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語らせてくれ『HiGH&LOW』!

HiGH&LOWを見ると思い出すマンガよもやま話

2017年04月17日 更新
HiGH&LOWを見ると思い出すマンガよもやま話

 これをご覧頂いている皆様におかれましては「HiGH&LOW」というコンテンツを耳にしておりますでしょうか? 何となく聞く機会があるけど、何なのかよく分からない、という方も幾らかの数は勿論いらっしゃいますでしょうし、当たり前だとも納得しております。
 取りあえずもうディスク化もされておりますし、時間が取れたら何の気なしにご鑑賞ください。結局はそれで決まるだけの話です。むしろ誰それがハマっているからとか、そういう周囲に流される事なくご自分の感覚で是非を判断するのが最も正しいと思います。

 「HiGH&LOW」というコンテンツは間違いなく面白いと断言しますが、当方の周囲にも何が面白いのか全く分からないという方もいますし、そもそも何それ? と存在すら認知していない方も多いです。

 あの作品は言葉で紹介し誘導しようとするのがとても難しい作品です。俳優陣やそれぞれが演じる個々のキャラクターなども、ある程度断言してしまうと、これから見ようとされる方におかしなフィルターをかけてしまう事にもなりかねませんし、それはとても、惜しいと思います。

 故に今回は、「HiGH&LOW」の雰囲気をぼんやりと伝える為に「同じような空気を持った漫画」を紹介するという形になります。

 ワンクッション置いたアプローチをするのは、やはり本体である「HiGH&LOW」に出来れば直に接して欲しいという願いからに他なりません。

 とは言えですが、よく世間で耳にする言い回しに「○○が気に入ったならこれもお勧めです」という言葉があります。本人に全く悪気はないのでしょうが、便乗商法のようで却って身構えてしまい逆効果になる場合が多く、さじ加減が難しいのも確かです。ですからここは敢えて、まだ見てないよ、でもよく聞くから見ようかな、という方の為に、「見終わった後、こういうのを思い出した」という当方の主観を並べるに留めます。

 「もう見たよ」という方は、これから書く文章に異論反論もお有りでしょうが、そういった「違うよ、こっちだよ!」や「そう、それだよ!」といった、鑑賞後の意見交換も含めての楽しみ方が可能なのが映画作品であるとも思い、これを記します。

 本題でありますが、今回は「HiGH&LOW」(映画、テレビシリーズ、ロードトゥ、ライブ、もはや全てひっくるめてそう呼称させて頂く)を見ていて「思い出す」シリーズ・マンガ版を羅列させていただく事としました。これはもう、正解も不正解も個人個人の判断に拠り変わってしまい、万人を納得させる答えはないので仕方ありません。マンガというジャンルで言うのであれば「Team HI-AX / 細川雅巳」の著によるコミカライズが揺るがざる正解ですが、当方は別に正解を言い当てたい訳ではないのです。

 「HiGH&LOW」鑑賞後に何か名状しがたい気持ちとなり興奮する理由を、過去の経験に当てはめた場合、これかな、それともあれかな、という作品を羅列する訳ですから、どれもピントは全てズレていると思って頂きたい。合ってなくて構わない。むしろ賢しげに合わせて来られると殺意が発生するので避けていきたい。

 このピントは世代や生きていた環境に拠ってたちまち変わる。勿論、流行っている流れに乗っかろうという欲や、乗らせまいとする反発にも左右される。

 本来、こういった稿は商業的な判断からもっと母数を大きく取るように指摘され遂には不本意ながら潰される代物であるが、何処まで通じるかを試してみたいという思いもあり、こうして挑戦させて頂いております。

 長くなりましたが、要するに「あれだよあれ」という曖昧な話をしたいというだけです。

 そう身構えなくても、突然アメコミの話をしたり新約聖書の話をしたりはしないので適当に流し読みしていただければ幸いかと。何せビューワー数は今回、当方のギャランティと関係ないらしいので尚更であるから個人的には気楽にやりたい。

 題して「HiGH&LOWを見ると思い出すマンガよもやま話」

その一『疾風伝説 特攻の拓』(原作:佐木飛朗斗 作画:所十三)



