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ザ・ジセダイ教官 知は最高学府にある

『中国化する日本』で話題をさらった歴史学者・與那覇潤先生が、「大学からの日本史」について語ります!【前編】

2013年01月09日 更新
 『中国化する日本』で話題をさらった歴史学者・與那覇潤先生が、「大学からの日本史」について語ります!【前編】

昨年上梓した歴史(通史)書『中国化する日本』が絶賛をもって受け容れられた、若き歴史学者・與那覇潤。?大学受験で『日本史B』を選択し、必死に用語集を暗記したのが歴史を勉強した最後の記憶である星海社新書編集長・柿内が、「高校3年までの歴史と大学1年からの歴史は、何がどう違うのか?」「なぜ歴史を学ぶ必要があるのか?」「どうしてわざわざ通史を書いたのか?」について、ジセダイ教官に問う――。

取材・構成・撮影:柿内芳文

授業では質問をしないと「武器」がもらえない?

 

今日は名古屋まで押しかけてすいません! 名著『中国化する日本』(文藝春秋)を読んで、どうしても與那覇さんに聞きたいことがあったので、念願のリニアモーターカーに乗って、大学まで来てしまいました(※注:與那覇さんが准教授をつとめる愛知県立大学は、リニアモーターカー、通称リニモの「愛・地球博記念公園駅」が最寄り)。

 

與那覇 柿内さんはテツでいらしたんですね。動く原理がリニアなだけで、速さは特にないので、失望されてないといいのですが。しかし、そもそもリニモは鉄道に入るのでしょうか?

 

うーん、それはかなりテツ学的な命題ですね。この話をしだすと、取材が鉄道話だけで終わってしまいそうですが……。

 

與那覇 えっ、あ、ごめんなさい。鉄道の話はどうでもいいので、取材をお願いします(笑)

 

じゃあ、その件については、あとで手羽先でも食べながら、じっくりお話ししましょう(笑) では、さっそく取材に入りますね。ちょっとおうかがいしたいのですが、與那覇さんの授業では、生徒からの質問って出てきますか? じつはつい先日、ある有名私立大学の授業を受講したんですが、あまりに生徒から質問が出てこないので、教授がキレかけていまして……。「ここまでで質問のある人?」と問いかけても、まったく無反応なんですよ。ケータイとかいじってるし。

 

與那覇 それは、すごくよくわかります。じつは、僕の授業でもいちばん苦労するのが、いかにして「質問させるか」ですね。

 

やっぱりそうですか。星海社新書・軍事顧問の瀧本哲史さんも、最初は質問が出てこなくて苦労したって言っていました、たしか。

 

與那覇 瀧本さんでも苦労するとは、ちょっと安心しました(笑) でも、京都大学でもそうなんですね。

 

いや、むしろ京大だからこそ、質問が出ないみたいですね。

 

與那覇 ああ、バカだと思われたくないというプレッシャーが強い?

 

そうなんです! みんな頭が良いから、逆に「こんな質問をしたら、みんなからバカだと思われてしまうのでは?」と、牽制が働いてしまうんですね。

 

與那覇 ヘタに質問ができない……。僕の大学(東京大学)時代にも、確かにそういう人はいた気がします。もっとも、いわゆる難関大学だと「俺はこんなに知ってるぞ」ということを質問で披露するタイプも、クラスに何人かいますよね。良くも悪くも、勉学を通じた自己顕示欲が強いというか。逆に中堅校になると「減点法」の発想というか、別に周囲から抜きんでる必要はないけど、劣ってしまったら負けだ、というプレッシャーが一層強まるのかなとも感じます。

 

だから瀧本さんの授業では、質問をしない人には単位をあげない、という仕組みを採用しています。

 

與那覇 なるほど。僕も、100点中の20点は質問点にして、最後まで質問しない人は0点、という授業をやったことがあります。それでも結局、手を挙げない学生は挙げないんですよね。

 

瀧本さんの授業の場合は、手を挙げないと単位が取れないので、必然的に手を挙げざるをえないですね。與那覇さんも、そういうシビアな授業にしたらどうですか?

 

與那覇 なるほど、いっそ100点分ぜんぶ質問点にしちゃうとか(笑) でも、「軍事顧問」のような威厳がないと、結局強行できずに腰砕けになりそうなので、御社から『武器としての質問思考』が出るのを待つことになりそうな気も……。

 

さっき言った某有名私立大学、というか慶應大学の授業では、結局、中国人の留学生しか手を挙げませんでした。教授が「わからないところ、疑問点があるならぜんぶ答えるから、手を挙げるように」と注意してもですよ! まったく、たるんでます!! 自分の大学時代は完全に棚にあげますが(笑)

 

與那覇 ははは、ありがちですね(笑) 中国人留学生は「わざわざ日本に来たんだから学ぼう。学ばなくては」という意欲がすごいですから、貪欲に質問を投げかけてきますね。

 

 

 

NHK「ニッポンのジレンマ」はディベート番組にすべき?

