仕事をしたつもり
海老原嗣生 図版/斎藤 充(クロロス)
いつも忙しいのに成果が出ない。なぜだ!——「仕事をしたつもり」とは、以下のような状態を指します。・けっこう一生懸命、仕事をしている ・まわりもそれを認めていて、非難する人はいない ・本人はその行為にまったく疑問を持っていない ・しかし、成果はほとんど出ない 「社会人としてお金をもらっているんだから、そんなことやっちゃいないよ」と思うかもしれませんが、私たちは毎日、それも大量に、やってしまっているのです。中身の薄い仕事に追われているだけなのに、「バタバタしていて……」と言ってしまう。そういった時間と労力の無駄は、本書を読んで終わりにしませんか?
目次
- はじめに いつも忙しいのに成果が出ない。なぜだ! 3
第1章 何十枚も資料を作って、それで仕事をしたつもり? 27
――「量の神話」を突き崩せ――
- 資料を読み上げるだけの会議に意味はあるのか 28
- 仕事は、効率を上げれば上げるほど評価が下がる? 32
- プレゼンの資料は1枚あれば十分 35
- 「1枚型プレゼン」に対する大誤解 41
- セミナー最前列で速記者のようにメモを取る人たち 46
- 1冊の「良書」を徹底的に読み込めば、プロとも互角に渡り合える 49
- 「量の神話」の正体 54
第2章 流行のビジネスモデルを学んで、それで仕事をしたつもり? 57
――中身より形にこだわる「ハコモノ志向」――
- 「屋台の味」を謳う看板に意味はあるか? 58
- 「がんばろう! 日本」は、何をどうがんばるのか? 61
- おしゃれなお店の地図は「たどりつけない」 64
- 「一日200件」というノルマが意味するもの 67
- 「数字で管理する」とは、本来どういうことか 71
- 非営利部門は「仕事をしたつもり」だらけ!? 74
- ハコモノ管理が最悪の結果を生む 76
- 「仕事をしたつもり」の背後にある、普遍的な3段階 82
- トヨタの猿真似をしても、トヨタにはなれない 85
- 「ハコには何が入っているのか」を考える 88
第3章 みんなで一緒に考えて、それで仕事をしたつもり? 93
――大義が引き起こす「本末転倒」――
- タクシーで5分のところに電車で40分もかけて向かう無意味さ 94
- 「本末転倒」はこうやって生まれる 96
- 「裏紙コピー」は意味がない 99
- チャリティイベントでいちばん得をするのは誰か? 101
- すぐに「みんなで考えよう」と言い出すバカ上司 106
- 目的の消失が、このタイプの「仕事をしたつもり」のはじまり 110
- ダメな営業は、要は何も考えていないだけ 112
- 「目的→成果→手段」の流れで考える 115
- コラム 「考える」って、どういうこと? 119
第4章 業界トップの真似をして、それで仕事をしたつもり? 127
――過去の自分までもが加担する「横並び意識」――
- ビジネスマンが群がった「失楽園ブーム」 128
- みんながやるからやる人と、意味や効用を考えてからやる人 129
- 1週間会わないだけの人に年賀状を送る茶番 131
- ニュース番組にウェブサイトはいらない 134
- 「右へ倣え」発生のメカニズム 137
- 「横並び」は、マンダラ模様を描きながら広がっていく 139
- 筋道を立てて考えれば、「やめどき」もわかる 141
- この3つの言葉が出てきたら、その組織はもうヤバい! 144
- 横並び意識は、常に「強き」から「弱き」へと流れる 146
- ボトムアップ型の組織が健全な理由 149
- 習慣とは、「今の自分」が「過去の自分」に負けること 152
- 「営業は車で」という常識を疑ってみると…… 153
第5章 「お客様は神様です」とへりくだって、それで仕事をしたつもり? 159
――商売の原則を無視した「過剰サービス」――
- 客を怒鳴り散らすようなお店をどう捉えるか? 160
- 商売の原則は「対等関係」 163
- 大事なのは、「料理の味」であり「仕事の成果」 166
- 「過剰サービス」という名の「仕事をしたつもり」 168
- 「カスタマーハラスメント」という考え方 171
- 「お客様は神様」ではない 175
- デキる営業は、顧客とどういう関係を築くか 178
- 「仕事をしたつもり」をやめて「仕事」をしよう 181
第6章 新しいことにチャレンジしないで、それで仕事をしたつもり? 185
――「安全策」や「奇策」に逃げるな――
- 「安全策」は、みんなが取る愚策 186
- 「奇策」は、目立つだけで中身がない 189
- 読まれるメールは何時に送るべきか 192
- レッドオーシャンで溺れ死んでいく商品たち 196
- 「あの商品」がバカ売れした理由 199
- 「合理的な奇策」を狙え! 204
- 名取洋之助が捉えた「本質」 207
- あなたの仕事に「チャレンジ」の要素はあるか? 211
終章 「仕事をしたつもり」からの抜け出し方 213
- 「仕事をしたつもり」定着のプロセス 214
- なぜ、あなたは抜け出せないのか? 218
- チョコレートサンデーと風姿花伝 219
- 「仕事をしたつもり人間」の人材市場価値 222
- 「仕事をしたつもり」から抜け出そう! 225
はじめに いつも忙しいのに成果が出ない。なぜだ!
