結果的に、自殺未遂を繰り返してしまった、という経験を積み重ねる事ができたからこそ、私なりに学んだり、考えたり、する事ができた人間の自殺に対する、仮説、対策、理論です。少なくとも今の私は、何が起きても、死ぬまで生き抜く自信があります。
教養
人間の自殺は、一人一人事情などが異なるため、自殺の危機に直面してしまったり、そこから立ち直ったりする経緯なども千差万別だと、私は思いました。
だから、人間の自殺の経緯などは、当事者の数だけあり、その解決策も千差万別なので、一人一人と、しっかりと向き合う事が大切だ、などという意見は、その通りだと、私は思います。
しかし、私とどれだけ事情などが違っても、私と同じ人間が自殺してしまうなら、私にもその可能性があると、私は考えました。
だから、人間の自殺には、何らかの共通点がある可能性があり、その共通点に対して何らかの対策を、私なりに作る事ができる可能性があると、私は信じたかったのです。
本編+番外編(105286字)
本編(31894字)
まえがき(1963字)
○「なぜ、私は自殺したくなってしまうのか」(1963字)
第一章 「なぜ、自殺してしまうのか」(11595字)
○自殺に対する一般論(516字)
○自殺を大きく2パターンに分類して考える(2031字)
○自殺とは無縁そうに見える人達から考える(235字)
○「とりあえず」生きる(1518字)
○生きる事は「当たり前」(1526字)
○「依存」してでも生きる(1891字)
○失敗、挫折、喪失しても生きる(2534字)
○燃え尽きても、リタイヤしても生きる(1344字)
第二章 自殺の危機に直面しないための対策(9482字)
○生きる目的、理由、意味の具体化、明確化、自覚化(635字)
○生きる目的、理由、意味の強化(484字)
○生きる目的、理由、意味の複数化(4407字)
○生きる目的、理由、意味の信仰化、儀式化(3956字)
第三章 「なぜ、その行動をするのか」(8854字)
○「なぜ、生きるのか」に対する答えがあるだけでは、生き抜けない(850字)
○人間の行動の多くは、生きるという行動を前提とする行動だ(545字)
○「当たり前」という生き方、行動の仕方(1643字)
○何も「当たり前」ではない、という生き方、行動の仕方(3042字)
○考えながら動く、という生き方、行動の仕方の問題点(1374字)
○生きにくい、という言葉の意味に対する仮説(663字)
○「なぜ、その行動をするのか」に対する答えを出す(737字)
番外編(73392字)
○まえがき(449字)
第四章 番外編 教育(11222字)
○「なぜ、勉強するのか」(1082字)
○教育が義務化して、勉強させる事が「当たり前」になった事の問題点(6460字)
○競争の過激化も、ゆとり教育も問題の本質ではない(1827字)
○「なぜ、学校に行くのか」(1853字)
第五章 番外編 勤労(45792字)
○「お金とは、何か」に対する仮説(6301字)
○就職とリストラを考える(4319字)
○日本経済について考える(234字)
○高度の経済成長が持続しない理由に対する仮説(1785字)
○「なぜ、貯金するのか」(9069字)
○人間とお金の動き、流れ(3364字)
○実は、「当たり前」という行動の仕方には、大きく3パターンある(3708字)
○「なぜ、仕事をするのか」に対する答えを出す(4361字)
○「なぜ、社会参加するのか」(12651字)
第六章 番外編 納税(6165字)
○「なぜ、税金を納めるのか」(2953字)
○「なぜ、選挙に行くのか」(3212字)
第七章 番外編 最終章(9764字)
○「日本の三大義務、教育(○○)、勤労、納税」(333字)
○「義務とは、何か」に対する仮説(1759字)
○なぜ、「日本の三大義務は、教育(○○)、勤労、納税」なのか(2482字)
○人間は理性的な動物である、とは本当なのか(1155字)
○「なぜ、人を殺してはいけないのか」(3279字)
○自殺しないで下さい。お願いします。(756字)
本編
まえがき
○「なぜ、私は自殺したくなってしまうのか」
私が、自殺する事を意識し始めてしまったのは、中学生の頃からでした。だから、できるだけ、中学生にでも理解してもらえる可能性がある単語と理論で、大人、社会人にも読んでもらえる可能性がある文章の作成を目指します。
人間は、いつの間にか、自殺能力を獲得しているという認識は、多くの人にとっても共通の認識になる可能性が高いと、私は考えています。個人差がある可能性が高く、私自身も、私がいつから自殺できるようになってしまったのかは、分かりません。しかし、少なくとも私の場合は、遅くても高校入学時には、自殺能力を獲得してしまっていたと、私は考えています。
ここで、自殺能力とは、動物でありながら、偶然や事故などではなく、自覚的、必然的な方法で、自力で生命活動を終わらせる事ができる能力と、私は仮説します。
