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新人賞投稿作品

地獄と地獄、うつ離婚

玉村勇喜
2014年01月12日 投稿

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うつ離婚カウンセラーが送る渾身の自伝書

カテゴリ

エッセー

内容紹介

はじめに うつになっても離婚しても生きる

本書は、うつ病を発症し、奥さんから離婚される男のこれまでの軌跡を描いた物語です。
うつで苦しんでいる人、離婚に悩んでいる人は世の中にごまんといるはずです。
そんな人々の心にそっと触れ、その傷を少しでも癒すことができれば、
少しでも共感してもらえれば、そんな想いでこの本を書きました。
僕は不幸の極みとも言える体験をし、それはもう恐ろしく、簡単に体験したいと思っても
できるものではありません。
「世の中にはこんな不幸な人もいるのか」
そう思っていただけるととても幸いです。
あなたは今うつで苦しんでいるかもしれません。離婚で苦しんでいるかもしれません。
あるいはその両方で苦しんでいることもあるでしょう。
とても辛いと思います。でもそんな時でも必要なことがあります。
それは生き抜くことです。
とにかく死なずに生き続けることで必ず道は開けるでしょう。
決して諦めてはいけません。
どんなに辛い時でも前だけを向いて歩いていけ、いいえそんなことは言いません。
後ろを振り返ってもいいのです。立ち止まってもいいのです。
負けてしまってもいいのです。
ひたすら生きることに専念してください。
一番やってはいけないことは自分の命を絶つことです。
自殺ほど悲しいことはありません。
なぜなら自殺をして喜ぶ人はいないからです。
あなたはあなたというオンリーワンの存在です。
本来輝かしくあるべきものなのです。
あなたがあなた自身を大切にして下さい。
あなたが思っているほど世間はあなたに関心がありません。
うつになった人がいるんだ。離婚した人がいるんだ。
その程度です。僕も芸能人のニュースを見て「ふーん。そうなんだ」と
思うことがよくあります。
だから一番関心が持てるのは自分自身です。
自分で自分ことを如何に大切にできるか。それがうつと離婚の苦しみから
抜け出せる一番の方法です。
必死に生きて下さい。
僕も必死に生きることにしています。
正直今でも辛いことはたくさんあります。
憂鬱感に苛まれることもあるし自殺願望にとらわれることもあります。
でも死んではいけないと思っています。
なぜなら悲しむ人がいるからです。
僕の場合、両親がとても優しく接してくれました。
うつになって離婚してそんなダメな人でも必ず一人は愛してくれる人が
いるんだと思いました。
僕は世の中の全員が敵に回ってもあなたの味方です。
なぜなら、同じ悩める過去を持つ同志だからです。
僕はうつ離婚カウンセラーとして活動しています。
皆さんの辛い体験をぜひ聞かせて下さい。
人々の心の受け皿になれればと思っています。
カウンセリングを初め、一人でもできるうつ思考改善プログラムも提供しています。
詳しくは、ウェブサイトhttp://uturikon.comをご覧下さい。
検索キーワードは「うつ離婚カウンセラー」です。
皆さんの心が少しでも安らぎますように。

目次案・語りたい項目

はじめに うつになっても離婚しても生きる

第一章 うつ病を発症
・ピークだった社会人一年目
・だんだんと近づいてくるうつの予兆
・東日本大震災の翌々日、ついにうつ病に
・情けない自宅療養
・心理カウンセリングを受ける
・株・FXで負ける
・一週間のうつ地獄
・新型うつの良いところ
・職場復帰へ

第二章 予期せぬ再発
・チーム異動をする
・上腹部のけいれんが治まらない
・再びオーバーワークで再発
・変えた主治医に追い出される
・奥さんのありがたさ
・三週間のうつ地獄
・ひたすら趣味にのめり込む日々
・過食、過眠になる
・熊本旅行に行く
・会社が心底嫌だった

