「話す」こと。「書く」こと。
普通の生活をしているならば、これらの行為をしない日はないはずだ。
僕は日本人なので日本語を話し、書くことができる。
だが、「できる」というのは秀・優・良・可・不可でいえば「可」だ。
ギリギリ単位取れた! というレベル。
ある日、朝から晩まで打合せがあり、合計で10時間くらい喋った日があった。
その日の夜に一日を振り返ってみたのだが
「自分の伝えたいことの3割も相手に伝えられてないだろうな……」
というのが正直な気持ちだった。
どんな仕事でもそうだと思うが、1人でできることなどたかが知れている。
周りの人からいかに協力を得るかが重要で、その伝達手段として「話す」「書く」
ということをとらえると、「可」では足りない。
何かを成すためには「優」や「秀」を目指すべきなのだ。
そう思った僕は「話し方」や「書き方」の根本を学びたくなった。
そうしてレトリック(修辞学)の本にハマった。貪り読んだ。
とはいっても本を読むだけで「話し方」や「書き方」が劇的に向上するわけではない。
現に今書いているこのブログも、自分では「うまく書けた!」という実感は全くない。
むしろ苦痛以外なにものでもない。ほんと、もう書きたくない。
ならばレトリック本を読んだことは無駄だったのかというと、そうではない。
むしろ「こうかはばつぐんだ」った。「レトリック思考」という観点をもつことができたからだ。
「レトリック思考」とは僕が勝手に考えた言葉(調べてないが、前例がある可能性も有)だが、
要するに相手の言葉(文章)の伝えたいことではなく、使い方に注目する考え方だ。
例えば
「この言葉、何度も繰り返して使ってくるなー」とか
「いきなりガツンと結論からカマしてキタ——!」とか
「ここで語気を強めるのか……」とか
「数字使って説得力、ですか」とか
「“だけど”とか“でも”とか逆接うまく使うなー」とか
「もはや何を言ってるかさっぱりわからんが、なんか勢いと熱意で押し切られそうだ…」とか
そんな感じ(軽いノリで申し訳ない)。
こういう考え方を持って人の話を聞くと、とてもおもしろい。
極端な話、相手の話す“内容”に全く興味がなかったとしても、
“使い方”にフォーカスすれば、集中して聞ける。
今の僕なら、例えボルボックスについて3時間語られても、寝落ちしない自信がある。
逆に“使い方”に注意して聞くからこそ、相手の本当に“伝えたいこと”を知ることができる
と言うこともできる。
“使い方”(会話・文章の飾りやテクニック)を排除して残ったものが“伝えたいこと”だからだ。
「レトリック思考」を持てば詐欺師の話術からも身を守ることができる(はず)。
「レトリック」をマスターすることは相当な修練が必要だと思うが、
「レトリック思考」を持つことは全然難しくない。お手軽で費用対効果の高い「武器」だ。
日本で生活するなら、
使えなくても全く問題ない英語を学ぶよりも、日本語の“使い方”とその考え方を身につけるべきだろう。
という感じで『武器としての決断思考』ならぬ『武器としてのレトリック』をつくりたい。
そう思った一日でした。
エディター
星海社エディター。1984年生まれ。山梨県出身。関西学院大学文学部卒業後、森ビル株式会社に入社。3年間、不動産取引に従事。2011年4月、星海社に転職。尊敬する人物は武田信玄とビスマルク。
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