「10年後の自分」を考える技術
西村 行功
自分の未来を具体的に考えていくための「思考の教科書」 私はシナリオプランニングを用いて、企業が「未来」を読み解くことを支援している。シナリオプランニングとは、たった一つの未来ではなく、いま現在想定できる「複数の未来(シナリオ)」について考え、それを元に適切な意思決定を行っていく戦略策定手法のことだ。そしてそれは、若い世代にこそ必要な思考法でもある。なぜなら今ほど未来を考えないことがリスクになる時代はないからだ。変化が激しく先の見えない、自己責任の時代。自分なりに情報を読み解き、決断し、行動する内容によって、将来の姿が大きく違ってくる。本書では、「10年後の自分」をキーワードに、シナリオプランニングの考え方を応用した「自分が望む人生を自分の力で手に入れるための手法」を、若い人向けに解説していく。
はじめに「10年後の自分」を具体的に描こう!
未来を「思考する」とは?
あなたは「10年後の自分」を想像してみたことがあるだろうか?
もしあなたが20歳であれば、30歳の自分。
30歳であれば、40歳の自分の姿だ。
もちろん、「なんとなくこうなっているだろうな」と思うことはあるだろう。
「会社員になって、たぶん結婚していて、子どももひとりはいる」とか、「良ければ部長、悪くても課長くらいにはなっているはずだ」とか、「もっとクリエイティブな仕事ができるようになっている」とか、たとえばそんな感じだ。
誰もが一度くらいは、5年後、10年後の未来についてイメージしたことがあるにちがいない。
では、少し質問を変えてみよう。
10年後の自分の姿を「想像」ではなく「思考」したことのある人は、いったいどれくらいいるだろうか?
「思考」というのは、筋道を立ててしっかりと考えることだ。
そう聞かれると、おそらくほとんどの人は「思考だなんて、そんなこと一度もやったことはないよ」と思うのではないだろうか。
過去の私もそうだった。
未来を思考すると言われても、あまりピンとこない。
イメージするくらいのことはできても、筋道を立てて未来について考えるなんて、とてもできそうにないと感じてしまう。
でもそれで、本当にいいのだろうか?
「10年前の自分」は何を考えていたか?
10年後はよくわからなくても、10年前ならどうだろうか?
10年前の自分――。
たとえばあなたが現在30歳であれば、20歳のときの自分の姿だ。
どんな生活をしていて、どんなことを考えていたか、細部まで思い返すことができる人もいるかもしれない。
では、ちょっと考えてみてほしい。
20歳のあなたは「10年後の自分」、すなわち、30歳である「いま現在の自分」をどうイメージしていただろうか?
どのような未来の姿を描いていただろうか?
なんとなくといった感じでかまわないので、ここで実際、つぎのページにある「10年後シート」に、10年前の自分になったつもりで書き込んでみてほしい(スペースが足りなければ、手帳かノートに転記して書き込もう)。
どうだろうか?
もちろん、「10年前の自分」がどんなことを考えていたかなんて、記憶に頼る以外、今からでは知りようもないのだけど(日記を事細かに書いている人は別として)、だいたいこんな感じに考えていたはずだ、というのは書き込めたのではないだろうか。
では、その「〝10年前の自分〟が描いた〝10年後の自分〟」を、今のあなたと比べてみてほしい。
想像した通りの「未来」だっただろうか?
それとも、まったく予想もしない「未来」だったのか?
まあ半分くらい当たっている感じだろうか?
「10年後」と聞くと、かなり先の「遠い未来」を思い描きがちだが、10年というのは実はそんなに長い時間軸ではない。
それは、このように未来ではなく過去のことを振り返ってみればわかることだ。
そのことを実感してもらうために、あえてここでは「10年前の自分」に思いを馳せていただいた。書き出してみると、過去の10年間で達成できたことは、それほど多くはないのではないか?
10年間なんて、本当にあっという間だろう。
それとちょうど同じ時間が流れれば、「10年後の自分」になるのだ。
10年後というのはけっして遠い未来ではない。すぐにやってくる明日の話だ。どこかの夢物語ではなく、今日から行動を始めてやっと目標にたどりつけるかどうかという程度の、案外短い時間軸なのだ。
どうだろう。ほんの少し「10年後の自分」という言葉が現実味を帯びてきたのではないだろうか?
