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イベントレポート

【さやわか×東浩紀×海猫沢めろん鼎談】「10年代の状況とコンテンツ」

2014年08月26日 更新
【さやわか×東浩紀×海猫沢めろん鼎談】「10年代の状況とコンテンツ」

 2010年代を「残念」というキーワードで総論した『一〇年代文化論』を、4月に星海社新書から上梓した評論家・ライターのさやわか。「さやわか式現代文化論」は、そんな彼が、昨年11月から毎月、作家・思想家の東浩紀が運営するイベントスペース・ゲンロンカフェにて行っているトークイベントだ。

 7月12日に開かれた第9回目は、デビュー作にして伝説のカルト作と名高いエログロメタ美少女ゲームミステリ『左巻キ式ラストリゾート』が6月に星海社で文庫化された、作家・海猫沢めろんと、この本に解説を寄せた東浩紀をゲストに迎え、「コミュニケーションは想像力を超えるか----ゼロ年代の終わりと10年代の行方」とのタイトルで行われた。

 イベントタイトルにある「想像力」とは、コンテンツと言いかえることができるだろう。東浩紀は前述した星海社文庫版『左巻キ式ラストリゾート』の解説において、コンテンツとコミュニケーションを対比させ、東自身は「コミュニケーションよりコンテンツが、環境より想像力が好きだ」と述べている。
 イベントは、東浩紀が、自身が寄稿した解説の内容を要約するところからはじまった。

構成:前島賢 写真:築地教介(星海社)

 

「ゼロ年代」の意味

:ゼロ年代も過ぎ去って久しいが、僕は、日本のカルチャー史は昭和単位で動いていると思っている。『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された1995年は元号に直せば昭和70年。西暦1995年=昭和70年代に生まれた『エヴァ』が、昭和70年代=1995年〜2004年までの文化をつくったと言える。

だから、2007年に宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の連載を始めた時、「東浩紀は90年代のものをゼロ年代のカルチャーだと評価している」と批判したのは半分正しいが、半分間違っている。僕が擁護した「ゼロ年代」とは昭和70年代----95年から04年のカルチャーであり、一方で宇野常寛が評価した「本当のゼロ年代の文化」は05年〜14年のカルチャーだった。最初から「ゼロ年代」の意味がずれていた。

しかし、そのうえで、05年〜14年というカルチャーのまとまりは存在するのか、というのがぼくの疑問。そこで優勢なのは、カルチャーはなく、アーキテクチャーとコミュニケーションだった、というのが、僕が海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』の解説で書いたことです。

 

 以降の議論の内容をよりわかりやすくする為、以下に東浩紀が寄せた解説を引用しておこう。
「アーキテクチャーとコミュニケーションしかない」05年〜14年について、具体的には、東は次のように述べている。

 二〇〇四年から現在までの一〇年はコミュニケーションの革新がコンテンツの革新を圧倒した時代である。一九七〇年代ならば『ヤマト』、一九八〇年代ならば『ガンダム』、一九九〇年代ならば前出の『エヴァンゲリオン』と、日本では長いあいだそれぞれの年代を代表するオタク系のコンテンツがあったが、二〇〇〇年代を代表するコンテンツを挙げることはむずかしい。とりわけ二〇〇〇年代後半以降は、ミクシィ、Youtube、ニコニコ動画、ツイッター、LINEといったつぎつぎに現れるプラットフォームが、オタクかオタクでないか、サブカルかサブカルでないかに関係なく若者文化の全体を呑み込んでいき、文章も映像もキャラクターもすべてがコミュニケーションの「ネタ」としてのみ存在が許される、新しい視聴/消費環境が生まれている。

 そして、さやわかの『一〇年代文化論』について、

 環境の革新が想像力の革新を圧倒し、塗り潰す。その状況がよいものなのか悪いものなのか、またどれほど長く続くものなのか、ぼくとしては判断できない。村上裕一の『ゴーストの条件』やさやわかの『一〇年代文化論』のように、その変化を肯定的に捉える議論もある。若い世代はそれでいいと思う。

 と記述している。
 こうした整理に対して、さやわかが、自分も東浩紀と同じ「コンテンツ派」であり、10年代のコミュニケーションではなく、コンテンツを評価しているのだと反論するところから、ふたりの議論がはじまった。