 

與那覇さんの授業では、何かほかに、生徒の理解度を高めるための工夫はされていますか?

 

與那覇 瀧本さんのようなプロではないですが、僕も?ディベート?を一部の授業に取り入れています。新入生(1年生夏学期)向けの入門ゼミを受け持っているんですが、最初は、教科書を輪読して各自に発表させるという、通常のゼミ形式でやっていたんです。そうしたら、期末に提出させたレポートを読んで、衝撃を受けて……。

 

えっ、何があったんですか?

 

與那覇 戸田山和久さんの『論文の教室』(NHKブックス)を使って「論文とは何か」を学んできたのに、レポートではなく「感想文」でしかないものが、大量に提出されたんですね。同書は、冒頭部に主人公が書いた「ダメレポート」の例が載っていて、本の全体を読んでいくと最後に「ここまで良くなったレポート」が書けるようになるという形式です。で、ダメレポートの箇所で「これはないよねー」というとみんな笑うんだけど、いざ書かせてみたらそれより遥かに酷いものが続々出てきたので、愕然としました。

 

あのう、それって具体的には、どんなものが……?

 

與那覇 形式面でいうと、ネットからのコピペ(盗作)という論外なものから、たぶんブログの文体の影響だと思うんですけど、一行ごとにぜんぶ改行してあってポエムみたいになっているものまで、最初から論文の体をなしていない。教科書にそういうのはダメだ、と書いてあるはずなのに、単に「読むだけ」のスタイルだと頭に入っていかないのだと思います。レポート課題は、発表形式で輪読した杉田敦さんの『デモクラシーの論じ方』(ちくま新書)を踏まえて、現在の民主主義にはいかなるアップデートが必要(もしくは不要)か、を論じさせるというものでしたが、実はこの本自体が、ディベート的な対話形式で書かれているんですよ。プラトンの対話篇以来の伝統をひいて、今日のデモクラシーには抜本的改革が必要だという立場と、いやむしろそれはリスクが大きいから現行制度でいくべきだという立場の二人が、討論する内容です。これを読み込めば、高校までの思考法から脱却してもらえるはずだと思っていたのですが……。

 

なるほど、教科書自体がディベート形式で書かれていたんですね。しかし、それを読むだけで自分ではディベートをしなかったら、期待する成果が出なかった?

 

與那覇 そうなんですよ(苦笑) 杉田さんの本の誠実なところは、両方の意見を対等に扱って「結論」を押しつけていないところにあるのに、それがまったく伝わっていなかった。どうしてかというと、たぶん高校を出たばかりの大学新入生たちにとっては、たぶん正解としての結論が「ある」ことが前提だからだと思うんです。だから、「民主主義が正しいのは当然であり、それを変えるなんてありえないと思います!(キリッ)」「この人はいまのしくみになんかごちゃごちゃイチャモンをつけてるけど、なんの意味があるのかさっぱりわかりません」みたいなレポートになってしまう。この本を読んでもそんな感想しか出てこないのかと、そのときは本当にがっかりしました。

 

「どちらが正しい」といえないからこそディベート形式で書かれているのに、勝手に「片方が正解」と思い込んで読んでいたわけですね。

 

與那覇 そのとおりだと思います。それで次の年からは、同じ杉田さんの本を教材としても、同書を単に読み込むのではなく、強制的に賛成派と反対派にグループを分けて、学生たち自身に本物のディベートをやらせるようにしたんです。両方の意見があるんだということを文字どおり「体感」させないと、「どちらかが正しいとは安易にいえない」という感覚は伝わらないんだなと思って。

 

今度こそ、学生は変わりましたか?

 

與那覇 これが、自分でも驚くくらい劇的に変わりましたね。いちばん変わったのは、?脊髄反射?をする学生が減ったことです。一見すると「当たり前じゃん?」と思われるようなテーマでも、一度立ち止まって、「違う意見、反対意見もあるのでは?」「俺の目には絶対こっちが正しいと映ってるけど、まったく逆に見えている人もいるのでは?」と、相対的・俯瞰的に考えられるようになりましたね。

 

なるほど、やっぱりディベートは強力な?武器?になるんですね! 