 とりあえず冒頭に挙げてしまったが、個人的には「そうじゃない」という思いはある。あるが、やはり読み直すと何かと思い出す要素はたくさんあり、メジャーな作品という事からも一番手に相応しいと判断し挙げさせて頂く。

 共通要素はたくさんあるが、何よりまず言いたいのは「独自の美学を貫いた」作品であるところだろう。音楽とオートバイ、そして暴力の親和性、尚且その要素全てが「普通の人は知らないが知ってる人にとっては常識」というマニアックなのか凡俗なのか一見して判断が付かない辺り、マイティウォーリアーズのICEが影響を受けたどころか「救われた」とまで豪語するウータンクランがその方面では鉄板の趣味、言うなれば一番好きなコメディアンはと問われてチャップリンと答えておくぐらい危うげのない正解である事からも分かる(ちなみに当方は全く分かっていない。ラップとか聞かないから)。

 またスモーキーが突然、訳の分からない設定の質問をしてきて、どうやらどう答えても死ぬらしいという地獄の問答を開始するシーンなど、本作品で突然出てきて宮沢賢治の誌を諳んじながら冗談では済まされない攻撃を淡々と繰り返す天羽セロニアス時貞を彷彿させるし、「各チームの戦争がほぼ決着の付かないまま先送りされる」「何だかよく分からないハーレーの持つ可能性への幻想」更に加えて「風神雷神の最強コンビに更に龍神が加わりトリオとなる」のはレッドレインの雨宮三兄弟そのものであるし真ん中が死ぬのも同じ、等々、この作品を「思い出した」としても確かに咎め立ては出来ないのだが、こちらとしては違和感がある。

 それを明確に言ってしまえば、この作品は「お話作り」の積み上げ方が堅実で地味な所であると言える。主人公・浅川拓がいじめられっ子から、遂には全てのチームの命運を握る鍵となる存在にまで成長する本作は、鬼のような過密スケジュールと毎週やってくるきまぐれな読者による死神の鎌みたいな物に晒された地獄の週刊連載を勝ち抜いた猛者である(これは後に挙げる諸作品も皆同様の戦場をくぐり抜けている)から、その成り立ちも違ってくる。

 HiGH&LOWコンテンツは少なくとも視聴者に焦燥感や危機感を覚えさせない。勿論、それはどんな作品にも言える事で、舞台裏でどんなに作者がおかしくなっていようが観客には関係ない。

 本来ならもっとキツキツのストーリー展開がHiGH&LOWにも求められていただろうが、HiGH&LOWはそれを優雅に無視してくる。恐らくは意図的に。

 賢しい事を言ってしまえば、主役を決めてそのキャラクターの掘り下げに特化してしまえばもっと纏まったであろうと思う。

 ノボルとチハルがそれであるし、前日端であるRoad to HiGH&LOWから引いてしまえば、ドラマ版シーズン1はノボルの成長譚と言えなくもないが、成長したという印象は弱い。シーズン1で物語の軸となる「新入り」のチハルに関してもこれは薄い。

 チハルもノボルも「考え方を変えた」程度の変化しかなく、本作の浅川拓ほどの明確な成長は描かれていない。

 これは地獄の種類が違うだけで造っている方は同じように苦しいと思われる。

 見せ場を造るだけ造り、しかも全員主役というコンセプトで描くのだから、これが週刊連載であれば人気がある限りいつかばら撒いたそれらを回収するチャンスも窺えるかも知れないが、ドラマも映画も既に停止線は明示されている。そこで止まらなくてはならないのにHiGH&LOWはドラマでも映画でも弾け続けた。

 大体、ノボルが下っ端みたいに(上なのか下なのかもよく分からない)家村会にコキ遣われてる割にドラマ一話では刃物相手に一歩も譲らない鬼気迫る大立ち回りを見せ、それなのに二階堂にはいいように蹴り回されるあの有様は、見ている方が「ノボルは喧嘩とかしなくなった人なんだ」と自分にしつこく言い聞かせながら視聴したほどである。二階堂が鬼のように強いと解釈しても、良い。