星海社新書『一〇年代文化論』さやわか


さやわか:僕は東さんの問題意識はよく理解しているつもりです。というか今日ここでまず話したかったのは、果たして対立軸があるのか、という話なんです。というのも、僕の『一〇年代文化論』という本は、「10年代はけしてコミュニケーションだけの時代ではない」という話を書いたつもりなんです。

確かに「これこそが10年代を代表する文化だ」と明確に名指しできるものは書かれていないんですが、むしろそれは特定のジャンルや作品に時代を代表させることができなくなったから。「次の時代はこれです」と、単純に提示できていた時代は終わり、メインストリームがなくなり、それぞれの人が、自分にとって面白いものを面白いと言っている、という分断された島宇宙だけがある。10年代はそういう時代なのだと思う。まさにそういうことを書いたつもりです。

:でも、それは単純に「つまらない」状態を、言葉の定義を変えて擁護しようとしているだけではないか。

さやわか:そうやって否定したら、それこそ「つまらない」ままで終わってしまうと思いました。僕は10年代の書き手として、そういう状況をいかに肯定するかを考えた。分断された状態をよりよいものに変えていく為には、まずは分断されている状況そのものは認めなければいけない。バラバラのままの文化が、しかしバラバラのままで、新しい時代を生み出すことが出来るのではないか。

サブカルチャー批評はかなり前から、島宇宙化とか、社会が分断されているとか、小さな物語の乱立ということを指摘していたにもかかわらず、しかし一方で「これこそが次の時代を担うものです」と言って、特定の物語のみを肯定するような語り方をしてきた。まずはそのやり方を変えてみたかった。

ちょうど東さんも『一般意志2.0』の中で、リチャード・ローティを援用しながら「対立する意見を調停するのではなく、現代の情報技術を駆使することで無意識を可視化し、それを政治に反映する」ということを書かれていましたよね。僕はちょうどこの本を書こうとしていたので、あれは僕が文化に対してやろうとしていることと同じだなと思いました。

つまりこの本を書いた大本の発想は、『一般意志2.0』とあまり遠くない。あの本の中で東さんは「憐れみ」という言葉を提示して、自分にとって相容れない価値観を許容する可能性を語っていましたが、僕はネット界隈で流行った「残念」という言葉の、まさに無意識的な変化に注目して、従来なら欠点とされていたものを肯定的に受け入れていこうとする価値観の発生を論じたんです。

:僕も、価値観の多様性が大事という話なら認める。でも、それだと最近いろんなコミニティでいろんなコンテンツがちっちゃくブレイクしてみんな楽しくやってますよ、というだけで終わってしまうし、批評する意味はないんじゃないか。コミュニケーションとアーキテクチャについて社会学的に分析することはできるし、それはそれで意味があることだけど。

さやわか:すべてがコミュニケーションに回収されるという見方や、それを社会学的な分析に接続していく考え方は2008、09年からあったはずですね。しかし僕は、結局それがサブカルチャー批評の停滞を招いてしまったと思っていた。「今の若者はコミュニケーションに淫しているから、コンテンツの中身はどうでもいいんです。だから語る必要はない」で終わってしまう。

しかし、もちろんコミュニケーションに淫している人はいるとしても、そのコミュニケーションの中でコンテンツの精度が上がり、見るべきものが生まれるということは確実にある。僕の知っているジャンルだと、初音ミクしかり、アイドルしかりですが、そのほかでも全般的にそういうことは起こっていると思う。

:地下アイドルが盛り上がっていると言われても、カラオケみたいなものをコンテンツにされても困るわけだよね。中高生のカラオケだってコミュニケーションの重要なツールだという話と、そのカラオケがコンテンツとしておもしろいかどうかは別じゃない? そんなこと言い出したら、究極的には、以前、ツイッターにも書いたけれど(注1)、自分の娘の運動会のビデオが一番だよね、という話になる。でも運動会のビデオをいくら集めても何も生まれないと思う。

 ちょうど前日、ゲンロンカフェでは、気鋭の社会学者からアイドルプロデューサーへ、という驚くべき転身を遂げた濱野智史と、東浩紀によるトークイベント「アーキテクチャからアイドルへ」が6時間にわたって行われたこともあり(イベントに先立ち、ゲンロンカフェで濱野プロデュースのアイドルグループ Platonics Idol Platform----PIPのステージが行われ、東浩紀のiPadには、アイドルではなく、アイドルに向けて懸命にオタ芸を打つ濱野の姿が克明に収められていた)、今回のイベントでは、しばしば「コンテンツなきコミュニケーション」の象徴として、PIPをはじめとするアイドルが取り上げられ、またPIP論、濱野智史論に脱線することもしばしばだった。

