「どうして伝わらないのか」 新しい時代は、そう考えるあなたの味方だ。
教養
<内容紹介>
新しい時代の対人コミュニケーションの地図。
どうして伝わらないのか、「伝わらないプロ」が例題を通して解説。
目的、方法、場、間、関係。
ビジョン・ニーズ、メディア・シーン、タイミング、キャラ・ポジション。
ありふれた言葉を整理しながら、伝えるために考えるべき道筋を明らかにする。
<目次案>
はじめに 新時代、伝わらないことから、コミュ力、言葉の価値
1章 目的 自分/相手、意識的/無意識的、道具的/目的的、共感的/論理的
2章 方法 直接的/間接的、送信主義/受信主義、共感的/論理的
3章 場 媒体の選択 国/地域/空間/音、デバイス/ブラウザ/サイト/字・絵
4章 間 時間の選択 世紀/生涯/日常、前後的(フリ/フォロー)、身体的(呼/吸)
5章 関係 内外/上下/距離、性格(キャラ)/立場(ポジション)
終章 コミュ力は本当に必要か…環境(システム)/友人(扶助)/個人(能力)
<コンセプト>
もっとも伝えたいこと:選択肢を整理し、トレードオフへの自覚と自発的選択を促す
類書と異なる点:(1)新時代対応 (2)体系的で実践的 (3)失敗から解法を示す
(1)新時代対応(コミュニケーション環境の変化・意識の変化に対応)
(2)A体系的 (哲学やシステム論ほど難解にならずに、汎用性と体系性を重視する)
(2)B実践的 (心理雑学・ビジネス本ほど個別的にならずに、日常利便性を重視する)
(3)A失敗学 (成功本ほど個別的・偶然的にならずに、応用が効く基礎を重視する)
(3)B解法地図(正答ではなく、そこに至る普遍的な道筋の選択肢を、解法として示す)
<新しい定義・新しい図解・新しい整理>
コミュニケーションの成功を、二段階で定義 「目的の達成―発見」
コミュニケーションの失敗の二段階を、図解 「想いー目的―言動」
伝わらない要因を、三つに整理 「ニーズ・ノイズ・サイズ」
コミュニケーション能力を、三つの次元にわけて整理 「筋肉―技術―神経」
コミュニケーションの目的・受信法の二大分類を図解 「共感的yes―論理的no」
間の練習法、場の練習法、論理・共感の練習法、それぞれの具体的な提示
関係を「内外・上下・距離・キャラ・ポジション」に分解して、整理図解
キャラクターについての新しい定義 「分人(複数性・短期性)・UI (他己視点)」
キャラ立ちについての新しい定義 「UIとしての視認性・操作性が高く、ポジに優先」
キャラクター推測についての定義 「Σポジション」
キャラ見せ・獲得についての図解 「使えないジョハリの窓を修正」
など
これは、新しい時代のための、対人コミュニケーションの本だ。
「どうしてあのとき上手く伝わらなかったのだろう?」
「どうすれば良いコミュニケーションになったのだろう?」
そう考え込む人に向けて書かれている。
簡単には伝わらないことを知る人が生み出す、新しい一歩。
本書は、その新しい踏み出しを応援する、コミュニケーションの地図だ。
だから、上っ面リア充には、ここでお別れを告げる。人を選んでは安直なテクニックを
駆使して、媚び売り、取り入り、飛び回り、人を選んでは何も伝えず、「空気読めよ」と圧殺する。本書は、そんな上っ面リア充の思考停止を助長する免罪符ではない。安いテクニックと寒いフレーズを闇雲にナンバリングして、「これで伝わる」などと気休めを言うつもりは毛頭ない。伝わらない苦みを心に抱き、考える汗を頭にかき、新しいコミュニケーションへの歩みを続ける、そんなあなたのためだけに書かれているからだ。
コミュニケーションに唯一普遍の正解などない。
自分で考え歩くしかない。
この本は、その考えるべき道筋をまとめた地図だ。
「小さなお願いでイエスを重ねさせてから大きなお願いをすれば、
ノーと言いにくくなった相手は、ついイエスと言ってしまうぜ」
「あなただけに言うんですが…、ここだけの話なんだけど…、
そう話し始めれば、相手の興味を引けるぜ」
そういった小手先の技術や冷凍の言葉は、この本には書かれていない。
「心にもない大きなイエスをつい言わされてしまった人間は、後でどんな気持ちになるのだろう? きっと後悔するんじゃないだろうか?」
「あなただけ、ここだけ、って恥ずかしげもなく言う人間は、うさん臭いし信用できない。そんな寒い台詞、話には興味を引けても、人間性には引かれているんじゃないだろうか?」
そういった細かな疑問を抱く人のために、この本は書かれている。
ヒトの心の繊細な揺らぎを大切にする人のために、この本は書かれている。
独りよがりで大雑把なテクニックの氾濫にはうんざり。
ガチガチに氷漬けされて死に固まったコトバの即席再生には食傷した。
本書は、そんなあなたのために書かれている。
では、まず確認しよう。新しい時代はあなたの味方だということを。
新しい時代
これからの時代には、ほとんどのコミュニケーションが記録されて残っていく(注1)。そして、それらのコミュニケーションには評価が添付され、信用情報として流通していく。ブログのブクマやアクセスランキング、Facebookのシェア数やLike数、Twitterのフォロワー率やRT数や、YouTubeの再生回数、食べログやAmazonやTrip Adviserなどのレビュアー実績や、オークションサイトの出品者評価。。。今はまだ、これらの評価システム自体の信頼性は低いが、その質は急速に向上しつつある。
これからの情報の海では、他者からの評価情報が影のように個人に付きまとう。
そんな時代に、「イエスと言わせるテクニック」を使う小ずるい人間は、後でどう評価されるだろうか。その場のイエスを獲得できても、後で悪い評価を付されるのではないか。「本当は要らないのに、つい買わされた。こいつ口先だけ。 ★評価―1」と。
あるいは、話のつかみとして「今だけ、ここだけ、あなただけ」を使い回す軽い人間はどうだろうか。そのフレーズが生の言葉であれば、中身ある生きた言葉であれば問題ないかもしれない。けれども中身がなければ背負うだろう。過去の記録と照合した相手からの、「チャラい嘘つき。みんなに同じこと言ってるし中身ない。 ★評価―1」を。