第三章 悪化するうつ
・夏の幸せワークショップでうつが悪化
・三ヶ月の寝たきり生活
・玄関で三時間固まる
・家と公園の往復
・家と公園の往復2
・引越しノータッチで奥さん任せ
・新居生活でも苦しむ
・薬が効かない
・食欲不振、不眠になる
・ありえない憂鬱感

第四章 離婚の苦しみ
・出会いは天文サークル
・岐阜-神戸間の遠距離恋愛
・社会人三年目の結婚
・お互いDV
・うつ中に子供を妊娠
・ただいまのない里帰り出産
・そして離婚へ
・毎日の自殺願望
・生きている辛さ
・母親とのけんか
第五章 うつと離婚の狭間で
・公園に十二時間滞在
・大学病院でうつじゃないと言われる
・主治医の診断は非定型うつ
・壊れてしまった心
・両親の愛
・癒しのペット猫ゆうちゃん
・過去は不幸でもいい
・姪っ子のおまもり
・それでも地球は回っている
・生きることこそ人生なり

終わりに 次の未来へ

書き出しの第1章

第一章 うつ病を発症

・ピークだった社会人一年目

僕は胸を高揚させていた。
二十二歳で大学を卒業し、新しく社会人としてデビューするワクワクした気持ちを抑えずには
いられなかった。
当時は、
「いったいどんなに楽しいことが待ち受けているんだろう」
そんなことばかりを考えていた。
クリーニングした新しいスーツに袖を通す。とても気分が高らかだったのを覚えている。
早く大人になって自分の力でお金を稼ぎたいと思っていたので、それが叶うことに
なるなんて夢のようだった。
周りの新入社員を見ても皆意気揚々としている。
誰一人として社会人の辛さを味わうことになるとは思わない卵達。
皆憧れの気持ちを抱いていたように思う。
そんな中、四月一日からさっそく新人研修が始まった。
五ヶ月間無遅刻・無欠席というのは少しキツかったが、それでも全然苦にならなかった。
同期で互いを鼓舞し、お互い励まし合うことで何でも乗り越えられる気がしていた。
二ヶ月くらいで早々と配属先が決定していく同期。少し寂しかったが、それでも同期
という強い絆はずっと続くと思っていた。所属先が違っても酒の場で語り合うことは
幾度となくあるし、別に寂しくはないと思っていた。
そんなある日、五ヶ月経った頃僕の配属先が決定した。僕の配属先は電子デバイスの
開発・設計をするという部署だった。
当時は、音響系の仕事をしたかったが、新入社員が百六十人くらいいる中で、
たった一人だった。しかもその一人は会社に入る前からそこに入ることが
決められていたという話を聞いてショックを受けた。世の中理不尽だと思った。
それでも僕の入った会社は第一志望だったので、そこに入れた自分は幸運だと思って
いた。
なぜなら、推薦で入ったものの当初は僕の学部では募集をしていなかった。
僕の学部以外の三つの学部に推薦依頼が来ていたからだ。
それでも僕はそこでめげず、自分もその会社になんとか入りたいので面接を
受けさせてくださいと大学の就職課に懇願しに行ったのだ。
二、三回通って、他の三つの学部の応募数が少ないからということで、
僕も面接を受けさせてくれることになった。
自分の力もあったが、粘り強く頼めば入れてくれることもあるんだなと
ラッキーを感じていた。
そうして気合と根性で入った会社だったので、第一志望の部署に配属されなくても、
自分は恵まれているんだと思っていた。
一緒に配属された他の四人と胸高らかに所属部署に連れられていったのを覚えている。
そして、約半年間は高いモチベーションで仕事をしていたのだが・・・