多くの人が、「このままでいいのだろうか」とときおり不安になりながら、「まあ、いいか」と短期的な視点で漠然と日々の生活を送ってしまい、気づけば数年の年月が経ってしまっている。
夢や目標、そして「なりたい自分の姿」は一応あるけれど、どう実現するかまでは考えられない。まわりの環境がどうなるかもわからないし、そもそも考えるのが億劫だ。
なかには、目標に向かって一歩を踏み出したものの、想定外の事態が起きて慌てふためき、実行途中で挫折してしまった――そんな苦い経験から、臆病になってしまっている人もいるにちがいない。
今から10年後を「具体的に」描けるか?
では、あらためて聞いてみたい。
今から10年後、あなたはどうなっているだろうか?
まず仕事だ。
今と同じ職場で同じような仕事をしているだろうか? それとも、新しい会社に移って活躍しているだろうか? 独立して自分で会社を起こしたり、フリーランスとして活躍しているようなこともあるだろうか?
会社員だとしたら、あなたの会社は安泰で、ボーナスもちゃんと出ているのだろうか? それとも、危機がおとずれて、リストラがあったり、場合によっては倒産するようなこともありえるだろうか?
会社単体ではなく、業界や市場はどうなっているか?
縮小するのか、拡大するのか? あなたの会社は生き残れるのだろうか?
あなたの生活はどうだろう。
健康で楽しい毎日を過ごせているだろうか?
まだ独り身なのか、それとも結婚して、家庭を持っているのか?
子どもはいるだろうか? いるとしたら何人いるのか?
また、どこに住んでいて、どんな暮らしをしているのだろうか?
都心の賃貸? それともマンションか、郊外の一戸建てでも買っているのだろうか?
経済的には余裕があるのか、それともけっこうカツカツなのか?
貯蓄は? あなたの生きがいは?
そして、あなたのご両親はいったいどうなっているだろう。悠々自適の老後生活を送っているのか? 介護が必要な状況に陥ることもあるのだろうか?
さて、ここで再度「10年後シート」に書き込んでみてほしい。
今度は今のあなたから見た、10年後の自分の姿だ。
10年後がはるか彼方の世界でないことは、わかりかけてきたはずだ。だとしたら、いま書ける範囲でかまわないので、将来についてなるべく具体的に書いてほしい。
たとえば、貯蓄額はいくらだろうか? 夫婦共働きで毎年100万円ずつ貯められるのであれば、単純計算で10年後には1000万円貯まっているはずだ。
そんな感じで、未来の項目をひとつずつ埋めていってほしい。
夢や願望でもいい。とにかく、まずは書き出してみることが大切だ。
さあ、終わっただろうか。
書き終えたら一度、筆を置いてほしい。
「具体的に書く」というのは、案外むずかしくなかっただろうか。
誰もが少しは自分の将来のことを考えてはいるけれど、じゃあ実際にそれを紙に書いてくれと言われると、はたと困ってしまう。
夢や願望を書いてもいいと言われても、きっと漠然としたことしか書けなかったはずだ。
さらに、それらを実現する方法や手段まで書き出せる人は……。そういう人はそもそもこの本を手に取ってはいないだろう。
とにもかくにも、未来のことを具体的に考えるのは、なかなかむずかしいことなのだ。
私たちを支配する「3年時計」の呪縛
あなたはなぜ、10年後の自分の姿を具体的に描くことができないのだろうか?
未来を「思考する」ことができないのか?
