「塾長・副塾長がゆく!」

第一回は『生きる技術!叢書』を創刊した編集者、技術評論社の安藤聡氏にお話を伺いました。内田樹氏、釈徹宗氏ら大物著述家と、魂の書を編み続ける安藤氏。この混沌とした時代に新たなシリーズを立ち上げるにあたって何を考えていたのか? 「世界を理解するためのOSをバージョンアップさせる」「のりしろのなくなった時代にオルタナティブな生き方を提示したい」など、知的でエキサイティングな対談となりました。

第一回は『生きる技術!叢書』を創刊した編集者、技術評論社の安藤聡氏にお話を伺いました。内田樹氏、釈徹宗氏ら大物著述家と、魂の書を編み続ける安藤氏。この混沌とした時代に新たなシリーズを立ち上げるにあたって何を考えていたのか? 「世界を理解するためのOSをバージョンアップさせる」「のりしろのなくなった時代にオルタナティブな生き方を提示したい」など、知的でエキサイティングな対談となりました。

「技術」の再評価を目指して

柿内 まずは「生きる技術叢書」を6月に創刊されたわけですが、それに至るまでのいきさつについてお聞かせ下さい。

安藤 まず、私のキャリアをお話ししますね。最初は翔泳社というコンピューター系の出版社で編集をやっていました。そのあと晶文社というサイのマークでお馴染みの出版社に移りました。で、そのあと、バジリコという会社にいって、それから今の技術評論社で働き始めたのが昨年の5月ですね。こちらに来て1年半くらいになります。
ここにきて新シリーズを立ち上げるにあたって、「技術評論社」ということばについて考えてみたのです。技術評論社は基本的には、科学系・コンピューター系の書籍を出している会社なのですが、「技術」ということばは、もう少し評価されてもいいんじゃないかと思うに至ったのです。

柿内 「技術」ということば自体を?

安藤 はい。これは、よく言われるんですけど、「科学技術」と言ったときに、「科学」と「技術」とどっちがレベルとして上なのか、と。一般的には「科学者」って言ったほうが、「技術者」って言うよりもステータスとしては上なんじゃないか。そう見られることが多いんじゃないかと思うんです。
ただ、世の中を変えてきたということから考えると、「科学」の基礎的な部分も大事なのですが、意外に小さい「技術」の積み重ねとか、「技術」の発見とかが出たおかげで、世の中が便利になったんじゃないかなと思うんです。例えばエジソンとかは、そうですよね。

柿内 そうですね。「科学者」っていうと、天才肌タイプの、ゼロからイチを作っちゃうようなイメージがありますよね。

安藤 あと、これは聞いた話なんですけど、椅子の下についているキャスターってありますよね。キャスターがぐるぐる回ることで、椅子自体が自由に動けるようになった。ああいうキャスターっていうのも、発明されたのは比較的最近の話らしいんです。

柿内 あぁ、そうなんですね。

安藤 昔はくるくる回るキャスターっていうのはなくて、こう、一方向にしか動けなかった気がするんですけど、それが、どこのメーカーか技術者かはわからないですけど、くるっと自由に回転するようにした。すると、360度自由に動かせるようになった。
キャスターを作る技術っていうのは、車輪が出来た頃からずっとあるわけですけど、そのくるくる回転できる形でつけるっていう発想と技術が出来た段階で、劇的に椅子が移動しやすくなったわけです。

柿内 なるほど。

安藤 わりと、細かい技術の発展で世界が変わってきているってことはあるんじゃないかなって気がするんです。そういう意味で「科学」と「技術」っていったとき、もう少し技術の方も評価されていいんじゃないかなと思うんですよね。

柿内 確かにそうですね。

安藤 その技術を持っている人っていうのは、職人的な性質を持っていることが多い。だから腕をもっていても、「ことば」をもっていないっていうケースが結構あるのかな、っていう気はしています。
技術を持っている人は、知恵というか、かならずそれなりの経験値っていうものがあるはずです。必ずそれを積み上げてイノベーションを起こすような技術っていうのが生まれている。そこの部分の秘密ってなんだろうっていうのを勉強しているところから、だんだんコンセプトが固まっていきました。
それから、「技術」ってことを考えたとき、「生きる技術」というものの見方もできるんじゃないかなっていうのがこのシリーズです。「技術」という言葉から入ったんですけどね。それが一つ。