・だんだんと近づいてくるうつの予兆

社会人一年目を過ぎた頃、なんとなく違和感を感じた。なぜか仕事が楽しくないのだ。
やっている仕事が苦痛に感じられる。面白くない。でも、そんなことを言ったところで
結局会社には行かなければならないのだ。それしか生きる道はないのだ。
周りはみんな普通に会社に行っている。自分も行かなければならない。
誰かに相談したところで会社からは逃げられれない。それが苦しかった。
それでも、それなりに前向きに会社に行っていたと思う。
心の中では文句を言いながらいつか乗り越えられる、いつか楽しいと思える日々が
来ると信じ込んでいた。でも、そんなにうまくはいかなかった。
二年目、三年目になるにつれてだんだんとしんどくなってきた。働いていても辛い。
とにかく辛かった。
僕はこの頃に結婚をする。社会人三年目の結婚はブームみたいなのがあって
波に乗っていた。結婚式の準備はとにかく楽しかった。曲選び、写真の撮影、
来賓の選択。自分たちが主役になれることを心の底から楽しんでいた。
奥さんとずっと一緒に暮らすことができる、それが嬉しかった。
僕は子供の頃から結婚なんかしない、永遠の愛なんて存在しないとすさんだ
子供だったが、奥さんが見事にそれを打ち破ってくれた。奥さんと一緒に
いれば愛が冷めるどころが、ますます愛情が強くなっていった。
世の中こんなに一緒にいて、波長が合う人がいるんだと思っていた。
仕事は辛かったが、プライベートは順風満帆、そう思っていた。
しかし、奥さんは結婚式の準備は楽しくなかったという。
もう二度としたくないと言っていた。今思えば、この頃からすでに歯車が狂っていた
のかもしれない。僕が楽しかったのは、自分勝手に物事を進めていたことに他ならない。
自分の思い通りに結婚式の準備を進めていただけで、奥さんのことは全然
考えていなかった。相手を思いやる配慮が足らなかったのだ。
結局自分のことしか見ていなかったのである。とんだピエロだ。
それでもこの頃は結婚したばかりで、未来は明るいものだとばかり思っていた。
プライベートがうまくいっていると思い込んでいただけに仕事もいつかうまくいくと
信じてやまなかった。でもそんなことはなかった。
仕事をどんどんこなすにつれ、辛さが増してくるのだ。
家でもけんかが多くなった。水道の水は浄水を使えとか、ミンチ肉を触った手で
蛇口を触るなとか、ベッドはテレビと一緒の部屋がいいとか、とてもくだらないことで
しょっちゅうけんかをしていた。
ひどいときは、僕が歯科矯正をして痛いのでイライラしてて、そのせいで奥さんに
八つ当たりすることもあった。もちろん奥さんは何も悪くない。
自分の腹の虫が収まらなかっただけだ。
また仕事で自分の設計が思い通りにいかずにそれを奥さんに八つ当たりする
こともあった。
今考えるとひどい話である。
自分で自分をコントロールできず、それでプライベートもどんどん破綻していった。