その上で、動物の最大の目的は生きる事だと、私は仮定します。そして、動物は地球に誕生した時から今日まで、生きる事を最大の目的として進化してきたと、私は考えています。
そして、生きる事を最大の目的としているという点では、意志疎通能力や環境適応能力、状況認識能力、知覚能力、問題解決能力などが高くても、例えば、イルカ、チンパンジー、人間の赤ちゃんも、極めて純粋に動物だと、私は考えています。
そして、たぶん、イルカもチンパンジーも人間の赤ちゃんも自殺能力はないと、私は考えています。しかし、人間だけが成長過程の中で、自殺能力を獲得してしまう、というのが私なりの認識です。
そこで、人間の自殺能力の獲得は、何を意味するのか、この能力にどんな価値があるのかを私なりに考えました。その仮説として、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる事を目的とする動物から、生きる事を何らかの目的を達成するための手段として、生きる動物になっている可能性があると、私は考えました。
私が高校三年生の時に、自殺の実行を中止できたのは、人類で初めて自殺したのが誰なのかが、どうしても気になってしまったからでした。つまり、この疑問に対する答えを知るという目的を達成するための手段として、とりあえず、生きようと思えたから、自殺の実行を中止する事ができたと、私は解釈しています。つまり、ただ運が良かっただけだったと、私は思っています。
そして、人類で初めて自殺したのは誰なのかという疑問に対する答えは、たぶん、古代ギリシアの哲学者ソクラテスなどだと、私は思っています。その上で、この疑問に対する答えの正否はともかく、哲学の探究、宗教の信仰、科学技術の発展などは、自殺能力獲得以前の人類、つまり、生きる事を最大の目的とする人類には、不可能だったと、私は考えています。
また、自殺能力獲得以前の人類にも、火の使用、道具の作成、利用、意志疎通能力などがあったと、私は考えています。しかし、これらの進化は、あくまで生きる事を目的とする動物としての進化の延長である可能性があると、私は考えています。
また、個人としては、まずは、生きる事を最大の目的とする動物として、相手の表情、言葉、行動の目的、理由、意味を推測、仮説、理解、追求する事から始めたと、私は考えています。例えば、目の前の人の表情には、どんな意味があるのか、推測、仮説、理解、追求したり、なぜ、笑っているのか、なぜ、泣いているのか、なぜ、怒っているのか、なぜ、喜んでいるのか、なぜ、ダメだと言っているのか、なぜ、ヤレと言っているのか、パパとは何なのか、ママとは何なのか、などを、子供なりに考えたりしていたと、私は考えています。
次に、時期、順番、内容などは生まれた場所や育つ環境なども含めて個人差があると、私は考えていますが、なぜ、戦うのか、なぜ、働くのか、なぜ、学ぶのか、なぜ、学校に行くのか、など、自分の行動の目的、理由、意味を考え始め、必要とし始めると、私は考えています。
そして、最終的に結果的に、自分の多くの行動の根本の、なぜ、生きるのかを考えてしまい始め、時期は不明ですが、人間は自殺能力を獲得してしまった可能性があると、私は考えています。
そして、遅くても自殺能力獲得以後、少なくとも私は生きる事を最大の目的とする動物から、生きる事を何らかの目的を達成するための手段として生きる動物になった可能性があると、私は考えています。
最初は、とにかく、私自身が自殺してしまう事を防ぐための、私なりの対策を作る事が、私にとって、最大で緊急の目的だったと、私なりに解釈しています。つまり、私自身が自殺してしまう事を防ぐための、私なりの対策を作るという目的を達成するために、私は生きていたと、今の私なりに解釈しています。しかし、もちろん、最初から、このような言語化、具体化、明確化、自覚化はできていませんでしたが、私なりに必死だったと考えています。
第一章 「なぜ、自殺してしまうのか」
○自殺に対する一般論
しかし、自殺は極めてデリケートで、一人一人事情や環境、状況が異なる上に、別の人にとっては、小さな事、小さな悩み、小さなミスで自殺の危機に追い込まれ、自殺してしまう人もいると、私は思いました。
つまり、自殺の危機に直面してしまう理由、原因、経緯、きっかけなどは千差万別な上に、必ずしも自殺してしまう理由、原因、経緯、きっかけがあるとは限らないと、私は思いました。
その上、自殺の危機から立ち直る方法、経緯、きっかけなども千差万別なように思えました。だから、誰かが自殺してしまうという問題の理由、原因、経緯、きっかけ、などは、自殺の危機に直面してしまった人の数だけあり、その解決策も千差万別なので、一人一人と、しっかりと向き合う事が大切だ、などという意見、理論は、その通りだと、私は思いました。
しかし、私とどれだけ事情、環境、状況、年齢、性別、国籍などが違っても、私と同じ人間が自殺してしまうなら、私にもその可能性があると、私は思ってしまい、不安でした。
