年収150万円で僕らは自由に生きていく

イケダハヤト

自由と時間を売るくらいなら高年収はいらない 「お金」って必要なのでしょうか?「年収」はやっぱり高いほうがいいのでしょうか?「当たり前だろう」という声も聞こえてきそうですが、僕はここで立ち止まりたいのです。果たしてお金は、自分の自由や時間を犠牲にしてまで得るべきものなのか、と。僕は断言します。そんなことならお金はなくてもいい! お金がなくても人と人が直接つながれば、できることはたくさんあります。今やソーシャルメディアを使いながら、年収150万円でも幸せに生きることが可能になってきているのです。年収と幸せは比例しません。お金の呪縛を解きましょう。本書は、高度経済成長もバブル経済も知らない86世代の僕が書いた「〈脱〉お金のススメ」なのです。

はじめに そもそも「お金」って、なんだ?

あれいま「お金を稼ぐために」働いてしまっていないか?

そんな疑問に取り憑かれてしまい、86年生まれの僕は、会社を辞め、社会人三年目にしてフリーランスになってしまいました。

僕が抱いたこの疑問に対して、きっとほとんどの方は、何を言っているのか理解できないと思います。「え、働くのは、お金を稼ぐためじゃないのか? 何が悪いの? そんなんで会社辞めちゃったの?」と。

でも、辞めちゃったんです。

一方で、少数の方は強く共感してくれるとも思います。そしてこの毒のような疑問は、これからも多くの若者を悩ませるでしょう。高度経済成長期につくられ、いままさに老朽化しつつある「人生のレール」。毒のような疑問は、その「レール」を降りる人を増加させるでしょう。

本書の主張を端的に述べれば、もはや「お金のために働く」のは時代遅れになっていく、という話です。

そろそろ、皆さんも気づいていますよね。

家を買うために働く、クルマを買うために働く、夜な夜な遊び歩くために働く。そういうソトヅラの欲求を満たすためではなく、もっと人間的で、心の根っこにある欲求を満たす手段として、若い世代は「働く」ことを位置づけはじめています。

毎日残業をして、満員電車に乗って年収1500万を得るくらいなら、好きな場所で気の合う仲間たちと、毎日6時間働いて、年収300万円を得る方が全然いいです。家族や恋人、友人との時間を大切にしたいので、残業なんてありえません。職場で飲みにいくのも、年に二回くらいで十分です。

新入社員は下積み三年? この変化の時代に大丈夫なんでしょうか? 大企業、バカスカ潰れそうじゃないですか。下積み期間にリストラにあっただなんて、笑えません。

僕たちは、いつまで「お金のために」働くのでしょう? お金を稼ぐ、ということを無条件の前提として、盲信してはいないでしょうか?

高度経済成長の中で、「お金」はその意義を厳密に問いただされることをせずに、概念だけが肥大化し、今や宗教性を帯びているとすら思います。お金は本当にそこまで必要なのでしょうか? もう一度、お金のリアルな意義を考え直したいのです。僕たちが働くのは、本当にお金のためなんでしょうか?

本書のタイトルは『年収150万円で僕らは自由に生きていく』です。ある人はタイトルを見ただけでけ反ってしまうかもしれません。「何を夢みたいなことを言ってるんだ」「アタマん中、お花畑か」と反発する方も多いでしょう。でも、僕はこう言い切りたいと思っているのです。そこまで多くのお金がなくても幸せに生きていける、と。そして、現にそういう生き方をしている人が次々と現れ始めているのです。

僕自身のこともかなり赤裸々に、本音で書きました。本書が多くの人にとって「希望の書」になることを願います。

目次1

目次2

目次3

目次4

目次5

第1章 お金がない! 僕らにとってお金がないのは「前提」だ。ただし「貧乏=不幸」ではない

「貧乏がデフォルト」の時代がやってきた

僕の肩書きは「プロブロガー」です。現在のブログの月間読者数は約30万人ですが、このくらいの規模ともなると、本当に様々な方から賛否両論を頂くものです。特に上の世代のオジサマたちを中心に、ツイッター上で苦言を呈されることが頻繁ひんぱんにあります。炎上の定義は曖昧あいまいですが、見る人によっては「常時炎上している」ようです。