・東日本大震災の翌々日、ついにうつ病に

ついにそのときがきた。2011年3月11日に東日本大震災がきたのである。
今でもそのときのことははっきり覚えている。関西にいたのだが、
揺れが長かったのである。二、三分は揺れていたように感じられた。
当時はちょっと長い地震だなと思っていたのだが、調べてみると、東北で震度7と
いうではないか。これはちょっとただ事ではないんじゃないかと思っていた。
帰ってニュースを見てみると、船や家、車などが流されていた。
これには絶句した。ありえない光景がテレビの中で起こっていたのである。
どのチャンネルに回しても叫んで逃げ惑う人や津波が押し寄せてくる
映像が流れていた。
しばらく呆然とした。今まで普通の日々が流れていたので、あの光景は
目が釘付けになった。ニュースキャスターも淡々と話していたが、
心の中ではすごく動揺していたのだろう。
特に印象深かったのは、親を亡くした子供の姿を捉えた映像だった。
流された方向に向かって、ずっと「お父さん、お母さん」と叫んでいた。
泣きながら遠吠えのように叫んでいて声をからしていた。
震災で家族を失った人も多いと思う。家や車を流され、二重ローンに
苦しむ人だっているだろう。何だかとてもいたたまれない気持ちになった。
何もできない自分が歯がゆかった。会社で募金活動をしていたので、
少しでもと思い、千円募金した。それぐらいしか自分にできることはなかった。
そんなことがあった翌々日に休日出勤があった。地震があったからといって、
仕事が減るわけがない。この頃は忙しさのピークで毎週休日出勤を行っていた。
がらんとした職場で仕事をしていたが、だんだん頭が回らなくなってきた。
回路が組めないのである。これはどうしたことかと思って一旦休憩を挟んだ。
深呼吸を終えて、さあ仕事に取り掛かろうと思ってもやっぱり思考回路が停止して
いるのである。これはやばいぞと思って、腕立て伏せをした。
体を動かせば頭が回復するのではないかと思っていたのだ。
その他にもエアコンのスイッチを触りに行ったり、トイレに行ったり、
何か動かなきゃと思っていた。でも結局仕事は手につかなかった。
辛かった。信じられなかった。
このときはうつ病の知識もあり、自分はうつだと直感していた。
でもまさか自分に降りかかるなんて思ってもみなかった。
うつになる人はみんなまさか自分がなるなんてと思っているだろう。
僕もその一人だった。認めたくなかった。
でも仕事ができない現実を受け入れるしかなかった。
その翌週も仕事をしていたがこれは仕事にならないと思って病院に行った。
そしたら、案の定うつ病とのことだった。このときは、うつ状態と診断された。
信じられなかった。受け入れたくなかった。
でも受け入れざるを得ない。自分はうつなのだから。
うつが現実になるなんて。奥さんになんて言えばいいのだろう。
自分はまだまだやれると信じていたのに。
仕事の負荷と納期に追われ、半ば自分の能力の限界を超えて
仕事をしているのはわかっていた。でもまさかうつになるとは
思ってもいなかった。自分は強い人間だと思っていたけど、
本当は弱い人間だったんだ。うつになってから知ることだが、
両親は強い。約一億の借金を抱えながらそれでも負けずに
仕事をしているのだから。僕はというとその翌週から自宅療養と
いうなんとも情けない結果になってしまった。

・情けない自宅療養

この自宅療養でまず困ったのは三日間睡眠障害が出たことだ。
寝ても早朝に覚醒する。
そしてそこからずっと寝られないのだ。
頑張って目をつぶって寝ようとするが、全く眠りに落ちない。
目がギンギンに冴えていた。
仕方がないので奥さんが起きてくるまで起きている。
この時間は辛かった。
一緒のベッドで寝ているが、奥さんを起こすわけにもいかない。
ずっと一人で悶々悶々としていた。
そしてやがて朝が来た。
奥さんに早朝覚醒があったことを話すと、
返答は覚えていないが、「心配しなくていいよ」と
言ってくれていたような気がする。
この頃の奥さんは頼もしかった。
いや、ずっと頼もしいのだが・・・
家事、料理、洗濯をやってくれていて、
会社にも行っていた。
僕も何かやらなければと思っていたが、できなかった。
体が動かなかったのだ。
仕方がないので布団の中に潜っている。
申し訳なかった。
でも病気だから仕方がないとも思っていた。
この頃は薬も飲み始めたばっかりで効き目が出るまでの
二週間はとても長く感じられた。
とにかく辛いのをじっと耐えて待ってるしかない。
体が動かないのでトイレに行くのも必死だった。
当時は不安感に襲われていた。
胸が苦しい。
どうしようもない絶望感にも襲われていた。
何も考えるなと言われても考えてしまう辛さがあった。
それはそうだ。だって一日中家にいるんだから。
無の境地になることは不可能だった。
それでも生きていかなきゃならない。
このときは自殺願望はなかったが、それでも辛かった。
体を動かそうとしても動かない。
動かさないんじゃなく、本当にエネルギーがゼロなのだ。
うつはよく車に例えられるが、
本当にガソリンが空になった感じだ。
アクセルを踏んでも動かない。
別にブレーキを踏んでいるわけじゃない。
燃料が枯渇している感じなのだ。
そんなわけでどうしようもなかった。
こうして僕の一回目の休職生活が始まった。