 気になる方は実際に確認して、あれこれ考えてみるのも楽しいと思う。

 「特攻の拓」の話に戻るが、これは週刊連載という戦場で磨き抜かれて生き延びてきた作品で、だからこそ、HiGH&LOWの「ある程度完成された(大人としての)キャラクターたち」の余裕とは余りマッチしないのではと思ってしまう。

 むしろ親和性を求めるのならば、こちらでなく同原作者による「R−16」シリーズであり、こちらは本当に全員主役である。故に何処に感情移入していいのか全く分からず伝わらず、何がなにやら分からないうちに人気も伸びずに低迷するのだが、佐木飛朗斗という原作者は何を考えてか知らないがとにかく作画担当の人間を変えながら今も尚「自分の美学」を煮詰める事に夢中になっており、「特攻の拓」でかなり溜め込んだであろう佐木飛朗斗ブランド貯金を惜しみなく費やしている。この辺りの意地の張り方、通し方、何よりもその執念は、LDHという会社のスタイルに通じる物も感じ取れる。

 念を押しておくが、HiGH&LOWとより親和性が高く、作り方も似ているのは特攻の拓ではなく「R」の方である。であるから「R」シリーズもいつかHiGH&LOWのように日の目を見て欲しいし当方としても積極的に取り上げていきたいのは山々なのであるが、幾ら何でもパンチパーマで本気の入れ墨が背中に入った最強高校生が、喧嘩の最中に天下国家を語りアメリカの石油利権政策を批判する(そしてそれは別に主人公ではない)などというマンガを一発目から紹介するのは流石に気が引けた上に、原作者・佐木飛呂斗が最早やけくそのように手当たり次第に色んな雑誌で自分の美学を同時展開させ始めているが故に当方としても「追い切れていない」という力不足を実感している事もあり(その多方面同時攻撃もまたHiGH&LOWに酷似している)、「無難な」手打ちとして特攻の拓とさせていただいた。

 何事にも最初の段階という物はあり、「特攻の拓」はそういう意味でも優れた作品であるという事は明記させて頂く。

 HiGH&LOWを見て何を思いだしたかと言われて本作を挙げるのは安牌で間違いない。

 ただ単にそれが安牌であるが故につい否定してしまうのは当方の性根の話でしかないのでどうか気になされないで欲しい。

 余談ではあるが、特攻の拓・江戸時代編なんて始まった日には本当にどうしちまったんだよという気持ちになったが、意外と抑制が効いていた。あんまり特攻の拓、関係ないのでは等と油断していると最終話に武丸そのものの金髪リーゼントのお侍様が出てきて度肝を抜かれる事請け合いである(出てくるだけで特に何もしてないのに「やっちまった感」が凄い)。

その二『荒くれKNIGHT』全シリーズ(著:吉田聡)



 ほぼ同じに見えるのに全っ然違うという、紹介しにくい作品である。

 これは前述の「特攻の拓」よりも、よりクリティカルに相似形を有しているし、最早ほぼ同じと言ってしまっても構わないが、やはり違和感も拭えない。お前の違和感などこの際どうでもいいと言われるかも知れないが、こっちも仕事である。お付き合い願いたい。

 まずHiGH&LOWの作中に描かれる伝説のチーム「ムゲン」のフラッグマークは、龍也を中心に産まれたのだから龍をモチーフにすればいい物を何故か二頭の蛇である。いや蛇であるとこちらが感じているだけで細身の龍なのかも知れないが、一般的に、社会通念上、普通あれは蛇だと見えると思うし当たり前だと思う。

 蛇という概念は「荒くれKNIGHT」に置いて非常に重要な概念であって、強く、強く、強く、何度も強調されるモチーフであるから、ついつい影響を受けましたで済まされるかも知れないし、そもそもあのフラッグマークが本作ではなくネバーエンディングストーリーのアウリンだよと言ってしまえば何とか逃げ切る事も可能だが(実際アウリンそのものである)、まだ逃げ切れない要素は本作に数多くあり逃がしはしない。