それら悪評の影は、消えることなく濃く重なり、上っ面リア充の背後について回る。
だが今はまだ、古い時代のコミュニケーションも残存している過渡期だ。
過渡期としての現在
アナログなコミュニケーションは公的なもの以外はまだほとんど記録されていないし、デジタルなコミュニケーションでさえも記録が残らないものもある。そして、それらについての評価情報もまばらに散らばっている。影はまだ、個人の背後に集まってはいない。
だからまだ、安直なテクニックで安い冷凍フレーズを即席再生させる上っ面リア充が跋扈している。そして彼らは、そんな安いコミュニケーションを訳知り顔で勧めてくるだろう。これまでは、口先だけで人から人へと飛び回る、他人を都合良く利用するタイプの人間も成果を上げられたからだ。
見知らぬ他人がごった返す都市社会では、むしり取ったあとにポイ捨てしても、それっきり無視して会わないようにすれば問題ない。むしろ、そうやって他人の心を蹂躙して飛び回る方が、短期間で異常な成果を上げることができたくらいだ。見わたせばほら、むしり取った成果を振り回して我が物顔する上っ面リア充をすぐに見つけることができるだろう。ビジネスでもプライベートでも。あの金融マンにあの情報商材屋に、あのナンパ師。虚ろな内面に蓋をして、ちゃちなテクとフレーズでうるさく飛び回るその顔は、誰の心にも思い浮かぶ節があるだろう。
もしかすると、彼らの「成果」を羨ましくすら感じる人もいるかもしれない。けれども、目先のカネやセックスのために冷えたコトバを安いテクニックで調理し食らう、つまらない関係に慣れてしまってはいけない。月収何億円だろうが何百人とセックスしようが、その成果にただの数字以外の意味はないからだ(1章でグラフとともに図解する)。むしろ、「成果」のために犠牲にされる「評価」のリスクは計り知れない。
先に確認したように、これからの時代では、各種の評価システムの向上により、「むしり取られた」側の告発が堆積していくことが予想されるからだ。例えばアメリカでは既に、元彼のキステクなど諸々についての評価を共有するサイトもある。この先、顔認識の精度が上がり、個人情報の統合が進む中、いちどだけ押し売り(ヤリ捨て)したような相手からの評価も、まわりまわって集積されていくだろう。ビジネスかプライベートかを問わず、さまざまなコミュニケーションの記録比率と評価システムの精度は上がり続けていくのだ。いまや、悪評の影を集める舞台は急速に整いつつある。
そしておそらく数年後には、初対面の相手を映すGoogle glassなどの端末上に表示される「悪評」をチェックしてコミュニケーションに臨むことは、最低限のコミュニケーションリテラシーになっているハズだ。Twitter上でリプライを飛ばしてきた見知らぬ人間のツイートを判断する際、プロフィールやフォロワー率や過去ツイートを照合することが最低限のリテラシーになったように(4章で確認する)。
意識の変化
この、コミュニケーション環境の変化に応じて起きつつあるコミュニケーション意識の変化は、これまでの暴力をめぐる意識の変化と似ているだろうと僕は思っている。
かつて、父親が家族に暴力をふるうようなスポ根漫画が国民的人気を誇る時代があった(注)。その時代には、暴力団ではない一般人にも、「鉄拳制裁が必要なこともある」と主張する人が多く、暴力は必要悪だと考える向きもあった。けれども現在では、暴力行為に対する人々の意識は変化した。かつて「鉄拳制裁」と呼ばれた私的暴力は、家庭内暴力や児童虐待や体罰や各種ハラスメントと呼ばれるようになり、いまでは逆に、鉄拳制裁に対しては法的制裁が待ち受けている。あるいは法的制裁を受けずとも、かつての暴力親父の多くは、熟年離婚を迎え、介護を放棄され、孤独で無残な最期を迎えた。これと同じようなことが、これから起こるだろう。
現在はまだ、上っ面リア充ではない一般人にも、「その場でついイエスと言わせてしまう」ようなテクニックを良しと考え、あるいは必要悪だと考える人も多い。そして多くのコミュニケーション本には、「いかに自分が多く奪うか」「いかに自分が有利に立つか」に特化した利己的で暴力的なコミュニケーション技術が混じっている。真っ当でためになる考えの中にも、それらはひっそり混じっている。未来から見返せば、「これが許される時代もあったんだね」と思われるようなものが。しかし今後、許されないものとしての「暴力」の概念は、身体性から精神性へと拡大されるのだ。これまでは身体に記録された傷からしか判断できなかった暴力的コミュニケーションが、全般的に記録され可視化されるのだから。
コミュニケーション態度の分岐点
だから、コミュニケーションについて語る旧世代の大人の意見は、よく精査しなければならない。コミュニケーション態度の多くは、長い時間をかけて形成される習慣的なものだからだ。これからの時代に適合的ではないコミュニケーション技術を身に付けてしまっては大変だ。その癖はなかなか抜けず、時代から取り残された暴力親父のように哀れな末路へと旧世代人を押し流すだろう。この情報の海は巨大で、その流れは激しいのだ。
もういちど確認しよう。安い言葉と技術で相手に付け入りむしり取り、その一方的な関係を「伝わってるからいいんだよ」「ちゃんと伝えたはずだから」と都合よく正当化する、そんな上っ面リア充の時代は終わった。
集積され可視化される評価は、自分勝手な解釈を振り回す醜悪な簒奪者を許さない。
これからの情報の海では、吸い寄せられる悪評の影は、取り返しのつかないほど濃く強い臭気を放つようになるからだ。そして、悪評も気にせず付き合いを続けてくれる関係こそを本物の関係と呼ぶと思うのだけれど、それを築く努力をしていなければ、待ち受けているのは孤独死以外のなにものでもない。
これからのコミュニケーション
僕らは、本物を探さなくてはならない。Botと上っ面リア充のスパムがはびこる情報の海で、リアルで長期的な関係を探し、築かなくてはならない。