世界を理解するOSをバージョンアップする

安藤 あと、「世界の認識の方法」とか「人間に対する理解の仕方」っていうのが変わってきているなっていうのがありました。昔でいうと、哲学の問題で、「性善説か性悪説か」というものがありましたけど、そういう哲学的なフィールドの問題だったことが、脳科学が発達してくることで、脳の機能の問題になった。「ここのこんな機能がこうなっているから、人間はこう考えるんだ」とか、分析がものすごく進んできたっていうこともあって、それがフィードバックされると、また哲学の問題も違った解が出るんじゃないか。

柿内 確かに。

安藤 だからその、哲学と脳科学との領域横断みたいなことも必要になってきているんじゃいかなとか。「人間はこういうものだ」という理解が進むことで、社会がスムーズに回るようになったり、組織が上手く回るようになったりするのではないかと。

柿内 理解の仕方が変わることで社会がより良くなる。

安藤 世界に対する認識の仕方、人間に対する認識の仕方の基本的な部分、僕は「OS」と呼んでいますが、「世界を理解するOS」っていうのは変わってきているような気がしています。だったらOSっていうのは、バージョンアップした方がフィットするものになるだろう。
というと、新しいOSをまとめていくためには、「領域横断」っていうのが必要になってくるだろうし、今までのカテゴリー分けだとか、テリトリーっていうのは少しゆるく考えて、「これとこれをつなげてみよう」とか、「これとこれの橋渡しをしたらどうなるのかな」とかいうのを、もっと積極的にやっていかなきゃいけないんじゃないかなと。で、大げさにいえば、世界の認識のベースがなんとなく見えてくるようなライブラリーっていうのが出来たらいいなっていうのはありました。

柿内 なるほど。それがシリーズのコンセプトというか。

安藤 そうですね。ただそれは、あんまり大きなこというと恥ずかしいですし、「そういうことを考えていて出来たものがこれかよ」っていう感じもあるかもしれませんので、そんなに大々的には言ってないんですけどね。

柿内 星海社も「武器としての教養」ってでっかく掲げておいて、「これ武器かよ!」って言われたらどうしようって感じのところはありますけどね(笑)。でもやっぱり、「架け橋」ってことばは、すごくいいなぁって思いますね。

安藤 そうですね、前だったらつながらなかったものが、「あ、これつながってたんだ!」っていう発見ってある感じがするんですよね。それはある種、あとづけしてやって、「これとこれがつながるんだったら、これとこれもつながるし、じゃあこういう選択肢もあるね」とか「こうやっていけばいいね」とか「こうやって考えればいいね」というような、読者が生きる上でのベースになる考え方っていうか、その助けになるような考え方っていうんですかね。

柿内 その世界をどう理解するかとか、世の中とか人生とか人間とかを理解する上でのベース、OSになるような? 

安藤 そうですね。

柿内 点でしか見えていなかったものが、架け橋によって線になり、また線がつながって面になるような、そうするとすごく豊かな理解が出来るようになりますし、みんながもっとそのように理解出来れば、世の中がもっと豊かになるみたいなところがある。

安藤 そうですね。現時点では、点が線になり、線が面になり、このような世界が構成されるっていう全体像が見えていない段階なんだと思うんです。見えてる人もいるんだと思うんですけど、少なくとも声が聞こえる範囲にはいない。

現場のフィールドワークを積み上げて全体が見えてくる

安藤 だから、このシリーズは、現場から拾っていくつもりでいます。トップダウンで、「こういう世界はこうだ」ってバーンと見せて、各部分をあたっていくというよりは、「ここには何かありそうだ」っていう現場をフィールドワークしていって、それがだんだんとつながっていって、点が線になり、面になり、立体像を描くというところまでいけたらいいなと思っています。

柿内 そうですね。それは、星海社新書もそういうスタンスですね。何か「こういう正解があるんだよ」っていう、例えば立方体があって、それぞれ一面図を出していくんじゃなくて、一個一個やっていく中で、後で振り返ってみると、なんか世界が出来ているんじゃないかなとか

安藤 だからそういう意味では、共通するところがあるなと星海社新書さんの方も見ていましたし、周りを見渡すとほかにもいくつか、こうやって連帯出来るなっていうお仕事をしている人がいる感じはしています。

柿内 やっぱりここに歴史の大きな転換期ってものがあるんでしょうね。そういうところで、やはり活動とか考えとか出てきて、緩やかにつながっていくのが、今日からだんだんつながっていけるんじゃないかっていう