想定できる理由は3つある。
未来が描けない第一の理由は、10年という時間軸で考えた経験がないからだ。
考えてみれば、子どもの頃から大学を卒業するまでの学生時代は、せいぜい3年先くらいのことしか考えられなかった。それは、学生時代がほぼ3年刻みで環境の変化を迎えるサイクルになっていることが大きく影響している。
3歳で幼稚園入園(3年保育)、小学校低学年、小学校高学年、中学校、高校、そして大学。大学だけ4年間だが、生まれてから20歳を過ぎるまで、私たちはだいたい3年ごとに新しい環境に放り込まれるという生活を送ってきた。
その節目、節目には、受験という一大イベントがある。
つまり、3年先には受験が待っているという時間軸のなかでものごとを考え、目標や計画を立ててきたと言ってもいいだろう。
特に、自我をしっかり持ち始める中学校以降の人生においては、3年という時間軸は間違いなく大きな節目になっている。
そうやって子どもたちは、世の中がセットしてくれる3年ごとのペースに乗って、大人になっていく。そんな生活を20年も続ければ、知らず知らずのうちに、誰もが3年後までの時を刻む「3年時計」を身につけているのは当然のことだろう。
しかし社会人になれば、世の中が勝手にセットした時間軸からは解放される。晴れて自由な時間軸を手に入れることができるのだ。会社員であれば、定年退職までなんと40年もの時間がある。
ところが、やっと解放されたはずなのに、私たちは長年慣れ親しんだこの3年時計をなかなか外すことができない。新入社員がみんな「3年間は死にものぐるいで頑張ります!」と挨拶するのも、この時計と無関係ではないだろう。
社会人になっても相変わらず3年時計に支配され、3年先くらいまでしか想像できないのではないだろうか(会社で約3年おきに人事異動が行われる場合には、かえって3年時計が強化されることもあるかもしれない)。
3年間はどんな仕事も必死に取り組んで、とにかく仕事を覚え、25歳くらいになって少し余裕が出てきたらまたつぎのことでも考えるか、などと漠然と思いつつ、社会人生活を送りはじめる。
上司や先輩も、「石の上にも3年だ。とにかく3年間は頑張ってみろ」みたいな言い方をして、けっして「10年後のことを考えろ」とは言わない。
たまにそんなことを言ってくれる人がいても、じゃあ具体的にどうやって考えていけばいいのかまでは教えてくれないだろう。
社会人になっても私たちが数年後の未来までしか描けないのは、このような理由による。
意思決定を迫られる日は、突然やって来る
かくいう私も、「3年時計」の呪縛はなかなか解けなかった。
大学卒業後、私は22歳で一般企業に就職して、25歳で結婚、27歳のときにアメリカへのMBA留学を行っている。
27歳でMBA留学なんて言うと、さも計画的に人生を進めているかのように思われるかもしれないが、けっしてそんなことはない。私は大学で経営学を学び、いつかMBA(経営学修士)を取りたいと願ってはいたものの、新卒で日本企業に就職してがむしゃらに仕事をこなすなかで、いつしかその目標について考えなくなっていた。
とにかくまずは3年間、全力で働こう。
やはり私もそう考えていたのである。
それが、3年経って私が25歳になったときに、意思決定の場面がおとずれる。
つき合っていた彼女とそろそろ結婚しようかという話になったときに、夢であったMBAのことが再び頭をよぎり、「結婚か、MBA留学か」という二者択一を迫られることになったのだ。
結婚するなら、留学はいったん先送りしなくてはならない。
結局、お金がないとかいろいろな理由があり、留学は一度あきらめて結婚することにしたのだが、そのときに後悔したのが、
「なんでもっと早くに、結婚や留学のことを考えなかったのか」
ということだった。
夢や目標の実現を具体的に考えないかぎり、何ひとつ実現できないのではないか――そのとき、そんな不安が心をよぎった。
私にとっては、考え方を改めるきっかけとなるできごとであった。
その後、やはり夢を捨てきれず、私は結婚生活2年目に留学を決意したのだが、2年間にわたる留学を前に仲の良い友人と話をしていたときに出てきたのが、「3年時計」の話である。
「もう俺らも20代後半だし、そろそろ本腰を入れて将来のことを考えないと……」
「今まで自分たちは『3年時計』の世界で生きてきた気がする……」
留学という一大イベントを前に、MBAを取得すること自体が目的になってはダメだと思った。留学が夢だといっても、それは、その先の人生の目標を実現するための手段にすぎない。ここで目的と手段を履き違えたら大変なことになると思った。
