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語らせてくれ『HiGH&LOW』!

花火のようにクルクルと~日向紀久は男の華である~

2017年04月17日 更新
花火のようにクルクルと~日向紀久は男の華である~

ハイローという穴だらけの物語を補完していくのは、見た人それぞれが今まで背負ってきた個人的な物語であり、それは個人的文化史であるというのは、散々語ってきたので多くは語らないが、そういったものを構成していく中の一つに漫画というものは当然存在する。

 ハイローという穴だらけの物語を補完していくのは、見た人それぞれが今まで背負ってきた個人的な物語であり、それは個人的文化史であるというのは、散々語ってきたので多くは語らないが、そういったものを構成していく中の一つに漫画というものは当然存在する。

 自分がハイローを見た時に、自分の中に蓄積されていた漫画の群れの中の何が呼応したのか。そういう個人的な話を今からしようと思っているわけで、別に自分が今から話す漫画を「読むべき」とかは全然思わない。『俺とハイロー/漫画篇』に過ぎないわけで、俺はこう感じましたよっていうだけで、正解とかそんなもんじゃない。だから読むべき、読み返すべきとか下らないことを言う気はないし、この原稿を読むことで言及されてる作品読んでみたくなる人がいたら、単純に嬉しいというだけの話だ。自分の好きなものに興味を抱いてもらえるというのは非常に嬉しいことだから。漫画といいつつも、そこに連動して色んなジャンルの話も出てくるとは思うが、深いことは気にすんな!



達磨!達磨!達磨!

 達磨一家は土着である。九龍という現代的マフィアに対して、祭りでの商行為をシノギの基盤にすえた伝統的な香具師グループだからというのも重要な部分ではある。香具師の一家というのは近代暴力団とは違い個人がいきなり構えられるものではない。基本的には代々その土地に根をはっているものであり、先代からの正当な譲渡をもって受け継がれていくのが本来の姿であろう。

 達磨一家がいったいどれくらいの伝統を持った香具師の集団であるかは作中では語られていない。が、少なくともSWORD地区への九龍グループの侵攻が始まった後にできた一家ではないだろう。九龍の下部組織であった日向会の崩壊時に一匹狼でしかなかった日向紀久が九龍相手に戦って祭りの利権を奪えたとはとうてい思えない。香具師とは基本的には商行為であり、利権を暴力で奪ったとしても、商業活動を維持することを一人でできるわけはないのだ。日向一人で祭りの屋台の場所の割り振りを決めたり、焼きそばや綿飴を一人で売ったりはできないだろう。しかも、あの性格だ。どう考えても、商売には不向きである。

 達磨一家というのは九龍グループ侵攻前から地元に存在した伝統あるローカルのテキ屋組織であったという風に私は考えている。日向会というのは、達磨一家の創始者一族である日向兄弟が実入りも少なく廃れていく一方のテキ屋稼業に見切りをつけ、新興勢力である九龍グループと手を結んで結成した愚連隊組織であったのだろう。その時期も、達磨一家自体は日向家の家長が率いるテキ屋組織として日向会とは別に存在していたと考えられる。素人であるムゲンとの戦いで惨めな敗北をくらって面子を失い稼業人としてやっていくことができなくなった長男、次男、三男は(おそらく身体的にも回復不能な大きなダメージを受けたこともあり)引退し、日向会は消滅。そういう中で、日向家・家長の引退(もしくは死去)により達磨一家総長の座が四男・紀久に譲渡され、紀久が愚連隊として暴れまわっていた時期に仲間に加わった饕餮兄弟のような連中を構成員に加えて生まれ変わったのが、現在の新生・達磨一家なのだろう。こう考えれば、暴力にいそしんでいただけの日向紀久がなぜ祭りの利権を持っているか、納得がいくというものだ。



 ところで、「テキ屋の跡取りにして、だれかれかまわず噛みつく暴力中毒の狂った愚連隊」という日向紀久のキャラクターから一人の男を思い出さないだろうか?『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友勝利のことを。千葉真一演ずる大友勝利は劇中においてひたすら理不尽な限度を超えた暴力を振るい、狂った牙をむき続けていたのだが、その鮮烈なキャラクターは日向紀久の遠い先祖の一人といって、何の過言もないだろう。そして、大友勝利の持っていた土着の理不尽な暴力性は広島という土地を通じて、ある一人の漫画家の中に受け継がれる。それが田中宏だ。



 不良漫画界でWヒロシといえば、みなさんご存知の通り、高橋ヒロシと田中宏に決まっている。少年ジャンプのバトル漫画の延長線にある世界観の持ち主である高橋ヒロシのことは山王との近接性で考えるべき存在であり、ここでは言及しない。高橋ではなく、田中。田中宏こそ、近年の不良漫画の中で生まれながらにして世間から外れていく運命しか持ち合わせていない暴力人間の姿に一番迫ることができた男である。『BAD BOYS』の広島連合篇の佐々木に始まり、『BAD BOYS グレアー』『莫逆家族』と、そのような人間を描いてきた田中宏(ちなみに『莫逆家族』における「罪の意識から闇に落ちてしまった、かつての偉大なる不良のカリスマ」であるナベさんには琥珀さんに通じるものが感じられる)。その田中宏がそういう鬼子の物語を描こうとした意欲作が『女神の鬼』であり、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』や中上健次の路地の物語にも通じる『BAD BOYS』から始まる広島サーガの到達点になるはずだった物語だ。



