学校の先生が締めているその黒帯、本物ですか?
教育
私たちは教育を、まるで神が与えた社会の万能薬のように盲信している。今般、文部科学省が掲げた崇高な理念の後光により、現場の疲弊という現状を置き去りにしたまま義務教育において武道が必修化された。「伝統と文化を尊重する」という愛国心の醸成を目的とした子どもたちの指導を担うのは、わずか数日間の講習で黒帯を取得した先生方である。
武道のもつ人格完成の手段と精神を理解しないまま、技術もない人が示す武道。それは伝統と文化の尊重ではなく破壊に他ならない。桜花と等しく我が国固有の文化である武道の破壊を食い止め、今こそ教育手段としての在り方を見直す時機ではないだろうか。
序
第1章 教育の最前線とその迷走
1 教育の変質と現場の疲弊
2 武道必修化は教育に何を求めるか
3 尊重すべき伝統と文化とは
第2章 日本固有の文化としての武道
1 桜花と武道
2 武道はスポーツか
3 第三世代の武道
4 黒い帯の意味
第3章 「武道」の教育への最適化
1 必修領域としての武道
2 教育とスポーツの狭間
3 流儀による解釈の隔たり
4 過熱する保護者たち
第4章 守破離
1 痛みのその先
2 指針のない道徳教育
3 生涯教育と武道の親和性
結
教育手段としての武道
「序」
日本における「教育」は、まさに神話そのものであるが、その神話はすでに崩壊した。今日の社会においてはグローバル化した経済の中で競争を勝ち抜く力、すなわち基礎学力、発展的学力などさまざまな素養が教育に求められている。また一方で、学力の低下、活字離れ、凶悪な少年犯罪が起きた時のモラルハザードが叫ばれるときは、決まってその原因を教育に求めるような論調が主を占める。教育への期待はそれだけに留まらず、心の教育、子供の安全の確保、充実した学習環境、そして適切な進路指導などまでもが保護者サイドからは要求される。
教育が社会からのこれら要求を全て満たすというならば、それはまさに“神話”に他ならない。神話というものは、実現性が限りなく低いにも関わらず奇跡的に実現する、させてくれるという期待が神格化されたものである。教師という職業は単に教科の知識を教授することだけが職務ではないとされ、人間としての生き方を教えることまでを期待されることから「聖職者」と形容される。まさしく私たちが、聖職者が施す学校教育というものを神格視していることの現れである。
しかし、そのあまりの後光の眩しさに、内包している問題点を見落としてはいないだろうか。果たして「教育」は、国の発展に寄与するあらゆる素養を育んでくれる神話たりえるのか。
IT技術の目覚ましい進歩によって産業形態は大きくその姿を変えた。以前は品質の高い製品を均一かつ大量に製造できる技術が大きな国際競争の原動力となっていた。しかし今日においてはその根源とも言えるアイデアを生み出す想像力、いわゆるイノベーションを起こせる力が求められている。国が求める、すなわち育成したいとする能力の方針転換を受けて教育も追従するようにベクトルの方向をシフトした。文部科学省が教育改革の目玉として掲げた「“生きる力”を育む」という、反論のしようのないほど崇高過ぎる理念は、その評価はもとより育成の方法さえ確立されないまま強行されてきたことは記憶に新しい。しかし実現性を伴わない“生きる力の育成”という方針もやがて修正されるようになり、今また国の教育方針は揺らいでいる。
コンパスの定まらない航海の負担はやがて歪みを生み出す。今日の学校教育に求められる役割はあまりに肥大化しており、生じた現実とのギャップによって制度と現場の双方が疲弊していることは論を待たない。冒頭で述べたとおり、既に教育神話は崩壊している。その余波はやがて社会の階層拡大及び固定化につながることは既に十分予見されているところである。
ところで、私たちが普段マスコミで見聞する「教育」というのはどこの教育を指すのだろうか。子どもが大半の生活の大半を過ごす学校教育なのか、家庭において両親に施される教育なのか、進学塾による受験教育なのか。そのような明確な線引きがなされて問題視されることは少ない。暗黙の内に文部科学省が担っている学校教育、特に「義務教育」を指しているといっていいだろう。しかし、当然ながら学校教育はすべての諸問題をたちどころに解決できるような万能薬ではない。
