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新人賞投稿作品

質問・「縄文時代が終わったのはいつですか?」 答・「811年12月13日です」

徳薙 零己
2012年04月13日 投稿

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日本の古代はどうやって終わり、中世はいつどのように始まったのか。平安時代初期の歴史資料にはその答えが隠されている。

カテゴリ

歴史

内容紹介

 「縄文時代が終わったのはいつですか?」
 こう聞かれてみなさんはどうお答えになりますか?
 この質問への答えは歴史の教科書に載っていません。歴史の教科書に載っているのは縄文時代の次に弥生時代があり、古墳時代、大和時代、飛鳥時代、奈良時代へと移り変わったという歴史だけです。ですので、縄文時代の終わりについて聞かれたら、ほとんどの人は「弥生時代の始まったときに終わった」とか、「縄文時代から徐々に弥生時代に移っていった」と答えるでしょう。
 ところが、縄文時代は何と平安時代初期まで続いていたのです。
 こう聞くと不可解に思う方も多いでしょう。私も最初はそうでした。しかし、歴史資料を紐解きますと縄文時代が終わった瞬間の記録が残っているのです。
 その記録とは、『日本後紀』第21巻の弘仁2(811)年12月13日の記録。そこに、東北地方の戦乱を終えて本州統一に成功した文屋綿麻呂に対し、朝廷がその功績を認め従三位の位階を与えたと記されているのです。文屋綿麻呂という武将は知らない方も多いかと思われますが、この武将は坂上田村麻呂の副将を長らくつとめ、坂上田村麻呂が亡くなってからは東北地方平定の総指揮を執った人でした。東北地方平定は38年にも渡る長い戦争の連続であり、戦争の総指揮を執った文屋綿麻呂を表彰することで38年の戦争の終結を宣言し、本州から縄文時代の暮らしをする人たち、いわゆる「縄文人」は姿を消したと朝廷は公式に宣言したのです。
 弘仁2(811)年は平安遷都から17年後であり、奈良時代もとっくに終わっています。ですが、この年の12月までは、東北地方にまだ縄文時代の暮らしをする縄文人たちが残っていたのです。
 そして、この記録を最後に縄文人たちは歴史から姿を消します。
 つまり、縄文時代が公式に終わったのは811年12月13日だと言えるのです。

 日本書紀にはじまる日本国の正式な歴史書はこれまで、「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の6冊が出ています。これを「六国史」と言います。
 そのうちの「日本書紀」と、主として奈良時代を扱った「続日本紀」については研究も広く行われているのですが、「日本後紀」から「日本三代実録」までの4冊についてはさほど研究が行われておらず、歴史の教科書にもあまり詳しく記されておりません。
 しかし、これらの史料を読んでいくと、「貴族はどうして真っ白な化粧をしていたのか?」という軽い疑問から、「荘園はどうしてできたのか?」「武士はなぜ誕生したのか?」という日本の歴史の根幹をなす疑問まで、歴史の教科書に載っていないために知らないでいた歴史を知ることができます。
 本書では、「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三大実録」を中心に平安時代初期の逸話を集めて、日本国が形作られた背景を探って参ります。
 なお、本書の日付は資料に記されている旧暦の日付をそのまま使用しております。

目次案・語りたい項目

目次

第1章 質問・「縄文時代が終わったのはいつですか?」
     答・「811年12月13日です」
 縄文人とは?/弥生人の登場/日本の誕生/山部親王の登場/縄文人の抵抗/桓武天皇即位/大規模攻勢計画/アテルイの登場/坂上田村麻呂/アテルイの最期/一時休戦/崩れた均衡/最後の遠征

第2章 質問・「貴族が白い化粧をするようになったのはいつですか?」
     答・「853年5月4日です」
 日本史上最大の飢饉/猛威をふるう天然痘/大規模インフレ/誰もが同じなら差別にならない/上流階級への道/上流階級のルールが最新の流行へ/時代を嘆く人は尊敬されない

第3章 質問・「西湖と精進湖が誕生したのはいつですか?」
     答・「864年5月25日です」
 国破れて山河あり/貞観地震の爪痕/富士山の噴火/富士山は静岡県のもの?/人類最古の隕石/京都の水害対策/「税金の無駄」という判断は正しいのか?