だから、自殺の危機に直面してしまう人間には、何らかの共通点がある可能性があり、その共通点に対して何らかの対策を、私なりに作る事ができる可能性があると、私は信じたかったのだと思っています。
○自殺を大きく2パターンに分類して考える
そして、このように、私なりに考えた結果、自殺には大きく2つのパターンがあると、私は考えています。一つ目は、その人なりの明確な目的や信念のある自殺です。例えば、ソクラテスの死、武士の切腹、自爆テロ(悲しい例)、自分の命と引き換えにしてでも、誰か何かを守る、などが、このパターンだと、私は考えています。
しかし、自殺未遂者として、私が、少なくとも私自身のために対策を立てる必要があると考えたのは、もう一つのパターンです。それが、その人なりの明確な目的や信念のない自殺です。
つまり、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる事を目的とする動物から、生きる事を何らかの目的を達成するための手段として、生きる動物になっている可能性があると私は考え、仮説しました。そして、この変化が、今の人類文明の発展に貢献している可能性があると、私は考えています。
しかし、この変化は欠点、問題点、デメリット、リスクにもなる可能性を持つ変化だと、私は考えています。なぜなら、人間は何らかの目的を達成するための手段として生きている可能性があると考えるなら、死ぬまで何らかの目的を維持、更新し続ける必要がある可能性があると、私は考えたからです。
ただし、ほとんどの人は、あれがしたい、こうしよう、あそこに行こうなどのように、当たり前に、自然に、普通に、日々、次々と何らかの目的を設定しては消化していくので、特に問題にはならないと、私は考えています。
そして、当たり前、当然過ぎて、毎回自覚するにはあまりにも大げさ過ぎますが、そういう何らかの目的を達成するために、生きる事を選択し続けているのが人間なのではないか、私はそういう生き物なのではないかと、私は考えました。
しかし、私には、以前、目的もなく、欲しい物もなく、やりたい事もなく、行きたい場所もなく、会いたい人もいない上に、シャワーも浴びず、歯も磨かず、着替えもせず、衛生面を気にする目的、理由、意味も見当たらず、健康に気を使う必要性も感じない時期がありました。つまり、明確な目的や信念のない自殺とは、生きる目的、理由、意味を設定、発見できない状態、状況になる時に、直面してしまう可能性が高まる自殺だと、私は考えました。
さらに、個人的な経験と認識では、少なくとも私が死にたいと考えてしまうようになってしまった時、もう疲れた、楽になりたい、もうどうでもいい、などと思うようになりました。しかし、その人なりの明確な目的や信念のある自殺とは違い、その人なりの明確な目的や信念のない自殺の場合、自殺する目的、理由、意味が弱いので、死にたいと考えるようになってしまってから、実際に自殺を実行するまでの時間が、ある程度の猶予がある可能性が高いと、私は考えています。
そして、その人なりの自殺する目的、理由、意味を強めてしまう可能性が高い事が、その人が、今の状態、状況になった理由、原因、経緯、きっかけだと、その本人が思う事ができてしまうものだと、私は思います。それが、何らかの失敗、挫折、経験、何かを失った、などになるのだと、私は考えています。
しかし、自殺の危機に直面してしまった事がない人や、私自身が私自身の自殺の危機に直面してしまった経験を振り返ると、自殺の危機に直面してしまうまでの、理由、原因、経緯、きっかけなどに、同情や共感を持つ事はできても、それでも、自殺する必要はなかったのではないか、自殺する以外の何らかの方法や手段、解決策があったのではないかと、感じる場合があると、私は考えています。
つまり、その人なりの明確な目的や信念のない自殺とは、自殺の危機に直面してしまう理由、原因、経緯、きっかけなどは、千差万別だとしても、結果的に最終的に、生きる目的、理由、意味を設定、発見できなくなってしまう事が、共通点になる可能性があると、私は考えました。
また、その人なりの明確な目的や信念のある自殺の場合も、その人なりに自殺する目的、理由、意味を設定、発見できてしまっている事によって、結果的に最終的に、生きる目的、理由、意味を設定、発見できなくなってしまっていると、考える事ができる可能性もあると、私は思っています。
つまり、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる事を目的とする動物から、生きる事を何らかの目的を達成するための手段として、生きる動物になっている可能性がある、という私なりの仮説から、理由、原因、経緯、きっかけなどは、千差万別だとしても、結果的に最終的に、生きる目的、理由、意味を設定、発見できなくなってしまう時、自殺の危機に直面してしまうという共通点がある可能性があると、私は考えました。(一文長いな)