さて、そういう苦言の中でしばしば見かけるのは「イケダは貧乏くさくてダメだ」というメッセージです。彼らはなぜ貧乏くさいことがダメなのかを決して語ることはありませんが、察するに、なんとなく感情的に気に食わないのでしょう。「草食男子」という言葉を聞いて「最近の若者はダメだ! 肉食になれ!」と説教したくなるような感情に近いのかもしれません。

そう言いたくなる気持ちも分かるのですが、僕は「貧乏」というのは非常に重要なコンセプトだと考えています。

これから僕たちが生きる時代は「普通に過ごしていれば、年収が右肩上がりになり、35年ローンで家を買って、老後は年金暮らし」などという牧歌的な未来ではありません。

過去の時代と比較すれば、これからの時代、「貧乏」は間違いなく前提となるでしょう。僕らにとって貧乏は「デフォルト」なのです。

今までどおり年収1000万を目指すのもクールなのかもしれませんが、大多数にとっては、年収200万で楽しく生きる道を模索するほうが現実的になっていきます。一億総中流ならぬ、「一億総貧乏社会」がこれから訪れると思っておいたほうがいいでしょう。

「思っておいたほうがいいでしょう」という曖昧な言葉を使ってしまいましたが、あくまで「貧乏」は心構えの話です。実際に右肩上がりになればハッピーで文句なしですし、日本社会にとってもそのほうがよいでしょう。

しかし、「あと10年、この会社で耐えて部長になれば年収1000万だ」と期待して、いざリストラになんかあった日には、精神的な喪失感はかなり強烈です。

ちょうどこれを書いている今も、ツイッター上で「シャープ勤務30代『一生安泰といわれたのに人生設計狂った』」という、シャープのリストラを報じた「週刊ポスト」の記事が話題になっています。「一生安泰といわれた」なんて、なにを甘いことをという感じですが、未だにそういう感覚を持っている人は少なくないでしょう。

「大企業で一生安泰」なんて非現実的な夢を見るのはやめましょう。これからは、「まぁ150万あれば人ひとりなら生きていけるしな」と、ある種のあきらめを常に維持し、たまたま年収500万なり1000万なりを稼げたとしても、あくまで「棚から牡丹ぼた餅」的なハッピーと捉え、プチ贅沢で150万暮らしを250万暮らしに「一時的に」変えてみる、という生活態度のほうがよほど合理的です。

約40年後の2050年には、日本の人口は9500万人台になり、その高齢化率は約40%にのぼるそうです。そうした長期のトレンドをかんがみれば、日本人の年収が今までどおり右肩上がりという「妄想」を抱くほうがクレイジーだと僕は思います。少子高齢化も進む一方ですし、今よりも金銭的には貧乏になっていく、ないし、どれだけよくても横ばいが続くと考えるほうが自然です。

貧乏は「自由」だ

僕は自分のブログ運営、書籍や連載の執筆、講演・研修、企業へのマーケティングコンサルティングで年間500〜600万円の売上を計上していますが、これ以上働いて年収を上げたいとは思っていません。その気になれば1000万は稼げると思っていますが(鼻につく表現で恐縮です)、そこまで頑張りたくはありません。稼ぐとその分、税金も高いですし

むしろ、300万円くらい売上があれば家族三人(わが家は夫婦+0歳児です)が、なんとかトントンで生きていけそうなので、もうすぐ産まれる家族との時間を増やす意味でも、2013年、2014年はもう少し年収を下げるつもりです。

ブロガーという職業は趣味の延長なので、労働時間という概念が希薄ですが、現在僕は朝7時からパソコンを立ち上げ、奥さんの残業が終わる夜8時くらいまで、何らかの活動をしています。企業へのコンサルティングに出向く時間は週に3時間ほどで、その他は基本的に取材や執筆に充てるようにしています。ただ、朝7時から夜8時まで、常に仕事をしているかというとそうでもなくて、ブログを書いたり、取材をしたり、散歩をしたり、ゆっくりランチをしたり、家事をしたり、本を何時間も読みふけったりする時間も含まれています。