教育の中でもとりわけ義務教育への期待が過度になるのは、その名の下において誰もが家庭の経済環境に左右されることなく受けることができることから当然の流れだと言える。広く義務教育を受けている子ども、およびその家庭からの要求が一極集中して現場は疲弊し、制度の理念との乖離が生まれてくる。
かつて教育の役割は学校、家庭、コミュニティで分担されていた。学校では基礎的な知識の教授、集団生活とそれに伴う人間関係の形成、それらを円滑にする道徳教育。家庭では基本的な生活習慣と個性を育む情操教育。そしてコミュニティは他者との生活上の関わりを通して社会性を育み、「道徳の実践」という形でモラルを育んできた。
しかし現代社会ではそれらの教育を取り巻くファクターが一変している。女性の社会進出に伴い核家族が進み、家庭教育へ親が積極的に関与し辛い環境を生み出した。それは地域コミュニティでの教育をも揺るがすことになり、結果として学校教育に家庭教育とコミュニティ教育の役割までもが要求されるようになった。この社会の変化が生み出した学校教育への役割一極集中化と現場の教育資源とのアンバランスは、文部科学省の打ち出した「生きる力」の育成という途方もないゴール設定によって一層の負担を強いられ、マイナス方向へのスパイラルを描いている。
この一連の教育問題については専門とする社会学者、教育学者のあいだで未だ論争の真っただ中であり、私独自の論を唱えるつもりはない。問題の原因がどこにあるのかは専門家の方々にお任せするとしても、今重要なのは、教育が担える限界を適正に見極め、少しでもその理念を実現できるように教育の役割を再分配して資源を最大限に利用できる仕組みづくりではないだろうか。
本稿ではその一助として「教育手段としての武道」すなわち武道教育を提言したい。
すでに武道は中学校において必修化されている。しかしそれは理想の眩い光に包まれて見えなくなってしまった大きな欠陥を内包したまま実施されているのである。
平成18年、約60年ぶりに教育基本法が改正された。そこでは教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が新たに規定された。その後、平成20年1月の中央教育審議会答申において「武道については、その学習を通じて我が国固有の伝統と文化に、より一層触れることができるよう指導の在り方を改善する」ことが示された。同年3月改訂の中学校学習指導要領に、第1、第2学年の保健体育で武道を必修とすることが明記され、平成24年度より完全実施されている。
ここでも非のうちどころのない美辞麗句が掲げられて武道が義務教育の中に組み込まれたことが分かる。しかし、問題はその理念ではなく実施の過程にある。
武道の種類及びその団体の理念により若干の差異は見られるものの、通常、段位の取得は1年~10年ほどの修行を要する。1年365日の全てを稽古に当てることは困難なため、実質は週1~3回程度の稽古を先述の年数継続した上で段位を取得するのである。しかし、教育現場で武道と称して指導するのはわずか3日間の講習で黒帯・段位を取得した教師なのである。
黒帯というと世間ではまるで「免許皆伝」のような印象をもたれるが、それは大きな誤解である。黒帯は段位を取得した証ではあるが、段位にもレベルがある。段位の一歩目である初段位はようやく武道の入口に立ったに過ぎず、そこから本格的な修行の道が始まることを意味するに過ぎない。その初段位すらもまともに修行せずに、講習で急ごしらえされた黒帯の先生が武道を指導するのである。
義務教育の内容に武道が取り入れられたことは大きなプラスである。しかしそれは本来、武道がもつ技術や稽古の体系、そしてそれらの意味する精神性を正しく伝えられるのならば、という前提に成り立つ。しかし、先述のような昨日今日武道をかじった人が「教師である」というだけで指導者となる実態が、「我が国固有の文化」である武道の教育と言えるのであろうか。これが伝統と文化を尊重することになるのか、そのような形骸化した武道教育が子どもたちに何を与えうるのか。私は大きな疑問を抱かざるを得ない。もし武道という文化の継承が大きな意味を持つというのならば、義務教育へ押し付ける形ではなく、社会の中で広く役割分担を図る方がより正確にその文化を継承することになり、現場の疲弊も軽減することができるのではないだろうか。