だから、少なくとも私自身が自殺してしまう事を防ぐための、私なりの対策として、私が考える必要がある事は、どうすれば、自殺以外の方法で、私が死ぬまで、私なりの生きる目的、理由、意味を設定、発見し続ける事ができるか、を考える事だと、私は思いました。
○自殺とは無縁そうに見える人達から考える
しかし、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる事を目的とする動物から、生きる事を何らかの目的を達成するための手段として、生きるようになってしまっていたとしても、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していなくても、自殺の危機に直面してしまう事なく、死ぬまで生きる事ができる場合もあると、私は考えています。だから、まず、この場合から、私は考えたいと思います。
そして、このような場合を考えるためのキーワードとして「とりあえず」と「当たり前」という言葉を利用します。
○「とりあえず」生きる
まずは、「とりあえず」というキーワードを利用して、私は考えます。
人間は何らかの目的を達成するための手段として生きている可能性がある、という私なりの考えから、人間は、死ぬまで何らかの目的を維持、更新し続ける必要がある可能性があると、私は考えました。
しかし、ほとんどの人は、とりあえず、あれがしたい、とりあえず、こうしよう、とりあえず、あそこに行こうなどのように、当たり前に、自然に、普通に、日々、次々と何らかの目的を「とりあえず」設定しては消化していくので、特に問題にはならないと、私は考えています。
そして、当たり前、当然過ぎて、毎回自覚するにはあまりにも大げさ過ぎますが、そういう何らかの目的を達成するために生きる事を選択し続けているのが、人間なのではないか、私はそういう生き物なのではないかと、私は考えました。
このように「とりあえず」生きる事のメリット、利点を、少なくとも3つ、私は見つける事ができました。
1つ目は、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していなくても、「とりあえず」生きる事で、知識が増えたり、いろいろな経験ができたりする可能性があると、私は考えています。
2つ目は、「とりあえず」でも設定、発見できる目的の多くは、比較的簡単な場合が多く、失敗や挫折になる可能性が低いと、私は考えています。
3つ目は、「とりあえず」生きる事で、「とりあえず」という軽い気持ちでは、手に入らないモノ、叶えられない夢、達成できない目的などを、その人なりに設定、発見できる可能性があり、結果的に最終的に、その人なりの生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化できる可能性があると、私は考えています。
しかし、「とりあえず」で生きる事のデメリット、欠点、問題点も、少なくとも3つ、私は見つけました。
一つ目は、「とりあえず」で設定、発見できる目的は、その達成が比較的簡単だというメリット、利点から、限定的になりやすい、または、限界がある可能性があると、私は考えています。
2つ目は、「とりあえず」で設定、発見できる目的は、その達成が比較的簡単だというメリット、利点と、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を必要とし続けてしまう可能性がある、という私なりの仮説から、「とりあえず」でも設定、発見できる目的を、絶え間なく、次々に設定、発見し続ける必要がある可能性があると、私は考えています。
3つ目は、「とりあえず」生きている事自体、その人にとって、生きる目的、理由、意味は、あくまでも「とりあえず」なので、その人にとって、生きる目的、理由、意味は具体化、明確化、自覚化できていないと、私は考えています。
そのため、「とりあえず」生きていても、その人にとっての、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化できる前に、その理由、原因、経緯、きっかけ、などは千差万別ですが、ある日、または、いつの間にか、「とりあえず」生きる事の目的、理由、意味を設定、発見できなくなってしまう状況、状態になる可能性があると、私は考えています。
個人的な経験では、とりあえず、やりたい事もない、とりあえず欲しいモノもない、とりあえず行きたい所もない、とりあえずでも興味や関心が持てる対象もない、とりあえず食べたいモノもない、とりあえず着たい服もない、などという状態、状況が、私にはあったと、私は考えています。
そして、このような状況、状態は、やがて、生きる目的、理由、意味が、特にないという状況、状態になり、生きる目的、理由、意味を設定、発見できない状況、状態になる時、人間は、自殺の危機に直面してしまう可能性があるという考えが、私なりの仮説です。