 「音楽」という要素に関して、吉田聡はオールドスクールのロックンロール一本のみに徹しており、これは多様な音楽性を採用したHiGH&LOWとは真逆とも言えるが、拘りすぎたが故に当方には同じ物に見えてしまう。双方ともに好きな音楽、楽曲への拘りは異常とも言えるレベルに達しており、端から見たら形が違うだけでお前らは同じバケモノだとしか言い様がない。

 吉田聡は当初、キャラクター造形に関して「線が細い」印象があったのだが、後にほぼ全てのキャラクターに関して「体重」という概念が追加され、ひとつひとつの暴力に説得力が産まれるのだが、これは鍛えた肉体で繰り出すアクション一つ一つに謎の説得力を有するHiGH&LOWと全く同じだとこの際めんどくさいので言い切ってしまいたい。

 いちいち挟まれる浪花節的な「泣かせ」演出もかなり似ている。センスが同じなのである。だが例えば、じゃあ村山は誰だ、ヤマトはどのキャラだ、と些細な相似性を問われればこれと言って気の利いた返答は出来ない。ここは特攻の拓の方が全然楽だと思う。

 全体の構成はぐうの音も出ないほど似ている。凶暴な集団であった「がらがら蛇」は百人規模のムゲンとほぼ同一であるし、そこから割って出た少数精鋭の「輪蛇」は山王連合会そのものでもある。だがスタート地点が違うではないか、ムゲンはそもそも最強の七人から始まったんだと言われてもそれに関するアンサーは用意できる。強引に言ってしまえば湘南爆走族を含めてしまえば事足りる。

 湘爆→がらがら蛇→輪蛇という図式で説明してしまえる。

 そういった全体の構造ならいいのだが、肝心の個々のキャラクターに関しては、残念ながらほぼ同じ要素は見当たらない。ここまで似せておきながら、「荒くれKNIGHT」にはノボルもヤマトも、日向も村山もスモーキーもいない。コブラなら名前だけならあるが残念ながらチーム名である。

 同じようにHiGH&LOW作中にも、野呂やケーゾー、服部や牧、春間、善波、伊武、青蛇や赤蛇も見当たらない。本作中で何度も語られる「輪蛇(時にコブラ)が通るぞ」など達磨一家そのものなのだが、幾ら何でも兄弟だからと言ってHiGH&LOWの饕餮兄弟を本作の嘉納兄弟に当てはめようなどという無茶をするほど当方も愚かではないし、そこだけ無理矢理当てはめたとしてもじゃあ他はどうするんだという話になり最終的に詰む。

 特攻の拓がキャラクター性の類似において比肩ないように、本作は舞台設定、背景といった代物で比肩なき類似性を示す。本作と特攻の拓を巧い事組み合わせれば、ほぼほぼHiGH&LOWと同じ物になるだろう。だがそれでは意図的に過ぎるし、やはりここは分けて考えた方がみんなが幸せになれるとは感じる。

 荒くれKNIGHTがすぐにHiGH&LOW視聴後に浮かんで来ないのは、本作が有する湿った陰鬱性にあると思う。HiGH&LOWは全体的にほぼ湿った空気がなく、常に太陽がさんさんと輝くような空気に満ちあふれており、たまに湿った空気を演出しても(例えばノボルの付き合っていた相手であるミホがレイプされるなど)すぐに南国の風に吹き飛ばされてしまう。

 これは当方もこの稿を書くまでぼんやりとしていて、見逃していたポイントなのだが、そもそもHiGH&LOWに悪人は殆どいない。不良やヤンキーですらいない。単にそう見えるファッションをしているだけで皆、基本的に悪くはない。明確に悪いのは「女性を掠って売りとばす」と字面だけ見れば最悪のDoubtが挙げられるが、彼らにさえ茶目っけを感じてしまう。

 人を逆さづりにして巨大なレンチで殴って拷問をする日向会や、容赦なく人を撃ち殺しに来る家村会にすらパーティの一興ではないかという錯覚すら覚えるし、そこがファンや試聴者にも安心感を与える結果となっているのだが、本当にそうだったかはもう忘れてしまったから未見の方がこれか見て判断して欲しい。

 一方で吉田聡が描く闇は濃さも速度も容赦がない。吉田聡という漫画家は「ひとりぼっち」や「悪党」を描く事に非常に長けており、それはHiGH&LOWとは真逆の資質のような気がする。