さやわか:その運動会の比喩はよくできているけど(笑)、しかしアイドルを語るものとしては完全ではないと僕は思っています。「地下アイドルはお遊戯会でいい」という人たちもたしかに一方にいるけど、でもしっかりとした成長を見せるグループだってあるし、その必要性を説く人たちもいるわけで。その全体があることが、今のアイドルシーンの面白さだと思う。

:運動会から、国体オリンピックを目指すやつはいる、みたいな話でしょ......でも、本当にいるか?(笑)

さやわか:それは、もちろんいますよ!(笑)

 

 

価値観は島宇宙的に多様化したのか? それとも急速な単調化を辿ったのか?

 05年〜14年の文化にはコンテンツがなく、ただコミュニケーションしかなかいとする東浩紀と、そこにも評価すべきコンテンツはあるのだというさやわか。そこで具体的なタイトルを上げてほしいと言う東に対して、さやわかは、作品ではなく状況そのものを擁護しようとし、そんなふたりの間を海猫沢めろんが取り持とうとするも、話は平行線を辿るという状況がしばらく続いた。

 そんな中で、

海猫沢:今、ニコニコ動画の視聴者から『進撃』があるじゃないか、と。

 と、10年代の文化として、『進撃の巨人』の名前が出ると、東は『進撃の巨人』の部数の増加は、戦後マンガのヒット作の中でも特異な伸び方をしているのではないかと語った。

:例えば全国のコンビニに一度に配本されるとか、今、マスにリーチする仕組みはすごい。そのシステムが整備されたという面が大きいよね。でも、それって、『進撃の巨人』にしろAKBにしろ、大資本ががっつり関わると勝てますという話でしかない。成功するためには大会社に就職した方がいいよね、というのとほとんど変わらない。 

 そして、さやわかが前提とする「10年代には、メインカルチャーとサブカルチャーの区別がなくなり、多様な価値観が島宇宙的に存在するようになった」という認識そのものに疑問を呈し、むしろ、電通・マスコミ・大資本的なものが社会のムーブメントを決定する時代が復活したのが、05年以降ではないか、と述べた。 

:さやわかさんは、価値観が多様化と言うけれど、僕は全然そうは思っていない。95年の『エヴァ』は何が革命だったかと言えば、内容もあるけれど、まずガイナックスというのが、今でいうベンチャー、スタートアップ企業だった。80年代頭に学生が集まってバンダイから出資受けて『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を作ったのがメジャー化への一歩で、そこから現在カラーでつくってる『新劇場版』にいたるまで、メンバーは変わっても自分たちだけの価値観を貫いている。

庵野さんやガイナックスのそういう信念はすごいと思う。それはかつての美少女ゲームのメーカーもそうで、すごく小さなソフト会社が、大きなムーブメントをつくり、サブカルチャーのエッジを担っているのがおもしろかった。そういう光景が、日本では80年代、90年代、00年代と長いことあったのに、10年代はあまり見えてこない。

その意味で、岡田斗司夫が「オタク・イズ・デッド」と言ったのは正しい。それは、古い「オタク族」がいなくなったというだけではなく、もっと大きな意味を持っている。1970年代からずっと、日本にはサブカルチャーというものがあり、団塊世代から団塊ジュニアにいたるまで、主流カルチャーはつまらなくて、サブカルチャーの方が面白いんだというのが大前提だった。サブカルチャー批評だって、そういう状況のうえにあった。いまやそれが崩れつつある。

いまや価値観は急速に単調になってきていて、それを象徴するのが去年。「じぇじぇじぇ」「倍返しだ」「今でしょ!」と「新語・流行語大賞」の4つのうち3つがテレビ発で、残りの一個が「お・も・て・な・し」と、つまりオリンピック。2012年に自民党の政権が戻り、13年にはテレビ復権。そして今年は、KADOKAWAとドワンゴが合併した。

僕はドワンゴの川上量生さんをすごく尊敬しているけど、彼はホリエモンのようなIT企業家とはまったく違う、ある意味で保守的な人。今までの秩序を倒そうとか変えようとかは考えず、その中の一部にニコ動をしっかり根付かせて行きたいという考えで、やっぱりこれもひとつの時代の終わりを象徴している。