○生きる事は「当たり前」
次に、「当たり前」というキーワードを利用して、私は考えます。
つまり、生きる事を「当たり前」だと、その本人が思う事ができるような、何かに出会えたり、何らかの習慣を持っていたりする場合、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化できていなくても、自殺の危機に直面してしまう可能性は低いと、私は考えています。
例えば、生きる事が、その人にとって、「当たり前」なぐらい、その人にとって、大切な人、共に生きたい人、守り続けたい人がいれば、わざわざ生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していなくても、その人が存在する限り、その人の存在が、生きる目的、理由、意味として、「当たり前」だと思う事ができる限り、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化する必要があまりないので、自殺の危機に直面してしまう可能性は低いと、私は考えています。
また、他の例では、生きる事が、その人にとって、「当たり前」だと思えるような習慣や、無性にやってしまう習慣があれば、自殺の危機に直面してしまう可能性は低いと、私は考えています。
例えば、基本的には本当に何でもいいと、私は思っていますが、学校に行って勉強する事が当たり前、会社に行って仕事する事が当たり前、または、時間さえあれば、無性にやってしまう何か(ゲームをする、漫画を読む、テレビを見る、パチンコをする、酒を飲む、など本当に何でもいい)、このような、その人にとって、生きる事が、「当たり前」だと思う事ができるような習慣がある限り、その習慣を実行可能な限り、その人にとって、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化する必要はあまりないので、自殺の危機に直面してしまう可能性は低いと、私は考えています。
ただし、このように生きる事を「当たり前」だと思う事ができる場合でも、生きる事が「当たり前」だと信じていた、疑わなかった「当たり前」を、「当たり前」だと思う事ができなくなってしまった時、生きる事が「当たり前」だと思う事ができるような存在がいなくなってしまったり、習慣が実行できなくなってしまったりした時、私なりに考えた人間の共通点に対する仮説に辿り着く可能性があると、私は考えています。
つまり、人間は、生きる目的、理由、意味を「とりあえず」でも「当たり前」でもいいから、設定、発見できない状況、状態になってしまう時、自殺の危機に直面してしまう可能性があると、私は考えています。
このように、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を設定、発見し続ける必要がある可能性があると、私なりに仮説しながらも、「とりあえず」と「当たり前」というキーワードを利用して、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していなくても、人間は必ずしも自殺の危機に直面してしまうわけではない可能性があると、私は考えました。
つまり、運が良ければ、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していなくても、「とりあえず」と「当たり前」というキーワードから、自殺の危機に直面してしまう事なく、死ぬまで生き続ける事ができる可能性もあると、私は考えました。
しかし、この考えは、個人的な経験と、私なりの人間社会に対する認識からすると、かなり楽観的だと、私は考えています。
しかし、それでも、あえて、もっと楽観的に考えるなら、結局は「とりあえず」と「当たり前」だけでも、人間の多くは、自殺の危機に直面してしまう事なく、死ぬまで生き続ける事ができる可能性があるのなら、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を必要とし続けてしまう可能性があるという仮説は、成立しない可能性もあると、疑う価値はあると、私は考えています。
○「依存」してでも生きる
しかし、人間が、「とりあえず」でも「当たり前」でも、とにかく生きる目的、理由、意味を必要とし続けているのではないか、生きる目的、理由、意味を設定、発見し続ける事の必要性の強さ、高さを伝えている、警告しているのではないかと、私が考えてしまう人間の行動があります。
その人間の行動とは「依存」と呼ばれる行動です。そして、私にとっての最後のキーワードは「依存」です。
例えば、体内に取り入れた化学物質が脳内で、どうたらこうたらすると考えられている、薬物依存、アルコール依存、タバコ依存、などだけではなく、外部から化学物資を取り入れなくても、ギャンブル依存、ネット依存、ネットゲーム依存、会社依存、親依存、子供依存、などがあると、私は考えています。その上、私がまだ知らないだけ、または世間的認知度が低いだけの可能性も考えれば、人の数だけ、依存対象、依存行為はある可能性があると、私は考えています。