 そこが本作とHiGH&LOWを全く別物と印象させる決定打ではないかと思う。

 HiGH&LOWという作品は悲しさであるとか不幸であるとか日陰の部分を時折描いてはいるものの、どうしても陽の当たる場所のカロリーが高すぎてあっという間に気にならなくってしまうが、本作ではその陰鬱な部分が鋭く読者に刺さってくる。

 これは多少、客にマゾヒスト的な要素がないならば許容して貰えない演出には違いなく、何でもいいからカッコよくて美しくて面白いだけを提供せよ、という客に対して、吉田聡という作家が提案する作品は余りに重すぎるし暗すぎる。

 吉田聡のコミカルな面、カッコイイだけの面というのを抽出する巧い商売もあるだろうが、それでは説得力、背景という重みが欠けてしまう。その辺りを上手に拾ってしまえば別作品別作者にならざるを得ない。

 その一つの答えがHiGH&LOWであると言っていいのではなかろうか。

 これは別に「吉田聡作品を大衆向けにチューニングした」という嫌らしい話ではないし、そもそも吉田聡自体がきちんとした結果を出している大物作家なのであるから、今更小賢しくいじり回す必要はない。

 単にHiGH&LOWに見られる「影響力」が確認できると言うだけの話であるし、それはどちらの側がどちらを責めるという物でもない。単に何となく似てますね、というだけの話なのだから気にしなくていい。世の中には相互に、それとは気付かず影響を与え、また影響を受けてしまう存在という物は間違いなくある。それを突っつき回してみた所で野暮なだけであろう。

 特攻の拓よりは多少、説明を必要とする。客観だけでは納得して貰えないだろうがついつい挙げてしまう作品でもある。主観だけでならすぐにピンと来るが、それは各々の育ちにも拠るであろうし、特攻の拓よりは不安感が高い作品であるが、それ故、HiGH&LOWと絡めて語るにはマニアックな楽しみも見いだせる作品ではないかと思う。

 ちなみに何度か実写化されたが全て失敗したと言っていい。

 不思議な事にこれほどキャラクターの相関が見いだせないHiGH&LOWが理想的な実写化に見えてしまうのは、双方が違うアプローチを模索した上で答えが同じだった、という話なのではないかと思われる。

その三『莫逆家族』(著:田中宏)



 田中宏も自作品を繋ぎに繋ぐというスタイルはかなり佐木飛呂斗的な物を感じるが、敢えて他の「広島」シリーズではなく今作品を挙げるのは、主体となるキャラクターが軒並み成人越えである事、それ故に尽きる。

 吉田聡などは恐らく自らの美学として「高校三年間」を最早不自然なのは分かっているだろうにまだ採用しているが、HiGH&LOWに関しては登場人物が皆、成人済みであり(それは飲酒喫煙や運転免許の有無と言った大人の事情からだとしても)吉田聡が描く青春縛りとは一線を画している。

 田中宏はその先を描く事を得意とする。本作では何と三十代になってまでまだおとなしくなれない連中の物語である。十代なら何とかリカバリーが効いてしまいそうだが、これが三十代、その連中の子供たちも最早十代半ばに突入という歳になってまで大ハンマで人を殴り殺そうとするというのは全くリカバリーが効かないししゃれにならない。

 田中宏という作家は自らの造形したキャラクターを愛しすぎるという、良くも悪くも作用する癖っけの強い作家であるのだが、ここはHiGH&LOWに置ける各勢力が決着寸前まで行きながらなあなあで終わってしまう、というストーリーに似た物を感じるが、そんな訳の分からない事を言っているのは当方だけではないかという不安も感じるし少なくとも相似性という点で、HiGH&LOWと田中宏作品は殆ど共通点がない。前述の二作品とはまるで別物である。

 ただ単に「成人済みの青年たち」という共通点があり、尚且つ「琥珀」や「龍也」を演じる側の人間の実年齢を思った時にちょっとした笑いが出るという程度の物だが、それが存外に楽しいという楽屋落ち的な意味で挙げた作品でもある。