本書のテーマである「仕事をしたつもり」とは、どういうことを指すのか?
私は、以下のような状態を考えています。
- けっこう一生懸命、仕事をしている
- まわりもそれを認めていて、非難する人はいない
- 本人はその行為にまったく疑問を持っていない
- しかし、成果はほとんど出ない
こう書くと、「学生じゃあるまいし、社会人としてお金をもらっているんだから、そんなこと、そうそうやっちゃいないよ」と訝しげに思う人も多いでしょう。
ところが私たちは、毎日大量に、やってしまっているのです。
そして、多くの人は感覚が麻痺しているため、この「仕事をしたつもり」という大いなる時間と労力の無駄に気づかなくなっている。
冒頭のイラストで挙げた「仕事をしたつもリーマン」もその一例です。朝から深夜まで頑張っているのに、成果がほとんど出ない。
時間だけがいたずらに過ぎていく。
残るのは、クタクタになった疲労感だけ。
極端にいえば、たぶん、いまの業績の8割以上は、働いているうちの2割程度の時間であげることができて、残りの8割の時間は、ほとんど意味のない仕事をしている=「仕事をしたつもり」状態なのではないでしょうか。
思い当たる節、ありますよね?
そう、私たちは気づかないうちに、「仕事をしたつもり」をやってしまっているのです。
技術の進歩で家事は減った。仕事はどうだ?
総務省統計局の社会生活基本調査によると、日本人の家事労働時間は年々減少しているそうです。1976年にひとり一日当たり107分を家事に費やしていたものが、30年経った2006年の最新調査では92分、およそ14%短縮しています。
この間に、洗濯機や掃除機、炊飯器、電子レンジ、自動給湯機などが普及し、洗濯や掃除、炊事、風呂焚きにかけていた時間は劇的に短くなりました。冷蔵庫や車の普及により、一度にたくさん買い物をして、それを保冷しておくというかたちでも、買い物の効率化は進んでいます。
その結果、前述した通り、家事労働時間は30年間で14%も減少しました。最近では、食器洗い機や洗濯乾燥機まで保有する家庭が増え、家事労働の短縮はさらに続いています。
技術の発達により、著しく業務効率が上がり、その結果、労働時間が短くなる。これが、正常な時代の流れ、というものでしょう。
では、家庭ではなく、会社での仕事はどうでしょうか?
たしかに、この30年間でさまざまなOA機器が普及しました。
コピー、ファックス、ビジネスフォン、パソコン、プロジェクター、プリンター、携帯電話、インターネット……。その結果はどうか?