海猫沢:マスメディア以外の方法で、どう面白いコンテンツを確保していくかという話で言うと、先日、TBSラジオ「文化系トークラジオLife」という番組で、里山ウェブというテーマが出たんです(6月22日「里山ウェブの時代」)。里山ウェブって、造語なんですけど、元は藻谷浩介さんの「里山資本主義」から来てるんですね。ようはアメリカ的なマネー資本主義のサブシステムとして、エコな里山で生活するのもいいんじゃね、というのが「里山資本主義」で、そのウェブ版というイメージです。(参考:里山ウェブについての補足と覚え書き

いわゆる評価経済的な世界というか、すごく狭い、地下アイドルとか有名ニコ生主みたいな人が一杯出てきて、セルアウトして消えていくというサイクルの早い世界ってどうなんだよと。それはそれで面白いかも知れないんだけど、現状ではそこからガイナックス的な革命集団が出てくるかというと、結局、小さいままで革命は起っていない。ネットはサステイナブルな世界ではない

:世界は今不況で、特に今の日本は貧富の格差がどんどん拡大している。だから、里山ウェブの副収入でたとえば年間300万稼げるとしたら全然違うし、そこで生きている20代の人にはいいと思う。でもやはりその規模の話でしかないでしょう。若い人の自己実現の場としてはいいだろうけど、43の僕にはあまりついていく気力がないかな(笑)。

その点でさやわかさんは、この「残念」というのをどれほどサステイナブルだと考えているのか。10代20代が、俺たち残念だよねと喜んでいるうちはいい。30代もなんとかなるかもしれない。僕自身そうだったけど、30代前半で子供がいない夫婦だと、確かに小金もあるし時間も自由になるしカルチャーとか消費できる。けれど40代50代台になっても、俺たち残念な里山ウェブだよね、というのを続けていられるのか? 

さやわか:ここにたぶん誤解の一端があると思うんですが、その指摘は正しいんです。しかしだからこそ、この本は「残念」を完全に擁護しているつもりは、決してない。最後の方では、2009年の秋葉原の通り魔事件について、犯人が、「残念」というキャラクターを標榜して、それが社会的に認知されなかったがゆえにあの事件を起こしたのだ、という風に分析している。それはもちろん許されるべきことではなくて、そこに課題があるわけです。

僕がこういう書き方をしたのは、東さんの『動物化するポストモダン』を意識したところがある。あの本については、東さん自身が、動物化という概念を宙吊りにすることに成功したと語っておられた。つまりあの本は、これからの時代は「動物」が快調にやっていくのですという本でもなければ、「動物化」しているから世の中ダメなんだとも言っていない。もちろん、東さん自身で「動物化」の状況についていろいろ思うところがあるかもしれないけれど、そういう個人的な感慨と分析を分けて書いている。

その態度はさっきの『一般意志2.0』の論旨にまで通底しているものだし、また僕はそれこそ今やるべきサブカルチャー批評の形であり、素晴らしいものだと思っているんです。だから僕も「残念」という概念に対して、個人の考えはあるけれど、しかしこの本としては批判しているようでもあり擁護しているようでもある、という形にしようと思った。

 

講談社現代新書『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社)/東浩紀

 

講談社現代新書『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社)/東浩紀

 

海猫沢:でも、そういう社会状況の中から革命的なコンテンツは出てくるのか。『エヴァンゲリオン』はちょっと世の中を変えたはず。そういうことがなぜ今起きないのか、ということにぼくらは苛立っていると思うんですよ。

さやわか:僕だって社会状況をひっくり返すような、革命的なコンテンツを歓迎するし、自分だって革命したい。しかしたとえばさっき話に出たような、テレビ復権の潮流に単に対立姿勢を取るだけでは時代に即していないのではないか。

むしろ今は、その内部に食い込んでいきながら、中から変えていくしかないのではないか。僕も書き手としてはそういうことをやっているつもりで、それは自嘲めいた言い方をすれば共同体に参加しつつ密かに水路に毒を流し込むような行為だと思っているんですが。

:革命は「みんな仲良し」ではできないでしょう。みんなが参加できる革命、粛正が存在しない革命なんて存在しない。たとえばさやわかさんの言う残念の価値観とか、里山ウェブのようなコミュニティ感って、官邸前デモのゆるふわ感にも近いと思う。でも、ゆるふわじゃ革命はできない。あの官邸前デモを擁護していた人たちは、次の二点で新しいと言っていた。