第4章 質問・「平城京が終わったのはいつですか?」
     答・「864年11月7日です」
 出挙の衰退/荘園の成立/千年前の新自由主義/藤原良房の律令制否定運動/荘園制は失業対策だった/拡大する貧富の差/千年前の年越し派遣村/都市としての平城京の終了


第5章 質問・「武士が登場したのはいつですか?」
     答・「878年7月17日です」
 軍備縮小がもたらしたもの/機能しなくなった健児の制/死刑廃止と治安悪化/治安悪化に対処するには/日本・新羅百年戦争/地方へと流れていく名門貴族たち/そして平将門の乱へ

書き出しの第1章

第1章 質問・「縄文時代が終わったのはいつですか?」
     答・「811年12月13日です」

<縄文人とは?>
 そもそも縄文人とは何でしょう?
 単純に言えば「縄文文化で暮らす人」です。
 では、ここでいう「縄文文化」とは何でしょう?
 一般的なイメージでは、
 ○ 農業はせず、狩猟採集で生活している。
 ○ 定住しないで各地を流浪する。
 ○ 縄文式土器を使っている。
 ぐらいで、あとは「文明の遅れた」「野蛮な暮らし」という感覚でしょう。縄文時代が終わって弥生時代になって、農業が始まり、定住するようになり、より「文明的な」暮らしが実現したというのが一般的な考えではないでしょうか?
 もっとも、最近の調査によれば、そうした考えは誤りであることが証明されています。
 「農業はせず、狩猟採集で生活している」というイメージに反するように、1万3000年前の植物栽培や、6000年前の稲作跡が発掘されています。それらが食の多数を占めていたとは考えづらく、やはり狩猟採集が食生活のメインであったとも考えられてもいますが、狩猟採集だけが生活の手段ではなかったことはもはや明らかです。
 「定住しないで各地を流浪する」というイメージもまた、現在の発掘結果は否定しています。縄文時代の集落を見ると、1つの集落に100人単位で住み、しかも、1000年以上の歴史を持った集落が見つかっているのです。歴史ある土地というのは、今だから住みよい土地であるのではなく、今も昔も住みやすい土地なのです。ある程度歴史のある都市で工事をすると何千年前の遺跡が見つかることが多いのも、現在と同様に過去も住みやすい土地であった証です。そして、地名の由来がわからない場合でも、縄文時代の地形を復元すれば、地名の意味がわかることも珍しくないのです。
 「縄文式土器を使っている」は、「定住しないで各地を流浪する」と真逆の発掘結果も出ています。というのも、相当離れた距離で、同じ大きさかつ同じデザインの土器が見つかっているのです。その土器は日本列島だけではなく、北は沿海州から南は沖縄まで、さらに朝鮮半島南部にも日本で発掘されたのと同じ縄文式土器が見つかっています。研究者によれば、南米からも縄文式土器が見つかっており、かつ、日本の土器は時代と共に徐々に形を発展させていっているのに対し、南米の土器はいきなり完成形が発掘されていることから、縄文人は太平洋を横断する航海技術を持っていたとする人もいます。
 さすがに太平洋は飛躍しすぎかも知れませんが、少なくとも日本海沿岸は縄文人たちの活躍する場であったことは推測できます。同じものが見つかっているのは土器に限らず、縄文時代に刃物として広く使われてきた黒曜石は長野県和田峠や東京都の神津島が産地なのですが、産地から遠く離れた沿海州や樺太でも見つかっています。これらを極めて例外的な遠距離だと考えたとしても、海から遠く離れた山間部では海で作られた塩が普通に見つかっていることから、縄文時代の交易は意外と遠くまで展開していたことが読み取れます。
 縄文人たちは国家や文字文明を持っていませんでした。しかし、同じ文化を持ち、同じ言語で生活する文化圏を形成していたのです。
 ただし、それは平和で牧歌的な生活ではありませんでした。交易は必ずしも平和ではなく、争いの結果であることもしばしばだったのです。これについては後述します。

