仏教13宗派 開祖は語る

適菜 収

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浄土宗

「ナムアミダブツ」とは何か?

法然です。浄土宗の開祖です。

浄土宗は「ナムアミダブツ」という念仏で有名ですが、「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依(南無)する」という意味です。

これは私たちの本尊であり、宇宙において唯一絶対的な存在である阿弥陀仏・阿弥陀如来にすがろうとする私たちの気持ちを表す言葉なのです。

総本山は京都市東山区の知恩院です。

私の教えに「専修念仏」というものがあります。これは、念仏を唱えることがとにかく大事だという考え方です。苦しい修行を続けることよりも、心をこめて「南無阿弥陀仏」と唱えることのほうが、死後は平等に往生できるという教えです。

なぜ私はこのように考えるようになったのか。

まずは簡単な自己紹介からはじめたいと思います。

正式な名前は「法然房源空」

私は平安時代末期の長承2年(1133年)に現在の岡山県にあたる美作国で生まれました。

9歳のときに父が殺されてしまい、母方の叔父の僧侶観覚に引き取られます。

私はこの叔父に出家するための学問を教えてもらいました。

そして、この叔父から当時の仏教の最高学府であった比叡山延暦寺に行くよう勧められたのです。比叡山延暦寺は、現在の京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗の総本山です。

私は13歳になると、比叡山で修行をはじめました。

これが私の人生の転機になります。

最初は源光に師事、次いで比叡山の皇円、比叡山黒谷別所の叡空といった師について仏教を学びます。天台宗の戒律もきちんと守りました。

そして、18歳のときに「法然房」という房号と「源空」という諱(名前)を授かったのです。これは、師である源光と叡空から一文字ずつもらったものです。

よって、私の僧としての正式な名前は、「法然房源空」です。

世間では、私が住んでいた場所にちなんで、「黒谷上人」「吉水上人」と呼ばれることもあります。

また、謚号(死後に生前の行いを評して付けられる称号)は、「慧光菩薩」「華頂尊者」「通明国師」「天下上人無極道心者」「光照大士」。

大師号(徳の高い高僧に朝廷から贈られる名)は、「円光大師」「東漸大師」「慧成大師」「弘覚大師」「慈教大師」「明照大師」「和順大師」「法爾大師」となっております。

私が浄土宗をはじめた理由

浄土宗をはじめたのは、承安5年(1175年)、私が43歳のときです。

善導(浄土宗の高祖)撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)を読み込んだことにより、私はしっかりと考えを固めたのです。

『観無量寿経疏』には次のような言葉があります。

 一心専念弥陀名号

 行住坐臥不問時節久近

 念念不捨者是名正定之業

 順彼佛願故

「一心に阿弥陀如来の名を称えなさい。いつでもどこでも時間に関係なく、それを続けることが往生への道である。その理由は阿弥陀如来の本願に順ずるからだ」と。

「本願」に関しては後ほど詳しく説明しますが、とにかく私はこの教えが大切だと思ったので、比叡山を下りて京都の東山吉水に移り住み、そこで「専修念仏」の教えを広めたのです。

私のところには多くの僧が集まってきました。

文治5年(1189年)には、時の摂政関白九条兼実との交流が始まります。建久9年(1198年)、私は九条の要請により『選択本願念仏集』(『選択集』)を書きあげます。

この書は、善導や道綽(善導の師)の言葉を引用しながら、私の考えを述べたもので、浄土宗の教義の集大成とされています。

私たち以前の仏教では、「自力」(座禅や修行などで自らの力で悟りを開くこと)を重視していましたが、この『選択本願念仏集』では、南無阿弥陀仏と一心に念仏を唱えれば、能力にかかわらず誰でも救われることができるという「他力」の教えを説いています。

「他力」とは仏や菩薩のはたらきのことであり、特に私たち浄土宗では、阿弥陀如来のはたらきのことを指します。

私が残した文章では、これが一番まとまっているものです。

我が人生最大の危機

私の教団は次第に勢力を増していきました。既存の仏教の方向性についていけない人々、疑問をもった人々が集まってきたのです。それに伴い、念仏の教えも各地に広がっていきました。