・心理カウンセリングを受ける

ここで少し話をうつになった前のことに戻す。
僕は先輩との人間関係に悩みよく心理カウンセリングに行っていた。
初めは2008年だったと思うが、
会社が斡旋している無料のカウンセリングがあるということで、
それに電話をして予約を申し込んだ。
当日行ってみると、そこはマンションの一室を借りた部屋で
中に入ると対面のイスと真ん中に机がある部屋に通された。
当時はよくわからなかったが、いかにもカウンセリングって
いう雰囲気の部屋だった。
そこで小一時間くらいはしゃべっただろうか。
先輩との人間関係がうまくいっていないことを話した。
そうすると最後に絵を書かされた。
「初めに川を書いてください。その次に山を書いてください。
その次に窓のある家を書いてください」
そんな感じだ。
その他にも太陽や生き物を書いたように記憶している。
でも結局それが何かは教えてくれなかった。
そのカウンセラーのところには二、三回通った気がする。
でも結局解決の糸口は見つからなかった。
話を聞いてもらってそれで終わりだった。
それで今度はちゃんと心理療法のあるところにしようと
思い、会社を通さずに自分が良さそうだと思うところに
申し込んだ。
それは大阪にある心理カウンセリングだった。
そこはワンルームマンションを借りた部屋で、
少し寂れた外観で階段を上がって四階にある部屋だった。
中に入ると最初にキッチンがあって奥に
雰囲気のいいカウンセリングルームがあった。
心地いい音楽も流れていた。
真ん中に机があって、周りに五、六個椅子があった。
座る席は対面でなく斜め横。
このほうが落ち着いて話せた。
このカウンセラーの雰囲気はとても穏やかで
優しい兄のような存在だった。
年も五、六歳くらい上だったと思う。
先輩との関係を実際に認知行動療法を使って書いてみたり、
催眠療法をやってもらったりした。
認知行動療法は書いてみると効果があり、
あなたが友達の立場だったら何というか、
最悪を考えた場合どんなことが考えられるか、など
色々な質問があり、最終的には自分はこれで
いいんだという気づきを得れた。
このカウンセラーのところには五回以上通い、
今でもとても感謝している。
たくさんのフラットな考え方を得ることができた。
しかし結局うつ病になってしまうのだが・・・

・株、FXで負ける

僕は東日本大震災の少し前から投資をしていた。
当時は会社を辞めたくて辞めたくて仕方がなくて、
投資をすれば一攫千金を狙えるんじゃないかと本気で思っていた。
株・FX関係の本を読んだり、ネットを見たり、
メルマガに登録したりしていた。
勝てると信じ込んでいた。
明るい未来があると信じてやまなかった。
でも結果から言うと55万円の負けに終わった。
それでも最初は30万ほど勝っていた。
東日本大震災の前までは成績はうなぎのぼりだった。
でも一夜にして一転。
急に株価が下落を始め、為替は円高になっていき、
あれよあれよという間にどんどん下降していった。
負債はみるみるうちに膨らんでいき、株とFXを持っているのが辛くなってきた。
負け越していてもまだ勝てる、いつか株価は上がると思っていた。
でも、そんな楽観的な投資ではうまくいくものもうまくいかなかった。
奥さんにやめろと言われるまでやめることができなかった。
当時は株をすることをイチャ株と呼んでいた。
これは夫婦でイチャイチャしながら株をすることだ。
それも勝っていたからそんな楽しい発想になっていた。
夫婦共々投資をすれば勝ちは二倍になると思っていた。
僕は完全に浮かれていた。
奥さんから「もう我慢できない、一体どこまで負ければ気が済むのか」と言われた。
「大丈夫、株価は上がるから。FXもいつか円安になる」そう言い返していた。
今考えればそれは自分を信じたいだけの精一杯の言い訳だった。
奥さんの強い要望もあって、泣く泣く投資をやめることにした。
終わった時には55万円の負けだった。
自分はバカだと思った。奥さんもほとほと呆れ返っていた。
別れるまでそのことを根に持っていた。
当然だ。なけなしのお金を投資してすってしまったのだから。
このとき、投資で負けたショックで胸が苦しくなった。
まるで心臓を鷲掴みにされているようなそんな不安障害に駆られた。
胸が締め付けられる。息がしにくい。
人生で初めて心の底からの恐怖を覚えた。
このときはうつ病の苦しみもあって、ダブルで苦しかった。
まるで追い討ちをかけられたような。
自業自得なのだが。
この出来事により、僕はさらに寝込むことになってしまったのである。