<弥生人の登場>
 縄文時代に続く時代である弥生時代。これはただ単に土器が違うというだけでない大きな三つの違いがあります。
 一つ目は、肉体的特徴。縄文人の人骨とDNAを現在日本人のそれと比べてみますと、縄文人の人骨のほうが大きく、また、顔つきも違っています。諸説乱れており確定できていませんが、どうやら縄文時代の日本人はモンゴロイドではなくコーカソイドであったようなのです。
 二つ目は、言語。縄文時代に話されていた言語は現代の日本語の祖先とも言うべき言語ですが、現代の日本語とは大きく違います。もし今の日本人がタイプスリップして縄文時代に行ったとしたら、意思の疎通も困難でしょう。でも、どうして文字も残っていない縄文時代の言語がわかるのでしょうか? この理由については後ほど述べます。
 三つ目は、国家の存在。現在からすれば小さなものですが、弥生時代の人たちは国家を作って生活していました。弥生時代の人たちの住まいを見ますと、ただ単に集まって生活していただけでなく、自分たちを守るための住まいを作り上げ、ときには自衛のために戦っていました。
 この縄文時代と異なる弥生時代こそ現在の日本の源流です。無論、縄文人と縄文文化が現在と全くつながらないわけではなく、縄文人と縄文文化を土台として弥生時代が誕生し、現在へと続いているのです。
 弥生人がどのように日本列島に誕生したのかを伝える明確な記録はありません。ですが弥生時代の遺跡から発掘された遺骨のDNAの分布を見る限り、朝鮮半島南部や中国東部と、九州北部から近畿にかけての一帯は、ほぼ同じDNAの分布が見られます。つまり、もともと縄文人が住んでいた日本列島に大陸から弥生人がやってきて、日本に国家を作り上げていったのです。
 でもなぜ、わざわざ弥生人たちは日本列島にやってきたのでしょうか?
 それは、「生活するため」でした。