感覚的には「遊び」に近いのですが、一応はお金になるので、最近は「仕事」と「遊び」の境目がとても曖昧です(なので、「仕事」ではなく「活動」というようにしています)

一日2件以上予定はいれないようにしており、カレンダーはスカスカです。かなり時間に余裕がある身分といっていいでしょう。しばしば「忙しいでしょ?」と言われますが、突然「明日会えませんか?」と言われても、僕は高い確率で会うことができるくらいには暇だったりします。

なぜ僕がそんなに余裕があるかといえば、売上目標が低いからです。前述の通り、来年の年収目標は300万円です。ブログを毎日5時間程度更新すれば、毎月20万円は稼げます。その他、コンサルティングや講演、書籍の執筆をすれば、割と簡単に300万は達成できてしまいます。

僕はクルマも家のローンもないので、300万もあれば十分生きていけます。「貧乏」が染み付いているので、生活の損益分岐点は、これをお読みの皆さんよりも大分低いと思います。

300万円の売上目標を達成してしまえば、あとは自由な時間です。あくせく働く必要はなく、締め切りに追われることもなく、図書館で本を読み、好きなブログを書いて、創作活動に励めばそれで満足です。当面の優先度ナンバー1である、「家族を大切にする時間」も、十分確保できそうです。「貧乏」は、考えようによっては自由なのです。

安心を得るための「貯金」には終わりがない

「稼げるうちに稼いで貯金すれば?」という意見もありそうですが、僕は貯金に対してけっこう懐疑的です。

もう4年ほど社会人をやっているので、2〜3年は無収入でも生きていける程度の貯金はありますが、何千万も貯金するために働きたいとは到底思えません。

その理由は、安心を得るための貯金には、終わりがないからです。「貯金」という行為の先に、例えば「留学する」「専門学校に通う」など、何かの明確な目的があればいいですが、「老後のため」「万が一のため」という理由しか用意できないような場合は、死ぬまで貯金し続ける羽目になってしまうでしょう。

「万が一」と強迫観念に縛られていては、貯金をすること自体が、働く目的になってしまいます。「万が一」「老後」のために貯金しようと考えている人は、いったいいくらあれば安心できるのでしょう? 答えは曖昧にしたまま、惰性的に働き続けてしまうと思います。

最適な貯蓄額は家庭環境などによって変わってくると思いますが、とりあえず1〜2年間働かずに生きていけるだけのお金があれば、なんとかなるのではないでしょうか。その金額でまかなえないような「万が一」のリスクは、民間の保険なり、公的なセーフティネットなりに頼ればいいと思います。僕自身も、もしものときのために生命保険には入っています。

1年で1億円稼げるならいいですが、そこまでお金を稼ぐ能力がある人はなかなかいないでしょう。今の2倍働いて、年収が2倍になる程度では、頑張る気がしません。特別な目的意識がなければ、貯金をするために働くのは避けるべきでしょう。

ミニマム生活コストを計算してみよう

何も失うものはないので、皆さんに実践してほしいことが一つあります。それは「生きていくのに最低限掛かるお金は、一体いくらなのか」を真面目に計算してみることです。

子どもが生まれる直前のため、夫婦二人世帯の試算になるのですが、僕の場合はざっくりと、

  • 300万円も現金があれば、都心の小さな賃貸物件で夫婦ふたりで生きていける
  • 200万円も現金があれば、田舎の安い賃貸物件で夫婦ふたりで生きていける

という結果になりました。

これでも「ギリギリの生活」というわけではなく、近場の旅行や安価な外食もしばしば楽しめる予算設計です。ざっくりいえば、最悪300万円稼げば、僕ら夫婦はまぁ楽しく生きていけるだろう、ということです。ひとりあたり150万円ほどです。

この試算の目的は、リアルな生活費を改めて知ることにあります。この試算を通して「あれ、意外とお金掛からないじゃん」、または「意外と掛かってるな」という感想が抱ければOKです。経験上、ローンのない若い独身者なら、都心に住んでいても「150万円もあればまぁ普通に生きていける」という感触になるはずです。