その上、何らかの対象または行為に依存してしまう理由、原因、経緯、きっかけ、なども千差万別で、その何らかの依存から立ち直る方法、経緯、きっかけなども千差万別だと、私は思いました。その上、同じような対象、同じような行為に対する、頻度や継続時間などが同じくらいでも、必ずしも全ての人間が依存してしまうわけではないと、私は思いました。
そして、このように考えた時、人間の「依存」と人間の自殺は似ている気がすると、私は感じました。これは、偶然、こじつけ、思い込み、などの可能性もありますが、人間の自殺と同類の問題である可能性もあると、私は考えました。
その上で、なぜ、人間は依存するのかを考え、人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を必要とし続けてしまう可能性があるという、私なりの仮説を当てはめます。
こう考えると、何らかの理由、原因、経緯、きっかけ、などは千差万別ですが、結果的に最終的に、生きる目的、理由、意味がたった1つしか設定、発見できなくなってしまった場合、その何らかの対象や行為に依存してしまう可能性があると、私は考えました。
こうして生きる目的、理由、意味がたった1つしか設定、発見できなくなってしまっている状況、状態で、その何らかの対象や行為に依存してしまった場合、そのたった1つの依存行為、依存対象が、生きる事の唯一の目的、理由、意味になってしまう可能性があると、私は考えました。
このような状況、状態の場合、そのたった1つの生きる目的、理由、意味を見失わないために、その何らかの依存対象、依存行為によって、その人自身がどれだけ身を削ってしまったり、どれだけ生活を破綻させたりしてしまっても、その依存対象、依存行為に依存し続ける事を止められなくなってしまう可能性があると、私は考えています。
さらに、悲しい事に、このような依存の場合、法を破り、誰かに迷惑をかけ、社会を混乱させてでも、自分自身を死なせてしまう事になってでも、その人にとっての、たった一つの生きる目的、理由、意味を見失わないために、見境もなく、あらゆる手段を実行してしまう可能性が人間にはあると、私は考えています。
つまり、遅くても自殺能力獲得以後の人間にとって、「とりあえず」でも「当たり前」でも、多少「依存」してでも、生きる目的、理由、意味を設定、発見し続ける事の必要性は、高く、強い可能性があると、私は考えています。
ちなみに、自殺しないための対策として、人間なら前向きにポジティブに生きてこそ、人間の能力が最大限に発揮され、ハッピーな人生をエンジョイできる、などという意見、理論もあると、私は思っています。そして、自殺にも依存にも無縁の人生を生きる事ができると信じて、生きている人がいてもいいと、私は思っています。
ただ、私は、自殺未遂も、ある程度の依存も、経験してしまった人間です。前向きにポジティブに生きていれば、自殺の危機に直面してしまったり、何かに過度に依存してしまったりする事は、本当にもう二度とないのか、を考えてしまい、不安になってしまう人間です。そう考えてしまう事自体、前向きでもポジティブでもないのかもしれません。
しかし、私は、私自身の自殺未遂経験をきっかけに、人間とは何なのかを考え、仮説を立て、人間である事のリスク、デメリット、問題点、欠点、などに対して対策を立てた方が、結果的に最終的に、人間である私の良い可能性、メリット、利点、長所、などを最大限に発揮できる可能性があると、私は考えています。
ここまで、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化していない場合について、私なりに考えました。
○失敗、挫折、喪失しても生きる
そこで、次に、若い時期でも、「とりあえず」生きた結果でも、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化できている場合について、私なりに考えます。
その上で、その人なりに、生きる目的、理由、意味があると、その人が信じる事ができる間は、自殺の危機に直面してしまう可能性は低いと、私は考えています。
そして、「とりあえず」ではない、その人なりに具体化、明確化、自覚化できている目的、理由、意味のために、全力を注ぎ、多くの時間と労力を費やせば、何らかの目的を達成できたり、何らかの夢を叶えたりする事もできる場合もあると、私は考えています。
また、この本が、成功哲学などの本なら、成功のイメージを強く持って、失敗するかもしれない、とは考えない方が良い、などという意見、理論が書かれている場合もある可能性もあると、私は考えています。
しかし、この本は、たとえ何があっても、少なくとも私が自殺してしまう事なく、死ぬまで生き抜くための仮説を書いた本です。