 

與那覇 ええ、まさに武器だと思います。実は自分はもともと、どちらかというとディベートには否定的だったんですね。最初から命題の形にテーマを絞り込んで、かつ「賛成vs反対」という両極端に立場を固定してしまうのは、フリーディスカッションと比べて議論や想像力の幅を狭めてしまうんじゃ、という懸念が強かった。欧米流のなんでも二項対立に持ち込む割り切り思考は、ある意味でそれのやり過ぎから来ている気もする。しかしやってみて分かったのは、日本の場合はむしろ、一回はきちんと「互いに異なる立場がある」と明示した方がいいということです。

 

日本人はただ単に議論をしても、揚げ足取りに終止したり、空気を読んで本音を言えなかったりしますからね。

 

與那覇 そうです。だからたとえば気の弱い人は、最初から最後まで議論に参加できずに「なんとなく曖昧に」全体の雰囲気に合意するだけだったり。それも結局は、きっと世の中には単一の「正解」があって、それと違うことを言ったら「バカだと思われる」という心配からくるわけでしょう。だから、無理やりにでも賛成・反対の2サイドに割ってみて、どちらも最後まで自分の立場を貫かせることで、「ああ、きちんと論理さえ通っていれば、複数の意見があっていいんだ」と実感させることには意味がある。

 

與那覇さんが2度出演されているNHKの討論番組『ニッポンのジレンマ』も、一回ディベート形式でやってみたらいいのではないでしょうか? 結局、視聴者からすると、どの意見も個々の論客の論壇での立ち位置に基づく「ポジショントーク」にしか見えないところがあるんですよ。そういった個人の主観的意見やスタンスからいったん離れて、たとえば「政治」や「教育」、「雇用問題」に対して、純粋に「論理的・客観的な主張」同士を戦わせてみたら、どんな?論点?が浮かび上がってくるのか―—それを、テレビの演出手法を最大限に発揮して、若い世代に伝えていってほしいんです。僕としては。

 

與那覇 それは試みとして面白いかもしれませんね。NHKなら、視聴率至上主義でなくてよいわけだから、できそうですし。

 

はっきり言って、討論中に出てくる登壇者の意見や主張なんて、僕にはどうでもいいんですよ。そうではなく、その主張にいたる思考の筋道こそ見たいし、それを見せることが、間接的に「ニッポンのジレンマ」を解消することにつながる気がします。視聴者の思考レベルを一段上げるわけですから。

 

與那覇 Eテレがやっているのだから、「論壇誌の映像版」よりも「教育実践の番組」になってほしい、と。でも、ディベートをやるとなると勝敗まで決まるわけだから、出演者としては大きな覚悟(そして膨大な準備)が必要ですね……。

 

與那覇さん、僕たちにその?覚悟?を見せてくださいよ!(笑)

 

與那覇 うーん、自分の授業と違って全国中継された上に映像も残るとなると……。さすがに即OK! とはいえないな、と思ったところで、授業でディベートに尻込みする一部の学生さんの気持ちが、やっとわかりました(苦笑)

 

 

 

「歴史」は暗記ではなく、クリエイティブな作業

 

さて、著書の話に入っていきますが、僕が『中国化する日本』を読んで思ったのは、歴史というのは、客観的な事実(史実)を暗記するだけのものでは決してなく、客観的な事実の積み重ねをもとにクリエイティブに解釈して、あるひとつの視点、歴史学的に言うと?史観?を生み出すものなんだなって。

 

與那覇 ありがとうございます。まさに、そういうことを伝えたかったんです。

 

なんだか、中等教育で習う歴史っていったい何だったんだろうって、愕然としました。

 

與那覇 多くの方がそうおっしゃいます(笑) 地理歴史の免許を取るうえで必修になっている授業でも、いまは『中国化する日本』を教科書にして教えていますが、先日ある学生が「教師になりたいから授業を受けたけど、こんなにも自分の考えが間違っていたのかと知って、将来どう教えたらいいのかと悩むようになった」と言っていました。

 

「間違っていた」というより、「今まで考えたこともなかった」んでしょうね。

 

與那覇 それはあるかもしれません。歴史というものを固定的というか、「過去なんだから、もう変化しないもの」と考えていて、暗記すべき史実を教えるのが歴史教育だ、という発想はまだまだ強いですから。でも実際の歴史には、唯一の正解なんてありません。もちろん「◯◯年に誰々が何をした」という事実は史料からわかるので、あったことをないと言うとか、ないものをあったと言うとかの「間違った歴史」はNG。しかし、そうして過去に存在した行動や出来事の意味をどう捉えるかを決めるのは、今日に生きる我々の仕事として常に残されている。そういう意味では、さきほど話したディベートと似ているかもしれません。事実でない根拠を持ち出してはダメだけど、ひとつだけの正解があるのではなく、複数の解釈や主張を戦わせることで、その都度ごとにもっとも確からしい「最善解」を生み出していくクリエイティブな作業こそ、歴史学であり、歴史の面白さだと思います。

 