数字的には、ひとり当たりの総労働時間は、1976年から2006年の30年間で約11%減っています。家事労働ほどではないですが、それなりに「効率化」が進んだとも見て取れるでしょう(厚生労働省/毎月勤労統計調査より)。
ところが、このデータは本当のところを示してはいません。
総労働時間の減少は、1990年代の中盤までは家事労働と同様に減少し続けたのですが、その後はほとんど減っていないのです。
たとえば、従業員規模30名以上の一般社員の例でいえば、1994年と直近のデータを比べると、総労働時間は約0・5%増加しています。
先ほど挙げたOA機器の多くは、この間に本格的な普及を見せました。特に、パソコン・プリンター・インターネット・携帯電話は、同時期に猛烈に浸透しています。
にもかかわらず、労働時間はまったく減らなかった。
これは何を意味しているのか?
私はその理由を、「やらなくてもいい仕事が増えた」だけなのではないか、と思っています。
少し考えてみてください。
その昔なら、手書きの汚いメモをベースに、会議・討論が行われました。社内資料などそれで十分でしょう。
ところが、パソコンの発達により、こうした身内の会議にまで、「きれいな」企画書が必要となり、そのために社員は無駄な労力を要するようになりました。
汚いメモは、最少限の必要数だけが青焼きにされて配られていたものが、現在ではきれいな装丁で、出席者全員にホチキス留めされて配られたりしています。
これは、時間と資源両方の無駄でしょう。
会議を設営するアシスタントも、資料を配るだけなら簡単ですが、最近では、プロジェクターを使ってそれをスクリーンに映し出すために、事前に資料のファイルをノートパソコンに移し替えたりしなければなりません。プロジェクターの設置や配線にも時間をとられたりして、また無駄な労力が費やされることになります。
そうして映し出されるファイルには、せっかくそこまでやったのだから、文字だけではもったいないと、無用な動画やアニメーション化されたグラフ類が無数にちりばめられています。
そして、その会議で何が決まるのか? 多くの場合、「結論は次回に持ち越し」ということだけが成果だったりします。
これ、すべて無駄。
パソコンもコピーもプロジェクターもなかった時代にはまったく不要だったことが、いつしかあたりまえの仕事となっている。
結局、技術の進歩は、やらなくてもいい仕事を多重に増やしてしまっただけなのではないか。しなくてもいい仕事をしていて、「いま、ちょっとバタバタしているから」「取り込んでいるんで」とつい語ってしまう。
そして当の本人は、そんな空疎な仕事になんの疑問も持たない。
まさに、「仕事をしたつもり」状態に陥っているのです。
本書の内容=「仕事をしたつもり」とのつき合い方
前述した通り、1990年代中盤までは、データを見るかぎり、会社での労働時間は減少しています。では、ここまでは正常に会社の労働も効率化されていたのでしょうか?
私はそうは思いません。
この時代は会社の利益が増大する右肩上がりの時期であり、そのため、社内人員を容易に増やすことができ、結果としてひとり当たりの労働時間が減っただけで、個々人の業務内容を見ればけっして効率化は進んではいなかった。そう考えているのです。
なぜか?
家事労働のように、誰にも見られず指図も受けない仕事については、無駄なことをやめたり、時間を短くするための技術進歩が起きたりするのですが、会社のように人が集まり上下関係ができる場では、それと対照的に、「仕事をしたつもり」が高度化して蔓延するという宿命があるからです。
たとえば、広大な農地で耕作をしている人同士が、何か取り決めを作ろうと集会を開くとき。その招集の案内にわざわざ季語や前文を入れたレターを作ったりはしないはずです。
同じように、従業員20名くらいの町工場で、菜っ葉服を着た職工さんたちが新しい加工機械の使い方について研修を開くとしても、そこにプロジェクターもパソコンも不要でしょう。
ところが、近代的な会社になり、組織が大きくなるにつれ、無駄がどんどん増えていく。顔の見えない大きな組織には何かとルールや体裁が必要となり、それに縛られて窮屈な思いをしていると、いつのまにか、ルールや体裁を整えることこそが自分の仕事だと勘違いして、疑問がわかない状況になる。
技術が進歩しても、そんな中身の薄い仕事の増加には太刀打ちできず、逆に、技術が進歩するからこそ、「仕事をしたつもり」も(たとえばアニメーション機能満載のパワーポイントのように)進歩していく。
このイタチごっこが何十年来、連綿と続いてきたのではないでしょうか。
そう、パソコンやインターネットが発達する以前から、ずっとこの流れは変わらずに続いてきたのだと、私は思っています。
この増え続ける「仕事をしたつもり」とうまくつき合っていくには、いったいどうすればいいのか。
本書で、私と一緒に少しだけ考えてみませんか?
