初めてインドを旅して帰って来た人――特に若者――にインドのことを聞いてみるといい。インドで体験したいろいろなこと――楽しいこともあれば苦しいこともあっただろう――を嬉々として語ってくれるだろう。そして、旅の中で、自らの目で見て考えた、「インドとは・・・」「インド人とは・・・」という、いっぱしのインド論、インド人論を、はちきれんばかりの興奮と共に披露してくれるだろう。その多くは、インドを旅する前にインドに対して抱いていたイメージ――「神秘」「悠久」「混沌」など・・・――がより増幅されたものとなる。
そういう初々しいインド観を持てることが時にうらやましく感じるものだ。彼らのように、インドを端的に捉え、端的に表現することができたら、どんなにすっきりするだろう。
インドに長く住み、インドを広く深く旅行し、そしてインドをある程度知るようになると、なかなかインドについて一言で言い表せなくなる。何かを言おうとしても、すぐに反例が思い浮かび、言葉が出なくなる。なるべく間違いのないように言葉を選ぶと、かなり狭い範囲――特定の時代、地域、共同体など――に限った話にならざるを得ない。結果、結局インドやインド人について何も結論を言っていないことになる。しかし、敢えて、本当に敢えて、一言でインドを言い表そうとしたら、「インドは普通の国」ということになる。
インドを見る視線を、一旅行者の視線から一住民の視点に転換し、冷静な頭で観察すると、目の前で起こる、一見非日常的に見えていた事象は、ことごとく日常となり、インドは普通の国として映るようになる。
例えばこんなことがあった。インドに住み始めてまだ間もない頃。ヒジュラーと呼ばれる両性具有者コミュニティーの調査に通訳として同行したことがあった。インドを旅する旅行者は、列車での移動中にヒジュラーと遭遇する確率が高い。一般にヒジュラーは男性の顔と体格をしているが、女性の服やアクセサリーを着用し、化粧もしている。一見すると女装趣味のおっさんだ。そういう特異な人々が列車にずかずかと乗り込み、乗客に上から目線で「金を出せ」と言ってくる。それに外国人旅行者も巻き込まれる訳である。
ヒジュラーは、建前では両性具有者とされているが、実際大半は男性から女性への性転換者である。そのような人々がコミュニティーを形成して社会の底辺に組み込まれている。ヒジュラーは子宝を司っていると考えられており、結婚式や出産後など、生殖に関わる機会にどこからともなく現れて人々から喜捨を巻き上げる。だが、街角や列車などで人々から無理矢理金を徴収したり、売春に手を染めたりするヒジュラーもいる。インドの面白さ、神秘さ、訳わからなさを象徴する存在のひとつと言っていいだろう。
その調査旅行の折、ヒジュラーたちが集住する家に潜入することができた。一体この人たちは普段どんな生活をしているのか、非常に関心があった。きっと独特な生活を送っているに違いない。ところが、自分の目にしたヒジュラーたちは、寝転んでTVドラマを観ているだけだった。何てことはない、他のインド人と同じだ。日本人ともそう変わらない。普通なのである。ヒジュラーでさえ普通なのだから、普通のインド人はもっと普通である。
勝手に「異」であることを期待していたものがひとつひとつ「普通」に変化する過程を経て、やがてインドは最初から普通の国だったことに気付く。普通のインド人が普通に暮らす国。今、インドで目にすることのできるものは、インド亜大陸が置かれた地理的環境やその上に住む人々が経て来た歴史によって形作られて来たものに他ならず、今ある姿以外のものにはなり得なかった。決して、神様の気まぐれか何かで、奇想天外な国や人がこの地に出現し残存している訳ではない。これはどの国にも当てはまることだが、なぜかインドを語るときだけは、そういう常識が働かないことが多い。憧憬と侮蔑の入り交じった色眼鏡と共に語られることがほとんどだ。
世界には、国名を聞いても何のイメージも沸かないような国が、失礼ながらいくつもある。そんな中で、インドは、たとえどんな間違ったものであったとしても、何らかのイメージは浮かぶ、一応の幸福な国ではある。だが、それがインドの不幸でもあった。
そうならば、インドに長く住み、「インドは普通の国である」と達観した者の義務は、それを広く世に示し、世間一般の誤解を解くこととなる。インドに12年住んだ拓徹氏の『インド人の謎』は、まさにそのような本である。
筆者は、特に初めてインドに足を踏み入れた日本人がインドについて抱きがちな疑問や偏見に対して、歴史学者らしく、その歴史や文化的事情をひとつひとつ明らかにし、丁寧に解きほぐして行く。切り口は、「カースト」「宗教」「貧困」といった抽象的なものから、「トイレ」「ターバン」「野良牛」「カレー」「音楽」といった具体的なものまで、とても幅広く、しかもどれも日本人がインドを想起する際に重要になって来るキーワードばかりだ。その解きほぐし方はあたかも、手品の種を動画付きでステップごとに解説し、それが決して魔法や魔術の類ではないことを示そうとしているかのようである。
同書の題名『インド人の謎』は、もしかしたら「謎の多いインド人」というニュアンスで受け止められるかもしれない。そのおかげで手に取って中身を見る好奇心旺盛な読者もいるかもしれないし、「またこの手の本か」とため息をつくインド関係者もいるかもしれない。だが、その真意は、「インド人は謎の存在ではない」ということを主張するものであり、一般のインド本とは一線を画する本であるということを強調しておきたい。
『インド人の謎』はそれだけに留まらない。筆者は、インドに対して深い愛情を抱いており、時にインド人の弁護をして彼らの名誉回復に努め、時にインド人を日本人が見習うべき対象として持ち上げる。なぜ一人の日本人がここまでインドやインド人に魅了されてやまないのか。筆者は、自分自身でその謎を突き詰めている。インドに関する最大の謎は、この点かもしれない。インドは、インド人は、なぜこんなに魅力的なのか。なぜこんなに好きになってしまうのか。『インド人の謎』は、筆者の自己探求の中で、それが一定程度明らかにされている本だと言える。
高倉嘉男
1978年愛知県生まれ。東京大学卒。インドの首都ニューデリーのジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)でヒンディー語博士号取得。インド在住歴約12年。2013年に日本に帰国し、以後故郷の高校で教鞭を執る傍ら、名古屋大学大学院でヒンディー語を教える。インド留学中、留学日記「これでインディア」を運営し、「アルカカット」の名前で知られていた。現在はインドを懐かしむブログ「バハードゥルシャー勝(まさる)」を運営。
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