そのことに気づいて、私は人生で初めて10年後の自分を思い描くようになった。留学から帰った先の10年、自分はどんなキャリアや人生を送りたいのかと、自分に問いかけたのだ。
帰国すると、1年も経たないうちに私は30歳になる。
20代が終わり、30代に突入する。
40歳までの10年間をどう過ごすか? 40歳というのは何かとても遠いようで、でも20代を振り返ると、あっという間に来てしまいそうな時間でもあった。
不安はあったものの、留学をきっかけに私は自分だけの「10年時計」を持つように意識しはじめた。3年時計を捨てる時期が来ていたのだろう。
私は、結婚と留学という2つの大きな決断を経て、それらを機に「10年後の自分」を具体的に考えよう、考えなければならない、と思うようになった。読者のなかには、すでにそういう体験をして、自分にとってはあのときがそうだったなとピンとくる人もいるかもしれない。
一方、まだそういう状況にない人も、たくさんいると思う。
まだそういう状況を経験していない人は、ぜひともこの本をきっかけに、自分にとっての未来への時間軸は何年くらいかを、一度じっくりと考えてみてほしい。
学生時代からの3年時計でしか未来を設定できていないのだとしたら、早くその時計を捨てるべきだろう。3年時計のままでは、目の前の課題に対処するだけで手一杯になってしまうからだ。
10年という時間軸で物事を考えることができるようになると、人生設計の計画性が向上するだけでなく、自分の人生に対する主体性も増す。これは、私の経験からも言えることである。
長いスパンで、「未来」から逆算して「今」を捉えることができるようになり、「目標のために今、何をしなければならないのか」を具体的に思考し、行動に移すことができるようになるのだ。
楽観でも悲観でもなく「客観」
さて、10年後の自分を具体的に描くことができない第二の理由は、「楽観的に考えているから」である。
1、2年後も5年後も10年後もたいして変わらないと思っていれば、わざわざ「10年後の自分」なんて考える必要はないと思ってしまう。
世の中は移り変われど、自分の人生にあまり影響はない――もしそのように楽観的に考えているのであれば、その認識は少し改めなければならないだろう。
特に、あなたが20代や30代であるならば、なおさらの話だ。
今ほど、「未来を考えないことがリスクになる」時代はないと私は思っている。
昔であれば、みんなと一緒の選択をしておけば、とりあえず「安全・安心なレール」に乗ることができて、ゴールまでたどりつくことができた。
具体的にいえば、たとえば新卒で大企業に入ることができれば、定年まで職は保証されていたし、何歳で結婚して、何歳で子どもを産んで、何歳で家を買って、老後はこう過ごすみたいなことも、一億総中流社会のなかで、あまり深く考える必要はなかった。
まあ、良い時代だったのだ。だいたい「みんなと同じ」「これまでのやり方」を選択しておけば、問題は何もなかったのである。
しかし、すでにそういった右肩上がりの「幸福な時代」が過ぎ去ったことは、今さら言うまでもないだろう。
おとずれたのは、変化の激しい時代であり、先の読めない社会だ。
子どもを産むにしても、家を買うにしても、いまやちゃんと将来のことを考えたうえで意思決定をしないと、大変な目にあうのは自分自身や自分の家族なのである。
子どもの養育費や住宅の資産価値と自分の将来の給料(必ずしも年齢に比例して上がるわけではないし、いつリストラや倒産があるかもわからない)などをぜんぶ視野に入れてから、考えに考えて、自分なりに決断しなければならない。
これまで世の中の変化に振り回されることがなかったからといって、これからもそうだと言える根拠はまったくない。
これからの時代、日本はさらなる変化やグローバル化の影響をいま以上に受けることになる。若い世代は、それをちゃんと理解すべきだ。
そんななか、「まあ、なんとかなるだろう」と楽観的に考えるのは、ものすごく危険な考え方である。
では、楽観的ではなく、悲観的に考えればいいのか?
未来の不確実な変化を前に、ただ不安に感じることが必要なのだろうか?
もちろん、けっしてそんなことはない。人はよくわからない将来のことについては究極の楽観か究極の悲観に陥ってしまいがちだが、そんなときは、楽観的でもなく悲観的でもなく、「客観的」に考えてみなければならない。
「客観的」というのは、好きか嫌いかという感情をいったん横において、起こりえそうなことについて冷静に考える態度のことだ。
そして、客観的に捉えた未来に対して、主観的に自分の人生を設計する――。
これが、いま求められているスタンスである。
考えても無駄と、思考停止になっていないか?