<日本の誕生>
 人の移動の流れは、貧しいところから豊かなところへの移動であり、逆はありません。今まで住んでいるところに住み続けていたのでは今後食べていけないとあれば、食糧確保が容易で、食べて行けそうなところを求めて移動します。
 その矛先が日本列島でした。
 大陸に住んでいる人にとって日本列島は魅力的な土地でした。自然の恵みも豊かで、農耕も始まっており、人も多く住んでいるのです。これらはいずれも貧しい自分が食べていけそうなところだと判断できる材料でした。
 どれだけの人が日本列島にやってきたかわかりません。しかし、縄文人たちにとっては数多くある食料獲得手段の一つでしかなかった農業を、より優れた技術でより大規模に展開する弥生人たちは、最初の頃こそ少数者であったのが、次第に地域の多数者を占めるようになりました。
 また、縄文人の暮らしより弥生人の暮らしのほうが、より安定し、より洗練されていると考える縄文人も多く、多くの縄文人たちがそれまでの暮らしから農耕を主とする暮らしへと切り替えていくようになりました。
 こうなると、弥生人であるか縄文人であるかは、血統ではなく、生活スタイルの違いとなります。DNAの違いがあっても、あるいは言語の違いがあっても、農耕で食べていく弥生人に対し、農耕は食料獲得の一手段でしかない縄文人という違いになります。
 縄文人たちと弥生人たちとの間の関係は、時に友好関係を築いていましたが、多くの場合争いになりました。
 そして、多くの場合は、縄文人が弥生人に対して襲撃をかける争いでした。
 縄文人の言い分はこうです。
 「元々俺たちの住んでいた土地に後からやってきて、俺たちを追い出して勝手に田畑を作って食い物を手にしている。俺たちの土地の食い物は俺たちのものだ。」
 縄文文化は狩猟採集だけの文化ではありませんが、より容易に食べ物を手にできる手段があればその方法を選ぶ文化ではあります。自然の恵みが少なくなれば、周囲を見渡してより多くの恵みがあるところに移動するのもごく普通のことでした。それが、よりたくさんの動物がいて、ほかに住んでいる人がいない森林だというのならば何の争いも起こらないのですが、田畑からの収穫となるとどうでしょう。
 縄文人たちは、自分が食べていくために、弥生人たちを襲って収穫を奪うようになったのです。縄文人たちにとってのそれは、野山でシカやウサギを捕らえる、あるいは自然の果物を刈り取るのと同じ行為でした。弥生人から農作物を奪う行為に罪悪感はなく、自分たちが生きていくための当然の行動だったのです。
 これを弥生人の立場に置き換えるとどうでしょう。
 「誰も住んでいないところにやってきて新たに田畑を作り、収穫をあげるようになったのは俺たちだ。俺たちが働いた成果を奪いにくる縄文人は許せない。」
 一世代目は海の向こうからやってきた人であるとしても、二世代目、三世代目となると、日本列島に生まれ日本列島に育った世代となります。しかも、自分たちが働いて得た成果で自分たちが生活しているのです。縄文人たちのほうが先に日本列島に住んでいたと知識では知っていたとしても、弥生人にとって、働いた成果を縄文人に奪われるいわれはないのです。
 弥生人がなぜ国家を作っていったのか。それは、国家を作らなければ自分たちの暮らしを守れないからでした。自分たちが田畑を耕して得た成果を根こそぎ奪い取っていく縄文人たちに敵意を抱き、その敵から守るために弥生人たちは戦ったのです。
 弥生人たちの手による数多くの国家が生まれ、時とともに淘汰されていき、次第に大和朝廷へと収束します。しかし、大和朝廷という強大な権力を生み出しても、縄文人たちからの襲撃がなくなったわけではありません。大和朝廷に課せられた最初にして最大の使命は大和朝廷の元に暮らす人たちの安全を保障することでした。そのためには、襲撃を受けないように防御を固めることが重要で、大伴氏や物部氏といった武芸に通じた一門が朝廷内で権力を持つようになったのも、防御を固めるためにそれだけの功績を果たしたからです。
 大和朝廷は次第に勢力範囲を広げていきますが、それは、縄文人たちとの「国境」をより遠くへ広げることでもありました。縄文人の襲撃を国境でくい止め、国境の内部では安全な社会を展開する。それが大和朝廷の選んだ選択だったのです。
 縄文人たちは次第に追いつめられていきます。数年前まで自分たちが住んでいた場所が、今では大和朝廷のものとなっている。かと言って、取り戻そうにも取り戻せるだけの武力はないし、夜闇に乗じて忍び込もうとしても厳重な警備が敷かれているのですからそれも無理。
 となると、方法は二つです。
 一つは大和朝廷の元に下ること。大和朝廷の元に下り、農耕生活へと切り替えるのです。そうすれば、今までよりも安定した暮らしが手に入りますし、何よりそれまで敵であった大和朝廷が、これからは自分たちを守ってくれるのです。大和朝廷の元に下るのは受け入れるが農耕はしたくないと考える者については、兵士になるという選択肢もありました。とは言うものの、ついこの間までは自分と一緒に襲いかかっていた者に対して刃を向けることになることはためらうものです。その対策として、大和朝廷は自分たちの元に下った縄文人たちのうち、農耕を拒否して兵士となることを選んだ者を、これまでの住まいから離れたところに移動させています。
 もう一つの方法は、集団を組んで大和朝廷に抵抗することでした。数人から数十人という小規模の軍勢ではなく、数百人、時には数千人という規模の軍勢を組織して大和朝廷に戦いを挑むのです。時代とともに縄文人たちの襲撃はより大規模に、かつ、巧妙になっていきますが、それは、ただ単に目の前の食料を奪うだけの襲撃から、大和朝廷に対抗すべく戦略を持った襲撃へと発展していった結果です。
 これとともに、縄文人たちに民族意識が芽生え出します。
 この時代の縄文人たちが自分たちを呼ぶとき、そして、大和朝廷が縄文人たちを呼ぶとき、「縄文人」という言葉は使いませんでした。使った言葉をカタカナで書くと「エムツィ」。これを漢字で書くと「蝦夷」となります。
 今でこそ差別用語となっている「蝦夷」ですが、当時は差別用語でも何でもありませんでした。何しろ自分たちのほうでから自分たちのことを「蝦夷」と呼んでいるのです。
 「蝦夷」と書いて「エミシ」とも「エゾ」とも呼びますが、どちらも彼らの自称である「エムツィ」が変化した発音です。
 そしてこの「エムツィ」は現在でも残っています。
 どこに残っているかというと、アイヌの人たち。
 「アイヌ」とは民族名ではありませんし言語名でもありません。その言葉を現在では「アイヌ語」と呼んでいますので私もそのように記しますが、アイヌ語でのアイヌは「人間」という意味で民族名を表す語ではないのです。最近では「ウタリ」という言葉を使うようにもなっていますが、こちらもまたアイヌ語で「我々」という意味でやはり民族名ではありません。アイヌ語での自分たちの民族名、それが「エムツィ」なのです。
 先に、縄文時代と弥生時代では言語が違うと記しました。そして、文字も残っていない縄文時代の言語がどうしてわかるのかとも記しました。
 なぜわかるのかの理由。それは、アイヌ語が縄文時代の日本列島で話されていた言葉だったからです。より正確に言えば、縄文時代の日本には「縄文語」と呼んでもいい共通言語があり、縄文語をより色濃く残しているのがアイヌ語、縄文語に大陸の言語が混ざった結果が現在の日本語なのです。
 縄文人=蝦夷がだんだんと追いつめられていき、大和朝廷の時代になりますと、現在の新潟県?長野県?埼玉県?茨城県と、山形県?福島県?群馬県?栃木県の境のあたりを国境とするようになり、飛鳥時代には関東地方全域と、山形県、福島県あたりまでが朝廷の領地に、奈良時代のはじめには秋田県の日本海沿岸部と宮城県が朝廷の領地となります。以後も小競り合いが続きましたが、だいたい、東北地方北部あたりが国境であるという状態で安定するようになりました。
 そして、国境までが「日本」であり、国境の内側に住む人は「日本人」であるという感覚が生まれました。血筋は関係ありません。大陸から渡ってきた者の子孫であろうと、古くから日本列島に住む者の子孫であろうと関係ありません。朝廷に服属し、農耕生活を送り、日本語を話し、日本文化に生きる者は誰もが日本人であるという感覚が生まれたのです。

