一億総ツッコミ時代
槙田雄司
ああ息苦しい 一億総ツッコミ時代 ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難――。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ過多」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打破し、面白い人生にするために!異才・槙田雄司(マキタスポーツ)による現代日本への熱き提言!!
はじめに
はじめまして、槙田雄司です。
私はこうした執筆業の傍ら、芸人として活動している人間です。「マキタスポーツ」という名で活動し、キャリアはもう15年になる、言わば「若手のベテラン」です。
そんな私がデビューしてから今日に至るまで、「お笑い」の地位は上昇し続けました。
リーディングカンパニー・吉本興業の企業努力や、一部の天才的・怪物芸人たちのたゆまぬ精進により、かつてとは比べものにならないほど、お笑いは世の中に役に立つ「商品」となり、エンタメ産業の中にあって、重要なコンテンツたる「信用」を得るに至りました。
しかし、一方その弊害のようなものもあったのではないでしょうか――。
「お笑い」は常に世の中と添い寝しています。その「お笑い」が、世の中を反映していくなかで、供給が過ぎた結果、ある現象が起こっているのです。それは、皆が「ツッコミ」になってしまったことです。
今回、私がペンを執るきっかけとなったのは、みんながツッコミを入れる社会に対して、お笑い芸人として少なからず違和感を感じたからでした。
「嚙む」だけで指摘される閉塞感
バラエティ番組などでよく聞かれる「嚙む」という言葉があります。これはツッコミ側の言葉で、舌がもつれてうまくセリフが言えなかったことを指摘して、笑いを起こすことです。「いま、嚙んだやないか!」という具合に使います。
この「嚙む」を指摘するようなことに見られる、ややサディスティックな感覚を一般の人たちも日常的によく使っています。
しかし、私にはそれを指摘しているときの彼らの「他罰的」な気分がとても気になってしまいます。相手を傷つけようというほどではないにせよ、先に攻撃することによって自分に降り掛からないように防御しているという心持ちが、端から見ていて気持ちが悪いのです。
政治家や力士など目立つ存在に対して、ネット上の匿名性のなかで貶めたり、過剰に攻撃したりする風潮もあります。「失敗していない多数側」に自分がいることで安心感を得ているというわけです。
また、他者を攻撃して「差異を楽しむ」ことで、この「何ごとに対しても諦め感の漂う毎日」をやりすごしている。そのことが閉塞感にさらなる拍車をかけています。
では、こうした状況のままでいいのでしょうか?
もちろん私はこうした状況は息苦しいと感じています。みんなが横一線に並んで、はみ出したらすぐに叩かれる。そんな状況は気持ち悪いし、第一「つまらない」。
エンターテインメントの世界でも、みんながみんな同じ方向に行ってしまうと、面白くありません。あえて反目することによって、業界用語でいうところの「オイシイ」状況にもなり得るわけです。それはすごく勇気のいることではありますが、そうしないことには状況は変わりません。
一芸人として、今の膠着化した社会にブレイクをかけて、一度均した状態に戻すことの必要性を感じています。そこで、本書で展開していくようなエンターテインメント業界からの視点が有効なのではないかと考えているのです。
なぜ、私がこうして本を書けたのかというと、お笑いブームが起こったときに、便乗できていなかったからだといえます。そのことが今の自分を形作っているのです。
私自身は、ずっと「ツッコミ過多」な考え方で生きてきました。しかしいつしか息苦しくなってしまって、そうじゃないほうに踏み出してみた。すると随分とラクになったのです。
今、みんなが同じ行動をして一方向に進んでいるのは、「ツッコミ」があまりに勢力を拡大してしまったからだと思います。
それを私は「一億総ツッコミ時代」と名付けました。しかし名付けただけでは、私もマスコミ目線でツッコミをしている人と同じになってしまいます。よって、これより先のことを考えたときにどうしたらいいのか、ということをこの本に書いてみたというわけです。
一億総ツッコミ時代を生き抜くには
さて、この息苦しい「一億総ツッコミ時代」を生き抜くにはどうすればいいのでしょうか?