第1章 何十枚も資料を作って、それで仕事をしたつもり?
――「量の神話」を突き崩せ――
資料を読み上げるだけの会議に意味はあるのか
温泉旅館の夕食に辟易した経験を持つ人は多いのではないでしょうか?
テーブルの上に、食べきれない量のお皿がところ狭しと並びます。
まず、どんな山奥だろうとお刺身が用意され、かなり低料金の宿でも、申し訳程度に地元の名産品が一品盛られます。そして、煮物、焼き物、揚げ物、炊き物、汁物、ご飯、麵類、箸休め、お新香、水菓子……。
こんな感じで、どこに行っても代わり映えのしないメニューが顔をそろえます。
この夕食の「重さ」を予想して、昼食は軽めにしよう、といった防衛意識も働きます。その結果、観光先では本当の「地のもの」は満足には食べられない、という皮肉な結果となる。
会社の宴会旅行のような旅館に入り浸りの旅なら、それも悪くはないのですが、家族や友人、恋人との観光にはまったく向かないこの夕食が昔から連綿と続いている背景には、「とにかくたくさん出しておけば大丈夫」という、神話に近いレベルの思い込みがあるのではないでしょうか。
そして、そういった「思い込み」は、旅館の夕食にかぎらず、実は私たちの身の回りにいくらでもあって、大量の「仕事をしたつもり」を生み出す下地になっているのではないか――私はそう考えています。
たとえば、ビジネスシーンでの実例を挙げてみましょう。
みなさんはこんな会議、経験したことはありませんか?
〈○○部のメンバー10人が向かい合わせに座っての会議〉
発表者 「ええ、では会議を始めます。お配りした資料の2ページ目をご覧ください」
参加者 「…………」(いっせいに資料をめくる。ちなみに1ページ目は、デザインの施された立派な表紙)
発表者 「まずは市場状況ですが、日本のユーザー企業における2010年12月時点のIT投資動向調査によると、2011年度もIT投資の減少傾向がかなり強いことが判明しました」
参加者 「…………」(資料を見ながら発表を聞くも、発表内容が資料に書かれた文面とまったく同じことに気づいてからは、資料をめくって先のページを読み始める)
――20分後――
発表者 「――以上の点から考えますと、2011年も市場の回復は望めず、厳しい状況 が予想されます」(やっと2ページ目の内容が終了)
参加者 「…………」(すでに資料をざっと最後まで読み終えて、会議自体に興味を失っているか、寝ている)
私は社会人になってから今までの20年あまりで何百回、こういった会議を経験したでしょうか。
文字がびっしり書き込まれた数十枚の資料が配られるたびに、
「ああ、またか」
と辟易し、資料を読み上げるだけの会議が終わるたびに、
「こんなことなら、会議なんてしないで資料だけ配ってくれればいいのに」
と思ったものです。
発表者が何時間もかけて資料を作り込んだその仕事の「意義」は、はたしてどこにあるのでしょうか?
旅館の夕食とまったく同じです。
「とにかくたくさん出しておけば大丈夫」という思い込みがあるのです。
この章では、そういった「量の神話」を題材に、身の回りにはびこっている「仕事をしたつもり」にメスを入れていきたいと思います。
仕事は、効率を上げれば上げるほど評価が下がる?
ビジネスの場面で考えると、量の神話が如実に現れるのはどこか?
それはずばり、「勤務時間」です。
たとえば、毎晩10時まで残業する人と、定時きっかりに帰る人がいるとします。2人がまったく同じ業績を残しているとすれば、評価されるのはどちらでしょうか?