年収150万円生活は現実的か

改めて、単身者が年収150万円で生活できるのか考えてみます。単純に1ヵ月に換算すると12万5000円ですが、サラリーマンであれば税金などが差し引かれますのでもっと低くなるでしょう。よって、もちろん家賃が10万のところに住んでしまうと、この試算はすぐに破綻してしまいますが、今はシェアハウスというスタイルもポピュラーになりつつあります。

シェアハウスに住む、もしくは郊外の安い物件に住むことを考えれば、家賃・光熱費5万円、食費2万円、通信費1万円、交通費1万円、雑費1万円。さらに、外食を抑えて自炊する、移動に自転車を使う、通信費を節約する、外で飲まず家で飲む、などなどの工夫をすれば単身150万円暮らしは決して無理ではないのではないでしょうか。実家暮らしをしている方は、もっと少なくてもいけるはずです。僕自身も独身時代、日本橋に住んでいましたが、150万円もあれば十分でした。

ご家庭などに特殊な事情がない限りは、この試算結果は「お金の呪縛」を解くきっかけになりうるでしょう。「稼がなきゃいけない」という強迫観念から逃れ、「あぁ、このくらい稼げばいいなら何とかなるか」「もう少し生活水準あげたいし、老後の貯蓄もしたいし、年収上げる努力しないとな」という冷静な観点で、仕事に向き合うことができるようになるはずです。

計算するだけならタダなので、ぜひエクセルとにらめっこして、「生活の損益分岐点」をどこまで下げられるかを把握してみてください。

リアルにいくら必要なのかを計算し、自分が働きすぎていないか、ぜひワークスタイルを見直してみましょう。

特に、本来200万円もあれば余裕で生きていけるのに、年収400万円を稼ぐために毎日心身を削りながら、うつ病になりかけてまで会社に勤める、なんて働き方は望ましくないと思います。僕の周りには、実際にそういう若手サラリーマンが少なからずいるのです。お金なんてなんとかなるから、とりあえず逃げてほしい、そう痛切に感じることもしばしばです。

自由を売るくらいなら貧乏であれ

僕は自分の自由を重要視するので、サラリーマン生活が本当に辛かったことを記憶しています。貧乏になってもいいから、サラリーマンを辞めたかったのです。

例えば、僕は毎日の通勤電車が本当に嫌いでした。なんでパソコンひとつあれば仕事ができるのに、毎朝満員の電車に乗って、職場に行かなければならないのか。台風が接近していて、朝から「外出は危険なので控えてください」とアナウンスが流れているのに、電車が止まることが分かっているのに、昼頃には帰宅命令が出るであろうに、なぜ職場に行かなければならないのか。なぜ、たった年収300万円のために、危険を冒して儀式めいた「出勤」をしなくてはならないのか。甘いと思われるかもしれませんが、現にそう思ってしまったのです。

「9時5時の出勤」は代表的ですが、「会社」にはその他もろもろ、物理的・精神的、様々な縛りが存在します。昔から学校の教室の隅で人と違うことを好んでやっていたような僕には、そういう縛りは耐えられませんでした。オトナになれなかったのです。

勤めていた企業に不満はありませんでしたが、自分は「会社」という仕組み自体に向かない人間であることに気付き、無謀にも社会人三年目で会社を辞め、フリーランスになりました。その後は、幸い「ソーシャルメディア」がブームを迎えており、僕はその波に乗り、それなりに稼ぐことができるようになり、今日に至っています。

不器用で屈折しているかもしれませんが、自由を売ってまで月給をもらうなら、不安定でも貧乏でも、僕は自分の人生になるべく多くの裁量を持っていたいと考えます。

皆さんがそうだと言うわけではありませんが、僕はサラリーマンをしていて、本当に奴隷のような気分を、しばしば感じていたのです。自分の奥さんの体調が悪いときくらい、家で仕事ができないものか、どうしてそんなに縛られるのか、なぜ「会社」のために、自分の人間的な自由が束縛されるのか、と。

「貧乏」という制約はクリエイティブなゲーム

さて、貧乏のメリットについては、まだまだ書きたいことがあります。これは意外なことかもしれませんが、「貧乏」を意識した生活ってすごく楽しいのです。特に理論的な方には、最高のゲームになりうるとすら思います。

「貧乏」はすなわち「制約」です。「貧乏」を意識した生活とは、1ヶ月にいくら使うか、自分の貴重な時間をどこまで労働に割くか、お金をできるだけ使わずにどう人生を楽しむか、そういう疑問符と日々向き合うことです。これ、ちょっとゲームみたいじゃないですか?