安藤 その流れを上手く広げていくことに役立つような仕事が出来ればなぁと考えているところなんですけど。

暗黙知をことばにする

柿内 あとやっぱり、暗黙知的なところをことばにするってことですね。以前、屋根の職人や左官職人の方のお話を伺ったことがあるんですけど、結局壁を作る職人と屋根を作る職人って別の職人で、壁と屋根のつながるところってすごく豊饒な領域になっているというか・・・。その境目を壁職人がやるのか、屋根職人がやるのかって、その場の空気で決まるというかなかなかことばに出来ないらしいんですよね。

安藤 なんでしょうね。ことばにできないからこそ、師匠から弟子へとか現場でのやり取りの中で、交渉とか実地でやってみる、やって見せるといった中で伝えていったと思うんですけどね。確かに、ことばにするのは難しい作業であると思います。

柿内 そうですね。

安藤 そういうことを自分の中で思考していっても、実際にきちんと出来るか、あるいは出来ているかっていうと、全く今のところはそんな

柿内 でもその、態度、思考性っていうのが重要だと思うんですよね。星海社としては同世代以下、30代20代へのメッセージを発信していきたいっていうのがあります。そして、こういう活動自体がメッセージになっているのかなと思っています。

世界の「のりしろ」がなくなっている

安藤 柿内さんとか竹村さんとかが始められたことをみて、やっぱりその時代感覚をすごく感じるところがあります。10代も含まれると思うんですけど、20代30代、特に30代なら前半の人たちだと思うんですけど、やっぱりある種「いっぱいいっぱい」なところがあるというか。だんだんと選択の余地が狭められているというか、ある種追い詰められている感じというのがある気がしていて。要するに、世界の「のりしろ」がなくなってきている。

柿内 「遊び」がないですよね。

安藤 そうですね。いろんな圧力をもろに受けて生きてる感じがしています。ビジネス書とか自己啓発書とかいうのが読まれているというのは、そういうところもあるんだと思うんですよね。ある種の不安をかきたてられているというか、ここから落ちたら這いあがれないというような、ある種の強迫じゃないですけど

柿内 不安マーケティングですね。

安藤 そうですね。社会から少しでもふるい落とされないように、「少しでもスキルアップしたい」とか、「少しでも効率よく学習したい」っていうのが、今ニーズとしてすごくあると思うんです。そうした声に応えることは現実の問題として必要だと思います。
一方で僕は、対処療法的なノウハウだけじゃなくて、長いスパンで見て個々人の考え方の底上げにつながるようなものが出来たらと思っています。それはどっちがよくてどっちがダメとかそういう話ではなくて、両方あってしかるべき存在なんですよ。
例えば自己啓発的なビジネス書のノウハウがすごく役に立って、短期間でスキルアップが出来て、会社の仕事でもどんどん上のレベルまでいけたとするじゃないですか。そこまでいけたとして、ではそこからどうするか、どう社会と向き合うのか、ということはまた別のフェーズの問題になるわけです。そこで得た知識とか地位とか資本とかを、自分だけのものにするのか、それとも社会とか共同体に対して還元するのか、といったことはまた別の位相の判断になるわけですが、そこにかかわるような本を作る、といったことですね。

柿内 そうですね。

安藤 さらに、階段を2段飛ばし3段飛ばしで上がっていくような上昇志向を持たない人っていうのもいるでしょう。
僕などは、競争から降りていって、それなりに満足度をもって生きていけるようなスタイルっていうのはあり得ないのかということを考えるタイプですね。ちょっと引いた目線で言えば、上昇志向のベクトルの人たちと、降りていくのでいいやっていう人たちと、ある程度住み分けが出来て、お互いそれなりの満足度をもって生きていけるっていうのがいいんじゃないか、ある程度人間分布っていうものが上手く出来るんだったらそれでいいじゃないかって思いますね。