私が本書でオススメしている方法は以下の2つです。
ひとつは「ツッコミ志向」から「ボケ志向」になること。
もうひとつは「メタ」から「ベタ」への転向です。
まず「ツッコミ志向」から「ボケ志向」になることについてお話しましょう。
何度も言いますが、時代を語るキーワードは「ツッコミ」です。
このツッコミという行為は、かつては面白い言動(=ボケ)に対してのみ行われるものでした。しかし今やあらゆる失言、失敗に対しても行われるようになった。ツッコミというよりも指摘、批難というたぐいのものに成り代わったのです。
笑いに変えるための手法であった「ツッコミ」は人を簡単に批難するツールとなりました。多くの人は他人にツッコまれることを恐れて、なるべく下手な動きをしないようになった。同調するようになったわけです。
もともと人と違うことをするのが苦手な日本人がますます萎縮するようになったのは、この「ツッコミ」という攻撃によるものといえるでしょう。
「ツッコミなんかしてないよ」と言う人でも知らず知らずのうちにツッコミをしてしまっているはずです。気になるニュースについてツイッターでコメントする。タレントの年齢詐称や整形疑惑についてミクシィなどでコメントする。友達の変わった言動に対してコメントする――。
重ねて言いますが、ツッコミというのは「なんでやねん!」という行為のことだけを言っているわけではありません。
自分では何もしないのに他人がすることについて批評、ときに批判することを指します。これが私の言っている「ツッコミ志向」ということです。
一方の「ボケ志向」は主体的に、主観的に行動する人の考え方です。「自分の人生の主人公は自分である」ことをきちんと人生で体現できている人。他人の視線を気にせず何かに夢中になることのできる人。ただ面白いことや変わったことを言う「ボケ」ではなく、自ら何かを行動に移して、他人の視線を気にせずに前に進み続ける人のことを私は「ボケ志向」と呼んでいるのです。
今の日本には圧倒的にボケが少ない。もっとボケたほうがいいのです。
メタな生き方からベタな生き方へ
次に「一億総ツッコミ時代」を楽しく生き抜くもう一つの方法。「メタからベタへ」についてお話しましょう。
「メタ」という言葉はご存知でしょうか。客観的に、鳥瞰的に、ものごとを「引いて」見ること。それを「メタ」と言います。
日本人の最近の傾向としてメタ的な人が多すぎると思います。何ごとにも首を深く突っ込まず、冷静に事態を眺めている。引いちゃっているというわけです。
一方で「ベタ」というのは、客観的にものごとを眺めるのではなくて、どんどん行動に移して人生を楽しむ姿勢です。正月に餅をつく。夏は海で泳ぐ。誕生日を祝う。クリスマスはイルミネーションを観に行く。なんとも「ベタ」じゃありませんか。結婚をする。子どもをつくる。子どもの写真を携帯の待ち受けにする。なんとも「ベタ」じゃありませんか! でもそのほうが絶対「面白い」。
なんでも「ベタ」に行動して、人生をグングン前に押し進めていく。このベタ的に生きる、というのは面白い生き方をする上でとても大切なのです。
……それにしても、息苦しいとは思いませんか? 最近。
職場でも、学校でも、ちょっとでも目立つようなことをするとネットで噂をされる。フェイスブックやツイッターですぐに情報が出まわる。それを恐れて言いたいことが言えない。思い通りに動けない。ちょっとした失言や失敗も許されない。いい意味での「ゆるさ」がどんどん薄れていって、なんだか締め付けられるような気がしませんか?
特にインターネットの出現でこの息苦しさは一気に強まったように思います。ソーシャルメディアを使えば、いつでも誰とでもつながれるようになりました。それはきっといいことなのだと思います。でも一方で、常に人の視線を気にしなければいけないことにもなってしまった。いつ、誰に、何を見られているかわからない。だから動くに動けないのです。
本書では「ツッコミからボケへ」「メタからベタへ」について詳しくお話をしながら「一億総ツッコミ時代」における「面白い生き方」を模索していきます。この閉塞感を打破するヒントがきっと見つかるはずです。
序章バラエティ番組化した日本
職場にも会話にも宴会にも入り込む「バラエティ臭」
「あいつ、サムいな」
「そこはツッコまないと」
「あ、いま、スベりました?」
「ハードル上げないでくださいよ」
こんなセリフをよく聞くようになりました。テレビ番組の話ではありません。私たちが暮らす一般社会でもこういったセリフは蔓延しています。
職場で、飲み会で、ネットで、友達との会話で、なんとなくバラエティ番組っぽさが求められる。なんとなくその場にオチをつけるように求められる空気がある。
ツッコむ、ボケる、ウケる、スベる……本来であればお笑い芸人だけが気にしていればよかったことを一般の人々も気にするようになったのです。
私から言わせてもらえば、別にそんなに必死にならなくていいんじゃないか。そう思っています。一般の人たちはお笑い芸人ではないのだから。
でも、どこに行っても「お笑い」が求められる。そうせずにはいられないのでしょうか。
世の中を楽しくするはずのバラエティ番組。その空気が日本中に蔓延してしまい、今度はお笑いを強要されるような世の中にもなっている。だから、逆に息苦しくなってしまっている。本末転倒の現象が起きているのです。
お笑いの価値がストップ高
いつ頃から、こんなに世間でお笑いやバラエティの価値が上がったのでしょう?