だから僕らが見習うべきは、派手な成果を掲げるコミュニケーションテクニックや決めフレーズなんかではない。親の介護とパートを両立しているあの人や、職場の雰囲気をそっと調整しているあの人や、地域のもめごとをひっそり解決しているあの人。派手な成果も経歴もないかもしれないが、そこには生きることと結び付いたリアルなコミュニケーションがある。絆がある。目立たないが、よく目を凝らし直に触れ合えば気付けるだろう。リアルなコミュニケーションのプロは、絆作りの職人は、至るところにいる。意外なほど近くに。
乗る船を間違えてはいけない。
新しい時代は、自分と相手の双方にプラスをもたらすよう地道に考える人の味方だ。
手には新しいツールを持ちながらも、地道に泥臭く、リアルな関係を築く努力をするしかないのだ。目の前の相手に対して、その時の自分にできる、その場でのベストな答えを探すこと。そしてベストを尽くしてもなお、伝わらないことがある。伝わらない生苦さが残る。その「伝わらない生苦さ」に向き合うこと。そうすることでしか、長期的でリアルな関係を得ることはできない。
つまり時代は、「どうして伝わらなかったのだろう」と考え込むあなたの味方なのだ。
では、次に確認しよう。その方法論が間違っていないことを。
伝わらないことに向き合う
伝わらないことに向き合うこと。
コミュニケーションの成功ではなく、失敗に注目すること。それが、長期的でリアルな関係を築くための方法論だ。
その理由は二つ。(1)成功は、偶然で起こりうる。(2)成功は、確認しづらい。
順に説明する。
(1)コミュニケーションの成功は偶然で起こりうる
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。一般的に、成功は偶然の理由で起こりうるが、失敗には必然の理由がある。だから、失敗に注目していくことが、何かに上達し、何かを築いていくときの基本的な方法論だ。なお、コミュニケーションの成功に偶然の要素が混じることの本質的な理由は、次の1章で「コミュニケーションの成功」を定義することで明らかにする。
(2)コミュニケーションの成功は、確認しづらい。
たとえば先生が、「主語によってbe動詞は変化するよ」と教える。生徒は大きくうなずき、ノートに二色で書き込み、「わかった」と答える。ここで、教えることに慣れていない先生は、「伝わったな」と思ってしまうこともある。けれども、その日の復習テストでの生徒の成績を見て、「やっぱり伝わってなかったんだ」と気付く。あるいは教えることに慣れた先生でも、「今日はみんな復習テストで正解したし、伝わったな」と思うことがある。けれども、その一週間後の定期テストで生徒が間違えるのを見て、「本当には伝わってなかったんだな」と気付く。
つまり、後になって「やっぱり伝わってなかったか」と失敗が明らかになる。それがコミュニケーションの本質だ。
どんなコミュニケーションでも、事後的に「失敗だった」と訂正される可能性がある。特に長期的な関係を築く上では、この点に注意しなくてはならない。たとえば「その場でセックスに持ち込めたかどうか」のように短期的な結果のみに注目する場合は、成功/失敗はその場で明らかとなる。しかし、「お互いに良いセックスだと感じられたかどうか」のように総合的なコミュニケーション結果に注目する場合には、事後的に逆算して訂正されうる評価を見つめなければならない。そのときには「気持ち良かった」と評価しても(されても)、性病をうつされた(うつした)と分かればその評価は地に堕ちるだろうし、二股された(した)と分かれば、交わった記憶すら気持ち悪く思われてくることもあるだろう。
だから、もしもコミュニケーションの成功を確認できた、「伝わった」と思ったとしても、そのほとんどは幻想だ。確実に確認できるのは、「伝わらなかった」という失敗だけなのだ。だから、伝わらなかった経験をもとに、「伝わらない確率を減らしていく」ことでしか、コミュニケーションは上達しない。あの言い方で成功した・あの言葉で落とせたなどという安い考えで得られるのは、短期的で中身のない関係だけだ。
PDCAを回すこと
しかし、伝わらないことに向き合うことは、とても難しい。それは、失敗を見つめることだからだ。
ここで、コミュニケーションを学習する過程を明確にすることで、注意するべき5つの点を明らかにしておこう。
一般的に、人間が何かを学習するときには、必ず次の二つのうちどちらかを行っている。
(1)真似すること、(2)PDCAを回すこと、だ。
このうち真似することは、「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であることからも理解しやすい。しかし注意しなければならないのは、人間が何かを「真似ぶ」のは、良いものだけではないという点だ。真似するつもりはなくても、無意識に「見て・聞いて・体験したもの」を脳は記憶し、再現していることがあるのだ。たとえば児童虐待を繰り返す親は、自身も幼少時に虐待された経験を持っていることが多い。子どもが泣き喚いたときに、そうしてはいけないと思いつつも、自身が親にされたことをなぞって、我が子を虐待してしまうのだ。
コミュニケーション全般が、この無意識的な学習である「真似する」ことに依存している。たとえば言語を学習する際にも、子どもは自身の見聞きした言葉を真似することで、言語を身に付けていく。ヒトは意識するとしないとに関わらず、自分が接したコミュニケーションを真似してしまう。そして、コミュニケーションの多くは、過去の真似の蓄積をもとに、習慣という過去の自分を真似して強化しながら反射的に行われていく。
そこで、コミュニケーションの失敗を改善するためには(つい虐待してしまう習慣を治す場合も同じなのだが)、意識的に新たな習慣を築く必要がある。そのための意識的な(管理的な)学習過程が、PDCAだ。簡潔に確認しておくと、PDCAとはPlan/Do/Check/Actの頭文字をとったもので、計画/実行/評価/改善のことだ。コミュニケーションの意識的な学習においては、この各段階に注意すべき点があるが、特に重要なのはCheckとActの点だ。各段階ごとに説明する。