経営的に言えば、業績が同じなら評価も同じです。
しかし、よくよく考えてみると、残業する人には残業手当が支払われますし、夜遅くまでオフィスを開けておくために光熱費もかかってきます。
つまり、同じ業績を上げるために多くの費用が必要となる。ならば、残業する人のほうが明らかに「マイナス評価」となってしかるべきです。
ところが現実では、この逆の現象が起こります。
毎晩10時まで残業する人間は、「そこまで頑張ったのであれば、この業績でも仕方ない」と言われ、逆に定時退社の人は、「もっと頑張れたのでは? 手抜きだ」と𠮟責されたりする……。
まったく理不尽ですよね。
でも事実、あなたの会社でもそうではありませんか?
こういった評価の裏には、明らかに「量の神話」が存在しています(まあ、その他にも、「つき合いが悪い」「先輩・上司より早く帰るとはなんだ!」といった日本的風土の問題もありますが)。
こんな環境で働いているため、多くの人は定時に帰れるような状況だと、それを忌避して、「なんとかカッコがつく」夜8時くらいに帰れるように、無駄な仕事を自ら作り出します。
ただし、それほど小器用ではない人たちは、「仕事をしたつもり」作りに頭を悩ませることにもなる。
そんな多くの人たちにとっての救済策が「会議」であり、「仕事をしたつもり」作りの万能ツールであるこの会議というものによって勤務時間は一定量確保されている、というのが、今の会社生活の真相ではないでしょうか。
どうでしょう。あなたの身にも覚えがありませんか?
プレゼンの資料は1枚あれば十分
サラリーマンであれば、フレックスタイム制といえども、「所定労働時間」というものが決まっています。だから必然的に「仕事をしたつもり」が必要となってくるのは、ある程度仕方がないことでしょう。
ただし、少なくとも個別の業務については、より効率的な進め方があるはずです。
同じ時間を会社で過ごすなら、より成果が上がるよう効率的に動き、そして時間が余ったら、スターバックスでコーヒーでも飲みながら新聞や雑誌を読む。そのほうがまだ健全だと思うのです。
では、より効率的な進め方とは何か?
ここから先は、「量の神話」を崩すための作業について、少しみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
たとえば、この章の冒頭で挙げた、社内における「数十枚の資料を読み上げるだけの会議」。あるいは、よく見かける同類のケースとして、商談相手に対する「数十枚の資料を読み上げるだけのプレゼンテーション」。
こんなあまり効果の見込めない会議やプレゼンは、いったいどうすれば改善することができるでしょうか?
実は、会議だろうとプレゼンだろうと、相手に伝えたいこと、相手が知りたいことというのは、「本当に簡単なひと言」ですますことができます。
たとえば、パソコンや家電製品には分厚い説明書がついてきますが、実際に購入して使い始める場合、そんなマニュアルを通読する必要はなく、同梱されている1枚か2枚の「使い始める前に」というリーフレットを読むだけで十分でしょう。
会議やプレゼンもそれと同じことで、結論とも言うべき「ひと言」を1枚の紙に書けばいいだけの話なのです。
そのほうが、資料を何十枚もえんえんと見せるスタイルより、明らかに情報は伝わりやすいはず。
- プレゼンでは、商談相手にたった1枚の資料を渡すだけでいい
でもこんなことを言うと、必ずつぎのような反論が出てきます。
「言いたいこと1枚だけだと、先方が納得せず、いろいろと疑問を持ってしまうのではないか?」
ごもっとも。たしかにその通りです。
だから、市況データや販売売上データ、顧客アンケート、製品パンフレット、ホームページのコピーなど、もともと用意してある「ありものの資料」は、そのまま何十枚持っていってもかまいません。
そして、相手が疑問をぶつけてきたら、それを最高のきっかけとして、その疑問に答えるかたちで、手持ちの資料のなかから最適なページを探し出して答える。
たとえば、こんな感じです。
「今度の製品は、3年間使うと出費がトータルで3万円減ります」
「えっ、なんで? 電気代?」
「いえ、電気代も減りますが、それは1万円分です」
「じゃあ、なんで?」
「電気代に加えて、消耗品代とメンテナンス代がそれぞれ1万円分。合計3万円減るんです」
「うそ、資料見せてよ」
「了解しました(該当する資料を見せる)」
「へえ。でも、なんでこんなことができたの?」
「そこがミソなんです! 実は、新開発のLEDを利用しておりまして……(再び資料を見せる)」
つまり、キーポイントを簡潔に述べ、相手の興味関心を喚起し、相手からつぎつぎと疑問を引き出していく、というスタイルです。そして、彼らの疑問に答える資料のみを適宜示していく――。