ここ15〜20年の間のお笑いブームはすごかったと思います。こんなにもお笑いが求められた時代もなかったでしょう。
私が子どもの頃、学校のクラスでは、面白いことを言う「ひょうきんな子」は3番目ぐらいの人気者でした。1番人気は足の速い子や運動のできる子、2番人気は頭のいい子、面白い子は3番目以降の人気だったように思います。「面白い人」の地位はそれほど高くなかった。
でも、今はそうではありません。「面白い人」はどこへ行っても人気者ですし、女性にもモテます。モテる人が「面白い」を標準装備しているといったほうが正しいかもしれません。そうすると他の男性も「面白い」を目指すようになっていきます。
日本全体がちょっとおかしくなっているような気がします。
昔のミュージシャンのライブの映像を見ると、MCのところで「こういう面白い話があってさ……」と話し始める一方、「これ以上やるとお笑いになっちゃうから……」と急にスイッチを切り替えます。「面白い話」とタイトルをつけて話を始めているのに、笑いは笑いで区切っておく。本業である音楽には、絶対に侵食させないんです。
でも、今どきのアーティストは「面白い話」という前フリすらせずに、ボケきる人やツッコミ待ちの人がいたりします。一方、トークが巧みでいろいろなものにツッコミを入れながら笑いを取る人もいる。コメディアンのようなポジションでバラエティ番組に登場するミュージシャンもたくさんいます。ミュージシャンですら、笑いが標準装備されているわけです。
「面白い人でいたい」病
プロとしてエンターテインメントに関わる人だけでなく、素人でもそうです。みんな「面白い人」でいたいのだな、と感じます。ツイッターなどでも、なんとか面白いことを言おうとしている人が多い。
みんなが「面白い人」でありたい、「面白い人」と見られたいのです。
ただ、「自分は面白い人です」と自己申告する人ほどつまらない人はいないと思います。残念ながら。これは自戒を込めた言葉です。「お笑いで面白いことを発信することのつまらなさ」が、私の中にはあるのです。
2007年に『つっこみ力』という本が出版されていますが、そこには「つっこみ力を磨き、『おもしろい演出』をすることが必要」だと書いてあります。しかし、今はその「おもしろい演出」とやらに食傷気味なのです。メディア側の人間もうんざりしているでしょう。
お笑いというメディア、ツール、方法をとらなくても、面白い人はたくさんいます。
私は、「お笑いが面白い」あるいは、「お笑い芸人が面白い」ということではなく、もっとパーソナルなエネルギーの発散を見ているほうが面白い。そういう発散をしている人のほうが面白いのです。
「お笑い」に縛られてつまらなくなっている
ビートたけしさんやタモリさんのような、お笑いで一時代を成したような人は、お笑いが面白かったのではなく、「面白い人」が選んだツールがたまたま「お笑い」だったのではないかと感じています。
だから、一般の人も、お笑いというテクニック、お笑いという枠に縛られないほうが、もっと「面白い人」というゾーンにたどりつけるはずなのです。
私は、お笑いと面白いことに関してずっと考え続けてきたからこそ、こうしたことを思うのですが、一般の方を見ていて「あなた、今、お笑いというテクニックで自分を縛っちゃっていますよ?」と思うことがすごく多くなってきています。
一般の人でも「ハードルが上がっちゃった」なんてことを普通に言う。これもお笑い界のテクニカルタームが流出したものです。そんなことは別に言わなくてもいい。「ハードルが上がっちゃったから、やりづらくなっちゃったな」なんて言わなくてもいいのに、今日の日本人は言わずにはいられない。特に、酒の席レベルなどで、おちゃらけたい人、面白い人だと思われたい人に顕著です。
誰でも「面白い人」であることにしがみつきたい瞬間があると思います。でも、そういうときはお笑いのことを気にしないほうがいいのです。
何かを語っている人に対して、「で、オチは?」なんてことを言わないであげてほしい。「今、嚙んだ!」なんて指摘をしないでほしい。そんな言葉で袈裟斬りにしないでほしいのです。
これに留まらず、日常でもお笑いの世界から自然に学んだ「ツッコミ」によって他人を容赦なく斬っていることが多々あります。
普通の人がそのことに自分で気づくのは難しいでしょう。でも、そんなツッコミをして、鬼の首を取ったような気分になってほしくはないと思います。
お笑いのテクニカルターム、特にツッコミを使わずに会話をすることが怖いという感情があるのでしょうか。途切れず、楽しく、話を続けるために、ツッコミやお笑いの定型句、お笑いの業界用語をつい使ってしまっているということも理解できます。でも、そういう強迫観念の中にいるということは、すごく不自由なことです。
今の日本は、価値観の多様化、多趣味化と言われていますが、その裏側では、「面白い」という一つの価値観への信仰みたいなものが蔓延してしまっているのです。そこから自由になったほうが、どれだけ「面白い」だろうか。そう強く思います。
マスコミ志向と「手軽なツッコミ」
みんながお笑い的、バラエティ的になると同時に、マスコミ的になっているとも感じます。いわば「マスコミ志向」の人がとても多くなりました。マスコミ志向といっても、マスコミに就職したいと考えている人のことではもちろんありません。自分自身がマスコミ的に振る舞ってしまう人、マスコミのように振る舞いたい人のことを言います。