Plan :コミュニケーションの目的を明確にしておくこと。これは、後で適切な評価を行うために必要となる。
Do : 恐れずに量をこなすこと。コミュニケーションにおいては、伝わらないことがデフォルトである。そもそも伝わらないもんだ、という諦念のもと、それでも伝えたいんだ、という祈りを持つことでヒトは前へと進める。
Check:正しく評価すること。つまり、失敗を明確に把握すること。これが最も難しい。ヒトは伝わってないときにもうなずくし、分かったと言う。むしろ伝わってないときほど、「もういいから、話を早く終わらせてくんねーかな」とか「分かってないことがバレないようにアピールしなきゃ」と思って、ヒトは大きく頷いたり、大きな相槌をするものだ。コミュニケーションが上手な人に注目してみれば、みな間違いなくこれらを見抜く「評価」が上手いと気づくはずだ。僕のまわりのコミュニケーションが上手い人はみな、「なんでコミュニケーションが上手いの」と尋ねると「そんなことないよ、たくさん失敗しているよ」と言う。彼ら彼女らがそう言えるのは、細かな失敗に気付けるだけの圧倒的な「観察力」があるからだと僕は思う。逆にコミュニケーションが上手くない人の方が、失敗に気付くことすらなく「これで伝わってる」と勘違いしているものだ。では、僕のように「観察力」がない人間はどうすればいいのか。この場合は、相手から直接言ってもらうしかない。つまり、「それ何言ってるかわかんない」と正直にダメ出しをしてもらえる関係を作ること。あるいは、このひとには文句を言っても大丈夫だなと思われるポジション・キャラを磨くこと。そうすることで、観察力のない人間でも「失敗」を正しく認識して評価できる。つまり、自分の観察力を磨くか、周囲からのダメ出し環境を整えるか、どちらかだ。
Act :正しく改善すること。失敗を認識しても、その理由を正しく推測し、改善策を正しく導くのは難しい。コミュニケーションにはたくさんの要素があり、どの要素が失敗につながったか分かりづらいからだ。「なんでフラれたんだろ?服装がダメだったかな、あのセリフがダメだったかな、それか変なニオイしてたかな?」考え出すとキリがない。僕の知るコミュニケーションが上手い人はみな、この理由を明確に推測できないときは、相手に確認している。直接的に「あれ、なんでダメだった?」と聞いたり、間接的に「やっぱり、服装が変だったもんね」と言うことで待ったり、改善のための理由確認に力を入れる。そしてコミュニケーションが上手くない人ほど、自分のアタマの中だけで考えた架空の因果関係をでっち上げる。
また、改善策にも違いがある。コミュニケーションが上手い人は、微調整をする。ひとつの要素を取り出して、今回と次回との比較ができるように改善する。コミュニケーションが上手くない人ほど、一気にいくつもの要素を大きく変更しようとするか、全く何も変えようとしない。コミュニケーションを、連続する学習過程の中に置いていないからだ。
また、コミュニケーションの失敗に向き合うことは、ときに辛いことでもある。伝わらない失敗をすべて自分の責任とすることは、自分のコミュニケーションを向上させる上では必須なことだが、心がその負荷に耐えられないこともあるからだ。たとえば、教え上図な良い教師ほど、そんな彼の教え子が自殺してしまったとき、生徒に命の大切さを伝えられなかったのは自分の責任だと考え、生徒の後を追って彼もまた自殺してしまう。普段から、どうして伝わらなかったかを自分の責任として考えPDCAを回すことに熱中しているからだ。だから、自分の心の耐えられる負荷という観点からも、Actの改善はひとつくらいに絞るべきだ。改善すべき点を自分の中だけに多く求めず、「もう無理でしょ、伝えらんねーよそれ以上は」と諦めることも必要だ。「自責と他責」のバランスをとること、それもActにおいては重要だ。
伝わらないことから考えるべき道筋
では、伝わらなかったという苦い思いを噛みしめて、ひとつひとつその理由を考えて、改善していくとして。
いったい何をどのように考えるべきなのだろう?
コミュニケーションには唯一普遍の正解がないために、そのときどきで、どうして伝わらなかったかは異なる。
どうして思いが伝わらなかったか、どうすれば良かったか、その理由や方法にはたくさんの考えるべき道筋があり、あてもなく考えをめぐらせると迷子になってしまうことがあるのだ。
本書は、そうして迷子にならないための案内地図だ。
だから、コミュニケーションをめぐる様々な分かれ道を、全体が見渡せるように体系づけることを目標にしている。
そのため、とても詳しい抜道やだれも知らない裏道ではなく、みんなの大通りを見やすく表示することを心がけている。つまり、あっと驚く知識やあした使える裏技ではなく、たしかにそうだねと思える当たり前のことを、そうまとめると頭がスッキリするねと思ってもらえるように整理することが目標だ。
当たり前のことなんだけれどつい見落としてしまう、それが迷子になるいちばんの原因だからだ。
だから本書は、いますぐに役立つわけではない。
けれども、「あの時の、あの人への、あの言葉」を考えるようなときに、その思考の道中にお供させてもらうことで、少しずつ長い時間をかけて役に立つことができれば良いなと思っている。
あるいは、皆さまの周りで迷子になっている人を道案内するときに役立ててもらえれば、とても嬉しい。
それではまず、例題を通してこの地図の構成を説明する。
先に告げておけば、この例題では次のことを確認する。
「コミュニケーションをめぐる全ての失敗は、最終的にはたった2つの理由に行き着く。なのに、片方に一生懸命になるあまりにもう片方を見落として迷子になってしまうことがよくある。」
見落としポイントに気付けるか、試してほしい。
<例題>
モデルの矢田さんと交際を始めて半年が経ったころ、
フリーターの中林さんは、「結婚しよう」とメールで伝えた。
けれども、これは失敗だった。
どうしてだろう?
