、同じようなことを僕がやる必要はまったくないと思ったんです。ファクトベースで、歴史的な彼の立場をきちんと把握することが目的でした。本をつくるという作業はあたらしい知見を世に問うことなので、賛否両論でいいんです。戦後70年以上経って、我々の世代は戦友をインパールで失った経験を持っていません。だからこそ感情を排した実証研究ができるし、そうした意味ではようやく牟田口研究が始まったとも言えます。まだまだ足りない部分、掘り進めることのできる題材だと思うので、僕の本を読んで思うところがある、という方はどんどん叩き台にして研究を進めてほしい。

平林:この書籍は、実証的に牟田口廉也という軍人を包括して扱った最初の本です。読者の方々が盛り上がってくれれば、物語にも勝つことだってできるかもしれない。要するにこの本は「牟田口の実証研究における盧溝橋事件」なんです!

辻田:それだと最終的にインパールで負けますよ(笑) ここから三刷、四刷と部数を積んで、デタラメな物語に勝たないと。

広中:でも、本当に実証は売れないんですよ......。

辻田:いやいや、呉座勇一氏の『応仁の乱』は50万部近いベストセラーになりましたから、実証研究が売れないとは限りませんよ。ただ、私の本もいわゆる大ヒットになったものはないわけですが......。

平林:お二人には、やはり「GOZAポーズ」(呉座勇一氏得意の腕組みポーズのこと)をしていただいて......。

広中:それで売れるならやりますよ。

辻田:じゃあ、私もやろうかな......。

平林:結論としては、「デタラメな物語に勝つために、実証研究をもっと盛り上げて、売っていきましょう」ということですね。及ばずながら引き続きお手伝いさせていただく所存です。

広中:じゃあ、まずはこの霊言本もちゃんと読まないと......。

辻田:さすがにそれはいいんじゃないですか?

―会場(笑)

平林:では、お時間も来ましたのでこんなところで。ご来場の皆様、本日はどうもありがとうございました。

広中辻田:ありがとうございました!

―会場(拍手)

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