マスコミは世の中の動きを客観的に把握して整理する役目があります。その役目を背負いたがるのが「マスコミ志向の人」です。インターネットの普及によって、それはより顕著になりました。誰もが多くの人に情報を発信できるようになったからです。
マスコミ志向の人は、「ツッコミ」の視点を持っています。起きている出来事に対して、評価する。批評、批難する。
「〇〇について、そろそろひとこと言っとくか」こんなフレーズをネットで見かけます。別に誰もコメントを求めていないのに気になるニュースには「ひとこと」言っておかねばならない。まさにマスコミ志向です。
世の中がバラエティ番組化していくと同時に、マスコミ視点で、他者に対して、ツッコミをする人が本当に増えたと感じています。
自分では何もしていなくても、他人のことは評価したい。そうすることで自分の価値を手軽に上げようとするわけです。
日常がバラエティ番組化し、笑いがツールとして気軽に使われるようになった日本。多くの人がマスコミ的な視点を持つようになった日本。そんな「ツッコミ人間」が多く出現するようになったこの国の気圧配置を私は「ツッコミ高ボケ低」と呼んでいます。
1章では、この「ツッコミ高ボケ低」の構造について詳しく見ていきたいと思います。
第1章「ツッコミ高ボケ低」の気圧配置が生む閉塞感
他を評価する人=「ツッコミ」が多すぎる
ツッコミはインターネットの出現で可視化されるようになりました。ミクシィを見てもツイッターを見ても2ちゃんねるを見ても、ツッコミの嵐。ニュースに対して誰かの言動に対して「おかしいだろ!」「なんでだよ!」「ふざけんな!」といったツッコミのオンパレードです。
ツッコミの勢力が日本列島を包み込んでおり、ボケの勢力がとても小さい。いわば「ツッコミ高ボケ低」の気圧配置になっているのです。
今の日本の社会は、みんながみんな何かに対してツッコミを入れたがっている。逆に、ボケにはなりたくないと感じている。ツッコミの価値が上がって、ボケの価値が下がっている。そんな様子を私は以前から「ツッコミ高ボケ低社会」と呼んでいるのです。
現在、日本人の多くはツッコミ目線とツッコミを入れるスキルが標準装備されていると言っていいでしょう。そこへインターネットの発達によって誰もが簡単に自分の考えを発信できるようになった。するとあらゆる場所でツッコミが飛び交うようになったのです。
特にツイッターは瞬発力で書き込みができる気軽さがあります。ツッコミであるということを意識しないでいられるメディアといえるでしょう。ツイッターに書き込むとき、綿密に推敲を繰り返す人は、それほど多くはないでしょう。瞬発力でできるから、無邪気に思ったことをつぶやくことができるのです。
ネット上で、ツッコミが過剰になって集中攻撃されることを「炎上」と言いますが、ツイッターを見ているだけでも、炎上の例は枚挙に暇がありません。その他のSNS、ブログのコメント欄、2ちゃんねるなど、ネットのあらゆる場所でツッコミの集中砲火による炎上が起こっていると言っていいでしょう。やはり、日本人はツッコミが大好きなのです。
そしてだんだん人々は、自らツッコミを入れる相手を虎視眈々と探すようになっていきます。何か発言しようとするとき、誰かが成し得たことに対して茶々を入れる、ツッコミを入れるのはとても簡単なことだからです。
見知らぬ誰かの揚げ足を取ってまで、ツッコミを入れようとする。逆に、ツッコミを入れていると自覚している人は、ツッコミを入れられないようにピンと気を張って生活している。みんながみんな、それぞれの分野でチキンレースをやっています。
自分はツッコまれないように、つまりボケをやらないように気をつけながら、ツッコミを入れるわけです。ツッコミだけを入れていれば、安全な場所から他人を攻撃できます。そのことで自分の価値を高めようと考えている。リスクを最小限にしながらリターンを最大限にしたいと考えたネット民はそのような方法をとってきたのです。
私は「ツッコミ高ボケ低」の気圧配置は居心地が悪いと感じています。失敗に対して容赦なく批難を浴びせる。ツッコんでいれば楽だけれど、何も生まれない。空気は悪くなる一方なのです。
ツッコミは簡単に使えるコミュニケーションツール
いまや、ツッコミは単に漫才の技術用語として知られているというだけではなく、多くの人が日常生活で使うことができるものになりました。しかし、ボケる人は多くありません。ボケはそれなりの勇気と技術が必要だからです。でもツッコミならば簡単にできる。とてもカジュアルに使うことができるのです。
ネタを作って披露する人はほとんどいないのに、ツッコミは比較的誰でも容易に行っている。単純に人々の間で流通している数だけを見ても、やはり「ツッコミ高」の世の中だと思います。ツッコミのインフレ状態です。
ツッコミは相手に対するひとつの愛情の表現でもあるでしょう。その場の会話のイニシアチブを取るための便利な言葉でもあります。「嚙んだ!」といったツッコミは、人を制するために使うと大変便利だったりもします。
ツッコミはコミュニケーションの新しい道具です。自分と他人の会話を編集する技術。人間関係を制御するオペレーションシステムでもあるのです。
私は、仕事で一回り以上違うような若い女の子と話すことがあります。年齢も性別もまったく違う。そういうとき、私が話す「内容」にはほとんど反応しないのに、私が「嚙む」と「あ、いま嚙みましたね!」などと嬉々として反応する。受け止めきれないもの、理解できないものに対しては反応しないし、反応しようとも思っていない。でも、私が嚙むことに対してだけはツッコミを通じて反応する。彼女が理解できる窓口、コミュニケーションの糸口はこうしたわかりやすいボケ(=失敗)だけなのかもしれません。