・一週間のうつ地獄

休職生活が始まってから、僕は絶望感に打ちひしがれていた。
気力が低下していたのだ。
やる気を振り絞ろうとしても出ない。
やる気がないのではなく、出てこない。
どんなに踏ん張ろうとしても踏ん張れない感じ。
自分の意志ではどうすることもできなかった。
やる気が出ないことがこんなに辛いことだなんて。。。
その感覚に僕は絶望していた。
それでも家族で暮らしている分、自暴自棄になる訳にはいかなかった。
うつで苦しみながらも何とか冷静さを保っていた。
そしてそれに加えて興味・関心も喪失していた。
あれだけ楽しかった漫画が読めない。
本も読む気がしない。テレビも見る気がしない。
カラオケに行く気もしない。
なにもやる気がしなかった。
奥さんには「好きなことをやったら」と言われていたが、
それができないことに苦痛を感じていた。
「僕の体はいったいどうしてしまったのか」
そう思っていた。
とにかくひたすらベッドで寝ているしかなかった。
布団の中で右にゴロゴロ左にゴロゴロして、
「あーでもないこーでもない」とずっと考えていた。
「早く体が回復して欲しい」
そう考えていた。
しかしこのときご飯は食べれていた。
食欲はなぜかあったのだ。
これにはずいぶん救われたと思う。
奥さんの手料理が美味しかったというのもある。
出てくる料理出てくる料理全部美味しいのだ。
このときは結婚していてよかったと本当に思ったものだ。
性欲はというと全然なかった。
特に何かする気が起こらない。
食欲はあってもやっぱり僕は病気なんだなと思っていた。
この全く何もできない状態は一週間続くことになる。
食べるときとトイレに行くときだけ起きる。
後は終始寝たきり。
布団の中でもぞもぞし、苦しさに耐えるのみだった。
不安と絶望感、やる気の低下、興味関心の喪失、
どれも早く回復して欲しいとそれだけを願ってやまなかった。
そして、辛い辛い一週間が過ぎる。

・新型うつの良いところ

僕の場合、一週間が過ぎた頃少し動けるようになった。
漫画でも読もうかなと思い立ったのだ。
漫画を読むととても読むスピードが遅い。
普段は1冊二時間くらいかけて読んでいたのが、
四時間くらいかかるようになる。
なぜか内容が頭に入ってこないのだ。
それでゆっくり読むようになり、
苦痛を感じながら読んでいた。
漫画は楽しいのだが、うつ症状が辛い、苦しい。
でも漫画を楽しめるようになってきたということは、
「興味関心の喪失が少し和らいだんじゃないか」そういう嬉しさもあった。
とにかく漫画が読みたいという一心で、
全巻セットの大人買いをし、
朝から晩までひたすら読んだ。
会社に行ってないのだから時間はたっぷりあった。
ひたすら趣味に没頭することができた。
来る日も来る日も漫画に没頭する日々。
三週間くらいは続けていただろうか。
次に僕がやったのが昔の懐かしいドラマを見ること。
ネットのDVDレンタルを利用して毎日大量の
DVDを借りていた。
それをこたつに入りながら見まくる。
とにかくやりたいことをやろうというのが
心の内にあった。
こうやって書くとなんだ元気じゃないかと思われるかもしれない。
それが新型うつの良いところだ。
会社では辛くて辛くて逃げ出したくて、
回路も組めなくなったが、家にいると元気が出てくる。
何かしようという気が起きてくる。
僕の場合、それは一週間くらいでやってきたので、
割と症状は軽いほうだと思っていた。
もちろん当の本人はうつの苦しさに打ちひしがれている。
軽症といっても、今まで味わったことのない辛さだったのだから。
それでもうつの本を読んだり、ネットを見たりしていると、
自分よりももっと苦しい人がいるというのがわかり、
その比較で、「あぁ自分はそこまで重症じゃないんだな」と思っていた。
「一週間地獄のような日々を送ったけど、
一週間で動けるようになるなんて僕は幸せな方なのかな」と思っていた。
しかしスパッと治るはずもなく、うつうつとした状態が
二ヶ月以上続くことになる。
当初は一ヶ月で職場復帰をする予定だったが・・・