<山部親王の登場>
 宝亀4(773)年、それまで母の身分の低さから皇位継承者ではないと考えられていた山部親王(後の桓武天皇)は、皇太子となるやいなや、直ちに本州全土の統一を目指して行動を開始します。
 皇太子山部親王の考えは単純明快でした。
 「国境を越えて侵攻してくる者がいるならば、敵を海の向こうに追いやり、国境のほうを無くしてしまえばいい。」
 「敵に対しては敵がいなくなるまで攻撃し続ける。」
 山部親王にとっての敵とは、東北地方の蝦夷=縄文人と、朝鮮半島を統一した新羅でした。この二者とも日本に対し侵略を続けていたのです。皇太子の強硬姿勢を当時の民衆は熱狂で迎えますが、敵とされた側は当然ながら反発を強く受けます。
 山部親王の登場により悪化した日本と新羅との関係は第5章で述べますのでここでは割愛し、本章では日本と縄文人の関係を、続日本紀と日本後紀を中心に記していきます。
 山部親王の進言を受け、宝亀5(774)年7月23日に陸奥按察使兼守鎮守将軍大伴駿河麻呂に対し縄文人征討を命じ、10月4日に攻撃が始まりました。38年間におよぶ戦いの始まりです。無論、当時の人はこれが38年間に及ぶ長期戦になるとは夢にも思っていません。戦いはすぐに終わり、平和はすぐにやってくる、縄文人の侵略に怯えなくていい生活が近い未来に待っていると考えていました。そのため、当時の人たちは山部親王の強硬路線を熱狂的に支持したのです。
 もっとも山部親王は、単に縄文人を攻撃するだけでは成功だと思っていませんでした。縄文人に勝つだけでなく、縄文人を服属させなければ成功ではないと考えていたのです。日本に抵抗する縄文人に対しては強固な姿勢を見せた山部親王ですが、日本に降伏した縄文人に対しては温情を見せています。宝亀6(775)年3月23日に、日本に降伏した縄文人は、通常ならば課される税を免除すると決定したのです。それは、他の地域であれば既に存在する田畑を耕せば生活でき税も納められるのに対し、新たに組み込んだ地域はゼロから生活を作る必要があるからでした。
 それでも、日本に降伏し、日本の元で生活することは縄文人にとって困難であったと見え、宝亀7(776)年5月2日、出羽国志波村の縄文人が反乱を起こします。このときは、下総国、下野国、常陸国などから兵を派遣し反乱を鎮圧する事に成功しましたが、山部親王は支配地に組み込んだ地域の統治を見直します。宝亀7(776)年7月14日に、安房国、上総国、下総国、常陸国の船、合計50艘を買い上げ、陸奥国に配備して不測の事態に備えるとしたのです。
 同時に、これは以前からの政策の継承でもありますが、日本に降伏した縄文人のうち、農業ではなく、兵士として生きることを選んだ者を東北地方から離しています。宝亀7(776)年9月13日には陸奥国の縄文人395人が、同年11月29日には出羽国の縄文人358人が九州に移住しました。