「10年後の自分」が描けない最後にして最大の理由は、「どうやって考えたらいいのかわからない」ということだ。
未来についてどういうふうに思考を重ねていけばいいかなんてことは、学校教育では教えてくれないし、まわりにそういうことをやっている人もいない。
そう言ってほとんどの人が、自分や家族の未来をきちんと考える思考を最初から放棄しているのではないだろうか。
考えることが多すぎて、どうやって整理したらいいのかわからない。
未来なんて不確実な要素が多すぎて、考えるだけ無駄じゃないか。
そう思ったあなたは、完全な「思考停止」状態に陥っている。
くり返すように、あとになってこうしておけばよかったと嘆いても遅いのである。誰も責任はとってくれない。
「コンピュータの2000年問題」を覚えているだろうか?
これは、西暦2000年になるとコンピュータのシステムが誤作動する可能性があるとされ、行政機関や企業、街の商店にいたるまで、その対応に右往左往した社会問題だ。記憶に残っている方も多いと思う。
では、そもそもなぜあのような問題が起こったのか?
実は、コンピュータの黎明期(1960年代)はメモリの費用負担が重く、できるだけメモリを節約するプログラムが要求された。そこで、年号については下二桁で表すことにより、リソースを節約したのである(その結果、2000年は「00年」と処理され、1900年と区別できずにバグが生じる可能性が出てきた)。
これは、当時としては当然のテクニックであった。
プログラマたちは皆、2000年までにはなんらかの対策がとられるだろうと考えていた。改良も加えられるだろうし、新しいプログラムが運用されるだろう、と。コストの削減が最優先とされ、この問題はいつか誰かが解決してくれるものとして、未来に先送りされたのである。
これは、与えられたミッションであるコスト削減さえクリアできれば、あとのことは考えないという、一種の「思考停止」であろう。
また、こうした問題が解決されないまま放置されれば、将来大きな問題になるということも、最初からわかっていたことだ。「不確実で考えが及ばない」というレベルの話ではなかったのである。
こういった思考停止は、将来必ずツケとなって返ってくる。
「想定外」というのも、それに近い言葉だろう。
過去に前例がなく、誰も経験したことのないことで、思いもつかないような事象を「想定外」という。
東日本大震災以前からさまざまな場面で使われてきた常套句であるが、震災後には、それが正当性を持った言葉のように濫用された。
想定外だったという言い訳を聞くたびに、なんともやりきれない気持ちになった。本当に「思いもつかない」ことだったのだろうか、と。
思考停止を「想定外」という言葉で済ませてはいないだろうか?
長期的な時間軸を持って、楽観せずに、先送りせずに、広い視野で客観的にきちんと考えていれば、もっと別の豊かな未来が選択できた可能性は高かったはずだ。
自分たちの思考停止や責任転嫁の結果を、想定外と言い訳しているにすぎない。
「どうやって考えたらいいのかわからない」と言って、考えないことを正当化するのも同じことだろう。
言い訳にすぎないのだ。
手探りでもいいから「ちゃんと考えよう」という意志を持つことが、まずは何よりも重要なのである。
未来を思考するための「3つの力」
さて、長々と私たちが「未来を思考することができない」理由について探ってきたが、本書のテーマはタイトルの通り、どうすれば「10年後の自分」を具体的に描くことができるか、についてである。
「10年後」というのは便宜上示した年数にすぎない。べつに7年でも10年でも20年でもかまわないだろう。
とにかく本書では、不確実・不透明な未来について読者のみなさんがしっかり考えることができるように、その「思考法」と「行動技術(スキル)」をご紹介していこうと思う。
けっして「唯一絶対の正解」ではない。
あくまで、手探りで考えていく際の参考にしてほしい。
この〝未来思考〟とも言うべきもののベースになるのが、私が経営コンサルタントとして長年使っている「シナリオ・プランニング」の考え方だ。
耳慣れない言葉かもしれないが、「未来について具体的に考える思考法」だと思ってもらえればいい。詳しい話はのちほどじっくりしていこう。
この本では、シナリオ・プランニングの思考法を拡大して解釈し直した「個人向けの考え方」を解説していく。
つぎつぎに変化する環境に翻弄される人生ではなく、自分の望む未来を自分の力で手に入れるためのスキルを習得するつもりで、気軽に読んでもらえればと思う。
解説する「未来を思考するために必要な力」は以下の3つ。
- ①モノゴトをつなげて考える「つながり思考力」罫囲み_箇条書き>
- ②つながりをもとに未来を思考する「先読み力」罫囲み_箇条書き>
- ③修正を前提に決断する「一歩を踏み出す行動力」罫囲み_箇条書き>
これら3つの力を有機的に、そしてスパイラル状に発展させていくことによって、未来を具体的に考えることができるようになるはずだ。
63ページからは、ひとつずつの力について、私の経験談も含めて解説していく(その前の「ガイダンス」では、そもそもこうしたスキルが「なぜ今、求められているのか」について少し解説したい)。
その水先案内として、概略を先に述べておこう。
一番目に必要な「つながり思考力」とは、モノゴト(事象)の因果関係を知り、それを一段高い視点から俯瞰することで、複雑なモノゴトの背景にある「構造(システム)」を発見する力のことだ。
たとえば、エジプトのムバラク政権の崩壊と全米第2位の書店チェーン・ボーダーズの倒産には、どのような関連があるのか?