しかし、その後が大変だった。

当時の仏教界の反発を買ってしまったのです。既存の仏教団体は、時の国家権力と強く結びついていました。また、仏典の複雑な解釈と厳しい規律を重視していた彼らにとっては、「ただ一心に念仏を唱えるだけでいい」と言った私の存在は目障りだったのでしょう。

要するに、念仏を唱えることは、数ある行の中の一つではなく、阿弥陀如来や釈迦も承認した「唯一絶対の行」であると主張したことが、彼らには受け入れられないものだったのでしょう。

結局、私たちは朝廷に訴えられてしまった。

建永元年(1206年)には、さらに困った事件が発生します。

いわゆる「承元の法難」です。

私の弟子である住蓮と安楽が京都東山の「鹿ケ谷草庵」で念仏法会を行っていたところ、後鳥羽上皇が寵愛する「松虫」と「鈴虫」という側近の女性がそこで出家し、尼僧になってしまったのです。

当時京都を留守にしていた後鳥羽上皇は激怒します。

その結果、住蓮、安楽は死刑になり、私自身も僧籍を剥奪され現在の高知県にあたる土佐国番田へ流されることになりました。

名前も俗名の「藤井元彦」になってしまいます。

しかし、出家して「円証」になった九条兼実の力により、九条家領地であり現在の香川県にあたる讃岐国に配流地が変更される。

私はそこで10ヶ月ほど布教をしました。

承元元年(1207年)、赦免の宣旨がありましたが、すぐに京都に戻ることはできず、現在の箕面市にあたる摂津国豊島郡の勝尾寺(大阪府)に滞在します。その後、建暦元年(1211年)にようやく帰京しますが、翌年、京都東山大谷(京都市東山区)で人生の幕を下ろします。

時代は鎌倉時代になったばかりの建暦2年(1212年)。享年80歳でした。

私が説いた「他力」の思想

私は「三心」というものが大切だと思っています。これは先ほど述べた『観無量寿経疏』や『選択本願念仏集』にも登場する言葉です。

「三心」とは、誠実な心(至誠心)、深く信じる心(深心)、一切の善行の功徳を浄土往生にふりむける心(願往生心)のことです。

至誠心とは、阿弥陀如来に対して誠実な姿勢を示すこと。そして心の底から、阿弥陀如来を想い浄土往生を願うことです。

信心とは、疑わないということです。

一体なにを疑ってはいけないのか?

それは、人間は罪をもっており、いつまでも輪廻転生を繰り返すような俗な存在であること。そして、それにもかかわらず、阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と一心に唱えるわれわれを必ず救ってくれるということです。

この二つは「二種深心」といって浄土宗の信心の要となります。

願往生心は、常に善行を浄土往生にふりむけることで、極楽浄土に生まれたいと願うということです。

つまり、私たちは凡人である。けれども、これらの「三心」をしっかりと身に着け、心をこめて念仏を唱えれば、阿弥陀如来は必ず救済してくれる。それを信じなさいという教えです。

これこそが私が説いた「他力」という言葉の意味なのです。

なぜ「ナムアミダブツ」だけでいいのか?

これまで述べてきたように、私は既存仏教団体の修行を否定し、「念仏を唱えることだけが唯一の正しい行である」と主張しました。だから究極的には「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでいいのです。

それはなぜか?

私の教えがよりどころとする『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三典に根拠があります。これは私が選んだもので、「浄土三部経」と呼ばれています。

『無量寿経』は上巻と下巻に分かれています。

これは大乗仏教の経典の一つであり、サンスクリット語では『スカーヴァティーヴューハ』(極楽の荘厳という意味)と呼ばれています。

『無量寿経』には仏になる前の阿弥陀仏の姿が描かれています。

阿弥陀仏は仏になる前は、法蔵という名前の菩薩でした。

そのときに、「私はありとあらゆるすべての人々を救う。もしそれが叶わなければ、私は仏にはならない」という誓いを立てます。

それが「48の本願」と呼ばれるものです。

私たちが特に重視するのは、18番目の願いである「念仏往生の本願」です。そこには「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽に往生できるということが説かれています。

法蔵は修行を続け、願が成就し、阿弥陀仏になります。法蔵が阿弥陀仏になったということは、「すべての人々を救う」という法蔵の誓いが守られたということです。よって、阿弥陀仏はかならず人類を救済するということになるのです。

どの道を選べば浄土に行き着くのか?