だから、はっきりと、私は書きます。どれだけ全力を注ぎ、どれだけ多くの時間や労力を費やしても、必ずしも、目的を達成できるわけではないし、必ずしも、夢が叶うわけではないと、私は思っています。もちろん、どう考えるか、どう思うかは、ある程度、人それぞれの自由だと、私は思っています。
そして、何らかの夢や目的のために、全力を注げば注ぐほど、多くの時間や労力を費やせば費やすほど、その何らかの夢や目的が叶わなかったり、達成できなかったりしてしまった時の、精神的、肉体的、経済的、時間的、社会的な損失は、大きくなってしまう可能性が高いと、私は考えています。
しかし、どんな理由、原因、経緯、きっかけだったとしても、どれだけ、その人にとって、精神的、肉体的、経済的、時間的、社会的な損失が大きかったとしても、自殺の危機に直面してしまわないためには、または、自殺の危機に直面しても立ち直るためには、生きる目的、理由、意味を、「とりあえず」でもいいから、設定、発見できれば、人間は自殺してしまう事なく、死ぬまで生き抜く事ができる可能性があるという考えが、私なりの仮説です。
しかし、個人的な経験では、この「とりあえず」生きる目的、理由、意味を設定、発見するという、一見すると簡単そうな事が、難しくなってしまう場合があると、私は考えています。
そして、この「とりあえず」生きる目的、理由、意味を設定、発見する事が難しくなってしまう場合として、その最大の壁だったと、私が感じた事は、合理的であるという事だと、私は考えています。
しかし、合理的である、という人間の長所、メリット、利点とも考える事もできる場合が多い、この人間の能力が、なぜ、「とりあえず」生きる目的、理由、意味を設定、発見する事を困難にする可能性がある場合があると、私が考えたのかを書きます。
まず、絶対に達成するとは言い切れない目的を達成しようとする時や、絶対に叶うとは言い切れない夢を叶えようとする時、手当たり次第に、思い付いた事から、がむしゃらに、行き当たりばったりで、努力しても、目的は達成されず、夢は叶わないと、多くの人が遅かれ早かれ思い込む可能性が高いと、私は考えています。ただし、もちろん、このような意見、理論は限りなく現実である可能性が高いと、私は考えています。
だから、個人差こそあれ、その人なりに、少なくとも私も私なりに、合理的思考を始めてしまう可能性が高いと、私は考えています。
そして、もっと早く、もっとお得に、より安全に、より確実に、より快適に、より簡単に、もっと楽しく、など合理的に考えてしまえば、しまうほど、自殺の危機に直面してしまった時に、「とりあえず」何でもいいから、生きる目的、理由、意味を設定、発見するという事が困難になってしまう可能性があると、私は考えています。
なぜなら、「とりあえず」何でもいいから、生きる目的、理由、意味を設定、発見するという事が、非合理的に思えてしまう可能性があるからだと、私は考えています。
例えば、何かを失った時、もうどうしたって、失った何かは取り戻せない、再生、復活しない、または、何らかの失敗をしてしまった時、気晴らしに行って何の意味があるのか、そんな事をしても、今さら無駄だ、などです。そういう時、私は自分に言い聞かせます。
ただし、周りの人が、どんな言葉を言ってくれても、少なくとも私は、お前に何が分かるのだ、知っているような事を言うな、などと反発してしまう可能性があるので、なおさら、自分で、自分自身に言い聞かせる方がいいと、私は思っています。
つまり、「とりあえず」何でもいいから、生きる目的、理由、意味を設定、発見して下さい。お願いします。まだ、自殺しないで下さい。お願いします。こんな感じで、私は、自分自身に言い聞かせます。
その上、だいぶ、昔の意見、理論だと、私は思っていますが、頭が良い人ほど自殺しやすいというような意見、理論を、私はどこかで聞いた事があります。そして、このような意見、理論からも、合理的思考能力の高さは、自殺の危機に直面してしまう可能性を高めてしまう場合があると、私は考えています。もちろん、自殺の危機に直面してしまった時でも、合理的思考をして、結果的に最終的に、生きる目的、理由、意味を設定、発見できれば、自殺する事なく、死ぬまで生き抜く事ができる可能性もあると、私は考えています。
しかし、個人的な経験では、少なくとも私が、自殺の危機に直面してしまっている時の思考能力は、ほとんど役に立たなかったという実感があります。だから、「とりあえず」生きる目的、理由、意味を設定、発見するという方法の方が、現実的だと、私は考えています。その後、精神的、肉体的にある程度回復してから、また改めて生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化する方法の方が、現実的だと、私は考えています。