まさにそれはディベートですね。でも、そういう視点で歴史を教えてくれる先生には、残念ながら出会えませんでした。僕が通っていた中学・高校は超進学校で、授業内容も充実しているという世間的な評判でしたが、基本的に山川出版社の『日本史B』を暗記して、テストでは穴埋めするだけ。たまに論述問題があっても、自分でクリエイティブな解を考えるのではなく、教科書に載っている主張を「再現」するだけです。はっきり言って、つまらなかったですね。

 

與那覇 ははは。でも普通の教員養成のカリキュラムでは、そういう授業しか受けてこなかった学生さんが、そのままの状態で教師になってゆくのだから、よく考えると恐ろしいことです。もちろん、中学や高校では「史実を暗記する」こと?も?重要なんですよ。そもそもの知識が欠けていると、解釈のしようがありませんから。でも、それ?しか?していないことが、やっぱり問題だと思います。学習指導要領と大学受験という大きな制約がいちばんの原因ですが、教える側の問題意識の欠如にも、責任の一端はあるでしょうね。そういった制約のなかでも、やろうと思えばいろいろな教え方が可能なはずですから。

 

そうそう、そうなんですよ! 結局、ラクなほうを選んでいるうちに、暗記型でしか教えられなくなっちゃうんでしょうね。僕は高校時代、はっきり言って教師は怠慢な人種だと、ずっと思っていました。もちろん優秀で尊敬もできる先生もいますが、その数はけっして多くはない。

 

與那覇 少なくとも、「いま検定教科書を基に教えている歴史というのは、もう研究者の最前線とはズレてしまっているんだよ」とか、「あくまでも中等教育向けに簡略化するとこうなのであって、本当の歴史はもっと複雑でクリエイティブなものなんだ」という感覚を持ちながら教えるのと、「はい、教科書には正しい歴史が載っています。なので、そのまま教えます」というのとでは、ぜんぜん違ってくると思うんですよね。自分の場合は、中高の歴史の先生が前者のタイプで、「本当はこんなもんじゃないよ」とほのめかしてくれた。それが、研究者としても教育者としても、いまの自分のスタンスにつながっていると思います。自分の授業は、「最終解答」は絶対に教えない。教えるのはつねに「暫定解」で、ゴールではなくスタートラインにつれていくのが、教師の仕事と思っていますから。

 

 

 

「授業プレイ」に勤しむ、教師と生徒たち

 

なるほど、でも特に高校までだと、なかなかそういう先生に巡り合えない。しかも、いまの中等教育って、受け手のほうも、どちらかというと共犯関係じゃないですか。

 

與那覇 というと?

 

生徒が先生の授業に協力してあげているというか、お互いの利害が一致しているというか。

 

與那覇 そうですね。しばしば教室という空間では、両者のあいだで「お約束」ができあがっていますよね。そして、余計なことを考えずにそれを黙って守る子が、「優等生」と呼ばれる。

 

平たく言うと、「授業プレイ」だと思うんですよ。教師のほうは、教科書に載っていることだけを教える、というラクをしたい。とにかく学習指導要領の範囲をクリアしなきゃならない、というのっぴきならない事情もある。一方の生徒のほうは、本当は10代の若者なんだから、いろいろ聞きたいし知りたいこともあるけど、どうせ聞いても答えてくれないし、そもそも先生自身も知らないかもしれないから、そういった知的好奇心は封じ込めてあげるかわりに、受験だけは受からせろよ! みたいな(苦笑)

 

與那覇 「授業プレイ」は、言い得て妙かもしれませんね(笑) でも、知的好奇心にあふれた若者がそれを封じ込めなきゃいけないというのは、大きな不幸ですよ。そして自覚的にしろ無自覚にしろ、心の底で「どうせ聞いても無駄」と思っているのだとしたら、それは先生を含めた「大人」全体に対する不信感だろうと思います。世代間対立にしても、そういうフラストレーションが根本にあるんじゃないでしょうか。

 

僕は中3くらいで、大学に入るまではそのプレイに協力してあげようと、心に決めたんです。そのかわり、先生のことは「学問を教える人」としてはまったく信頼していませんでしたね。

 

與那覇 なかなか、マセた生徒だったんですね(笑) でも一方で、そういう感覚が持てるのは恵まれた子供だけかもしれない、とも思います。うちの大学(愛知県立大学)は公立大学ですが、そもそも愛知って、中高レベルだとあまり有名な私学がないんですね。だから、地元の公立中学、地元の公立高校、地元の公立大学という一直線ストレートな流れで来る子がけっこう多くて、それだと「敢えてプレイに乗ってあげる」という感覚は生まれないというか、むしろベタに「プレイを信じて」勉強してきちゃっているタイプも多いと思います。

 

なるほど。真面目なんですね。

 

與那覇 高校卒業まで真面目にやってきた子が大学で僕みたいな教師に出会うと、ものすごくショックを受けるか、逆に、単に不快に感じて授業に来なくなるか、どっちかみたいですね(笑)

 

他に、学生さんの特徴はありますか?