 だがもう少し深く触れてみよう。

 これは野暮を承知で言うが、琥珀や九十九、その他もろもろは日頃、何をやって生活を支えているのか、という話である。分かりやすい話で言えば琥珀であって、「俺はムゲンを捨てた奴を許さない」とか青蛇みたいな事を言っているがじゃあお前の収入源は何なんだよ、と大人ならみんな思ってしまうだろう。それが例えば百人規模のムゲン構成員からの上納金だというならそれでもいいが、作中で琥珀は自ら、そういった上納金システムを否定している。

 霞を食って生きている仙人か何かかというくらい無邪気である。

 九十九もそうであるし、他に挙げずとも君ら何して生活してんの? という疑問は、キャラクターが成人していれば自ずと浮かぶ問いかけであるし、そしてHiGH&LOWという作品はそれなりにその答えを用意してもいる。

 図らずも西郷がその全容を明らかにする事を、映画冒頭で成している。

 山王は商店街の用心棒。ラスカルズは繁華街での直接商売。無名街は謎の鉱石や臓器売買的な物(ここはある程度慎重に考察すべきだと思うが仮にそうしておく)、達磨は祭りの利権(そんなにいつも祭りやってるのかと思うが仮にそうしておく)、そんな中、鬼邪高だけがスカウト待ちというモラトリアム期間を有しているのも判明する。看板、とだけ西郷は説明するが、恐らくそういう事であろう。そうなんだ。もう勘弁してくれ。こちらにも限りという物はある。

 山王連合会が高額なカスタムハーレーを全員所持出来ているのは、親が土地持ちの商店主だから長期高額ローンもあっさり通るわけで、それで許しては貰えまいか。雨宮兄弟だって運び屋でかなりの額を稼いでいるようだし一千万超えのカスタムハーレーに乗っていてもいいのではないだろうか。いいにょか。いいにょだ。

 とかく、莫逆家族はそういった、「収入源」について積極的に拠っているが(これは他作品でもかなりえげつなく描かれている)、故に生々しくなりすぎてHiGH&LOWの印象とはかけ離れた代物になっており、似たような物を描写しているにも関わらず似ても似つかない物となっている。

 これは同じ物を売るのでも、アプローチや考え方次第で全く客層が変わる、という好例でもあろうと思う。世間は甘くない、というのを互いに知っていながら、その上で更にきらびやかさに特化したHiGH&LOWと、甘くないならとことんやってやろうと選択した田中宏作品は全く別の進化を遂げたが、元は同じ生き物ではなかろうか。

 そもそもこの手の青春群像劇など元をたどり始めたら何もかも同じ場所に辿り着き、元を糺せば「何だそんな物か」という程度の代物になる。そんな物、から、如何に自分の美学で昇華し形作れるかが全てなのであって、元を糺して何かを見極めたような気持ちになっている連中には償って貰うしかないとスモーキーに言って貰いたい。

 上っ面だけでもHiGH&LOWは渡っていけるし充分に楽しめる。

 わざわざ田中宏作品に言及して軸が大幅にブレるようなリスクを冒さなくてもいいのがHiGH&LOWの魅力でもあるが、当方としてはこれを敢えて挙げておきたかった。この流れで新宿スワンなどにも触れてみても良かったのだが、「ラスカルズの元ネタ」という腐し程度の話にしかならないだろうし、最早ホワイトラスカルズはそれが元であろうとなかろうと(というか明確に作中で「時計仕掛けのオレンジ」を意識している事が明示されているが)新宿スワンで描かれたスカウトマンとは別の形の、自らのスカウトマンの形を作ってしまっている。

 同じように無名街や鬼邪高校に関して、例えば高橋ヒロシ作品、もしくは飛びに飛んでHUNTER×HUNTERに言及してもいいが、それほど話が広がるようには思えないし、当方としても広げようがないという限界は如実に感じている。

 次の項目でこの稿を終えたいと思っている。

その四『ウダウダやってるヒマはねェ!』(著:米原秀幸)