『観無量寿経』は通称『観経』とも呼ばれます。大乗仏教の経典の一つですが、サンスクリット原典、チベット語訳は発見されておりません。

この『観無量寿経』には極楽浄土に往生する道筋が述べられています。

極楽浄土とは、阿弥陀仏が人々を救うためにつくった永遠のやすぎの世界です。「十万億土」という別名のとおり、西方十万億土の彼方にある国とされています。ちなみに、「土」とは仏土(仏が住む土地)のことです。とにかくすごく遠い場所にあるということですね。

ただし、極楽浄土に行ってもいきなり仏になれるわけではありません。

「極楽」という言葉の一般的なイメージと違い、そこは贅沢三昧できるような桃源郷ではありません。

そこは苦のない平穏な世界です。清らかな幸せに満ちています。

私たちはそこで、菩薩行(仏になるための修練)を行い、仏への道を目指すわけです。

この『観無量寿経』の主人公は、古代インドのマガダ国の王妃ヴァイデーヒー(韋提希)です。

彼女と王の間に生まれた王子アジャータシャトル(阿闍世)は、周囲の人間にそそのかされクーデターを起こし、父親である王を幽閉してしまう。ヴァイデーヒーは王が餓死するのではないかと心配し、自分の身体に小麦粉に蜜を混ぜたものを塗り、宝石に果汁をつめて王に近づき、それを食べさせます。

王子アジャータシャトルはそれを知り激怒、母親も幽閉する。

ヴァイデーヒーは深く嘆き、一心に釈迦に祈りを捧げた。その想いを受け取った釈迦は、ヴァイデーヒーのもとに現れ、極楽浄土に行くための三つの修行と16観法(浄土に生まれるために阿弥陀仏や浄土の姿を思い浮かべる16の観法)を教えた。観法とは、意識を集中させ、特定の対象を心に思い描くことによって、仏教の真理を直観的に認識しようとする修行のことです。

つまり『観無量寿経』は、釈迦による「浄土に行くための方法」が述べられているわけです。

釈迦が保証した極楽の世界

最後は『阿弥陀経』です。

サンスクリット語では『無量寿経』と同じ『スカーヴァティーヴューハ』となりますので、区別するときには『小スカーヴァティーヴューハ』と呼ばれます。

『阿弥陀経』は釈迦が説いた経であり、鳩摩羅什が訳した『仏説阿弥陀経』がもっとも有名です。

『阿弥陀経』には極楽浄土の姿が描かれています。

そこでは阿弥陀仏が説法を続けています。阿弥陀仏は「十二光仏」とも呼ばれており、その光明を12に分けています。すなわち、無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、焔王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏、です。

極楽浄土は、この溢れるような光の中にあります。

そこでは六万の諸仏が、阿弥陀仏に祈りを捧げることの正しさを証明しているのです。

なぜ私の教えは拡大したのか?

私の教えが、庶民や武士にも広がっていった理由は、既存の仏教界で主流だった難行・苦行を重視する姿勢を否定し、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えることによる「極楽浄土」への道を示したからだと思います。

また私は、それまでの仏教界では考えられなかった女性に対する布教も行いました。

私は平安時代の末期から鎌倉時代の初頭にかけて生を受けました。

つまり、激動の時代、混乱の時代です。

誰もがすがるものを求めている中、私の教えは多くの人々を救いました。

宇宙において唯一絶対的な存在である阿弥陀如来の慈悲を示すことができたからです。

著者情報

適菜 収(てきな おさむ)

1975年山梨県生まれ。作家、哲学者。早稲田大学で哲学と西洋文学を学び、ニーチェを専攻。ニーチェの『アンチ・クライスト』を現代語訳した『キリスト教は邪教です!』が、ニーチェの難解な思想を誰にでもわかるようにした「真髄を捉えた新訳」と話題に。著書に『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』『いたこニーチェ』など多数。星海社新書では『仏教13宗派 開祖は語る』(仮題)を今冬刊行予定!