 

與那覇 そうですね、これはうちの大学に限らないと思いますが、「用語は知っているけど、意味は知りません」という学生さんが、歴史は暗記科目だという印象ともあいまって、やっぱり多いと思います。私の所属する学科は名前も「歴史文化学科」ですから、歴史が好きないし得意科目だったという学生が多いんですけど、それでもダメですね。以前、ウェストファリア条約の話をしてもみんなポカーンとした顔をしているので、「高校で習わなかった?」と聞いてみたら、「うーん、習った気がする……ええと、ああ、1648年だ!」って(笑)

 

すごい! 年号を覚えているんですね。

 

與那覇 逆にいうと、最初に思い出すのが数字の羅列というくらい、なんのイメージも伴わずに記憶されている。だから、じゃあ具体的にどんな条約だったかと聞くと「いや、それは知りません」「覚えてないです」となるんですね。僕だって、とっさには年号なんか出てこないのに、数字だけ覚えている。たぶんゴロかなんかで、記憶に定着しちゃったんでしょう(ウェストファリア条約のゴロ覚え→「疲労弱って終戦す」)。でも、「宗教戦争時代の終焉」とか、「主権国家体制のはじまり」といった世界史上の意味の方は、からっぽなんです。

 

いや、すばらしい教育成果じゃないですか! 僕はいま、心から感動しましたよ。日本の学校教育は、確実に成果を出していますね!! 彼は、その犠牲者ですよ。

 

與那覇 皮肉ですね……(苦笑)

 

でもまあ、正直、僕もそのレベルです。さきほどは「共犯関係」という言い方をしましたが、ずっと「なんか違うなあー」「ホントはもっと知りたいのに……」と感じながら、中学・高校の授業を受けていたのは事実です。受験というお約束があったので好奇心を封じ込めていたわけですが、逆に言うと、受験を言い訳にして、自分の好奇心を殺していたのかもしれませんね。

 

與那覇 なるほど。ちなみに柿内さんは大学入学後は、歴史を勉強したりはされたんでしょうか? つまり、高校で封印した好奇心は大学では「解禁」されるのか、そこが気になるのですが。

 

いや、歴史物の小説や漫画をごくたまに読むくらいで、大学以降はまったくです。大学で歴史専攻だったらまだしも、ふつうの人は高校を卒業したら、もう日本史や世界史に触れる機会はあまりないですよね。もともと興味がある人は、歴史ものの新書を読んだり、たまに専門書を読んだりもするかもしれませんが、僕みたいなふつうの人にとっては、基本的に高校と大学のあいだに「断絶」があると思います。でも、断絶があるけど、どこか頭の片隅では「やっぱり歴史を知らないとまずい」という気持ちはあって……。

 

與那覇 そうなんですよね。幸いなことに「歴史が大嫌い」という人はあまりいなくて、できれば知っておきたいけどよくわからない、という人が多数派だと思います。だから、たまに歴史の一般書がベストセラーになったりするんですよね。突然リバイバルしたマクニールの『世界史』(中公文庫)もそうだし、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(草思社)もそうです。「30分ですらすら読める日本史」的な本も、意外と細く長く売れるみたいですよね。ひょっとすると、私の本もその口かもしれませんが(笑)

 

ああ、『銃・病原菌・鉄』はおもしろいですよね。『世界史』は、積ん読になっちゃってますが(苦笑) とにかく、歴史を知らないと、いま起きた事件や現象に対して「点」でしか判断できないんですよ。つまり、さきほども話題に出た「脊髄反射」です。そういった判断が正しいときもあるかもしれませんが、でもやっぱりもっと大きな枠組みのなかで「今」というものを見て、自分なりに是非を判断したい。でも、それがなかなかできないのが、ジレンマですね。

 

 

 

未来に歴史軸を延ばして考える


與那覇 ところで柿内さんは、大学では何を専攻されたんですか?