思いつくかぎり、理由を挙げてほしい。
(考える時間 3分)
この例題では、いくらでも理由が考えられる。
・矢田さんは、交際半年でのプロポーズは早いと考えた
・矢田さんは、フリーターと結婚するつもりはなかった
・矢田さんは、メールでプロポーズなんて、と恋が冷めたetc
けれども、これら「結婚が断られた場合」以外の失敗を想像された方は少ないのではないだろうか。
つまり、「結婚が受け入れられた場合」での失敗。
・地獄のような結婚生活(離婚騒動)が待っていた
・中林さんのメールはただの冗談で、本気ではなかった etc
これが先に告げておいた見落としポイントだ。結婚ジョークに慣れた方や人生経験が豊富な方などは、こちらも想像されたかもしれない。けれどもこの例題では、多くの人は「結婚が断られた」方向で理由を考えるようだ。中林さんは「結婚しよう」と伝えたのだから、「結婚したい」と思っているのだろう、と推測できるからだ。
けれども、本当に中林さんは「結婚したい」のだろうか。
よくよく考えてみれば、中林さんは「これからも2人で幸せに過ごしたい」という強い思いを告げる手段として「結婚」を口にしただけかもしれない。甘い恋人関係を保つ方が中林さんの本来の意図には合っていたのに、結婚に含まれる法的効力を考えもせず、勢いでプロポーズしてしまったのかもしれない。
あるいは、「ダメだよ(笑)」と返してもらえる、いつもの軽い冗談としてメールしたのかもしれない。メールでのプロポーズなんていつもの冗談だと分かってもらえるだろう、と思っていたのに、「いいよ」と言われては、さぞ焦ることだろう。
ここまでのポイントを再度まとめてみよう。
すべてのコミュニケーションの失敗は、「思い」とのズレが原因だ。それは「受け手の思い」とのズレかもしれないし、「伝え手自身の思い」とのズレかもしれない。なお、「思い」という言葉に含まれる違いを分かりやすくするため、ひとまずこう定義しよう。
「コミュニケーションが失敗する理由は、2種類に大別される」
(1)受け手の期待(ニーズ)に合わなかった
(2)伝え手の意図(ビジョン)と合わなかった
この2つだ。
例題に即して説明すれば、1つ目の、結婚が断られた失敗。この失敗はすべて、中林さんのプロポーズというコミュニケーションが、矢田さんの期待(ニーズ)に合っていなかったことが失敗理由だと言える。
そして2つ目、結婚が受け入れられた失敗。この失敗はすべて、中林さんの「結婚しよう」とメールしたコミュニケーションが、自分の意図(ビジョン)に合っていなかったことが失敗理由だと言える。
相手の期待に合わせることだけを考えていると、自分の意図からズレてしまう。
かといって自分の意図ばかりを重視すると、今度は相手から見向きもされない。
コミュニケーションとは、両者をバランスよく成立させる地点を探し歩く作業のことだ。
「相手の期待と自分の意図」
言い換えれば、
「相手と自分、双方のコミュニケーションに対する目的」
これが、コミュニケーションをめぐる地図上での緯度と経度、X軸とY軸だ。
つまり、どのようなコミュニケーションを目指すべきか、その目的地点は「相手の目的」と「自分の目的」という2つの軸が交差する場所に置かれなければならない。
コミュニケーションの失敗はすべて、この目的地点への到達経路の失敗として考えることができる。ヒトがコミュニケーションを考える道すがら迷子になってしまうのは、目的地を見失うからなのだ。
では、なぜ目的地を見失ってしまうのか。
目的地までの道筋が、いくつもあるからだ。
いくつもの曲がり角があるからだ。
その曲がり角とは、(1)場、(2)間、(3)関係、だ。現代風に言い換えれば、
(1)メディア・シーン、(2)タイミング、(3)キャラ・ポジション、だ。
先の例題では、 (1)場(メディア) :メール
(2)間(タイミング) :交際半年
(3)関係(ポジ) :モデルとフリーターの恋人 と整理できる。
そこで本書では、まず「目的」、次に「場」「間」「関係」という順序で考える道筋を整理していく。その際、「〇〇の場では謝るべきか否か」のように、具体的な例題と失敗例を通して解説を進めることにする。
しかしその前に、少しマクロな視点から「どうして伝わらないのか」を確認しておこう。そうすることで、いま示した「曲がり角」の持つ意味がより明確になるはずだ。
なぜ伝わらなくなったのか
どうして伝わらないのか、その問いに対するマクロな答えは、「自分と相手が異なるから」だ。そして、その問いをこのようにずらしてみよう。どうして伝わらなくなったのか、と。その問いに対する答えは、「自分と相手の共有する前提が減ってしまったから」だ。
本書は、コミュニケーションをめぐる二つの時代の終焉に対応して書かれている。
ひとつは、先に述べた「伝わったと都合良く解釈する一方的コミュニケーションの終焉」。そしてもうひとつが、「伝える努力を要せずとも伝わるコミュニケーションの終焉」だ。
かつては、「以心伝心・阿吽の呼吸」という成句が示すような、直接的な言葉で伝えずとも相手に気持ちが伝わる時代があった。
被征服経験もなく、村落共同体で長期間を共に過ごす生活様式が長期間にわたって続いたこの国では、共有される知識と価値観を元にお互いを察する文化が発達してきた。あえて言語化せずとも、お互いの空気を読む文化。ハイコンテキスト文化、と言ってもよい。
しかし現在、進む都市化と情報化で人と情報の流動性は上昇し、相手の持つ知識と価値観を推測することは容易ではなくなった。特に近年の情報化は、相手と自分が同じテレビ番組・同じ新聞を見ることで同じ話題を共有できた時代を終わらせた。
相手が持つ知識と価値観が、自分の持つそれとは大きく異なること。それが現在のコミュニケーションの前提だ。この時代の変化に呼応する形で生まれたのが「コミュニケーション能力」への需要だ。
自分と相手に共有部分が少なくなったため、従来のコミュニケーション方法では「伝わらなくなった」。それが、2010年代初頭に『伝える力』・『聞く力』などの本がベストセラーとなり、コミュニケーション能力を「コミュ力」と称して崇め奉り、あるいは貶し罵る状況を生んでいる。
そこで、個々のコミュニケーションの「失敗」から「目的・間・場・関係」をミクロに考える道筋を明らかにする前に、コミュニケーション能力とは何か、どうやって鍛えるか、言葉の価値とは何か、それらマクロな疑問に答えを与えておこう。それが、この地図全体を読み進む上での縮尺と方位を示すことになるはずだから。