・職場復帰へ

不安な日々がずっと続いていた。
なぜだかわからないが不安な気持ちになるのだ。
そんな中一ヶ月の職場復帰の期日が迫ってきた。
今の体調で戻れるのかとよくよく自分と相談した。
それでもやっぱり無理そうだったので、
5月6日のゴールデンウィーク明けまで延ばしてもらった。
今の体調ではとても戻れる気がしなかった。
ただ家にいるとそれなりに活動的に動くことはできた。
漫画は読めるしテレビも見れる。
掃除・洗濯・料理もできるようになっていた。
それまでは辛かった買い物も奥さんと一緒に
行けるようになってとても回復したなと思えるようになってきたのである。
絶望感も前ほど強い感じはしなかった。
うつ病はよく振り子が揺れるように良い悪いを繰り返しながら
回復していくと言われているが、僕の場合一直線に良くなっている感じがしてた。
家で趣味に勤しんでいるとだんだんと体の調子が良くなってきた。
薬を飲んで安静にしてたら本当に良くなってくるんだと実感していた。
でも気力と自信はまだまだ回復していないと感じていた。
会社に行こうという強い意志もないしやれるという自信もない。
ただただ復職期限が迫ってくるのが恐怖だった。
それでも会社に戻らねば生きていくことはできない。
会社に戻ることを考えると不安でしょうがなかったので、
なるべく考えないようにしていた。
このときの主治医の先生は優しかった。
どこか他人行儀だったが、おっとりとしていて人あたりがよかった。
それでも対応が事務処理的なところはあったが僕にはそれが心地よかった。
優しいがサバサバしている。そんな感じだ。
最初は二種類の薬をもらった。
それを飲んでも効き始めるのが二週間後だからと言われていたので、
効果があるのはまだまだ先だなと感じていた。
当時は薬が効いていたように思う。
二週間後には体がそれなりに動かせるようになっていた。
最初の二週間は自然回復。それ以降は薬の作用で良くなっている感じがしていた。
それでこの調子だったら薬を維持できるかなと思っていたが、
薬を強めのものに変えると言われた。
何でもうつ病は見えないところで進行しているから、
薬を強化してそれに備えておくというものだった。
そのおかげもあり、僕の体調はみるみる回復していった。
薬と休養。これが大事なんだと思い知らされることになった。
それで約束の職場復帰の期日がきた。
正直会社に行けるか不安だったが、なんとか体にムチを入れて出社した。
そしたら意外にやれる自分がそこにいた。
そして、そのままうつ病とはオサラバできると思っていた。
しかし・・・

応募者紹介

玉村勇喜さん

うつ離婚カウンセラー。
1983年生まれ、兵庫県神戸市在住。立命館大学卒業後、
仕事でうつ病を発症し3ヶ月間全く動けなくなるほどの
病に襲われる。しかもその後、里帰り出産の
奥さんが戻って来ずそのまま離婚を言い渡される。

1983年 大阪府東大阪市で誕生
2006年 立命館大学卒業
同年   大手メーカーに就職
2011年 うつ病を発症
2013年 離婚される
同年   うつ離婚カウンセラーとして活動

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