 

僕は社会学です。ですので、ある程度、社会学的な枠組みでものごとを見ることはできるんですが、歴史学の視点はさっぱりです。社会学は「疑常識」的な視点なので、常識を常識として見れない、実にイヤな性格になってしまいました。今いちばんやりたい企画が「結婚式という名の暴力」ですからね(笑)

 

與那覇 「結婚式という名のもとに、実のところいったい何が行われているのか」というのは、確かに社会学的な視点ですよね。社会構築主義的といった方が正確かもしれませんが、「結婚式はいかにして結婚式として人々に認識されるのか」と考えてしまうタイプなんですね。

 

一方で、歴史学的に時系列を拡大して考える視点が身につくと、「短期で見るとグッドだが、長期ではバッド」みたいな判断も可能になりますよね? このあいだ読んだ漫画『チェーザレ』(雑誌「モーニング」連載中)のなかでも、中世ヨーロッパの「カノッサの屈辱」(※注:聖職叙任権をめぐって教皇と皇帝が争い、皇帝が教皇による破門の解除を願ってカノッサ城におもむいて許しを願ったことを言う。『チェーザレ』では、第7巻の題材に)に対して、「その時代においては皇帝の勝利。だが後世においては教皇の勝利」と、皇帝の行動(教皇に許しを願ったあとに力を盛り返し、結果として教皇を廃位に追い込んだ)は短期的には成果を挙げたが、「教皇は皇帝を跪かせた存在」として長期的には教皇の権威を拡大させることにつながったので失敗だった、といった話が出てきました。こういった見方が、自分にはあまりないなあ、弱いなあ、って思いましたね。

 

與那覇 そうですね、歴史を学んでいると長期の因果関係を俯瞰的に考えるようになるので、対象を観察する際の視野に、独特の広さが出てくると思います。社会学のように論理的な「そもそも論」で現状を相対化するのとは別に、過去から未来への時間軸、通時的変遷をたどることで現在を相対化する。

 

そうなんですよ。僕は、エコポイント特需が過ぎ去ったあとに「テレビが売れなくなった!」とかメーカーが嘆いているのを見て、正直「バカなの?」と思いましたが、自分自身も同じような思考をしてしまっているときがあります。特に、政治・政策なんかをどう考えればいいか、といったときに、「増税むかつく!」「年金なんて、もうやめちゃえばいいのに……」と脊髄反射をしてしまいがちです。

 

與那覇 政治のジャンルで言うと、「シングルイシュー・ポリティクスは良くない」と小泉政権の頃からずっと言われてきましたけど、たとえば原発問題が持ち上がって明らかになったのは、小泉さんみたいな「悪しきポピュリスト政治家」がシングルイシュー・ポリティクスを煽っている、というより、国民自身がそれを望んでいる、ということなんだなって思うんですよね。

 

うーんと、どういうことですか?

 

與那覇 シングルイシューというのは、言葉の通り「論点がひとつだけ」なんですね。あれだけの大事故が起きたら、それは「原発は廃止したほうがいい」と思うのは、至極ふつうの感覚でしょう。そのふつうの感覚を利用して、「原発は続けるのか、無くすのか。それだけが問題だ。お前はどっちだ!?」と二者択一を迫るのが、シングルイシュー・ポリティクスですよね。

 

ああ、なるほど。

 

與那覇 しかし本当に問題なのは、じゃあ原発を止めた結果、電力は足りるのか? 他の発電方法に切り替えて発電所も新設する場合、どれくらいのコストがかかるのか? そのコストに現在の日本社会は耐えきれるのか? 具体的に誰がどの程度の負担をすることになるのか? 電力以外に影響はどこまで及ぶのか? といった、本来そのイシューと関連するはずの問題群の全体像を考えずに、一カ所だけ取り出してきて「こっちに決まってるじゃないか!!」とやっちゃうことですよね。議論したとしても、きちんと詰めずにあやふやなまま判断し、決定し、行動してしまう。国民も、その判断に「そうだ、そうだ!」と乗っかってしまう。そうすると、さきほどの「カノッサの屈辱」ではないですが、後代に大きな負の影響を及ぼすこともありえるわけです。

 

「わかりやすさの罠」みたいな話ですね。やっぱり、そういった「わかりやすさ」を利用する政治家が悪いんでしょうか?

 

與那覇 もちろん、政治家はある程度、意図的にやっていると思いますが、それを陰謀のように考えるのは間違いでしょう。少なくとも原発問題に関する限り、私にはむしろ、国民自身の側がそういった「わかりやすさ」を切望しているように思えます。ネガティブな不満や恐怖、気持ち悪さが先行してしまって、もう理屈はどうでもいいから全部ゼロにしちゃって「早くすっきりしたい」という心の圧力に、耐えられないのだろうなと。本当は、その気持ち悪さに耐えて、もっと熟議、熟考しなければならないはずなんです。

 

なるほど、本当にそうですね。僕も反省するところがたくさんあります。僕も含めて、多くの人は立方体の一面だけ、サイコロの「1」だけしか見ていない。裏に「6」があるということが見えていないし、そもそも知らない。当然、横に「4」と「3」があることも知らない。短期的な思考だし、短絡的な思考です。判断の射程が短すぎます。

 

