独裁者の教養

安田峰俊

29歳の中国ネットウォッチャーが語る、体験的独裁者入門!——悪の親玉としてイメージされがちな「独裁者」たちは、若い頃にいかなる知識や価値観、思想などの「教養」を得て、それをどう国家支配に反映させたのか、それらを考察したのがこの本だ。これを読めば、自由で平和な資本主義国・日本にいては理解しづらい、国家社会主義や共産主義、民族主義なども「わかる」ようになるはずだ。だが、堅苦しい本にはしたくない。そこで筆者は、独裁者がいる社会を等身大で体験するため、中国雲南省奥地の「秘境」に足を踏み入れた。なんとそこにはアヘンを資金源とする「アヘン軍閥」と「鮑有祥」(バオヨウシャン)という謎の独裁者が割拠していて……。独裁者の姿から人生の成功を考える「革命の書」、ここに登場!

目次

はじめに

29歳の中国ネットウォッチャーが語る、体験的独裁者入門

本書はタイトルの通り、独裁者について語った本だ。

独裁者とはつまり、ヒトラーやマオゼェドンやカダフィのような人たちである。一般的には、「悪の親玉」であるとみなされがちな人々だ。事実、彼らは国民を対外戦争やしゅくせいなどの理不尽な目に巻き込む場合が少なくないため、こういった評価は決して間違ってはいない。

だが、男ならば誰しも、一生のうちで一度くらいは、富と名誉と権力をほしいままにしてみたいと考えたことがあるはずだ(少なくとも筆者にはある)

国家を完全に支配する。尋常じんじょうの人間では不可能な行為だが、なんとも魅力的な響きである。誰もがやりたいことを成し遂げたという点では、独裁者とはうらやむべき「成功者」なのだ。

ならば、独裁者たちはいかなる経緯いきさつを経て成功したのか。筆者はその要因を、彼らが若い頃に得た知識や体験、すなわち「教養」の側面から探ってみたいと思った。

なぜそんなことを思いついたのか。

理由はもちろん、筆者自身も「成功」してみたいからだ。

富や権力は、得たら得たで非常に面倒くさそうであり、あえて欲しいとは思わない。だが、せっかくこの世に生きているからには、せめて自分の名前くらいは世間に知られたい。そのくらいの欲望は筆者にもある。ならば、成功者から学んでおきたい。

一般的な日本人の感覚からすれば、こういう場合に参考にする「成功者」は、松下幸之助やホリエモン・孫正義そんまさよしといったビジネスマンたちだ。近年はドラッカーも人気である。だが、どうせ学ぶならばもっとスケールが大きい人間を参考にしたいと思った。

大人物を探すなら、歴史を参考にすればいい。しかし、徳川家康や坂本龍馬りょうまから学ぶのはいかにも教訓めいているし、何よりもオッサン趣味が感じられて気が進まない。

せっかく学ぶなら、人生において徹底的な成功を収めた、アクの強い人たちから学んだ方が面白いだろう。しかも独裁者の場合、教科書的な聖人君子せいじんくんしとは違い「反面教師」としての教育効果も期待できる。彼らは成功と同じ分だけ、徹底的な間違いを犯した人たちだからだ。

そこで、独裁者たちの若き日について調べることにした。

いうなれば、世界のダーティーヒーローたちの履歴書を作成しようと考えたのだ。

若造に「歴史」がえがけるのか?

もっとも、国家のあらゆる権力を掌握しょうあくした独裁者の履歴書を書く行為は、その国の現代史そのものを記すことを意味する。

筆者は大学時代に中国史を勉強していた頃、こんな話を聞いたことがある。

「若いうちに伝記や通史つうしの本を書いてはいけない。なぜなら年齢としを取らないと、歴史の裏側にある微妙なひだを感じ取れないからだ」

おそらくこれは間違いない。文章を書く張本人が、多少なりとも人生の波瀾万丈はらんばんじょうを経験していなければ、膨大ぼうだいな数の人生の集合体である「歴史」などは描けるはずもないだろう。

例えば、世界で最も有名な歴史家の一人に、中国のかんの時代の「司馬遷しばせん」という人がいる。

子どもの頃から歴史が好きだった司馬遷は、二〇代で中国の各地を旅行して見聞けんぶんを広め、その後に漢の宮廷で公務員として勤務した。三〇代で父の遺言ゆいごんに従い、歴史書の編纂へんさんを開始。だが、やがて仕事に失敗した知人を弁護したことで皇帝の勘気かんきこうむり、男性器を切除する刑罰「宮刑きゅうけい」を受ける。当時の中国の価値観で、宮刑は死刑以上の恥辱ちじょくとみなされており、彼は文字通りの「往生際の悪い男」として周囲の人間から後ろ指をさされた。

しかし、司馬遷はあえて恥を忍んだ。父の遺志を継ぎ、過去の時代をいろどった人々の生きざまを余さず後世に伝えるべく、一人でコツコツと歴史書を書き続けたのだ。こうして完成したのが、現在の日本でも漢文の授業などで広く読まれている『史記しき』という書物である