コミュニケーション能力とは何か
では、「コミュニケーション能力」とはいったい何なのか。
たとえばコミュニケーション本を書くような売上げ日本一のセールスマンは、どの人も「聞くことが大事です」と言う。「話し下手でも聞くことができればいいのです」と。しかし、このような主張をしてビジネス本を書くセールスマンはたいてい、保険や車といった高額商品を長時間かけて売る職業に就いている。たとえば彼ら彼女らに、デパートの試食販売をさせてみればどうなるだろう。彼ら彼女らに、駅前のビラ配りをさせてみればどうなるだろう。それら低額商品(広告)を短時間で捌く職業では、聞き下手でもかまわないから話し上手が求められる。そこで彼ら彼女らは、自分の主張が通用するフィールドの狭さに気付くだろう。おなじ営業職でも、目的と場所によって必要とされるコミュニケーション能力は全く異なるのだ。
あるいは、いくらコミュニケーション能力があるように見える人でも、相性の悪い人とは全くコミュニケーションがとれない場合もあるだろう。そう考えると、コミュニケーション能力という言葉が指す範囲は大きすぎて、あまり用をなさない概念のように思える。
そこでここでは、コミュニケーション能力という概念を、分解して見てみよう。
コミュニケーション能力は運動能力に似ている
そのためにまず、コミュニケーション能力を「運動能力」にたとえて考えてみる。
たとえば、一口に運動能力と言っても、バレーボールをするのかサッカーボールをするのか、その「目的」によって必要とされる筋肉も技術も全く異なる。サッカー選手にとって、バレー選手のような腕の「筋肉」は重くて邪魔なだけだし、ボールを手で打ち返す「技術」を身に付けてしまっては、ついボールに手が出てハンドと反則になってしまい邪魔なだけだろう。
また陸上選手のように同じ足の筋肉を使う競技であっても、短距離と長距離ではつけるべき筋肉の種類が全く異なる。筋肉には遅筋と速筋の二種類があり、そこには、片方を増せばその分もう片方が減るというトレードオフの関係があるからだ。
また、運動能力とは単に筋肉と技術があることではない。どのようにそれらを使うかについての「運動神経」が悪ければ、筋肉も技術も宝の持ち腐れとなる。いくらシュート技術が優れていても、パスをすべき場面でシュートしようとしては意味がないのだ。あるいは、勘違いして自陣のゴールにシュートしてしまえば、その強く正確なシュート技術も筋肉も、マイナスの結果を強めることにもなる。
同様に、一口にコミュニケーション能力と言っても、取り調べをするのかカウンセリングをするのか、その「目的」によって必要とされる「コミュニケーション筋肉」も「コミュニケーション技術」も全く異なる。相手の話をただ傾聴することが最重要視されるカウンセラーにとって、検事のように怒鳴りすかす声のコミュニケーション筋肉も、相手を疑い弱みを握り取引をもちかけるコミュニケーション技術も、邪魔なだけだ。
また、短期の関係を築くコミュニケーションの筋肉や技術だけでは、長期の関係を築くことはできない。いろんな相手と一晩をすごすのと、ひとりの相手と長く付き合うのとでは、同じ恋愛という種目であっても全く異なる筋肉・技術が要求されるだろう。遅筋と速筋のように、そこにはいくらかトレードオフの関係があるかもしれない。
また、コミュニケーション能力とは単にコミュニケーション筋肉やコミュニケーション技術があることではない。どのようにそれらを使うかについての「コミュニケーション神経」が悪ければ、どんな筋肉も技術も、宝の持ち腐れとなる。あるいは、相手の心に強く正確にコトバを届ける筋肉と技術は、使い方次第では相手をキレイに引き裂くマイナスの結果を強めることにもなるだろう。
筋肉・技術・神経の優劣
もう少しこのたとえに沿って話しを続ける。
そもそも普通に暮らす一般人にとって、生活するにあたって筋肉不足を悩むことはほとんどない。どんな人間であれ、「筋肉」が全くないという状態はあり得ず、また足りないという状況も稀である。たとえば普通の一般人が海で泳ぐことができないのであれば、それは筋肉が足りないからではなく、どう手足の筋肉を動かすかという泳ぎ方を身に付けていないか、水の中ではどうすべきかという知識・経験がないからだ。この泳ぎ方を一般的には「技術」と呼び、水の流れによって泳ぎ方を変えることや、水の中だから泳がなければと判断すること自体を、「運動神経」と呼ぶだろう。
同様に、普通の一般人にとって、コミュニケーション筋肉の不足を悩むことは愚かだ。どんな人間であれ、コミュニケーション筋肉が「全くない」という状態はあり得ず、また「足りない」という状況も稀である。世界中の多様な価値観を持つ人々とつながることができるようになった現代で、自分とは異なる人々とのコミュニケーションが上手くいかないのだとすれば、それは情報の海の泳ぎ方という「コミュニケーション技術」や、今はどう泳ぐべき、あるいはそもそも歩くべきか泳ぐべきか自体を判断する、「コミュニケーション神経」が不足しているのだ。
もちろん情報の海とは、インターネット空間のみを指すわけではない。リアルな場所もさまざまな情報にあふれた海である。
これまでの日本では水温も一定で水流も緩やかだったために、大して泳ぎ方を知らなくても、大して水の流れが見えなくても、溺れなかっただけにすぎない。しかし現在では知識も価値観も多様になり、ヒトも情報もその流れが激しくなっている。泳ぎにくくなっているのだ。あるいはこう言い換えてもいい。溺れやすくなっている、と。
けれどもヒトは、かつて海に住んでいた生物が陸に上がった存在である。だから、生まれながらにして泳ぐことのできる筋肉を持っている。海で溺れるひとは、ただ、泳ぎ方を少し忘れているだけだ。
同様に、ヒトは古くからヒトと情報を交換しヒトと交配してきた存在である。だから、生まれながらにしてヒトは情報の海を泳ぐ筋肉を持っている。リアルであれサイバースペースであれ、だれかがKYと呼ばれあるいは自らを非コミュ・コミュ障と呼び、広いこの世界で溺れかけているのだとしたら、それはただ、泳ぎ方を少し忘れているだけだ。だから、泳ぐために必要なのはほんの少しの練習だけ。それでも、どうしても泳げなければ…?