與那覇 「サイコロ」であることすら知らずに、単に1という数字が書いてある「カード」だとしか思っていなければ、本来同じサイコロを持っている人に対しても「え? なんでお前は3とか書いてあるカード持ってんの? お前間違いじゃね?」という状態になってしまう。そういう類の不毛な論争は、多いと思います。

 

そこで、やはり学問というのは、そういうときに有効だと思うんですよ。このあいだツイッターで、星海社新書の『キヨミズ准教授の法学入門』(木村草太・著/石黒正数・イラスト)を読んだ方が、「大学で哲学を勉強しているが、実社会でなんの役に立つんだろう」とつぶやいていたんですが、哲学というのはまさにひとつの「視点」じゃないですか。歴史学の視点では1が見えて、法学の視点では6が見える、そして哲学の視点では4や3が見える。それこそが、実社会における哲学の価値であり、学問の価値だとも思います。

 

與那覇 木村さんのご本は、法学に限らず社会科学の四分野から同一の対象を分析してみせることで、それぞれに優れたところと陥りがちな罠とがあるんだよ、と示されていたパートが特に印象的でした(第二章)。さまざまな学問があり複数の分野があるのは、研究対象自体が完全に別というよりも、同じものについても「見方」が異なっているためだから、「どれかが一番すぐれていて、他は劣っている」という関係ではないんですよね。自分の場合はたまたまそのなかで?歴史?という視点を選んだだけで、だからその魅力がほかの分野の人とか、これまで歴史学とは無縁だった一般の方にも広まるようになっていけばと思っています。

 

ああ、まえに東大の伊東乾さんがツイッターで、「ジェリー・フリードマン(注:アメリカの著名写真家)の意見が独創的かつ普遍的なのは、ここで『4つの科学で考え続ける事』というんですね『人文科学』『社会科学』『自然科学』そして『芸術』。彼はシカゴの貧しいユダヤ移民の子で本来は画家になるべく両親に高価な画塾に通わせて貰ったプロの目と技量を持った芸術人でもあります」とつぶやいていて、なるほど! と思ってメモっておいたんですが、まさに同じことですね。フリードマンが面白いのは、無視されがちな「芸術」の視点を重視しているところですが。

 

與那覇 学問とは別の形でわれわれの認識にショックを与えてくれるという意味で、おっしゃるとおり芸術の視点も大切ですね。私はそのなかでも「映画」が現実を切り取る視点に昔から啓発されてきたので、『中国化する日本』でも触れたように黒澤明や宮崎駿の映画を授業で観せて、学生に考えてもらうことも多いんですよ。

 

ああ、與那覇さんの著書『帝国の残影』(NTT出版)は、まさに小津安二郎の映画の解読を通じて「昭和とは何か」「日本とは何か」ということを明らかにしようとする歴史書ですよね。

 

與那覇 なんと! 同書は『中国化する日本』と姉妹編にもなっているのに、あまりセットで読んで下さる方がいなくていじけていたのですが、お目通しありがとうございます(笑) 歴史という見方が重要なゆえんは、過去に歴史軸を延ばして考えられない人は結局、未来に歴史軸を延ばして考えることもできないということだと思います。原発問題でいえば、「なぜ、そもそもここまで原発が作られてきたのか?」を意識しない人ほど、「いますぐ止めろ!」という現時点での問題だけを合唱しがちで、将来もたらされる経済的な帰結や、政治的な影響を考えない。反原発デモが盛んだったときにいちばん違和感があったのは、消費税増税反対を同時に主張する人が結構多かったことでした。もうなんか、あちゃーっていう感じで。

 

両者を「嫌なものつながり」で単純に並べているだけで、相互の関係を考えていないということですか?

 

與那覇 たとえば、「消費税増税はいい。ただし、増税した分をちゃんと原発を止めることによる電力コスト増の穴埋めに使え!」という主張って、あまり出てこない。論理的に考えたら、そういうデモがあってもいいはずだと思うんですけどね。「電気料金を上げてもいいから、原発を止めてくれ」というデモもあっていいというか、むしろ積極的に起こすべきでしょう。でも声の大きな人たちの主張は、しばしば「原発を止めろ! でも、電力値上げは反対!」というものだった。だから、静観していた人たちも正直「それって相互に矛盾するよね? いったいどうすればいいの?」と思ってしまって、盛り上がりが頭打ちになったのではないでしょうか。

 

本当にそうですね。でも、僕も「こうなったら原発は止めようよ」「消費税増税は消費が落ち込んで意味ないから反対」「電気代値上げは、正直生活がしんどい」みたいに、単純に、そしてバラバラに考えていたところがあります。あと、デモに対して「なんか違うなー」と思っていても、代替案がないので何も意見が言えず、だんまりを決め込んでいました……。

 

與那覇 そういうときにこそ、さきほど説明した「学問には分野それぞれの視点がある」ことが役立つと思うんです。ディベートの際に、強制的にでも「いったん」Yes・Noに分けてみることで、感情ではなく論理による議論が深まりを見せるのと同じで、ひとまずでいいから「◯◯学の視点」で考えてみようとすることが、空気に流されない自分なりの判断を導き出してくれると思います。

 

 

 

学ぶのに「遅すぎる」ことはない!