ちょっとしたミスに対して、ツッコミを通してコミュニケーションを取るのは最近の傾向だと言えるでしょう。友達が変な格好で現れた場合、「なんだよ、その服!」などというツッコミを入れることでコミュニケーションを取ろうとするのです。
額縁を当てて、なんでも意味づけしたがる人々
ツッコミというコミュニケーションは「加工」です。
私は「額縁を当てる」という言葉をよく使うのですが、コミュニケーションの中にツッコミを挟むことで、会話が編集されたもの、加工されたものになります。
会話の中にツッコミが入ることによって、「ここが面白い」というマーカーがひかれ、「ここは笑うところですよ」という額縁が当てられる。「ここに注目してください」という編集がなされて、笑いになります。そうすることによって会話が笑いという形にパッケージ化されていく。これはお笑い芸人だけではなく、今や世の中の多くの人が身につけているスキルなのです。
今の人は、日常会話の中で「そこはツッコまないと」という言い方もします。なんと高度なセリフでしょう! これはどういうことかというと、加工されたコミュニケーションを先回りして想像し、欠けている部分を指摘しているのです。変なことを言ったのにスルーされた場合、そこにはツッコミが入らないと成り立たない。そう言いたいのです。「そこはツッコまないと」というセリフは「メタ」が行き過ぎた、いい例だと言えるでしょう。
人々がこのようなコミュニケーションツールとしてのツッコミのスキルを身につけたのは何がきっかけだったのでしょうか。私はやはり90年代のダウンタウン台頭以降だと考えます。浜田さんの「なんでやねん!」は衝撃的でした。そして最初は浜田さんの「なんでやねん!」を真似しているだけだった人たちが、徐々に松本さんを含めたダウンタウンの目線を装備するようになっていったのです。
ビートたけしさんも、笑いの処理を施した言葉を投げることはありますが、それ自体が重要だったわけではありません。たけしさん自身が刺々しい存在であったり、際立った存在であったりすることのほうが重要で、彼の言葉はその尖兵だったわけです。いちいちマーカーをひいたり、額縁を当てたりしなくても、人々に突き刺さっていく言葉でした。……このあたりの話はまた後ほど改めてお話することにしましょう。
「嚙む」ことはそんなにダメなことか
さて、「嚙む」という言葉について本書の冒頭でも触れましたが、これは舌がもつれたり、言い間違えたりすることです。いつからか「嚙む」と表現され、ツッコまれる対象となりました。最近のバラエティ番組では、この「嚙む」ということを笑いにつなげることがとても多くなりました。何かを言おうとして嚙むと「いま、嚙んだやないか!」というツッコミが入り、笑いが生まれます。
「嚙む」というちょっとしたミスを笑いにつなげるという発明をしたのは、私の記憶によれば、やはりダウンタウンだったと思います。それ以前は多少ミスをしたとしても、そこを笑いの対象にはしなかった。本流とは関係ない、という認識が芸人にも客の側にもあったのです。
しかし、「嚙む」が流行ってしまってからは、嚙むことは笑われる対象であり、ツッコまれる対象となったのです。
嚙むというちょっとしたミスや違和感に対して、ツッコミ、いわば批難が生まれる。この構造はテレビという枠を越え、一般の人たちの間でも見られるようになりました。ちょっとした失敗は見過ごそう、もう一度やり直そう。そんな空気感はそこにはありません。これはたいへん息苦しい。そんな息苦しさが、バラエティ番組の枠を超え、いまや日本の社会全体に蔓延してしまっています。
嚙むことはちょっとした失敗です。そんなに悪いことなのでしょうか。ツッコミという笑いに転換する技によってマイルドに見えてはいますが、ちょっとした失敗を指摘(批難)されるという構図は、私たちが「閉塞感」と呼んでいる身動きできない空気を生んでいるようにも思えるのです。
ツッコミは他罰的
ツッコミは「他罰的」です。
他罰的とは、思い通りに物事が運ばないときに自分以外のものや状況、他人のせいにしようとする傾向のことです。何かが思い通りにならなくて苛立ちを覚えるとき、他者を批判するためのツールとしてツッコミを使うのです。
今、生活の豊かさはある程度、保証されていますが、経済の頭打ち感はしばらく続くでしょう。あらゆる場面で、小さなパイを取り合うような状況がまだまだ続いていくと思います。こういう世の中ですから、それは仕方がありません。ずいぶん前から「心を豊かに」と言われています。それは、これ以上経済を豊かにできないという諦念の裏返しなのかもしれません。
しかし、人々に搭載されたツッコミのスキルが縦横に駆使されている現状を見ると、心の豊かさとはずいぶんかけ離れたところに来てしまったな、と思います。どんどん殺伐とした状態になっていて、うすら寒い感じが蔓延している。これが豊かさなんだろうか? 心の豊かさって何? そう思ってしまいます。
何かとすぐにツッコミを入れようとする態度は、もう有効ではありません。
私は、せっかくお笑い的な能力を身につけるなら、他人を笑うためのツッコミの技術ではなく、「自らまわりに笑いをもたらすような存在」になったほうがいいのではないかと思います。もしくは、他人を笑わず、自分で面白いものを見つける能力を育てたほうがいい。ツッコミ的な減点法の視点ではなく、面白いところに着目する加点法の視点を身につけるべきだと思っています。
マスコミの尻馬に乗って安易な魔女狩り