答えは単純だ。「浮いているだけでいい。」
つまり、無駄に筋肉を動かさないこと。無駄な技術を発動させないこと。余計なぜい肉や筋肉で身体を重くしていなければ、「動かない、楽にする」というカタチで運動神経を使うだけで、浮くことができる。これは、ほとんどの人間にできるし、いちばん初めに学ぶべきことでもある。
以上をまとめよう。
(1)「能力」の構成要素は、「筋肉」と「技術」と「神経」に分けられる。
(2)筋肉・技術にはさまざまな種類があるが、中にはトレードオフの関係があるものがある。
(3)能力の中では、筋肉より技術の方が、技術より神経の方が、重要である。
(4)神経は、ときに「筋肉も技術も使わない」という形で発揮される。
(5)どんな人間であれ、情報の海を「泳ぐ」ための最低限の筋肉を持っている。
(6)どんな人間であれ、情報の海を「泳ぐ」ための最低限の技術を身に付けられる。
(7)どんな人間であれ、情報の海で「溺れない」ための最低限の神経を身に付けられる。
これらは本書を読み進めていく中で、具体例を通して再度繰り返されることになる。
筋肉とは何か・技術とは何か・神経とは何か
さて、運動能力にたとえることで、コミュニケーション能力についていくつかの指針を示した。では、コミュニケーション筋肉・技術・神経とは何を指すのか、別の言葉で簡単に説明しておこう。
まず、コトバを使わない非言語コミュニケーションにおいては、笑顔などの「表情」や、声の高さ・大きさ・テンポ・滑舌などの「声色」や、腕を組む・肩を叩くなどの「ボディランゲージ」が、コミュニケーション筋肉と言えるだろう。
それら筋肉を、特定の相手や自分の状況に合わせて一連の流れにしたものがコミュニケーション技術だ。たとえば、上目遣いで相手を見つめながら、尖らせたアヒル口から高く細い声を出し、相手の膝に手を置きながら寄りかかるのは「甘える」技術だ。
それら筋肉や技術を状況に合わせて運用することが、コミュニケーション神経だ。つまり、この人は甘えて良い相手だろうか、自分には甘えるのが似合うのだろうか、いまは甘えても良い場面だろうか、それらを総合的に判断して運用するのがコミュニケーション神経だといえる。
たとえば一般的には、小声でボソボソ話す「声色」は、聞き取り辛い悪いコミュニケーションだと思われているし、学校教育も「大きくはっきりした声で」を推奨する。
しかし、たとえば落語家は、始めはわざと小声でボソボソ話す。そうすると、なにを話しているのかよく聞こえないので客は聞き耳を立て、前に乗り出す。そうして相手の聞く姿勢を作っておいてから、普通のボリュームで話しを進めるのだ。
つまり、状況によっては、小さなボソボソ声はとても良いコミュニケーションにもなるのだ。やはり重要なのは、これらを使い分けるコミュニケーション神経だと言える。
もしも小声でしか話せないという人がいるとすれば、その話し方が有効になる相手や場所を選ぶことの方が、大きな声を出せるようにする練習よりも有意義かもしれないのだ。
では、コトバを使う言語コミュニケーションではどうか。
コトバを使うコミュニケーションは、「読む・書く・聞く・話す」に分けられる。現在の日本では、学校教育の「国語」あるいは「英語」という科目でこれらを学ぶ機会がある。
それらコトバの義務教育課程を思い出してもらえれば分かるが、読み書きのために「文字・単語・文法」を、聞き話すために「発音・単語・話法」を学ぶ。
これらは、「文字や発音」「単語」がコミュニケーション筋肉、「文法や話法」がコミュニケーション技術だといえるだろう。
では、最も重要となるコミュニケーション神経は?
それは「文脈」だといえるだろう。あるいは、文脈という言葉は文章の読み書きを想定した言葉であるので、会話の聞き話しを想定した場合には「空気」と言っても良い。
なお、空気という言葉の捉え方はさまざまに議論があるが、本書では「文章における文脈力」と「会話での空気力」をコミュニケーション神経と呼ぶことにして、話しを進める。
ただし、文脈力も空気力も、「文脈を読む・空気を読む」力という受け身の方向だけを指すものではなく、「文脈を操作する・空気を変える」力という積極的な意味も含めて言葉を使っていくので、注意していただきたい。
さて、そう定義してみれば、日本の学校教育は、非言語コミュニケーションや、言語コミュニケーションにおける「文脈力と空気力」を軽視してきたと言えるだろう。あるいは、その学習の枠組みがなかった、と言った方が適切かもしれない。本来、国語や英語という「言語」の枠組みの外に、「コミュニケーション」という枠組みを設ける方が適切だと思われるからだ。
たとえば筆者が知る男に、学生時代には英語が得意だった男がいる。彼は新婚旅行で奥さんとアメリカに行ったのだが、シャイなために現地でほとんど英語を話せず、ホテルのチェックインも記念写真の撮影依頼も奥さん任せだった。ちなみに奥さんは、英語が苦手だという。
この例でも、コミュニケーション神経、特に積極的な意味での「文脈力・空気力」の重要性が分かる。
そういうわけで本書は、ここまでコミュニケーション神経と呼んできた「文脈力・空気力」を中心に据えて、後の章を進めることになる。世間には「文字・単語・文法」レベルの、コミュニケーション筋肉・技術に関する情報はあふれているが、「文脈・空気」レベルの、コミュニケーション神経についての詳しい情報が少ないからだ。あるいは文脈や空気と銘打ってある情報があったとしても、それらは難解で衒学的で実用性に乏しいか、空疎な体験談を過度に一般化していて汎用性に耐えないか、という両極端なものが多いように思えるからだ。
文脈・空気と、コトバの重さ
では、文脈・空気とは何か。簡単に言えば、伝えたい思いのうち、背景にあって言語化されていないものが「文脈」、同じく言動として明確化されていないものが「空気」だ。
つまり、次のような式をイメージすればよい。
伝えたい思い = 言葉 × 文脈 ( 言動 × 空気 )
とすれば、本書のテーマは一貫している。
「このテクニックで伝わる!」
そんな安いご神託を告げることはしない。
「これが使える、正しい言葉、強い言葉、美しい言葉だ!」
そんな都合の良いものあるわけない。
けれども、あるハズだ。
だからこそ、あるハズだ。
どんなに過つ言葉でも、「その場」に発するから、真実を照らすことが。
どんなに弱い言葉でも、「その間」で呟くから、強く刺さることが。
どんなに醜い言葉でも、「その関係」で叫ぶから、美しく響くことが。
だから本書は、「その場、その間、その関係」について見ていく。
その場。その間。その関係。
そこにある「文脈」あるいは「空気」と呼ばれるものこそが、
「言葉」に命を吹き込む、生きるリアルそのものだ。
伝わらないあの生苦さは、伝わったかもというあの恍惚は、