こういう制約は、うまく転化すれば日々の生活を楽しくゲーム化する力になります。最近は、教育から運動、社内評価システムまで、あらゆるものをゲーム化するという「ゲーミフィケーション」が話題ですが、貧乏暮らしをすれば、人生は勝手にゲーミフィケーションされていきます。

最近ハマっているのは「鶏の胸肉をいかにして美味しい料理にするか」というゲームです。鶏の胸肉はパサパサになりがちですが、調理法次第ではグラム29円とは思えない、高級中華のバンバンジーを彷彿ほうふつとさせるシットリとした美味しいお肉に変貌します。切り方一つ、火加減一つで味は全然変わってきます。ぷりぷりのモモ肉よりも通好みで、僕はすっかり胸肉が好きになってしまいました。ヘルシーだし安いし、健康志向の方にもおすすめです。

入浴は石けん一つ ペットポトルの水なんてもってのほか

他には「シャンプーやリンスを使わない」という生活実験も始めました。あるとき、ふと気付いたのです。僕はシャンプー、リンス、洗顔料、ボディソープ、石けんを使って体を洗っていたのですが、こんなの全部いらないのではないか、と。石けん一つでいいのではないか。

というわけで、半年前から石けん一つで体全部を洗っていますが、予想通り何の問題もありません。それどころか、よく流すようにしているせいか、髪もちょっと太くなった気さえしています。場所も取らないし、コストも掛からないし、なんといいこと尽くめでしょう!

休日には「交通費の節約も兼ねて、街を歩く」というゲームも夫婦で楽しんでいます。気候のよい時分には、のんびり街を歩いて、15キロ近く散歩してしまったこともあります。そのくらい歩くと二人で500円は節約できるので、帰りに美味しいモンブランを一つ買ってもお釣りがきます。

500mlのペットボトルなんてものも、貧乏生活の敵です。スーパーの安売り一本88円なんてありえません。水を「ブリタ」などで浄水すれば、ペットボトル水の原価は1円以下で済みます。冷蔵庫でキンキンに冷やせば、ごく普通に爽快な飲み心地です。夫婦二人で年間500本のペットボトル飲料を消費すると考えれば、ブリタにするだけで、4〜5万円は節約できてしまいます。その節約分を、どーんと旅行やディナーに使うほうが、人生は楽しいと思います。ついでにゴミも少ないので、環境にもいいのではないでしょうか。

もちろん常に切り詰めているわけではなく、結婚記念日や長期休暇など、お金を使うときは使います。そういう時はあえて制約を取り払うことで、相対的に贅沢な気分を味わうことができるでしょう。

「夕飯にフレンチを食べて、そのあとバーに行くなんて、贅沢だ!」「300円のアイスを〝美味しそうだから〟買っちゃうなんて、なんという贅沢!」「朝から800円の焼きたてパンとコーヒーのセットなんてフランスの貴族みたい!」という具合に、贅の限りを尽くすことができます!

いささか悲壮的かもしれませんが、本当の話です。ゲームでたとえれば、贅沢旅行中は、スーパースター(無敵)状態で、マリオがクリボーやノコノコを蹴散らして突っ走るような気持ちよさがあるのです。

そんなわけで、何事も楽しめるマインドをお持ちの方にとっては、貧乏という一見ネガティブな状況すら、人生を輝かせるゲームになりえます。日々漫然と、なんの工夫もしないでお金を垂れ流し、そのロスを穴埋めするためにまた一層働く、なんて人生は時間がもったいないのです。バケツの穴をふさげば、もっと人生は楽しくなるはずです。

貧乏人は「採算度外視」の優しさを持っている

「貧すれば鈍す」という言葉もまた一面の真実を表していますが、僕はむしろその逆、「貧すれば優しくなる」というべき側面もあるように感じます。

足ることを知った「貧乏人」は、「お金のために」自分や他人を裏切ることはしません。だってお金には困ってないんですから。利他的な精神も芽生えやすくなり「自分の取り分はもう十分あるから、これ以上果実を持っててもしょうがないし、あなたにあげるよ」という優しさを身につけることができます。