このかたちだと、ものすごく生きた商談・プレゼンテーションとなるはずです。
ところが多くの場合は、「弊社新開発のLEDにより」からプレゼンは始まり、相手は興味関心のないたくさんの資料を見せられ、結論は後回しにされる。
結局、相手には何も伝わらなくなってしまいます。
要は、「自分と相手との対話」というコミュニケーションの根幹が成立しているかどうか、ということなのですが、案外これが無視されているのが実情です。
「もし相手からまったく疑問が出てこないで、あまり理解されないまま商談が終わってしまったらどうするのか?」
こんな疑問も浮かぶかもしれませんが、これも答えは簡単。
相手から疑問が出てこないときは、相手の立場に立って、相手がわからないだろうと思う点を、「こんな疑問をお持ちかと思います。それについては……」というかたちで、自ら質問として切り出していけばいいのです。
そしてまた、手持ちの資料を使ってその自問に対して自答していく。
こういった「質問→応答」というシナリオに沿ってコミュニケーションを図っていくのが、1枚型のプレゼンテーションなのです。
「1枚型プレゼン」に対する大誤解
ここでみなさんは単純な疑問を持たれるかもしれません。
結局、質問に答えるために、相手に渡すのとは別の資料を持っていくのであれば、何十枚も資料を作ってプレゼンするのと変わらないじゃないか、と。
これが、まったく違うのです。
まず、何十枚もの資料を渡しながら一方的にプレゼンするためには、資料としての体裁を整えなければなりません。表紙をつけたり、起承転結をつけたりと、既存の資料をいろいろと加工・編集する時間が膨大に必要となってきます。
それに対して「1枚型プレゼン」では、作るのはこの1枚だけ。あとは、既存資料と「口頭」で説明する。
つまり、大量の資料を編集加工する時間はゼロ。
また、「大量資料型プレゼン」だと、相手は聞きたくもない話を長々と聞かされ、肝心な部分はどこか、わからなくなります。
「1枚型プレゼン」にはこれがありません。
肝心な部分はそもそもひと言で表されているし、説明したように、「質問→応答」という会話スタイルなので、相手のわからないところを順番にクリアにしていくことができるのです。
ここで注意してほしいことがあります。
この「1枚型プレゼン」は、営業や企画の世界では昔からよく言われていることで特に目新しい話ではないのですが、その理解のされ方が誤っていることが本当によくあるのです。
- 1枚型プレゼン≠1枚に詰め込む
「1枚にしろ!」と聞くと、その1枚のなかに起承転結を作り、編集加工を施し、顧客の疑問も払拭できるように注釈だらけ、といった資料(しかも小さい文字でびっしり埋まっている)を作る人がいますが、そういうことではありません。
そういう人のプレゼンテーションは、たった1枚のためにえんえんと時間を割くことになります。
これでは、数十枚の資料を作るプレゼンとまったく同じなのです。
そうではなく、本当に安易に、「自分が言いたいこと、相手が知りたいと思うだろうこと=結論」を1枚に、ベタ打ち(改行なし)でいいから短くまとめる。見出しをつけたり、文字のフォントを選んだり、大きさを変えたりするような、余分な編集加工はまったく必要ありません。
やることは、これだけでいいのです。
あとは、既存の資料を手持ち資料として用意するだけ。この手持ち資料は新たに自作するわけではないので、何枚持っていってもかまいません。
時間を割くとすれば、「相手がどんな疑問を持つか?」「その疑問を払拭するための資料にはどれを使えばいいか?」「どんな答え方をすればいいか?」ということに頭を働かせるべきです。
こちらは、机の上ではなく、行きがけの電車のなかやトイレでもできます。
そう、このスタイルにすると、机に向かっていなくても仕事がはかどるため、移動時間なども有効に使えるようになるのです。
大量資料型プレゼン → 資料を「作る」のに時間がかかる
1枚型プレゼン → その分の時間を「考える」ことに費やすことができる
量でごまかすのではなく、より有効なことに時間を費やす――「量の神話」の崩し方は、どうやらここらへんに答えがありそうです。
セミナー最前列で速記者のようにメモを取る人たち
会社で若い営業スタッフ(といっても新人ではなく20代中盤くらい)と客先に同行すると、「なんでこんなにメモを取るのだろう?」と感じることがよくあります。
訪問先の社長の言葉を一言半句漏らすまいと、一心不乱にメモを取るのです。1社の訪問で、大学ノート5ページ分は書いているのではないでしょうか。
で、そのメモだらけのノートはいかに仕事に活かされるのか?
