さいきん下水道に興味津々のぼくにとってこの本は「待ってました!」という一冊だ。これはタイトルの通り、映画に登場する下水道を紹介した一冊。いや、逆だ。下水道が出てくる映画を論じた本だ。
まさにこの点が重要かつ本書を他に類を見ないものにしているゆえんで、すべての人にお勧めできる理由である。いったい誰が『第三の男』と『ミュータント・タートルズ』を並列に論じることができると思っただろう? 下水道を軸にすればそれが可能なのだ。映画におけるその描かれ方から、ぼくらが下水道をどういうものだと思っているかを浮かび上がらせ、ひいては都市と歴史における「地下」のイメージをあぶり出している。ワクワクする一冊だ。
本書は業界誌『月刊下水道』(なんておもしろそうな月刊誌! 定期購読したい!)での連載がまとめられたもので、著者は下水道の技師。しかし、専門的に小難しい話は一切出てこない。ぼくのように下水道に興味を持っている人でなくてもだいじょうぶ。というより、下水道について全く詳しくない方こそ楽しめるはずだ。
作品によっては「この場面での下水道の描かれ方は正しくない。なぜならば……」と苦言が呈される一方、思い入れのある映画に関しては下水道そっちのけの勢いで作品への愛を語り始めたりもする。著者が下水道のプロでありマニアであると同時に、映画好きであることがうかがえて楽しい。キュートだ。一度お会いしてみたい。
さて、本書に登場する「下水道映画」は59本。主な有名タイトルを並べると『シンドラーのリスト』『スチュアート・リトル』『レ・ミゼラブル』『逃亡者』『スピーシーズ』『ショーシャンクの空に』『バットマン リターンズ』『ミッション:インポッシブル』など。「いわれてみれば下水管のシーンあった!」と思い出して、もう一回観たいなあ、となる。目下ぼくはここで紹介された映画をすべて観たくてうずうずしている。
それにしても下水管が舞台になる映画ってたくさんあるものだ。思えば「存在することは知っているけれど、訪れたことはない」という点で下水道は宇宙に似ている。映画によく登場するのも当然かもしれない、と思った。が、しかし著者によれば下水管が登場する映画の総数は100程度にすぎないのではないか、という。映画作品全体の数からみればごく少数だ。意外だ。
一方で『第三の男』や『ショーシャンクの空に』など「ザ・下水管映画」とでも呼べる作品の存在感は強い。数でいえばなかなか出てこないが、いちど舞台となればその印象は強烈である。映画において下水管の登場には確固とした理由と演出があるということで、つまり下水管は「なんとなく」は登場しないということだろう。
本書のおもしろさが一目で分かるのは、その章立てだろう。しょっぱな第1章は「ネズミ編」。以下「災害編」「モンスター編」「逃走路編」「強奪編」「隠れ家編」「脱獄編」「歴史編」と続く。下水道そのものではなく、そこを舞台とする登場キャラクターや利用のされ方を軸にしている点がポップだ。中でもぼくが最も興味を惹かれたのは第2章「モンスター編」。ここでは、下水道に突然変異した怪物がいて人間を襲う、という筋立ての作品の系譜がしめされる。個人的にはTVアニメ『ダーティペア」に同様の話があったのを思い出した。このありがちなストーリーの発端は、ニューヨークの下水道にワニが住んでいたという実話とそこから広がった都市伝説にあるのではないかという分析は非常に興味深かった。
さらに、放射能によって変異したモンスターが下水道に潜んでいるという設定の日本の怪奇映画『美女と液体人間』を代表に、「放射能への恐怖+下水道」という系統も紹介している。この映画は1958年の作品で液体人間になってしまったのは「水爆実験の放射能を浴びた第2竜神丸の乗組員」である。いうまでもなくその4年前に起こった第五福竜丸の痛ましい事件を元にしている。いわば『ゴジラ』の地下版だ。この流れはまだ健在で、ミュータント・タートルズも放射性物質により下水道で変異したカメだ。
このような章立てで見ていくと、映画における下水道とは文字通り都市における"地下"のイメージを負わされていることがわかる。下水道とは基本的に都市にしか存在しない。そして権力や秩序が忌避・弾圧したり、無視したり、忘れていたものがそこに象徴されているというわけだ。そういえばルパン三世はしょっちゅう下水道を逃げている気がする。
しかしこの下水道像に対して著者はやや不満だろう。下水道はほんらい上水道や電気・ガス・電波といったものと何ら変わらぬインフラなのだから。そういう意味で、ぼくはある有名な漫画・アニメを「下水道作品」の最高峰として挙げたい。それは『ドラえもん』である。
のび太たちが遊ぶ空き地に積まれているあの土管、あれは下水道整備のためのヒューム管だ。『ドラえもん』以外の作品でも、藤子・F・不二雄は、土管をロケット材料として使うなどの形で登場させている。氏が上京しドラえもんを描きはじめるまでの東京は、まさに下水道整備まっさかりの時代で、その完成は明治以来の悲願だった。たぶん藤子・F・不二雄にとって下水管は「よくなっていく未来」の象徴だったのではないか。
本書の著者は下水道の登場する邦画は極めて少ないと言っている。もしかしたらそれはぼくら日本人にとって土管が明るく楽しい未来の象徴だからではないか。あえて、いち下水道ファンとしてはそう信じたい。
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