またもや自分の話で恐縮ですが、僕はライフワークとして仲間とともに「テントセン」という団体を立ち上げ、NPOのマーケティング支援を無償で行っています。

2009年から活動を始め、僕個人だけでも、延べ100団体以上に、無償のマーケティングアドバイスを提供してきました。その他にも、NPOの方々向けのイベントも定期的に開催し、そちらも収益にはなりませんが、延べ1000人以上の前でマーケティングのレクチャーを提供してきました。

また、僕はブロガーでもあるので、NPOの活動を紹介する記事も無償で執筆しています。最近はウェブデザインのスキルを生かして、無償でウェブサイトを制作する活動も始めました。月にもよりますが、多い月だと、無償労働が稼働時間の50%に達する場合もあります。業務時間の半分、ボランティアをしているわけです。

なぜそんなことができるかというと、僕が貧乏だからです。最低300万稼げば十分なので、ゴールさえすれば、残りの活動時間はニーズがあるところに、採算度外視で飛んでいくことができるのです。

幸い、今はNPOの方々のマーケティングに対するニーズが高く、お力添えをできる機会がそれなりにあります。まだまだ時間的には余裕があるので、怪しい団体でもなければ、呼ばれれば交通費自腹で飛んでいきます。

もし皆さんがNPOに関わっており、ソーシャルメディアの活用や寄付集め、イベント告知でお悩みでしたら、お気軽に「おわりに」の最後に記載されているアドレスまでご連絡ください。遠距離の場合はスカイプで、都心の場合は都内でお話ししましょう。

パーソナル・セーフティネットを形成する

第五章で詳述しますが、こうした「採算度外視の人助け」を続けていけば、結果的に「パーソナル・セーフティネット」が形成されていくとも考えています。

僕の考えでは、「人助けをする貧乏人」は、最悪の事態が起こっても、パブリックなセーフティネットである生活保護や障害年金に全面的に頼らずとも、きっと生きていくことができます。こればかりは、なってみないとわからないので、「今のところ僕はそう思う」としか言えませんが、肌感覚としては十分にありえる話だと思います。こういうアプローチが、限界を迎えつつある年金やら生活保護への依存を脱する力になるとすら考えています。

僕がボランティアワークを積極的に行うのは、自分のセーフティネットをつくるためでもあるのです。他人のためというよりは、エゴ全開、自分のために無償で働いているとも言えるかもしれません。

「幸せの閾値いきち」を下げよう

さて、これからの社会を生きる上では、幸せの閾値をできるだけ低く保つことが大切です。

幸せは絶対的なものではなく、相対的なものだからです。

毎日高級レストランで食べているAさんと、毎日鶏の胸肉ともやし中心の自炊生活をしている僕では、一杯の「東京チカラめし」(関東を中心に展開するファストフードチェーン店)がもたらす幸福度は、間違いなく変わってくると思います。牛肉ってなんて美味しいんだろう、と

感受性を豊かにすれば、何だって楽しめるようになります。僕はフリーランスになってから、抜けるような青空や、雨の匂いを意識できるようになりました。毎日満員電車に揺られていた時分には、なかなか気付くことができなかったものです。

また、何かに対して怒りを抱くことも少なくなりました。

昔は電車で居眠りをして思いっきり寄りかかってくるオジサンにイラっとしていましたが、今では「あぁ、疲れてるんだな。日本を支えてくれてありがとう」と感謝の気持ちをもって、自分が降りる駅まで静かに耐えるようになりました。

カフェなどで騒ぐ学生を見ても「春を楽しめ学生よ、友だちと仲良くたっぷり遊べるのは今だけだからね」と勝手に生暖かい視線を送ることができるようになりました。みんな元気で生きていれば、それで幸せじゃないですか。

生活コストを下げ、「お金を稼がなきゃいけない」という呪縛から逃れられれば、人生を楽しむ余裕が出てきます。ついでに他人に対しても優しくなれます。

僕はそういう価値観をもって、これからの人生を生きたいと思っています。