 当方にとっては一、二を争うほど好きな作品でもある。青春そのものでもある。

 敢えてこれを最後に挙げるのは、この稿がどんな意図を持って書かれているのかを再度ご確認頂きたいという念押しでもある。つまり、HiGH&LOWという作品は色んなマンガや映画の換骨奪胎というだけではなく、自分がかつて夢中になっていた「青春アクション」とでも言うべきジャンル作品を自然と想起させる不思議な作品なのだという、最も訴えかけたい事由を提起したいが故でもある。

 HiGH&LOWがレッドレインを最後に一端途切れ、LDH側もそれほどしつこく提示して来ないが故に、ファンになった皆は渇望に悩まされる事となる。そして何より、他人と語り合いたいが為に、「代替品」を求め始める。HiGH&LOWが気に入ったならこれもお勧め、という文言には何も嫌らしい便乗セールスのみではなく、会話したいという熱気を途切れさせたくないという純粋な意思もあるかと思う。

 であるから、自分が好きだった似たような作品であるなら、「今日から俺は」であったって「ナニワトモアレ」であったって何だっていいという状態になる。なるが、やはりそこは冷静さも必要では無いかとこちらとしては縛りを設けたい。そうでなければ非常に見苦しく映ってしまう可能性は大きい。

 「ウダウダやってるヒマはねェ!」はその知名度に反して非常に良く出来た作品であり、絵柄もHiGH&LOWの煌びやかさに似通っている。前述のメジャー度の高い三作品に比べて非常にスマートであり、かつ全体に流れる脳天気な陽の空気は、前述した作品よりも図抜けたまさに「青春モノ」と呼ぶべき空気感を有している。

 当方がHiGH&LOW視聴後に最初に思い出したのがこの作品である。共通点はほぼないと言ってもいいかも知れない。それなのに思い出してしまったのである。強いて言うなら、キャラのファッショナブル度であるが、それならば高橋ヒロシ作品の方が共通点という意味では色濃い物がある。

 キャラクターの相似度で言えばアマギンくらいだろうか、独自テーマソングを有し(思い出のグリーングラス)その狂気度は完全に日向紀久である。もっともアマギンに日向のようなリーダーシップは持ち合わせてはいないし、単にイカレているというだけの共通項で、この手のマンガには一人や二人、そういうキャラがいる。他の作品が語っている内にHiGH&LOWの話に戻れるのに対して、このマンガは多分戻れない。何々はこれだよね、というフックがそれほど無いからである。あとは蘭岳の法被が達磨っぽいというぐらいしかない。あと久条・ノボリ・ムカイが乗ってるビッグツイン。久条があくまでハンドルを握らずリアシートでふんぞり返っている様子も達磨の日向っぽい。そのぐらいかな。もっとありそうだけど、まあそんなにはない。

 だが当方としては再度言うが、この作品が最初に思い出された。

 それはHiGH&LOWで描きたかったであろう「街の青年たちが織りなす爽やかな青春」という雰囲気だけは前述の三作品が持てなかった雰囲気からでもある。またタイマンでの決着をクライマックスとする手法が多く見られるのに対して、本作は多数対多数を気持ちよく描いており、HiGH&LOWの「100vs500」の激突シーンはそれを思い出させる。それまで敵として対峙して来た面々が集い、共通の相手に立ち向かうというのはお約束に等しいよくある展開ではあるが、大体一対一で先に行け、と処理してしまう所を、それぞれに見せ場を造りつつも乱戦として描いた辺りはHiGH&LOW映画版のクライマックスにおける演出と非常に似ている。

 乱戦の最中、かつて揉めた相手とちょっとしたやりとりを挟む事で和解や友情を感じさせる演出も挟まれ、それは大変巧いし共通していると評価していいと思う。

 絵柄がスマートな事もあり女子人気も(あくまで比較論であり世間的にはニッチだが)高い作品で、その辺りも女性ファンの多いHiGH&LOWと同じ売り方と言っていいだろう。だがこのマンガが女子だけに向けた作品だなどと言われたらけんか腰になって反論したくなる部分は間違いなくあり、それはHiGH&LOWがメインの客層を女性ファン層に向けているという前提を理解した上でも、HiGH&LOWは女性の為だけのアクション映画ではないと敢えて主張したくなる作りにも通じている。