柿内 若い人もそれを求めていると思いますよ。勝つか負けるかしかない、二項対立のものはうんざりしているし、資本主義っていうのはそれを施行しているし、先ほど言われていたように、社会に遊びがない。遊びがないと、ハンドルが機能しない。
遊びってすごい重要なものであるのに、社会とか仕事とか仕組みとかに遊びがなくなってきて、生き方くらいなんパターンの型しかなくなってきてしまって、型から落ちると、みんなが成功したいとか勝ちたいとかばっかりじゃないじゃないですか。勝たなくてもいいって思っている人が、勝たなくても豊かに暮らせるっていうところがない。崖があって、そこから落ちてしまうともうみたいになってしまっている。
まわりを見渡しても、戦争も起きていないし、ファシストもいないし、何にも問題はない。いくら中国に抜かれたとかいっても、どこに行っても食べ物は手に入るし。でも心には遊びがなくなっている。

安藤 そうですね。飢え死にする人もいないし、そういう心配もないんだけど、どこか切羽詰まっているというか幅がないというか

柿内 気持ちの問題がそれだけ強いと思っていて、不景気になるところも結構あるけど、それだけ気持ちの問題があるんじゃないかなと思って。出版不況も、出版不況っていうと出版不況に聞こえてきますけど、今までやりすぎていた分普通に戻っているんじゃないかって思うと、ちょっとだけ気が楽になりますし。

オルタナティブな生き方の提唱

安藤 確実に僕が20代30代だった時期と比べて状況が違う。僕らの時代はなんだかんだいって、そこまでの「余裕のなさ」っていうのはありませんでした。
僕も大学の頃、就職活動なんて全く頭になくて、適当に大学出て、ぶらぶらしてて、そのまま出版業に入ったんですね。それくらいいい加減な生き方をしていても、そこそこ働けるくらい余裕があった。いろんな本を読んだり映画みたりしながら、自分の生活も維持できたっていうのがあるんですけど、そういう余裕は実際問題、結構なくなってきている。
だから、あの頃はよかったっていうんじゃなくて、「あそび」がない時代なんだということをわかった上で、それでもオルタナティブな生き方はあるんだよっていうのを、僕らくらいの年代の人間はもっと積極的に見せていくべきでしょうね。
それは単なる懐古的な、「あの頃に戻りたい」とか「あの頃はよかったよね」とかいうのとは違って、それでもオルタナティブっていうのは気持ちの持ちようとしてあり得るんだ、という部分。そういう選択肢もあるし、実際そういう選択肢をとっている人間もいるんだってことを積極的に見せたいですね。

柿内 そうですね、素晴らしいですね。そのオルタナティブな生き方っていうのが、ビジネスの成功者ばっかりになったら、面白くないですよね。

安藤 そうですね。もちろん、ビジネスの成功者でオルタナティブな生き方をとるってこともあるだろうし、それができたらすばらしいでしょう。でも、やっぱり階段を上るのはしんどい話だと思うし、そこに対してものすごい努力してもやっぱり振り落とされる人の方が割合として多いと思うんで、だとすれば無理な闘争に乗らない時点で、まだまだ別の選択肢が豊かにあるんだってことが示せると、よりいいのかなっていうのはありますね。

価値観の転換

竹村 そのコンセプトに基づいて、この創刊3冊に落としこまれた経緯、著者さんとの出会いとか、個々のテーマがどのように生まれてきたのかをお聞かせいただけますか。

安藤 そうですね、この3冊で共通しているのが、「価値観の転換」をそれぞれの現場で提案しているということです。
内田先生の場合は、他にいろんな話も出てくるのですが、たとえば「晴天型での生存戦略と悪天型での生存戦略は違うものだ」ということがありますね。晴天型の場合は、自分たち自身が生きている基盤自体がひっくり返ることを考慮する必要はないわけで、自分たちの生存が脅かされることがないところである種健全な競争原理が働いている。そこの中で競争するっていうのは、選択としてベストな方法なんだと思う。
でも、自分たちが生きている環境自体がすでに危なくなっているときには、「競争する」じゃなくて「共同する」「共生する」ライフスタイルが環境に合っている。いまは「悪天型」にシフトすべきということを説いておられるわけです。この2つは、どちらが絶対的によいというのはなくて、状況が変われば生存戦略も変わっていくべきであって、最適な解を求めていくと今は自ずとそうなっていくんじゃないかなというお話です。
小川先生も、コミュニタリアンというか共同体主義者という立場から、個人主義、自己責任が言われ続けた社会で、崩壊しかけている共同体の再生を、哲学の知見をもって説いておられます。
釈先生もやっぱり、ある意味「降りる生き方」っていうんじゃないですけど、「まぁぼちぼちいきましょか」っていうような生き方を提唱されている。毎日の生活を、仏教の教えにある、合掌するとか意識して呼吸するとか瞑想するとか、日々の実践を通して、心の平穏を保って生きるということを提起されています。
今までの右肩上がり成長からの離脱というか、方向転換というか、そういうものを見せているというか提案しているというのは共通しています。今後、まだまだラインナップも出るのですが、比較的そのあたりは通底していますね。ただ、あんまりそういうところを考えすぎると息苦しいというか