ひとつ、このデモには政治的主張がなく、誰でもいつでも参加できる。ふたつ、このデモには暴力性がなく、警察に帰れと言われたら粛々と帰る。でも、これおかしいじゃない。政治的主張がなく、権力にも抵抗しないって、これ新しいとかいう話じゃない、ただのデモの自己否定じゃないかと。そんな駅前の盆踊りみたいなもので何かが変えられるわけがない。本当はそれをおかしいと言わなければいけないはずなのに、官邸前デモを擁護したかったひとたちは、肯定したいが為に肯定のためだけのストーリーをつくってしまった。でもそんな無理筋な主張では、未来に繋がらないのではないか。

さやわか:もちろんそうですよ。僕はあんなものは到底受け入れられない。

:でも、それはさやわかさんの本にも同じことを感じる。(さわやか:え゛ー?)すごく一生懸命に「残念」を肯定できるロジックをつくろうとしている。普通なら肯定できないはずの残念を、価値観をひっくりかえそうとしている。でも、やはり肯定できない物は肯定できない、というところは押さえなければならないのではないか。

 「あんなデモと一緒にされてしまうとは」とさやわか。

:でも、ゆるふわで、なんでもあり、という文化でしょう?

さやわか:「残念」と「ゆるふわ」は違いますよ......。しかし今の話で、僕のこの本の記述の仕方が最低にわかりにくいし、だから売れないのだ、ということがよくわかりました(笑)。めろんさんの『左巻キ式ラストリゾート』は重版かかりそうだけど、僕の本が動かないのは、そういうことなんだと思った(笑)。

しかしそれこそ、官邸前デモに来てる人たちの多くは、いま僕が言ったように従来的な対立の構図を単に受け入れて乗っかっただけのように見える。それと比較すると、メジャーな領域に入り込んでいこうとする今の若い人たちのカルチャーは、もっとちゃんと社会や文化に対してガチで向きあっていると僕は思うんだけど。

海猫沢:彼らは真剣なんだけれど、はたからみれば残念に見える、ということ?

さやわか:そう。それを上の世代が理解できなかったとしても、彼らは彼らなりに真剣にやっているという見方は重要です。

:でも、彼らのガチはどこに向かってるの? それが本を読んでも見えてこない。

 

 

コミュニケーションの連続で生まれたコンテンツとは

 そしてまた、議論は、10年代にカルチャーはあるのか、という話題に戻ってしまった為、東は改めて問う。 

:さやわかさんがコンテンツに対するコミュニケーションの優位を主張しているわけではない、というのはよくわかった。だけど、コミュニケーションの連続こそが面白いコンテンツを生み出すと主張したいのであれば、その例を教えてほしい。

さやわか:例えば、本当に一例ですけど、それは『カゲロウプロジェクト』みたいなものですよ。「ニコニコ動画には環境だけがあって、作家というものはいないんだ」というのは、まさに「もはやサブカルチャーはコミュニケーションに淫している」とされたゼロ年代末ごろによく言われていたことだけれど、しかし『カゲプロ』のじんさんは明らかに作家として活動をしていると思います。

初音ミクとかIAというボーカロイドがどんなキャラクターであるかは彼にとってはほぼどうでもよくて、しゃべるシンセサイザーに過ぎない。しかしだからこそ、彼は自分の物語をリスナーに届けることだけを目指している。これは作家的な態度ですよね。

ではじんさんは作家としてどう新しいのか。まず彼がやっているのは、コンテンツをひとりで複数のメディアに分配していくということです。「一人メディアミックス」をやっているんですよ。しかもメディアミックスされたすべてのコンテンツが、それぞれ補完関係になっていて、全部を見ないと全体が見通せなくなっている。

たとえばアニメだけ見ても意味が分からないんですよ。そういう作品がこれまでに作られたことがなかったとは言いませんけど、そういうメディアミックス的な作品群を浴びて育った世代が、それが当然のこととして一人で作ってしまうような作家になるというのは面白い。

もうひとつ、『カゲロウプロジェクト』の何がいいかと言えば、作家というものの定義をゼロ年代を踏まえつつ、さらに更新しようとしているところです。そしてそれは、実は海猫沢めろんさんの『左巻キ式ラストリゾート』にも関係があるんです。じんさんが始めたのは『左巻キ式ラストリゾート』や『ファウスト』がやったことのさらに先にある。

かつて作家というのは、つまり文字を書く人だと思われていた。しかしめろんさんは、マンガが描き文字を使っているんだから、小説だってフォントをいじったりしてもいいんじゃないか、という更新を目指して、小説というものをビジュアルを含んだものに変えようとした。『ファウスト』もそれをやりましたよね。DTPを駆使して、ビジュアライズされた小説が書かれるようになっていったんです。その系譜にあるのが今のニコ動のボカロ楽曲だと思う。