序章で「マスコミ志向」の人のことに触れましたが、ここでもう少し掘り下げてみましょう。
私がおかしいなと思うのは、マスコミが、自身の持っている権力を、あたかも持っていないかのように見せている部分です。マスコミが絶対的な中立ではないことは、すでに多くの人が知っています。彼らには政治的な部分も絶対にあるわけです。
たとえば、読売新聞が原子力発電をプッシュしたり、ナベツネの主張を大きく取り上げたりしている。もちろん、彼には読売新聞の主筆という立場があるわけですが、マスコミそれ自体が権力になっているということをマスコミ側からは語りません。
また、産経新聞は朝日新聞の批判を行いますが、彼らはマスコミ自体が権力者であるようなポーズはとりません。でも、実際は「第3の権力」と呼ばれるほどの権力を持っているわけです。広告を入れることによって、原発事故に関して責任問題が発生したりもしている。数十年にわたる長い時間をかけて、そういう体系がしっかりできあがっているわけで、長いものに巻かれあっているのです。
マスコミは露骨に権力を誇示するようなことはせず、別のところからふんわりと世の中をコントロールしています。なかなか気づかないようなトリックに、世の中の人たちが踊らされているような気がするのです。
ただ、ここで私が言いたいのは、マスコミの罪悪のことではありません。
そういう空気に安直に乗ってしまっている人が一定数いて、気軽なツッコミ気分で魔女狩りよろしく何かを叩いたり、告発したりしはじめている。そちらのほうが気にかかります。こういった人々を私は「マスコミ志向の人」と呼んでいるのです。
民衆が声を上げることは、悪いことではありません。ネットなどで騒ぎ立てることで、マスコミが報じなかったことが暴かれることだってあるでしょう。
しかし、安易にマスコミの尻馬に乗って、何かを叩いているだけということが多いのも事実ではないでしょうか。しかもそこで行われているのは単なる「ツッコミ」にすぎないので、彼らが何かを独自に調べたり、裏付けをとったりすることはほぼないのです。
人というものはより楽な方向へ、もっと言うなら気持ちいい方向に向かっていきます。
マスコミの権力を疑うよりも、彼らが醸し出している空気に乗っかって、魔女狩り的なツッコミを行っている。この場合のツッコミとは「叩き」と同義であり、見えないツッコミは数の論理で相手を追いつめていきます。
人々は気持ちのいい方向に行くから、疑うことなくサッと乗っかっていく。それがマスコミの尻馬に乗ったツッコミです。
ツッコミは振り回すと危ない重い剣
マスコミ志向になって、ちょっとしたミスをもツッコミという形で指摘する人々。そんな人が増えてきたことがこの息苦しい空気を作っているのではないか。そんな話をしてきました。
もちろん、失敗や間違いを何もかも許そう、と言いたいわけではありません。ただ、やはりもっと人に対して「寛容さ」があったほうがいいと思います。他人を笑っている人を見たときに、「それより、お前、自分のことを考えてみなよ」と言いたくなってしまうのです。
他人に寛容であるべきだということは、すごく当たり前のことです。しかし、自分の肉体を離れ、目で見る情報、耳で聞く情報だけ、すべてを頭だけで消化しようとすると、つい集団でのツッコミに走ってしまう。
それは殺伐さをもたらします。これも当たり前の話なのですが、政治家をバカにする前に、選挙には行くべきでしょう。あのタレントは整形だとか、あのタレントは激太りしたとか、どうでもいいじゃないですか。
誰もがツッコミのスキルを搭載している以上、常に誰もがツッコミの標的になる可能性があります。絶対に安全な領域はありません。
ツッコミを入れられたくない。ツッコミを入れられたときの自分の打たれ弱さを隠すために、あえて自分からツッコミをすることも多いと思います。自意識を守るためのツッコミです。
弱さを隠すために、過剰防衛になってしまう。ケンカ慣れしていない人が、過剰に人を殴り続けてしまうのと同じような感じです。そうやって集団でツッコミを浴びせて、炎上させてしまう。
ツッコミはコミュニケーションツールでありつつ、他罰的な性格を持つ、他者を攻撃するためのものにも容易になり得てしまうのです。
安易に比較はできませんが、たとえば「いじめ」の構図を考えたとき、いじめっ子側にまわるのは「自分を守るため」であり、「いじめられる側にまわらないため」という人がほとんどだと思います。そのとき、いじめる側にまわった子どもたちは、いじめられている人間に自分の姿を見ているのです。あれは自分のことだ、と。
お笑い芸人たちは、自分自身が弱い存在であることを認識し、道化にならなければいけないということを自覚しています。その上で、他人にツッコミを入れたり、ボケにまわってツッコミを受けたりしています。
しかし、お笑いの上澄みだけをすくい、人を罰するための道具としてツッコミを使ってしまっている人も少なくありません。しかし、お笑いをやっている私からすると、「あなたが持っている剣は、あなたが思っている以上に重いよ」と思うわけです。「ヨロヨロしてるぞ、危ないから振り回すなよ」と。
お笑いの都合のいい部分だけを引っ張り出して振り回している。それは、みっともないからやめたほうがいいと思うのです。
「一億総ツッコミ時代」はいかにして生まれたか
さて、そんな「ツッコミ高」の気圧配置はいかにして生まれたのでしょうか。ボケに対してのお笑いツールであったツッコミが、なぜこれほど他罰的な武器と化してしまったのでしょうか。改めて、考えてみたいと思います。