ほとんどの場合、何かあったときに「確認する」ためだけに使用されます。
課会や打ち合わせでこの会社の話になったとき、彼らは必ずこのノートを片手に持ち、質問されるたびにページをめくります。
そして、メモを見ながら、その企業の売上細目や、取引銀行の支店名、果ては社長の飼っている犬の名前まで、すらすらと答えます。
「ええとですね、ちょっとまってください。A社の売り上げは54億円で、対前年比は89%ですね」
とにかくたくさんあれば大丈夫、という「量の神話」は、こうした「メモ魔」を生み出してもいるのです。
ただ、このメモはほとんど記憶されることはなく、業績につながることもありません。彼らはこの事実に気づいているのでしょうか?
上司に何か質問されれば、メモを読み返して答えを言うことはできます。しかし、たとえば「A社の売り上げが下がった原因は何か?」といった本質的な質問には答えることはできません。
なぜならその答えは、メモした相手の発言のなかにはなく、行間から読み取るべきものだからです。
メモ魔はそのための内省時間を作らず、単に速記行為という単純作業をくり返すのみ。
そのメモの量の10分の1でいいから、「大切なことは何か?」「問題は何か?」だけに集中して、それを書くようにしたら……? そして、そのメモを頭のなかで反芻し、ノートを見なくても顧客の課題やニーズがわかるようになったら……?
そういうことが、後々の営業や交渉をはかどらせるはずです。
メモ魔の営業スタッフは、大量のプレゼン資料を作るのに時間をかけるのと同じ過ちを犯してしまっています。量でごまかすのではなく、より有効なことに時間を費やす。それができていないのです。
彼らは、客先での大学ノートとの格闘に疲れてしまい、帰りの電車のなかでは熟睡するか、漫画誌を読み耽るか、といった感じ。
その結果、この膨大なメモは、あとで誰かに質問されたときにのみ役に立つという、無用の長物になっていきます。
これはなにも、「最近の若い人に多い」といった世代間のギャップではありません。
私は仕事柄、講演会やセミナーに呼ばれることが多いのですが、まるで速記者のように熱心に私の発言を採録される方が大勢います。主に30代、40代の方々です。
そういった「量の神話」に侵された人は、年代を問わずよく見かけます。
そんなにたくさんメモしたら、大切なことが埋もれてわからなくなってしまうということに、どうか気づいていただきたいものです。
1冊の「良書」を徹底的に読み込めば、プロとも互角に渡り合える
最近、ビジネスマンの間で、速読術が流行っているようです。
なぜ、速く読む必要があるのか?
忙しい日常生活のなかで、できるかぎり多くのビジネス書を読みたい、という気持ちが、ビジネスマンを速読に向かわせているのでしょう。
速読術を扱った本の帯には、
「ビジネス書を年間100冊読めば、人生が変わる!」
「1冊が10分で読める!」
といったキャッチコピーが躍っていますが、ここにもやはり、「量の神話」が色濃く反映されています。
そんなにたくさんのビジネス書をハイスピードで読んで、すべてを覚えていられるのか?これが速読への第一の疑問です。
そして第二の疑問は、当たり外れの多いビジネス書のなかで、自分が知りたいこと、学びたいことがしっかり書かれている本をちゃんと選んで読むことができているのか? ということ。
そもそもビジネス書とは、それを読むことが目的ではなく、それを理解したうえで、ビジネスシーンに役立てたり、知識や教養として日常生活に応用したりすることが目的のはずです。
ということは、読みながら随所で立ち止まって疑問を持ち、じっくり考え、その疑問に自分なりの答えを出すといった読み方が必要になってくるのではないでしょうか?