柿内 まぁそうですよね。

安藤 あと、自分の読書経験からしても、本にはある種の遊びの部分があった上で、それをストレートに受けとめられるっていう部分があるはずで。今言った話を、毎回そのままストレートに投げかけても、そんなことはわかっているよっていう

柿内 毎回ね、ストレート勝負、三球三振! みたいなね。

安藤 なんかやっぱり受け止める側も「もういいよ」ってなるよね。

柿内 キャッチャーも疲れますよね(笑)。

安藤 そこをどう、変化球なんだりで上手く、予想もしない方向から球が来たとか、予想もしない変化を見せてミットに収まるとか、そういう風な変化は本づくりの中で考えたいですね。

柿内 それはすごいわかります。僕もシリーズ作るのが初めてなので、コンセプトを決めるときに、がちがちに決めてしまうと逆に遊びがなくなって、遊びが重要って言ってるのに遊びがなくなって、全部ストレート直球みたいになってしまう。

安藤 ちょっと暑苦しいな、みたいなね。

柿内 自分も楽しめないってところがあるから。世界史の本なんて、通底しているテーマは一緒なんですけど、ちょっとした世界史の入り口として、まずは「面白い教科書がほしいなー」っていうところがあったのでそこを目標に作って。「武器としての教養」なのか? って言われると、ちょっと一見ずれるような感じがしますけど、通底しているところは同じなんですよね。

安藤 だから、経由地をたどって迂回してたどり着くみたいなことって、いつも考えるところではあります。どうやったら届くのか。届く方法っていうのは、いろいろあるはずなんで、そこも経由地を考えたり、変化球をまじえたりするっていうのが一つ、編集者の仕事の重要な部分ではあるかなっていう。

過去の本へのオマージュとして

柿内 他に本を作る上で考えていることってありますか。

安藤 そうですね。自分が作る本は、自分が過去に読んだ本に対するオマージュみたいな意識があるんですよ。昔読んで思い出に残ってたり、記憶に残ってたりするものに対しての、返礼みたいな感じで作っています。それは意識しているわけじゃなくて、考えてみるとそうなっているよなって感じがしている。
例えば内田先生の『最終講義生き延びるための六講』もそのひとつ。僕が学生のころに読んだ本で、吉本隆明さんの『敗北の構造』『知の岸辺へ』っていう2作の講演集があります。政治論や文学論、色彩論、宗教論、人間の脳の仕組み、古典歌謡の話など、バラエティに富んだ内容の講演集で、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』みたいな主著ではないけれど、当時の吉本さんのお考えのエッセンスがコンパクトにまとまっていて読みやすく、長く手元に置いている本なんです。
たぶん、昔僕らが吉本さんの本を読んだみたいにして、内田先生の本を読んでいる読者がいるだろうなと考えたとき、そういえば内田先生でこうした講演録を作ってみたらどうだろうって思ったのです。
世代をまたがって、そのスピリットというか、あるいはスタイルといってもいいんだと思うんですけど、その新しいスタイルで伝えられたらいいなと思います。自分が過去にもらったものを、違う形で返す。

柿内 まさに今僕が作っているのは、『自分の仕事をつくる』という本のオマージュ。全然スタイルも違うし、これがオマージュだってわかる人もいないと思うんですけど、これを自分が読んで、「今日から人生が180度変わるぜ」みたいなものじゃなくて、静かに流れるような影響ですよね。
いま「自分の住み方を作る」というテーマで本を作っています。型にはまったタワーマンションとか、1LDKがなんとかっていうことじゃなくて、今の時代に若い人が自分の住を作るっていうのはどういうことなんだろうっていうのを、やりたい。前に作った『非属の才能』っていう本も、『ドロップアウトのえらいひと』っていう本を大学生の時に読んでいいなと思って作ったものです。

書き手にスルーパスを出すのが編集者

竹村 釈先生や小川先生に関しては、お話ししていく中でテーマが浮かび上がったのですか? それとも、安藤さんがこのテーマでお願いしたのでしょうか? どっちのタイプが多いですか?