日常で起きた腹のたつ出来事をネタにして笑いをとっているのを見たことがあると思います。キレて笑いをとる「キレ芸」です。
「キレ芸」の始祖は松本人志でしょう。いらだちのあまりイーッとなった後、「僕は〇〇が許せないんですよ!」といったフレーズで笑いを取る。
「キレ芸」は、とても他罰的です。「自分の思う通りにならない」ということを強く言っているわけです。
松本さんは、普段からすごく細やかな神経でいろいろ人間の心理、心の綾を見つめているのだと思います。神経過敏と言ってもいいぐらいです。
「Aをしたら、Bにならないといけないのに、なんでCになんねん!」とキレる。そこには「Aをしたら、Bになるはずだ」という彼が想定した「あるべき姿」があります。それはとても細やかな神経から生み出されているのです。
また、松本さんが広めた言葉に「逆ギレ」があります。
「逆ギレ」とは、自分と他人が関わったとき、どちらがキレるべきなのか、論理的に突き詰めて考えているからこそ生まれる発想です。手続き上、そちらがキレるのはおかしいし、正当性がない。そのことを怒りながら「逆ギレか!」と言う。これはつまり「思う通りにならないさま」を笑いに転化しているわけです。
たけしさんにもボヤキ漫才がありますが、性格がまったく違います。たけしさんの場合は、「あんなバカはいない」と対象を笑っているのです。自分自身が怒っていたり、キレているわけではありません。人間的な資質でいうと、松本さんとたけしさんとは全然違う資質なのだと思います。
息苦しさを生む笑いの構造
松本さんが考える笑いの構造はとても内省的です。鈍感な人なら気づかずに見過ごしてしまうようなことも、発見して「キレ」ることができるのは、松本さんの神経が細やかだからということに他なりません。
松本さんのキレ芸は、「そんな風に腹が立つ経験ってあるよね」と見る側に共感をもたらす「あるある」でもない。誰も気づかないようなところに気づいてキレる。それを異常性にまで高めて笑いに転化しているのです。
笑いとは人をリラックスさせ、楽しませるものだと定義することだってできるでしょう。しかし、キレ芸での笑いは、なんとなく息苦しい。まるで逆なのです。
ダウンタウンの笑いは松本さんの特殊な資質に基づいて構築されているものです。そして、そうした空気は世の中にも広まっていきました。ダウンタウン、特に松本さんの大きな影響を受けて、一般人の「プチ松本人志化」も進んでいったのです。それが「ツッコミ高ボケ低社会」の息苦しさと結びついている。私はそう分析します。
「プチ松本人志」と化した人々は、普段は、ほとんどのことが思い通りになる環境の中で快適に暮らしています。しかし、思い通りになることが揃いすぎると、かえって小さな異物に対する大きな反応を誘発することになります。
大きな病気や怪我を抱えていない健康な人ほど、とげが刺さった小さな痛みにはとても敏感です。そういうとき、ヒステリックな感じのキレ芸に多くの人が共感していく。ひいては人々が持っているツッコミ目線とも連動する。
こうして人々はあらゆる物事にツッコミを入れ、揚げ足をとりはじめ「一億総ツッコミ時代」となったのです。
「ありえへん」という言葉の恐ろしさ
松本さんと同じような視点の人で、千原ジュニアさんがいます。彼がよく使うフレーズは「ありえへん」です。
この「ありえへん」というのは、すごい言葉だと思います。
いろいろなこと、ありとあらゆることが「ありうる」はずの世界に対して、自分の一存で「ありえへん」と断罪してしまう感じから持っていく笑いのあり方とは、いったい何だろうかと考えてしまいます。
当然、それは世界の「あるべき」姿を先回りして考えているからこそ生まれる発想です。その人の心の中では、踏んではいけない地雷がたくさんあるのでしょう。松本さんと同様、神経過敏な部分を笑いに転化しているのです。
「ありえへん」は一種のツッコミのフレーズです。話をしている相手に対して使うときもあれば、世の中全体に異議をとなえるときにも使います。
ツッコミのフレーズは、コミュニケーションツールのひとつとして、容易に一般の人たちに浸透します。関西生まれでもない人が「ありえへん」と何かにツッコミを入れているところを目撃した人も少なくはないでしょう。
一般の人の場合、「ありえへん」のようなフレーズを使うことによって、心にもともとそれほど地雷を抱えていないような鈍感だった人も、だんだんと感化されていくことがあると思います。「ありえへん」といったツッコミ目線で物事をとらえていると、細かいことが気になって仕方がなくなるような、息苦しさを感じながら生活を送ることになってしまうのです。
化粧品会社でコロンを研究しているような、鋭敏な嗅覚を持っている人が、仕事と同じモードで生活をしはじめたら、辛くて仕方ないと思います。街を歩いていても、異臭だらけなわけですから。しかし、そういう人だって当たり前ですが、街を歩きます。それは感覚を切り替えているのです。感覚を殺して日常生活を送っているわけです。
もし、何かに対して「ありえへん」と感じてしまうような、研ぎ澄まされた感性を持っているとしても、それは日常生活では閉じ込めておけばいいのです。
私もお笑い芸人をやっていて、時代の「鼻先」を捉えていく感性は磨いているつもりです。いわく言いがたいものを、視覚で認識するより、いち早く匂いでかぎ分けていく。顔の最前線に位置する、鼻の嗅覚で何かを感じ取っていきます。
でも、いつもそんな状態でいたら大変です。プチ松本人志化して、ツッコミを入れ続けている人たちも、ずっと鋭敏でいるのは体によくありません。どこかで逃げたほうがいいのです。