つまりあれは、映像と音楽と文字が一体化した、次世代の文学表現になっているんです。音楽の立場から見ても、音楽が単なる音ではなくて、動画として見られることを重視している。これはMTV文化がアメリカのようには根付かなかった日本の音楽文化を鑑みても重要なことです。そして歌詞の文字列が動画の上でどのように表示されるかも重視される。それは今言ったDTPによる文学の更新と直接関係している。じんさんはその中でも最先端の存在として、「徹底的に物語を聴かせたい」というラディカルな姿勢で登場した。

僕の観点からすれば『カゲロウプロジェクト』は、『左巻キ式ラストリゾート』や『ファウスト』といったゼロ年代の文化と、きちんと歴史として繋がっているし、だからこそ面白い。サブカルチャー批評がゼロ年代の続きを描くなら、これをちゃんと位置づけてしかるべきだと思う。

 

星海社文庫『左巻キ式ラストリゾート』海猫沢めろん

 

:なるほど。でも今の話を聞くと、『カゲプロ』はコミュニケーション志向でもなければ残念でもない。単純にいいコンテンツじゃない? 残念はどこにあるの? 価値観として入っているの?

さやわか:確かに『カゲプロ』のキャラクターには引きこもりとかコミュ障みたいなキャラクターも多い。その意味で価値観として「残念」が入っているとも言える。しかし、だからと言ってじんさんの作った作品が「残念」というわけではないんです。

僕の本の中では、初音ミクというキャラクターはネギを持たされることで、「残念」な使い方をしてもいいのだという表現の幅が幅が生じたと書いた。そこでもし初音ミクを発売したクリプトン社が「初音ミクはクールなキャラクターなのだから、そういう使い方はさせない」という姿勢を頑として貫いていたら、きっとじんさんのような作品も作れなかったはずだ。僕の本がしているのは、そういう議論です。

海猫沢:ノベルゲーが出た時に物語を語るプラットフォーム自体が変化したと思ったけど、ニコ動でも今、同じことが起こっているということ?

さやわか:そう。プラットフォームの変化によってどうしても断絶ばかりが語られてしまうけれど、しかし断絶が意識されることによってこそ、それ以前と以後という言い方で連続性を語ることができる。さっきの話にも関係しますが、そうやって違いを認めることで、我々は連続している、繋がりがあると言いたかった。

:なるほど。プラットフォームが変わったことで、ある世代の真剣さが別の世代からは冗談みたいなものに見えると。それはよくわかるし、全然いいじゃない。今のはすごくよくわかりましたよ。

 イベントも終盤に差し掛かったところで、ようやく具体的な10年代のコンテンツが語られたことで、会場からは拍手が起こった。 

:最初から普通にそう言ってくれればよかったと思う。それは、すごくストレートに今の環境でも立派なコンテンツは生まれていますよ、という話じゃない。そういうことをあえて言わなくなっているがゆえに、すごく話がしにくくなっていると思う。

 

 10年代にもカルチャー=コンテンツはある、という一応の結論を得て、イベントは質疑応答に進んだ。

----さやわかさんに伺いたい。『僕たちのゲーム史』は、コンテンツの歴史を辿る本としてすごく面白く読んだので、『一〇年代文化論』には違和感があった。状況の歴史はよくわかるんですが、どの作品が面白いのか、次にどの作品が来るのかというのが、この本を読んでもわからない。その疑問は、今日、東さんに代弁していただいたと思う。一方で『一〇年代文化論』は、準備論というか、この本をもとにコンテンツ論や新たな流通、アーキテクチャから生まれる作品論をお書きになるのでは、とも思ったのですが、もし、次の本の構想があればお聞かせください。

:大変いい質問が(笑)。

さやわか:いや、本当に(笑)。まず、僕はこれまで『僕たちのゲーム史』と『AKB商法とは何だったのか』という本を書いたのだけど、しかし読んだ人に「この本の著者は対象に愛があるから正しいのだ」と言われがちで、それが気になっていた。もちろん僕はちゃんと対象に愛があるという書き方は自覚的にしているのだけれど、しかし「だから正しい」と言われるのは、おかしいと思った。愛があるのと正しいのは別のこと。僕は特定のジャンルにおもねっているように思われるのは本意ではなかった。