安藤 そうですね、いろんなスタイルがあるんだと思うんですけど
編集の仕事のひとつが「スルーパスを出す」っていうことだと思うんですよね。パスを出すっていうことのために、テーマの設定っていうのはこちらからするのがやっぱり多いでしょうか。それが上手く通る場合もあるし通らない場合もある。それは状況と人によって、変わりますよね。

柿内 壁パスでもう一回戻ってくるってこともありますもんね(笑)。

安藤 そうですね(笑)。

柿内 ポンポーンって戻ってきて、「戻ってきたぁ!」ってなる(笑)。

安藤 で、精度が悪いとディフェンダーに跳ね返されるっていう(笑)。だからパスを出すっていうのは、やっぱり、仕事の中でも大きいもので

柿内 編集者の仕事の一番大きい部分ですよね。最初のパスをどう出すかっていうのは。

安藤 そうなんだと思います。だからある意味自分は大したことはしてないんだと思うんです。雑用係みたいなもので。ただ、上手くパスが通りさえすれば、皆さんがちゃんとやってくれる。きちんと動いてくれるっていうのがあって、まぁ、一番大きいのは著者とデザイナーですよね。僕の場合だと。この二人にいいパスが出せれば、いいんじゃないの、後のことはみたいな。なんか俺でも本が作れるみたいな話ですけど(笑)。僕みたいなものであっても、それなりのものが出来たりするみたいな。

柿内 もともとサッカーでも、MFってそういう存在ですよね。上手く通れば、あとは見ているだけっていうこともありますからね。

安藤 そこの部分が一番大きい話ですね。

柿内 サッカーでも記録がつくのは、アシストまでじゃないですか。シュート決めた人とアシスト。でもその前のパスが一番重要だったりするんですよね。アシストの一個前のパス、それが狂うとアシストも上手くいかないから、アシストアシストというか、結構前に僕、編集者の役割って、そこなんじゃないかなっていう。キラーパスというか、実はみんなが着目しないパスを流していたみたいな。

安藤 そうですね。で、ときにDFラインの裏に自分で飛び出すみたいなことも、必要になってくるわけで、局面によってまた役割が違うってこともあるんでしょうね。今やっている技術評論社っていうのも、理工系っていう意味ではすごく大手ではありますけど、こういう分野ではチャレンジャーなので、どこかでやっぱり切り込んでいくというか、そういう視点は必要になってくるわけで。そうするとまぁ、僕はドリブルが得意というわけではないので、必然的に裏をとって、オフサイドぎりぎりで出るみたいな芸風です。
星海社新書もそうだと思いますけど、新しい書き手の発掘っていうのも常に大きなテーマになってくるでしょうけど、新人の発掘っていうと、自分の場合はオフサイドラインぎりぎりのところを多少フライング気味ですり抜ける。そういうことを意識しています。

書きたいことがある人は、まず自分から発信せよ

柿内 では最後に、何かを伝えたい衝動がある人や、書くことはプロではないんだけど、何か言いたいことがある人にメッセージをお願いします。

安藤 なんだろうな、どう書いていくかということよりも、今書きたいと思っているのなら、とにかく書いてしまう。ブログもあるし、なんでもあるし、とにかくどこかで書いてしまう。書いて発表していく、オープンにしていく。そこが一番大きいんじゃないかなって感じはしています。
相手が無名だからとか、そういうわけではなく、あっちからやってくる話にはそれほどモチベーションが上がらない。こっちを振り向いてくれない人に振り向いてもらう努力をするのがいいというか、そこにやりがいを感じるということがあるので、例えば無名の人であっても、自分で見つけて「こんな人がいたよ!」っていう風な発見っていう方が編集者としては大きいんですよ。こんな人がいたのかって。
たぶん同じように、いろんなブログとかを見て探している人っていうのは他にもたくさんいるはずなんで、とにかくまずは自分で書いて発信していくっていうのが大事なんじゃないかなと。だから逆に今、それはいろんな形で情報として伝わるようになっているし、見つけられる可能性はすごく高まっているから、そんな感じで思い立ったらまず書いてみるのはどうですかっていう。

竹村 書きたい衝動がある人は書いちゃいなよということですね。

安藤 いいものを書いていれば、必ずこちらから見つけに行きますから、待っていてくださいって感じです。

柿内 ありがとうございました。