母胎たる「文脈・空気」の皮膚を、産まれ出る「言葉」が内側から引き裂いて飛び散る、血飛沫の味なのだ。
それが、リアルの味だ。
生きたコトバだけが身にまとう、重さだ。
文脈・空気から抉り取ってコトバに込められた、思いの重みだ。
文脈。空気。
その場、その間、その関係が持つ、生の揺らぎ。
生身のぼくらがコミュニケーションへと向かう価値は、その揺らぎにしかない。そうでないなら、コミュニケーションはすべてBotと上っ面リア充に任せてしまえばいい。
使い回しのテクとセリフが伝えるのは、うすっぺらい人間性だけだ。
そもそも使い回している時点で、根本的に「軽い」。
ヒトに伝えるということは、ヒトのココロを動かすということだ。
ヒトのココロを動かすには、コトバに重さが必要だ。
正しさでも強さでも美しさでもない、重さ。
その重さを生む場・間・関係の選択こそが、本書のテーマだ。
言葉の価値とは
ここでまた、角度をずらして考えてみよう。
言葉の価値はいったい何で決まるのか、と。
「愛してる」という言葉を例にして考えてみよう。
これまで日本では、お互いに空気を読み察するというハイコンテキスト文化が発達してきた。「I love you」を「愛してる」と訳した生徒に対して、教師であった夏目漱石が「月がきれいですね」と訳すように指導した逸話があるくらいだ。
しかし現在の社会環境は、お互いに多くの知識・価値観・時間を共有することを前提とするハイコンテクスト文化を育んだかつてとは大きく異なる。
そこで現在では、「愛してる」と恋人(夫婦)で伝えるかどうか、ひとによって意見がわかれている。
ある人は、「愛してるという言葉は、滅多に口にするような言葉ではない。滅多に口にしないからこそ、その言葉は重みを持ち、言ったときに価値を持つのだ」と言う。
僕も、この考えに半分同意する。しかし、それはあくまで半分だ。きつい言い方をすれば、これは小学生レベルの考え方だとも思っている。なぜか。
価値というものがどうやって決まるのか、中学生でも知っているからだ。
価値というものは、「需要と供給」で決まる。先の考えは、その「供給」視点でしか価値を考えていないのだ。
つまり、その人が人生でたった一度しか言わない「愛してる」だとしても、大して仲良いわけでもない関係の相手から言われたなら、ぶっちゃけかなり気持ち悪い。需要がないから。反対に、何度でも、毎日でも「愛してる」と言われたい場合だってあるだろう。需要さえあれば、いくら「愛してる」の言葉が供給されても、その価値は無限大に膨らむのだ。
そして、これは僕がフランス人と同棲しているからかほぼ毎日にわたって言い続けていて実感することなのだけれど、「愛してる」と言い続けるには、ある種の努力が必要だ。逆に、以前に日本人と交際していたときには、「愛してる」と言わなくて済んだがために努力をしていなかったと気づいたくらいだ。
その努力とは、「愛してる」という言葉の価値を保つ努力だ。言い換えれば、「愛してる」と言ってほしいと相手に思ってもらうための努力だ。
それは行為としての様々な具体的な努力でもあるし、言葉の使い方の努力でもある。
たとえば、「愛してる」と言うのがセックスのときだけだとすれば、相手は「セックス目当てに付き合ってるだけなの?」と思うかもしれないし、「愛してる」と言ったあとに金を貸してくれとせがんだり、浮気していたことがバレたり、そういう風にして「なんらかの精神的な借りを返すためのコトバ」として使用していれば、「愛してる」という言葉の価値は下がり続けるだろう。そしてこの言葉の価値の低下は、2人の関係の強度を下げ、関係から得られる幸福度を下げることにも直結する。
逆に、相手が受け取って嬉しい状況で「愛してる」と言えば、その言葉の価値は保たれるし、関係の強度も幸福度も保たれる。
部屋を掃除してくれたときやお風呂で身体を洗ってくれたとき。仕事に出かけて離れる前のとき。そういう間では、言葉を受け取りやすいし、需要もある。
けれども、いつもいつも同じでは飽きる。僕の場合、彼女が飽きた雰囲気のときは、「あっそ」とか「知ってるよ」と返すので分かりやすい(と思っている)。おそらくこれが行き過ぎると無視されるだろうと想像している。
だから、SNSのメッセージにしたり、紙に書いてポケットに入れたり、ときどき場を変えて新鮮さを保つことが必要になる。
また、いつも言う場面で「ねえ…何もない(笑)」とあえて言わなかったり、あるいは逆に、「ねえ、やばい。さっき大変なことに気付いてしまった…」と悪いことに気付いたようなフリをしてから言ったり、様々に文脈を操作することで、言葉の価値を保つことが必要になってくる。
いま「愛してる」というプライベートな場面での言葉で説明したが、これは「任せる」などビジネスの場面での言葉でも同じだ。部下が任せてほしくない場面で「任せる」と言っても価値を損なうだけだし、逆に「任せた」と言ったにも関わらず口出しするのも言葉の価値を下げる。そして言葉の価値を下げることは、すなわち自分の価値を下げること・部下との関係の強度を下げることに直結する。
言葉の価値を保つよう、文脈を操作する努力をすること。行為としての努力をすること。
それが、言葉以上に重要なことだ。
言葉はすべて、順列組合せに過ぎないありふれたものだ。だから、コミュニケーションにおいて重視すべきは、言葉自体ではなく、それを発する時間・場所・関係という固有の文脈、二度と同じものがない、固有の揺らぎなのだ。
それでは、始めよう。
目的・場・間・関係をめぐる、さまざまな分かれ道の確認を。
本文の構成上の注意点
なお、本書では比喩や図表や数式を使いながら、あらためていくつかの言葉を整理し、定義し直している。ただし本書は「迷子になったときでも見やすい言葉の地図」を目標としているため、言葉の一般的な用法が持つ道幅を狭めたり広げたりと調整した部分があり、そのぶん正確さを犠牲にしている部分もある。
つまり、比喩も図表も数式も、伝わりやすさのために厳密な正確さを捨てるというトレードオフの下で成立している。その点については、あらかじめご了承いただきたい。コミュニケーションを含むすべての営みは、なんらかのトレードオフの下で成立している。それが本書のサブメッセージでもあるからだ。
21世紀初頭の日本で、いまやバラバラになってしまったコミュニケーションの常識のうち、それでも輝く欠片を拾い集め、新しいコトバで塗り繋げた、全体を見渡せる地図を作ること。
その目的がうまく達成されたかどうかは分からないけれど、本書の内容がどうにかこうにか伝わって、なんとか、みなさまのお役に立てることを願ってやまない。
吉松 稜さん
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