だから今度はいろんな状況に生かせる本を書こうと思った。そのためにはローティ的な本、徹底してポストモダン的な本を書かねばならないと思った。つまり、自分は何かを信じてはいるけど、しかし他の価値観が存在することも考慮に入れるという姿勢で書かれる本。ゼロ年代の批評というのは、絶対的な価値基準がないことが明らかであったにもかかわらず、価値観同士を争わせる時代、ヘゲモニー争いになっていた。僕は10年代に本を出す書き手としてそれを変えていく必要を感じているので、「自分はこれを信じている」という書き方はできなかった。

けれど、その姿勢のせいで『一〇年代文化論』の趣旨が読者に届かなかったのであれば、それは僕の技術の問題でしょう。ただ、それでも僕がここで『一〇年代文化論』を書いたのは、自分にとってとても重要なことです。なぜなら、これさえ書いておけば僕は今後、特定の価値観を信じた書き方もできるんですよ。

たとえば僕は次の本としてガチに文学、小説のことだけを書いた本を出そうと思っている(編集部注:星海社新書より発売予定)のだけど、その内容については「それって君が信じているだけのことなんじゃないですか」と論難されると思うんですよね。

でも、そうした時に僕は『一〇年代文化論』を差し出して、この本を読んでくれと言えると思う。自分のやることに保険をかけていくようなやり方だけど、僕は東さんのようなドラスティックな書き手ではなく、段階を重ねて書いていきたいと思っている。

:自分が評価してないものについてニュートラルに書きたいというのはよく分かる。でも、残念ながらそういう本は売れないんだよね......。

さやわかさんの在り方は、速水健朗さんの知性の在り方を思わせる。そういう人がいるのは、日本の豊かさのあらわれだと思う。さやわかさんも速水さんも自分のことをライターと言っているけど、ライターが教養を持っている国というのは、珍しい。僕は、頭のイイヤツが全部大学出てて博士号もってて大学の内部にいます、という世界がすごくいやなの。

これは実は、さっきのサブカルチャーの消滅という話とも繋がるのだけど、日本では、賞を取ったり大学の先生になったりするひとは本当は凄くなくて、本当に凄いもの、面白いものは、在野にあるっていう前提がずっとあったはず。

でも、その前提が今ものすごい勢いで崩れて、若い人は屈託もなくアカデミズムや政府の中に入っていく。テレビ東京を飛び出した反骨の人であったはずの田原総一朗さんまで、『BLOGOS』で、「最近の若い奴はしたたかで、拳を突き上げて潰されるようなことをせずに、中から提案していこうとする」みたいなことを言っている(http://blogos.com/article/62513/)。

でも、そしたら、ちゃんと大学出て政府の役人になるのが一番という話にしかならない。アカデミズム出身の僕がこういうことを言うのは自己矛盾に聞こえるかもしれないけど、僕を育てたのは、浅田彰とか柄谷行人であり、彼らは大学の世界とは無関係に適当にやっていた。僕はそういう知的な在野の世界を受け継いで行きたい。だからこのゲンロンカフェもやっている

今は出版社の側に企画力がなくなっていて、ゲンロンカフェがなければ、浅田さんとの対談も中沢(新一)さんとの対談もなかった。今、トークイベントや対談文化というものもすごくコミュニケーション志向になっていて、コンテンツ力がなくなってきているけど、だからこそ、ゲンロンカフェでは、ちゃんとコンテンツとして成立するイベントをやっていきたいと思っている。

 

----東さんは仏教の本を書く予定と最近おっしゃられており、今、さやわかさんは文学の本を書かれると今ありましたが、めろんさんは、次はどのような本を書かれる予定でしょうか?

:海猫沢さんは今『ゲンロン通信』(「ゲンロン友の会」の会報)で、ちっちゃい女の子を大変猟奇的な目に合わせる、『左巻キ式』を引き継いだような小説を連載している。ぼくが決定権をもっている会報じゃないとなかなか掲載できないと思う。是非、入会してそれを読んで欲しい(笑)。

海猫沢:今言った、『ゲンロン通信』で連載中の「ディスクロニアの鳩時計」は、ぼくが出せるものをすべて出し切る形になると思います。これ、ループと時間哲学に対する批評になってて、東さんが批評で書かれてる「ループの二重焦点化問題」なども、既に問題にしてたりします。『左巻キ』はゼロ年代を総括しようとして書いたんですが、「ディスクロニア」はそれから先の一〇年代を総括して未来に向かおうかと。