一見、無関係に見えても、実は根底でつながっているようなことは数多くある。
そういった、現在起こっている現象の水面下の因果関係やシステムを考えることで、はじめて現状の先にある「未来」についても洞察することができるようになるのだ。
二番目に必要なのは、「つながり思考力」を前提として、不連続な未来について考えていく「先読み力」である。
ここでは、「単一の未来」ではなく、「複数の起こりえる未来」を客観的に考えていく。未来の予言・予測が目的ではなく、未来を洞察することで心や行動の準備をすることが目的だ。
「シナリオ・プランニング」の考え方の根幹を成すのは、この「先読み力」の部分になる。
そして最後、三番目に必要なのは、「つながり思考力」や「先読み力」を用いて描いた未来に対して、修正を前提に決断する「一歩を踏み出す行動力」だ。
今の時代、あまりにも不確実な要素が多く、すべてを事前に決めて動くことなど到底できない。一方で、動かないと見えてこないことも多い。
問題は、どこまで決めて、どう動き始めるかだ。
ある程度、未来が想定できたら、途中で修正することを前提にまずは動いてみることが鍵になる。
そうすることで新たな発見があり、思考が深まり、予見する力が増していくという、良いスパイラルに入ることができるのだ。
未来のために今、変わらなければならない
さあ、これら3つの力を身につけることができれば、漠然とではなく、具体的かつ客観的に「10年後の自分」について考えていくことができるようになるはずだ。
とはいえ、かくいう私も、昔から未来を思考できた人間ではない。いま思えば、後悔していることもある。日常での失敗も多い。
社会人になりたての頃には、少し先のことも考えられず、請求書も持たずに客先に集金に行ったり、契約書も交わさずに商品開発を進めたりして、上司に呆れられたこともあった。
日常生活でも、たとえば油モノが苦手なのに、すぐにそのことを忘れて食あたりを起こすなど、自分でもイヤになるような失敗はたくさんある。
しかし、日常の失敗ならまだ良い。むしろ大きな失敗を避ける「予行演習」として、どんどんすべきだと言いたい。
大事なことは、そうした小さな失敗から何を学ぶかだ。
たとえば、携帯電話をなくして困り果てたという経験をした人は意外に多いのではないだろうか。たしかに携帯をなくした代償は大きいが、それを機にデータのバックアップを行う習慣がついたのであれば、それで良いと考えよう。
今では多くの人が携帯のメモリ機能にすっかり依存していて、家族の携帯の番号さえ覚えていない。昔であれば、電話番号は「語呂」で覚えたりしたが、携帯という文明の利器を持ち歩くようになって以降、人々は記憶するという行為を放棄してしまったかのようだ。
知人が携帯をなくして困り果てている姿を見て、私は「もしも自分がなくしたらどうなる?」と考えた。それ以降、データの定期的なバックアップに加えて、重要な人の電話番号を手帳にメモし、さらに昔のように「語呂あわせ」で記憶するようにもしている。
転ばぬ先の杖、というやつだ。
このように、身の回りの小さなことからも、未来について考えをめぐらすクセをつけることは可能である。
大事なのは、今日から考え方と行動を少しずつでもいいから変えていくことだ。
目先のことしか考えることができない「その日暮らしの生活」、「昨日と同じ人生」から抜け出したければ、自分が変わるしかない。
誰かが変えてくれることなど、ありえないからだ。
まずはそう強く意識することから始めてみよう。