人生でこのくらいの辛酸しんさんめなければ、二〇〇〇年後の未来に残る歴史書は書けないということだ。ちなみに『史記』には、しん始皇帝しこうていや漢の呂后りょごうのような「独裁者」たちの恐怖政治の実態が非常に詳細に描かれているが、これは司馬遷本人が彼の上司である独裁君主・武帝ぶていから迫害を受けた経験を持つためだろう。過去の歴史や他国の政治を批判することで現在のご政道せいどうに文句をつける「指桑罵槐ヂィサンマーホアイ」という手法は、紀元前の時代から続く中国人の伝統なのである。

ともかく、歴史を書くという行為はそのくらい難しい。司馬遷は偉大な人だった。

日本の歴史小説の大御所ですら、「司馬遷にはるかに及ばない」ということで、司馬遼太郎というペンネームを名乗っている。駆け出しのライターである筆者などは、さだめし「司馬遼々々々(※以下一〇〇文字省略)太郎」ぐらいに相当するはずだろう。

だが、筆者はそれでも独裁者の歴史を書いてみたいと思った。

筆者は、おそらく同年代の他の日本人よりも少しだけ変化の多い人生を生きている。

過去には一般企業の新入社員としてスーツ姿で勤務していたこともあるし、むに已まれぬ事情で禅宗の僧侶だったこともある。骨董こっとう屋や塾で働いたこともある。ちなみに趣味は、中国のインターネット掲示板を日本語に翻訳するブログを運営することだ。学生時代は中国史を専攻し、以前にあちらの国の女の子と付き合っていたことから、中国語だけはそれなりにできる。

二〇一〇年春、ブログが人気になって出版社から声がかかり、『中国人の本音』(講談社)という本を出した。現在の職業は、他人からは「中国ネットウォッチャー」と呼ばれることが多いが、自称はあくまでも「ノンフィクション作家」である。

だが、筆者はこの原稿を書いている時点でまだ三〇年も生きていない。心身が若さに満ちているとも思えないが、世界中の人間を「若者」と「そうでない人」に分類するなら、ひとまず若者に属する年齢だ。自分にはまだ、歴史の裏にある襞を感じ取り、真正面からの叙述じょじゅつをできるだけの資格はないだろう。

そこで考えた。筆者の立場で独裁者の歴史を書くならば、どう書けばいいのだろうか。

「アヘン王国」で独裁を体験してみた

ひとつは、前述したように、独裁者の若い頃の人生にスポットを当てることだ。

彼らはどんな場所で生まれ、家族や友人とどんな関係にあり、どんな教養を身に付けたか。筆者と同年代頃(三〇歳前後)までの人生に着目し、後年の彼らの行為を考えるのである。

後の独裁者であっても、若い頃には相応の下積み時代を送っている。現在の筆者と同じくらい、パッとしない暮らしをしていた人も多い。ならば、そんな彼らは何を考え、何から刺激を受けたのか。人生を変える転機は何だったのか。これを調べてみようと思った。

筆者は人生経験豊富な歴史家ではない。だが、独裁者たちの若き日々を考えるのなら、若造なりの切り口から対象を論じることもできるのではないか。

もうひとつは、「独裁」を自分自身で体験してみることだ。

すなわち、独裁の下で生きる一般市民の生活を、同じような目線から観察するのである。

司馬遷の『史記』の魅力は、始皇帝や劉邦りゅうほうのような為政者いせいしゃの記録だけではない。むしろ「刺客しかく列伝」や「遊俠ゆうきょう列伝」、現代でいう「テロリスト事件簿」や「ヤクザ実録」に相当する記事の方が、読者としてはずっと楽しく読める。司馬遷は若い頃に中国各地を旅行し、さらに軍を率いて中国南西部(現在の雲南ユンナン省近辺)に遠征した経験を持っている。彼は身をもってフィールドワークを重ねていたからこそ、市井しせいの人間の姿を活き活きと描いた『史記』を書くことができたのだ。

そこで、筆者も足を使うことにした。

行き先に選んだのは、中国雲南省とミャンマーの国境地帯にある、鳥取県ほどの面積のミニ独裁政権「ワ州特区」だ。ここは一九六〇年代に中国の影響を受けて成立した共産ゲリラの根拠地だったが、一九八九年の政権崩壊後、軍閥ぐんばつ化した将軍・鮑有祥バオヨウシャンが勝手に自立して独裁統治をいた。五年ほど前まで、現地の主要な輸出品は麻薬のアヘンだった。

そんな理不尽極まりない政権と独裁者に支配される民は、どんな人々で、いかなる理由から体制を支えているのか。筆者はワ州の社会から、「独裁」の本質を考えようと思った。

自分の見聞したものや感じたことをありのままに伝えるには、形式張らない文体がいい。筆者は。いや、俺は自分の目で見たものを、見たままに書いてやることにした。

こうして書きあがったのが本書である。

主人公たちは、有名どころのスターリンやヒトラー、毛沢東、ポル・ポトなどから、トルクメニスタンのニヤゾフやシンガポールのリー・クアンユーなどの日本人にはやや馴染なじみの薄い人物、フセインやカダフィなど近年の国際ニュースの主役、ワ州の鮑有祥というまったく無名の人物まで多岐たきにわたる。

「独裁者」という題材は目新しくはないだろう。しかし、本書の構成はおそらく前代未聞だ。章によっては、文体や内容が一般的な歴史書のセオリーから大きく外れている。

だが、最後まで読み進めればきっと、本書がこんな形式になった理由に納得がいくはずだ。

独裁とは決して、日本に生きるわれわれにとって縁遠い存在ではないのである