いつ終えられるかわからないんですが、理想である「SF、ミステリ、ホラー、ラノベ、官能、純文学、すべてのジャンルを横断する」闇鍋のようなものになるはずです。70点で成功するんじゃなくて二億点目指して爆死するタイプの作品だと思ってます(注・連載11回を迎えましたが、まだ全体の半分行ってません!)。

それとは別に、今ぼくが考えてることは「文学のアップデート」です。今月の河出書房『文藝』14年秋季号には、僕も東さんも五枚ほどの掌編を書いているんですが、テーマが「十年後」だったんですね。それ書きながら、まだぼくが文学に対してやれることは残っているな、と思いました。

というのも、今の文学は全般的に、テクノロジーに対する興味があまりにもなさすぎるんです。かつてSFが担っていたものを文学で引き受ける人がいるべき。なぜなら昔のSFって、つまり今のこの現実のことなんですよ。例えば、無人機とか軍用ロボットとかの是非なんて10年前に書いたらSFだったことが、アメリカでは現に今、問われているし、単なる哲学だと思われていた問題も科学的なアプローチで実証できるようになってきている。

だからそういった現実を描くことで文学は社会とつながって、アップデートしていけるはずなんです。ぼくはそう信じてるので、今は科学ルポなんかも同時にやってますし、ちょっと前の八代先生とのiPS細胞本とかもそういう意図があります。......って今、気付いたら会場に、(佐藤)友哉くんがいるんだよね(笑)。

 イベントも終了間際になって、思わぬ特別ゲストが登場。
 東浩紀は、佐藤友哉と十数年ぶりに再会を果たすこととなった。

佐藤10年代になにひとついい経験がなかったので、お三方も集まるということで、いいヒントになるかな、と......。

さやわか:ヒントになりましたか?(東:絶対ならないでしょう)

佐藤:いや、特には......(会場爆笑)。

 と、改めて、10年代にコンテンツをつくること、語ることの難しさが明らかになった形だ。
 逆に佐藤から、

佐藤さやわかさんは小説を書いた方がいいと思う。

 とさやわかへのヒントが送られた。

さやわか:僕は佐藤友哉を作家として敬愛していて、その彼に小説を書けと言ってもらえるのは本当にありがたい。それに実は、僕はずっと小説を書こうと思い続けているからです。しかし書かないのは誰も僕に小説を書いてくれと頼まないし、他の仕事を頼んでくれるから。

だから今やっているような仕事が全部なくなって生きていけなくなったら、僕は「小説家になろう」に小説を発表して、あとニコ動でボカロPになって、それが終わったら首を吊って死のうと、昔から思っている(笑)。しかしそうやって、小説を書いてやると思っているから、評論の仕事でも保身的にならずに書けているのだと思います。

 その後もしばらく議論は続けられ、夜の深まりとともに、東浩紀の酒も進み、最終的には、

:コミュニケーションを超えて、質の高いコンテンツを生み出したい。人間関係への配慮とかはくだらない。本当は宇野常寛くんをゲンロンカフェに呼びたいんで、だれか繋いでよ!

 との結論で、盛況のなか、イベントは終了した。

2014.7.12.ゲンロンカフェにて。

 

注1:5月19日に、東は以下のようなツイートを投稿している。

二次創作には力があった。70年代から90年代にかけ、日本ではコンテンツの震源地が徐々に原作から二次創作へと移っていった。そこまではいい。しかし2000年代以降は二次創作があまりに一般化し、原作との緊張感を失うことになる。となると残るは「だれでも表現者になれる幻想」の世界。

https://twitter.com/hazuma/status/468276663705272320


むろん「だれでも表現者になれる幻想」も悪いわけではない。ただそれは「だれでも子どもの運動会はおもしろい、友人の演劇は観に行く、同僚のカラオケは褒める」ていどのものにすぐに堕していくわけで、金儲けには有望だけどコンテンツの震源地にはならない(カメラは売れるが写真の質は関係ない)。

https://twitter.com/hazuma/status/468277328280158208

 

この点で、村上裕一やさやわかが「コンテンツの自給自足」状況を高く評価するのはぼくは同意できない。それは単に「みんな子どもの運動会がいちばん楽しいよね!」という状況を肯定しているにすぎず、コンテンツの放棄だと思う。ネトウヨとは関係ないが、明後日のトークはこここそ焦点にしたい。

https://twitter.com/hazuma/status/468278226100293632

 

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