2016年8月、わが国はオリンピックとSMAP解散の話題で埋め尽くされた。本当にどうでもいいのだが、「どうでもいい」という意見は世間では許容されない。つい先ほど、ヤフーニュースを見たら、ミッツ・マングローブというタレントがバッシングを浴びていた。女子レスリングの吉田沙保里が試合直後と表彰式で涙を流し続けたことについて、「しらけちゃって、一粒も涙が出なかった」とテレビ番組で発言し、それがスポーツ紙(電子版)やTwitterなどで拡散し、抗議のコメントが殺到したという。ミッツは「これは、非難されてしかるべき発言だと思います。申し訳ありませんでした」などと謝罪。
嫌な世の中ですね。
たとえ、しらけてもテレビでは「しらけた」と言ってはいけないわけだ。
もっとも、コメンテーターに求められるのは内容のある意見ではなく、テレビを見ている知的レベルの低い人たちの共感を呼ぶ意見である。よって、この場合は「感動して一緒に泣きました」と言う必要がある。
私の場合、先日ラジオ番組でオリンピックの話題を振られたので、「知らない」「興味ない」で押し通した。騒ぎにならないのは私が無名だからである。あと、「あいつに謝罪を要求しても無駄」と思われているフシもある。実際、無駄だし。
本書『謝罪大国ニッポン』は、「謝罪」というキーワードを通して、グロテスクな今の社会を描き出している。
中川は言う。
《茶道、武道、柔道、剣道など数々の「道」が日本には存在するが、最近は「謝罪道」といったものまであるのではないだろうか。どう考えても、謝罪という行為が本来の目的から逸脱して様式美や何らかのルーティンのようになっているのである》
たとえば、こんな感じだ(本書192ページ)。
• うだつのあがらなそうなオッサンが4人ほど登場する
• 神妙な表情を浮かべる
• 同タイミングで一斉に深々と頭を下げる(時間は5〜10秒)
• この時ハゲ頭がひとりいると尚良し
• 司会役は記者に対しとにかく丁寧に接し、謝罪者には冷淡にする
最近だと、謝罪で失敗したのは、舛添要一だろう。別に罪をおかしたわけでもないのに大バッシングを浴びた。会見において、世間の空気を読み間違えたからだ。一方、限りなくブラックに近いグレーなのに、雲隠れした甘利明は無事だった。ほとぼりが冷めるのを待ったのである。
要するに、最大のクレーマーは「世間様」なんだよね。
本書で指摘されているように、東京五輪エンブレムをめぐる佐野研二郎の「パクリ騒動」があれだけ拡大したのは、成功者を引き摺り下ろすという大衆のやっかみによるところが大きい。要するに集団リンチだ。ギュスターヴ・ル・ボンが指摘したように、人間は集団になると野蛮な本能を前面に出す。多くの人間がその程度の動物である以上、身を守るスキルが必要になる。
これはある評論家から聞いた話。
彼は電車の中で強面のチンピラとトラブルになった。酔っ払って最初は気が大きくなっていたが、やがて相手にすると面倒だと察知した。でも、チンピラはすでに収まらなくなっている。その評論家は、電車を降り、人が大勢いるところに誘導し、「申し訳ございませんでしたあ!」と土下座して大声で叫んだそうな。こうなると、チンピラも手を出しづらい。
この話を聞いた翌年、コンビニの前でチンピラとケンカになった。そのときは私のほうが悪かったので、「あれを使うなら今だな」と思った。でも、深夜なので周囲に誰もいない。まあ、いいやと思い、土下座こそしなかったものの、「申し訳ございませんでしたあ!」と叫んでみた。すると、チンピラは急にやさしくなり、最後は「雨が降っているから気をつけて帰りな」などと言ったものである。
中川は言う。
《本書では必要な謝罪は適切にするべきだが、不要な謝罪はするべきではない、というスタンスで処世術を書いていく。また、現代の日本がなぜここまで過度な謝罪を要求するようになったのかを、数々の事例とともに紐解いていく》
本書で紹介される事例は多い。ベッキー、勝新、円楽、のりピー、山一證券社長、小池一夫、そして中川淳一郎。だから、説得力がある。
私は「結局、他人と無駄に接触しないことが一番ではないか」「有名にならないのが一番ではないか」などと以前からうっすら考えていたが、最終章でこの問題が丁寧に扱われていた。親切である。今、読むべき社会批評だ。
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