江戸しぐさ。雨の日にすれ違う際には傘を傾ける「傘かしげ」、ベンチなどで後から来た人のために少し腰を浮かせて詰める「こぶし腰浮かせ」、訪問する際には必ずアポイントメントをとるよう注意する「時泥棒」など、江戸時代の人々が守っていたとされるしぐさの総称であり、なおかつ現代では失われていると主張される行動様式のことである。但し、これらのしぐさが江戸時代に普及していたとするのは誤りだ。これらはいずれも、現代的な道徳観から逆算して捏造された「ニセ歴史観」なのである。
例えば「時泥棒」。アポを取り、時間を正確に守るという習慣は、現代のように時間を計る手段を誰もが持ち、メールや電話などの連絡手段を持たないと成り立たない。しかし、「時間は大事だよね」という道徳観と、「昔は今よりもよかったに違いない(現代は昔と比べて何かしら劣化したに違いない)」という思い込みとが重なって、こうした眉唾話が広がってしまったと言える。
原田実『江戸しぐさの正体』は、江戸しぐさというニセ歴史が史実としていかに誤っているかを暴き、にもかかわらずどう普及してしまったのかを分析した一冊だ。江戸しぐさ批判の総まとめといってもいいだろう。この本のお陰で、江戸しぐさと聞けば、「ああ、あのニセ歴史でしょ?あの本に書いてあったよ」と言えるようになった。悲しいことに江戸しぐさは、適切に検証されることなく、教育現場や政治の世界などに浸透してしまっていた。しかし、ウェブ上などで江戸しぐさ批判が盛り上がり、『正体』が話題になるにつれ、江戸しぐさの普及にも一定の歯止めがかけられているように思える。
『江戸しぐさの終焉』は、『正体』の続編的な位置づけであるが、性格の異なる一冊でもあるため、単体でも楽しめる。デマの検証に力を割いていた『正体』ともまた違い、『江戸しぐさの終焉』ではさらに、「江戸しぐさ」というデマが生まれた経緯や、関係者の証言の矛盾点、『正体』発売以降の江戸しぐさ推進言説の衰退、そして「親学」をはじめとした、江戸しぐさの周辺にある所言説の問題点の整理など、幅広い分析が行われている。
江戸しぐさ言説の矛盾点は、整理されてみるとどれもお粗末だ。例えば江戸しぐさが現代に伝承されなかった理由として推進者は、江戸から明治になった際の、新政府による「江戸っ子狩り」によって虐殺され、生き残った江戸っ子は地方に散って江戸しぐさを伝承してきた、というトンデモ設定を語っていた。一方で推進者は同時に、関東大震災の際には、多くの江戸っ子が第六感で地震を予知して東京を離れたために助かった、とも説明している。
江戸で虐殺された江戸しぐさ伝承者が、関東大震災を第六感で回避したという、この突拍子のなさ。「江戸っ子はとっくに地方に散っていたんじゃないのかよ!」とか「地震予知できるなら、虐殺は予知できなかったのかよ!」とか、ツッコミながら聞くべきところなのだろう。但し、江戸しぐさ推進者も、こうした設定はあまり口にしている様子ではなさそうなので、今やこの設定そのものが、江戸しぐさ界隈の黒歴史になっているのかもしれない。
デマの事例分析に興味がある人には、前著『正体』をお勧めする。一方で、デマが生まれた背景の分析と、デマが是正されていくプロセスの活写に興味がある人は、『江戸しぐさの終焉』がお勧めだ。同著は、『正体』のその後を描いているからこそ、江戸しぐさを肯定的に取り上げてきた大手メディアが、訂正することもなく、ただ江戸しぐさ賛美からフェードアウトした様子などもクリアになる。また、江戸時代の専門家が、江戸しぐさを荒唐無稽なものだと軽視していたがゆえに、いつの間にか蔓延してしまっていたという実態も浮き彫りになる。
本書には、流言研究のヒントも多くちりばめられている。専門家が、誤った言説の是正にコミットせず、「どうせ他愛もないもの」「いずれは鎮静化するだろう」と楽観視していると、とんでもない事態を招くことになる。江戸しぐさは、ニセ歴史であるにも関わらず、多くの道徳教材に掲載され、多くの企業研修に活用され、公共広告機構のCMでも紹介されていった。このように流言というのは、「みんなが言ってるから多分正しいのだろう」「誰も誤っていると言わないのなら正しいのだろう」といったノリで、いとも簡単に真実味を与えられてしまう。ひとたび権威ある媒体に掲載されれば、「あそこもとりあげていたから大丈夫だろう」と、次々と「感染」していくのが、流言の怖さなのだ。
それにしても、だ。道徳とは、ふんわりとした美談をよみあげる時間ではなく、コミュニケーション時に発生するトラブルを回避するためのリテラシーを身に着ける時間にしてほしい。そして、流言という、人がコミュニケーションを行う限り、必ず発生してしまうエラーに対し、労を割いて検証・中和を試みた本書こそ、道徳教材に用いられるべきだとも思う。
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