 1979年から80年代前半を主な舞台に暴力衝動に支配されてしまう人間として大切な何かが欠陥した不良少年たちが跋扈する。ここでの喧嘩は高橋ヒロシ作品の登場人物や山王連合会によって行われる内なるルールにのっとった神聖なものではない。「この喧嘩を終わらせたければ、お前らが死ね!」という世界での喧嘩だ。勝とうが負けようが、何度でも、どんな手を使っても、自分の目的を果たすために喧嘩は継続する。ハイローにおけるコブラのように、戦いの不毛を訴え喧嘩を終わらせようとする人物が現れても、彼らは無力で、おびただしい人間の命が失われるまで戦いは終わることはない。それは、達磨戦においてコブラの説得が功をなさなかったらどうなっていたかを思わす凄惨な世界だ。日向紀久が初登場時にもっていた悪魔的暴力性に支配されたような物語が『女神の鬼』なのだ。日向紀久の姿を、不良抗争の中で惨めに敗北し周りの軽蔑を浴びながら引退していった兄・顕治のことを「俺は兄貴とは違う」と言いながらも、「雛石の血の力」を世間に示すために狂気の道に進む雛石顕映の姿に見いだすことは可能だろうし、ギッチョとマンバという忠実な二人の子分を引き連れながら歯止めない暴力衝動に狂う原真清の姿に見いだすことも可能だろう。多かれ少なかれ、『女神の鬼』の登場人物に日向紀久の影を見いだすことはたやすいことだ。まあ、田中宏の最新作にして広島サーガの最新作『キッポ』によく出てくる「心のこもった手作りのご飯はあったかくて最高」というシチュエーションに、『やる気おにぎり』の位置付けと同じものを見いだすことも可能ではあるが、私はそこは積極的に見ないことにしていきたいと思う。



 日向紀久という人物を考える時、達磨一家に代表される土着性とは別にスタイリッシュな佇まいというのは重要だろう。土着の典型である法被がレザーで造られているというのは象徴的だが、泥くさい情念と同時に都会的なクールさも持ち合わせているのが日向紀久という男だ。

 米原秀幸『ウダウダやってるヒマはねェ!』という不良漫画がある。米原秀幸という人は過小評価されがちではあるが、不良漫画の中では斬新な改革を何度か行っている偉大な作家である。その米原秀幸が『ウダウダやってるヒマはねェ!』で行ったのがアマギンという空前絶後のキャラクターの発明だ。



 物語は島田亜輝と赤城直巳という二人の主人公が色んな相手と喧嘩をする。喧嘩した相手と仲間になって別の相手と喧嘩をするという、いたって普通の不良バトル漫画の骨格を持ち合わせている。亜輝=賢いコブラ、直巳=ヤマトと考えると非常にわかりやすい。どうかしちまう前の琥珀さんのような先輩も出てくる。普通の不良バディものだった、この作品が一気にバケるのはアマギンという男の登場からだ。



 アマギンこと天草銀。静岡の狂犬。その容姿はさながらバイクにまたがり日本刀を背負ったシド・ビシャス。クールさの極みだ。たがの外れた暴力キャラクターはモンスター然として描かれることが多いのだが、アマギンはあくまでスタイリッシュな美形。当初は単なる敵役の一人に過ぎず、わりと情けない敗退をしているのだが、その後たびたび亜輝と直巳の前に姿を現しては敵か味方かわからないようなあり方で物語を引っ掻き回し続けた。アマギンは胸に一つの目的を秘めており、そのために動いていたのだが、志半ばにして生死不明のまま退場することになる。



 人々は失われたアマギンの影を求めるうちに、彼が戦おうとしていた巨大な悪と出会い、結果的にアマギンの目的を果たすことになる。物語の後半のテーマは「アマギンの不在」であり、実質、アマギンが主人公といっても過言ではない。登場人物はその場にいないアマギンの影に操られながら戦い、旅をする。アマギンとは何かという命題を求めて。途中退場した登場人物が最終ページにいたるまで物語を支配し続ける。米原秀幸自身が『箕輪道伝説』で当初行おうとし失敗した「登場しない人物が主人公」という革命的なテーマを、アマギンという発明によって、この作品で成し遂げたと言ってもいいだろう。



 アマギンの持つ暴力性、残虐さ、勝敗を度外視した目的達成のための飽くなき戦い、ノールールな言動、スタイリッシュなクールさ、その裏に隠された情念。全ては美しい暴虐そのものだ。日向紀久のように。「狂犬アマギン あの世でもその名でいろ!」という言葉は「狂犬日向 あの世でもその名でいろ!」と置き換えることはいともたやすいことだろう。本編にほとんど登場することのない日向紀久。達磨一家の物語は彼の不在によって成立しており、不在である日向の影に一喜一憂する有象無象の姿を描くことで逆説的にその偉大さを物語っているのだ。



日向紀久が法被姿でアメ車のボンネットに寝そべりながら爆走する姿は、解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶発的な出会いにも似て、相反する田中宏的土着と米原秀幸的都会的なクールネスの未知の融合を意味している。そして全ては、やられる前にやるということだ。

ライターの紹介

ロマン優光

ロマン優光

    

音楽ユニット「ロマンポルシェ。」のDELAY担当。著作に『日本人の99.9%はバカ』『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(コアマガジン刊)など。

    

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