新渡戸稲造博士の秀逸な表現を借りれば、「この国に生まれし固有の文化である武士道は何ら手に触れうべき形態をとらない。しかし、我々はいまなおその力の強い支配のもとにあることを自覚させられる。それを生み、育てた社会状態は消え失せて既に久しい」。だからこそ、義務教育の中に取り込むにあたってはその意義を正しく捉える必要がある。文化の継承として、可能な限り正確な姿形を後の世代に伝えるためには必要不可欠なプロセスだと言える。単なる技術の教授は武道の一端に過ぎない。武道から、その本質である人格の完成を目的とした道徳規範たる武士道精神を取り除けば、それは他者を傷つけ制圧することを目的とした格闘技へと姿を変え、武道ではなくなってしまう。
2020年の東京オリンピックを控え、新たな種目として「空手」が加わるかどうかが世間の注目を浴びている。私見としてはスポーツの祭典であるオリンピックに武道の種目はそぐわない。武道では試合に勝ってもガッツポーズ一つで失格になる。武道においては勝敗以上に、「相手を敬う精神」が肝要なのである。この精神は、明確なルールの下に勝敗による順位で競うスポーツとは相容れない。オリンピック種目入りを果たした瞬間に、「道」の精神は失われ、レクリエーションに端を発したスポーツ競技になってしまうのである。オリンピックによる世界への普及という甘い果実は、私たちが先人から引き継いできた、日本固有の精神性の消失を迫るということを自覚しなければならない。
本稿ではまず教育現場の現状を紐解いて、必修化された武道教育の制度と実態の概観をまとめ、文部科学省の掲げる理想と疲弊している現場のギャップを洗い出す。ついで武道を修行している者としての立場から武道そのものを定義付けした上で、本来あるべき武道教育の姿を提示する。これらを比較することで、初めて教育手段として武道が担える教育の領域が明確になる。
武道がもたらす精神性と道徳規範は非常に豊富である。だが、現行の「必修化された武道」では武道の一端を体験させることに終始しているにとどまり、武道の本質である精神性を教えることまでは踏み込めていない。教える教師自身が、武道の本質に触れることのないまま指導していればそれは当然の帰結と言えよう。しかしそれでは必修化の意義は失われてしまう。
いま中学校では「働くこと」を知るために職業体験が盛り込まれている。病院、飲食店、小売店、農家など協力してくれるコミュニティに中学生を受け入れてもらい、数日間、職業を体験させるというものだ。これを武道教育に応用することは可能である。一般の稽古生、門下生の少ない昼間の時間帯に、希望する武道の道場に生徒を受け入れてもらい、師範たる人物がその道を指導する。これならば現場の負担を減じ、武道のもつ精神性も伝承することができる。そして、武道必修化の本来の目標をも達成できるようになる。このような取り組みの具体的な事例を見ながら、義務教育へ取り込む新しい可能性を模索していきたい。
しかしながら武道の世界にも問題点はある。この点については主に空手界の事例について言及し、武道を教育手段に最適化するための提言を行う。最後に将来の武道教育の指針を模索して結びとしたい。
社会はIT革命によって、情報の利便性を飛躍的に向上させた。しかし、その反作用として知識は急速に陳腐化され、グローバルな舞台での競争の原動力も変質を免れなくなっている。ために教育に期待される役割も変化しているが、時代や環境を貫いて確かに存在する日本の精神性はいまや消失の際にある。このような時代だからその形骸化を受け入れるのか、このような時代だからこそその精神性に再び伊吹を吹き込むのか。私たちは決断しなければならない。やや極論ではあるが、武道を必修化するのであれば、「道徳」という科目を廃止してその役割を武道に担わせればよいとすら私は考えている。その詳細は追って明らかにしていくが、本稿によって改めて日本人として桜花と等しく我が国固有の文化である武道を再認識し、それがもつ大きな教育的意義を感じ取っていただければ幸いである。
流水 円さん
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