「テロップ文化」がツッコミ時代を加速させた
ちょっとしたミスや違和感をも指摘するツッコミ文化をさらに加速させた存在として「テロップ」があります。
バラエティ番組の中で、テロップを使ってツッコミを入れていくという手法が、この20年ほどで浸透しました。いわば、テロップショーです。いま、バラエティ番組の「仕上げのツッコミ」は外にいるディレクターさんから行われます。
リアリティショーに近いバラエティが箱の中で行われていて、それを視聴者に覗き見させていく。その最後の仕掛けとして、テロップが用いられているのです。フジテレビのバラエティ番組「めちゃイケ」などで使われ始めて広がった手法だと思います。
たとえば、先ほどから例に挙げている「嚙む」ということに対してのツッコミがあります。
「嚙んどるやないか!」 それでひとつ、笑いを足すことができるわけです。出演者に「嚙む」と言われても、最初は視聴者も何だかわからなかったと思いますが、いまどきのバラエティ番組なら、出演者がスルーしていても、後からスタッフがテロップで「嚙んだ」とツッコミを入れるでしょう。
このようなツッコミは、単純な指摘というか、揚げ足取りだと思われかねませんが、簡単なだけに一般の人も「嚙んだ」と簡単に使えるようになります。
テレビのバラエティ番組のみならず社会のあらゆる場面で、笑いが欲しい人たちが使いはじめたのがツッコミというものなのです。それがこの10年から20年のことです。
この10年、20年の間に流通したのは、テレビ業界のテクニカルタームではなく、お笑いのテクニカルタームだったということも興味深いことです。
つまり、人々の興味はテレビ業界に向けられていません。お笑いの技術を応用して、自ら会話の中で笑いを取ることに対して強く向けられている。お笑いのテクニカルタームはそこに特化しているわけです。
「嚙む」は失敗を表す言葉なのですが、あくまでお笑いのルールの中での話にしかすぎません。本来、一般人が日常生活の中で何かを言おうとして失敗しても、大した問題ではないはずです。でも、そこでお笑いのルールを人々が共有してしまった。
「嚙む」だけに限らず、他の言葉に関しても同じことが言えると思います。それは「一億総ツッコミ時代」を形成するにあたって、とても大きなことだったと思います。
他罰的なコミュニケーションは疲れる
偉そうにツッコミの害悪を述べている私ですが、私自身も「ツッコミ」として長らく生きてきたことも事実です。「しょうもない自分」を認めたくない、指摘されたくないがために、常に矛先を他に向けて「ツッコミ攻撃」をしていました。
「しょうもない自分」を認めることができなかった時期は、精神的にとても疲れていました。自分を守って、他者にばかりツッコミを入れる。つまり「他罰的」だったのですが、それが跳ね返って自分に返ってくることもある。すると防御本能が働いて、さらに他罰的になる。さんざんツッコミを入れて、サッと逃げることの繰り返しでした。
だから、人とコミュニケーションができなくなります。限定的にしか人との付き合いができないのです。偉い立場の人間とか、もっと大きな視点に立っている人間に何か言われると、見透かされているようでドキッとしてしまう。それが嫌だから、逃げ回っていたのです。
他罰的で防御姿勢のままツッコミをする人同士がコミュニケーションしても、お互いを傷つけ合うだけです。それを若いお笑い芸人はやってしまいがちです。ツッコミであろうと、何であろうと、「笑わせている」という感覚を持つ猛者たちが集まっているので、他人のミスには敏感なのです。ツッコミにも容赦がありません。
もっと大きな視点と愛情を持てば、他人との接点はさまざまな形でとることができるでしょう。ツッコミをしたり、スカしたり、なだめてあげたり、きつくりつけたり、いろいろな方法があるのです。
でも、それをせずに、人の揚げ足をとって失敗を許さない。失敗した人を笑いものにして追い込み、自分のポジショニングを維持する。まるでサル山のサルたちの権力争いのような構造が、そのままの形で社会の中の人間関係の中に降りてきているのです。
お笑い芸人たちの楽屋は、まさにその縮図です。それをやり過ぎてしまう。そこから身を守るためには、下の者にまた同じことを繰り返すのです。
お笑い芸人の楽屋だけでなく、学校や会社などでも同じことが行われています。「スクールカースト」といった言葉もありますが、もともとお笑いの世界にもカーストがあります。それを使って、謀反を起こしやすい形にはしてありますが、お笑いにはどうしても差別的な構造があるのです。
今、学校ではミスがしづらい状況にあります。ミスが許されにくい空気があるのです。おしっこやうんこを漏らすことは昔から子どもたちにとって大変な「ミス」でしたが、今は居眠りして寝言を言うだけでも容赦ないツッコミを受けるでしょう。
子どもはもちろん、先生だって何かミスをしたら子どもたちに揚げ足をとられて、ツッコミを受け、いじられて、追い込まれていきます。学校の教師が、人との関わりを薄く保っていることがあるのは、隙を見せない防御策なのかもしれません。
会社でも、雇用が安定していない中、仕事でミスしないように気を張っていなければならない。
油断を許さない社会であり、みんな楽しみ方もわかっていない。とても息苦しい社会になっています。みんなが幸せに暮らせるようになるための「社会」なのにこれでは本末転倒です。もっと油断できる空間が人にとって必要ではないでしょうか?