ここまで、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化する事はできたが、結果的に最終的に、目的を達成できなかったり、夢を叶えられなかったりして、精神的、肉体的、経済的、時間的、社会的な損失をしてしまった場合について、私なりに考えました。
○燃え尽きても、リタイヤしても生きる
次に、生きる目的、理由、意味を具体化、明確化、自覚化した上で、結果的に最終的に、目的が達成できたり、夢が叶ったりした場合について、私なりに考えます。
人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を必要とし続けてしまう可能性があると、私なりに仮説しました。だから、何らかの目的が達成できたとしても、何らかの夢が叶ったとしても、その後、その人なりの生きる目的、理由、意味を再設定、再発見できなければ、自殺の危機に直面してしまう可能性があると、私は考えています。
ただし、精神的、肉体的、経済的、時間的、社会的な損失は、ほとんどない場合が多く、むしろ、目的を達成したり、夢を叶えたりした後なので、何かしら得ている事の方が多いと、私は思います。だから、自殺の危機に直面してしまう可能性は、比較的低いと、私は考えています。
その上で、このような場合として、個人的に理解しやすかった事が、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人や、定年退職後に生きがいを見つける事ができない人がいる、などというような意見、理論です。
また、個人的な経験と実感としては、深刻さは比較的低かったと思っていますが、放心状態、思考能力低下、などを、私は感じました。
このような場合として、私なりに見つけた問題点は、少なくとも2つです。
一つ目は、生きる目的、理由、意味の設定、発見が早ければ早いほど、または、生きる目的、理由、意味の設定、発見をしてから、次に、生きる目的、理由、意味を再設定、再発見するまでの期間が長くなれば長くなるほど、視野、関心、興味、などが狭くなってしまう可能性があるため、「とりあえず」でも生きる目的、理由、意味を設定、発見できる可能性が低くなってしまう場合があると、私は考えています。
二つ目は、生きる目的、理由、意味を設定、発見した回数や頻度が少なければ少ないほど、生きる目的、理由、意味を設定、発見する力が弱くなってしまう可能性があると、私は考えています。
少なくとも、私の子供の頃の記憶からしても、多趣味で、興味関心の幅が広く、多くの人との交流が活発な時の方が、「とりあえず」や「当たり前」でも、生きる目的、理由、意味を設定、発見できていた場合が多く、自殺の危機に直面してしまう可能性は低かったと、私は考えています。
ここまでのまとめ
人間は、遅くても自殺能力獲得以後、生きる目的、理由、意味を必要とし続けてしまう可能性があると、私なりに仮説しました。
人間は、最終的に結果的に、生きる目的、理由、意味を設定、発見できなくなってしまう時、自殺の危機に直面してしまう場合がある、という共通点がある可能性があると、私は考えました。
この共通点に対して、私なりの対策を立てる事ができれば、少なくとも私が自殺の危機に直面してしまう可能性を、少しでも下げる事ができる可能性があると、私は考えました。
どうしたら、少なくとも私は、自殺しないでくれるのかを考えるために、そもそも、なぜ、人間は自殺できるようになってしまうのかを考え、仮説を立てて、私なりに考えました。まだまだ考える余地は、とても多い可能性があると、私は思っています。しかし、それでも、次は、「とりあえず」、この仮説から、今の私なりに考えて辿り着いた対策を書きます。
第2章 自殺の危機に直面しないための対策
省略
番外編
まえがき
本編の最後の方では、「なぜ、勉強するのか」「なぜ、学校に行くのか」「なぜ、仕事するのか」「なぜ、社会参加するのか」「なぜ、税金を納めるのか」「なぜ、選挙に行くのか」「なぜ、人を殺してはいけないのか」、これらを、具体例として、こういう行動の一つ一つに対して、その行動の目的、理由、意味として、今のその人にとって、納得できる答えを、一つ一つ設定、発見していく事が、自殺の危機に直面してしまう可能性を、少しでも下げるための有効な対策になる可能性があると、私は書きました。
少なくとも私は、これらの行動に対して、今の私なりの答えを出しました。あくまで、番外編として、書き残しておきたいと、私は思っています。
この本自体、中学生は読まない可能性の方が高いと、私は思っていますが、もし、私が中学生の時に、この本を読む事ができたら、もう少し違う生き方ができたかもしれないと、私は思っています。
そんな妄想と、ここまで、読んでくれた人たちへの感謝の気持ちを込めて、素人なりの今の答えを書き残しておきたいと、私は思います。
第四章 番外編 教育
○「なぜ、勉強するのか」
省略
しょうじんさん
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