言い方をかえれば、「咀嚼」するような読み方です。
つまり、手当たり次第にビジネス書を速読するのではなく、まずは、自分が知りたいことは何かを突き詰め、今わかっていることは何か、逆にわからないことは何かを十分に考え、その答えが書いてある本を探す――。
ここに時間を割くべきだと思うのです。
探し当てた本は、べつにページ数の多寡は問題とならないでしょう。文字が大きく行間がスカスカで改行だらけの「薄い本」でも、自分の求めていることが書かれているのであれば、それは「良書」なのです。
つぎに、そのたった1冊を完全に吸収する。
わかったフリをせず、少しでも疑問や違和感を感じるところがあれば立ち止まり、著者の立場に立って「何が言いたいのか?」「何を言おうとしているのか?」とじっくり考える。
要は、「おかしい」「変だな」とやたら難癖をつけながら読むのです。
そう、私は読書とは、著者相手にイチャモンをつけながら進める行為と考え、それを実践しています。
けれども、イチャモンだけでは、街のチンピラと同じでなんの役にも立ちません。もうひとつ、やるべきことがあります。
それは、そのイチャモンに対して、今度は著者の立場に立って、説明や反論を行うという行為です。
この両方の行為を行うと、見事に疑問は消失します。
また、著者に同化することができるので、本に書かれている内容をすらすらと第三者に説明することも可能になります。簡略にまとめて話すことも、事例を交えて丁寧に説明することもできるようになるでしょう。
もし、どうしても著者の立場で説明や反論ができないことがあったら、それをすべてメモし、そのあとのパートに答えが書かれていないか注意しながら読み進め、書かれていなければ他の本も当たって疑問が解決するまで粘り強く考え続ける。
こういった読書法を、私は「ケンカ読法」と呼んでいます。
どの分野でも、このようにして「良書」を1冊完全に咀嚼して自分のものにしてしまえば、相当のプロになれるはずです。
私は、取材や対談のために、各分野のプロフェッショナルと議論することも多いのですが、この「ケンカ読法」のおかげで、専門家の方々とも互角以上に、口角泡を飛ばしながら語り合うことができています。
そして、そういった経験を重ねることで、さらに知識が広がり理解が深まっていく。
そう、1冊を完璧に「咀嚼」する読書のほうが、速読・乱読よりもはるかに有用で、その道のプロにも早く近づけるのです。
「量の神話」の正体
こうした「本当の読書」は、やはり多くの人には浸透せず、たくさん読めばいいという考えのほうが世の中には広がっています。
良書を選ぶ行為も、それを咀嚼する行為もむずかしいことですが、たくさん読むという行為はなんの工夫もいらない簡単なことなので、そのせいもあるでしょう。
- ① 本当に大切なことは、少量行うのもむずかしい
- ② 逆に、質の低いことをたくさん行うのは、いたって簡単
問題はこのつぎです。
- ③ そして周囲から見ると、「少量の良質」よりも「多量の低質」のほうが、えてして評価が高い(「年間100冊も読んでいるなんてすごい!」等)
なぜなら、質は見えづらいのに対して、量は一目瞭然。評価がしやすいのです。
もう少し言葉を足して説明すると、つぎのようになります。
- ① 「本当に大切なことは何か?」と考えること――このいちばんやるべきむずかしい行為から逃げている、という事実
- ② その一方で、時間さえかければ誰にでもできる「量」に走る、という安易
- ③ しかし、往々にして他人からの評価は、「本当に大切なこと」よりも「安易にたくさん」のほうに軍配が上がる、という皮肉
つまり、「考えることから逃げ」「安易に走り」「でも、傍目にはその行為が賞賛される」――この3つが重なって、「仕事をしたつもり」へのサイクルが生まれているのです。
どうでしょう。
あなたにも少し、心当たりがあるのではないでしょうか?