 

うーん、なんだか僕自身の浅慮や不勉強を怒られているような気がしてきました。ああ、もっと学生時代に、社会学以外の学問をいろいろ勉強しておけばよかった。その社会学自体も、かなり中途半端なんですけどね……(苦笑)

 

與那覇 いやいや、別に学生じゃないからと言って遅くはないのでは。『中国化する日本』はもともと、主に学生さんを意識して書いていたのですが、嬉しかったのは「歴史的な見方ってこれまでしたことがなかったけど、こんなに面白かったんだ」という感想を寄せて下さる社会人が多いことでした。大学での専門も歴史学じゃないし、いまはビジネスの現場でバリバリ働いてます、みたいな方が、意外にそう言って下さるんですよね。よく誤解されていますが、ほんとうは学問って、何か特殊な研究対象を扱わないとダメってものではなくて、既知のものに対する「見方」の問題だから、始めようと思えばいつでも、どこでも始められるんだと思います。

 

なんだか、與那覇さんが『マスターキートン』のユーリー・スコット先生(※主人公・平賀キートン太一が尊敬するオックスフォード大学の恩師)に見えてきました!

 

與那覇 恥ずかしながら漫画に弱いので、いまだに読んでいないのですが、とても有名な作品ですよね。実は、うちの学科には妙に(歴史学者ではなく)「考古学者」に憧れて入ってくる学生さんがいて、聞いてみると、どうやら彼らが目指しているのは、インディ・ジョーンズでなければマスターキートン(笑)

 

めちゃくちゃ面白いですよ。読んでない人は、今すぐ愛蔵版で全巻そろえたほうがいい。そのなかで、?鉄の睾丸?と呼ばれていたユーリー先生は、授業中にドイツ軍から爆撃を受け、教室が破壊され、ホコリだらけになって意気消沈している学生たちに向かって、

 

「さあ諸君、授業をはじめよう。あと15分はある!」

 

と言って、彼らを鼓舞しました。

 

與那覇 それはカッコいいですね! それに比べるとずいぶんショボい話ですけど(苦笑)、私も講義時間は90分間フルで使いたいから、3限の講義だと昼休み半ばから延々30分くらい使って、映像機材の準備とチェックをすることが多いんです。トラブルが発生したら、その分時間が奪われちゃうから。授業アンケートを取った時、そういう自分の姿をしっかり見てくれている学生さんがいたのが、教員として初めて勇気づけられた思い出です。

 

僕は高校時代、現実の先生の授業はイマイチでしたが、そのシーン(『マスターキートン』完全版第2巻に収録)にはとても心を動かされたのを覚えています。つづけてユーリー先生が言った、「敵の狙いは、この攻撃で英国民の向上心をくじくことだ。ここで私達が勉強を放棄したら、それこそヒトラーの思うツボだ」というセリフにも、グサリときました。

 

與那覇 先ほどの話に引きつけて言うと、学問とは何よりもまず「見方」の問題なのだから、心持ちひとつで始められるし、続けられる。どんな環境でも学ぶ喜びは得られるし、むしろ逆境にいるときにこそ、学ばなければならないというメッセージを感じますね。いま、「英国民の向上心」ならぬ「日本国民の向上心」が、政治の混乱や経済の停滞ですごく挫かれているように見えるけど、幸いなことにヒトラーは(いまのところは)いないのだから、ここで諦めちゃったらもったいないですよ。

 

はい、與那覇先生! 15分どころか、まだ4、50年生きられるかと思うと、なんでも学べるし、なんでもできるような気がしてきました!!

 

與那覇 そういわれると、なんだか突如として一大研究者になってしまったような錯覚を覚えますね(笑) でも、大学での学びの目的が「最終解答」を教えることではなく、「暫定解」を基に新たな探求への出発を促すことだからこそ、そのユーリー先生ではない自分にも、できることはあるはずだと信じています。

 

(後編へ続く)

ジセダイ教官の紹介

與那覇潤

與那覇潤

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1979(昭和54)年生。東京大学教養学部超域文化科学科卒。同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得満期退学、博士(学術)。日本学術振興会特別研究員等を経て、愛知県立大学日本文化学部歴史文化学科准教授。専攻は日本近現代史。東アジア世界に視野を開きつつ、フィクションという形に結晶した経験をも素材とした、歴史学の新しい語り口を模索している。

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ザ・ジセダイ教官 知は最高学府にある