 言ってしまえば、本作をHiGH&LOWとの相似という意味で挙げる理由はどうひねくり出しても強引になる。これを最後に挙げる理由は、HiGH&LOWという作品が、既知の作品でかつて得た興奮を再起させるという作品でもあると言っておきたいからに他ならない。

 そしてそれは人に拠って、その人が触れてきた作品群に拠って無数に変化する。

 これですという間違いの無い回答などはないし、どれだけ熱弁を奮っても、その経験がなければ恐らく相手には伝わらない。しかしHiGH&LOWがそうやって、自身の評価のみならず観客の記憶をもう一度奮い立たせ、この機に乗じてあれについて語りたい、これを持ち出したい、という意欲を沸かせる作品という価値もある事を念押ししておきたい。

 それは全体でもいいし、ごく一部でもいい。

 波及効果という点でHiGH&LOWは図抜けている。例えば荒くれKNIGHTを読んで面白かったと言われたから、じゃあこれも読んでみて等と勧める気にはそうそうならない。荒くれKNIGHTの話だけを、あるいは特攻の拓の話だけをしておけばいい。

 これらの作品は既に充分な情報量を有して話がまとまっているが、HiGH&LOWはまだ道半ばのこれからの作品であり、語り尽くすには情報量が少なすぎる。ついつい、他作品を持ち出してしまうのも仕方がない。そこで「これだよ」と断言してしまい拘ってしまう事は多少の勿体なさを感じる。

 で、あるからそういった行為を肯んじ得ない当方としては、敢えて他メディアからHiGH&LOWの要素を感じ取っていきたいと考えている。キャラクターとその演技者を一緒くたにしてはならないという遠慮もむろん、理由として挙げられる。

 一例として挙げた本作ではあるが、作品そのものの相似性云々というよりも、かつて熱中しそして半ば忘れかけていた熱狂を再び思い起こさせる、HiGH&LOWにはそういう力がある。

 で、あるから、ここで挙げた漫画作品を知っていて「あれが思い出せるのか、なら見てみようかな」というアクションを起こして頂きたいというのが本稿の意図でもある。もしくは逆にHiGH&LOWから入って頂いても有り難い限りではあるが、やはりそれは順序が違うような気がする。



 そして最後になるが、CLAMPの手による公式コミカライズが決定したという。

 これはこれで公式であるならばどんな形になろうと公式であり、一つの正解である。それは仮にCLAMP作品が受け入れられない、という人間にとっても残念ながら正解であり、万人に受け入れられる正解などないのだという前提から言えば、CLAMPという看板の持つ大きさと重みは公式を名乗るに相応しい格と位を有すると思う。敢えて言えばそこには失敗した時のリスクの方が大きく、リスクマネジメントの観点から言えば普通は引き受けない。やりたがるのはリスクよりリターンが大きいと判断する者だけである。

 既にCLAMPは金看板に間違いない。それだけの看板を背負って初めて釣り合いが取れる。

 故に、最適解であると断言してしまって構わないと思う。その上、当人たちがファンとしてHiGH&LOWを好きだと公言しているのだから尚更、文句を言う筋は見当たらないだろう。ただ単に難癖を付けたいというならそれも好きにすればいいと思うが。

 大変、期待している。期待を禁じ得ない。

 今回はマンガに限定して語ってみた。次の機会には他ジャンルやメディアと絡めてみても良いと思っているし、HiGH&LOWそのものを深く掘り下げてもいいと思う。とかく書きたい事には事欠かない。

 であるから、書かせて頂く機会をこれからも与えて頂ける事を切に願う次第である。

 何とぞよろしくお願いしますとの定型文を敢えて採用してこの稿を終える。

 何とぞよろしくお願い致します。

 追記:時々挟まれるシュールなギャグシーンの呼吸と間合はクロマティ高校っぽくありませんか?

ライターの紹介

江波光則

江波光則

    

小説家。著作に魔術師スカンクシリーズ『ストーンコールド』(星海社FICTIONS)、『我もまたアルカディアにあり』(ハヤカワ文庫)など。「cakes」にて映画評を連載中。

    

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