<縄文人の抵抗>
 山部親王の手による東北地方平定は二方面作戦を展開していました。
 日本海沿岸からの平定と、太平洋側からの平定です。
 戦況は日本海沿岸のほうが進んでおり、太平洋岸に比べ国境はより北にありました。つまり、より広い範囲が朝廷の領地となったということです。
 これは当時の交通事情によるものです。
 関西から東北地方に出る場合、現在ならば飛行機に乗るか、新幹線で東京を経由するのが一般的ですが、この時代は飛行機も新幹線もありません。交通手段は徒歩か船です。この時代は日本海沿岸の航路は確立されていても太平洋沿岸の航路は確立されておりませんので、関西から東北に大人数を移動させようとした場合、太平洋沿岸を移動しようとすると長距離の徒歩になりますが、日本海沿岸なっらば、大津まで歩いて琵琶湖に赴き、琵琶湖を船で北上して敦賀まで行き、敦賀からまた船に乗って北上すれば東北地方に行けるのです。
 話は逸れましたが、東北地方の軍勢は大きく二手に分かれて行動しており、宝亀7(776)年11月26日、陸奥国の兵士3000人に、胆沢(いざわ)の縄文人を攻撃させたという記録が残っています。同時期の日本海岸は既に大部分が日本の領地となっていましたから、移動に時間がかかり補給路も延びてしまうというデメリットもあってしても、太平洋側の平定は手間取っていたことが読みとれます。
 ところが、平定したはずの日本海沿岸で反乱が勃発しました。宝亀8(777)年12月14日、出羽国の兵士が出羽国志波村の縄文人に敗北したことが伝えられたのです。これは朝廷にとって大きな痛手でした。日本海沿岸の平定は成功し、あとは日本人が日本文化の元に暮らす生活を築くのみとなっていると考えていたのですが、反乱によって全て無に帰してしまったのです。日本海沿岸の国境は南へ後退することとなりました。
 さらに3年後の宝亀11(780)年3月22日、今度は太平洋側で大きな転換点を迎えます。この日に勃発した「宝亀の乱」です。陸奥国上治郡大領であった伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱の首謀者であったことから別名「伊治呰麻呂の乱」ともいうこの争いで一度は朝廷に服属した縄文人たちが一斉に蜂起し、朝廷は大ダメージを受けることとなります。縄文人との前線基地であった伊治城は陥落し、東北地方統治の拠点であった多賀城も縄文人の支配下に落ちます。このとき、縄文人たちは多賀城とその周辺で大規模な略奪を行い、数多くの人が犯され、そして殺されました。
 皇太子山部親王の助言を受けた光仁天皇は3月28日に藤原継縄を征東大使 に任命して反乱鎮圧に向けての兵を派遣しますが、戦乱は収まることなく、その年の9月23日には藤原小黒麻呂を新たな征東大使に任命したという記録が残っていることから、藤原継縄の派遣は失敗したものと考えられます。なお、それまでの甲冑は鉄製でしたが、重くて動きづらいのと、短期間に大量生産をしなければならない都合から、8月18日に革製の甲冑とすることが定められました。
 防具の大量生産を決めなければならないほどですから、このときの朝廷はかなり焦っていたはずです。日本海岸も太平洋岸も縄文人の勢力が盛り返してきており、国境を津軽海峡まで持って行くという当初の構想はとっくに崩れ、近い未来にやってくるはずだった平和は消え、戦争は泥沼化しているのです。このピンチを食い止めるには、戦況を盛り返すしかありませんでした。
 日本側には一つだけ有利な点がありました。それは補給です。縄文人は敵の軍勢に襲いかかって食料を奪い取ることを前提として軍を進めていますので、短期間の戦闘ならば成果を挙げても、長期戦となると縄文人は不利となります。
 これは縄文人の支配下に戻った地域についても同じことが言えました。縄文人の前に陥落した多賀城ではあちこちで略奪が繰り返され、気づいたときには農地は荒れ地となり、都市はゴーストタウンとなってしまっていました。都市を都市として維持しようとする計画もなく、また、農村から奪えるものは全て奪い去ってしまった結果、縄文人を養う食料を生み出せなくなってしまったのです。
 年号が「天応」に変わった天応元(781)年2月30日(当時のカレンダーには2月にも30日がありました)、東北地方の遠征軍の食糧支援として一〇万石の穀物が運ばれましたが、この穀物は、軍勢の兵士の食料だけではなく、再び朝廷の支配下になった地域に住む民衆の生活のために使われました。税を納めなければならなくても日本のもとで暮らすほうが豊かな暮らしであると気づくのに時間はかかりませんでした。日本は戦闘に負けても戦争では勝っていたのです。

<桓武天皇即位>
 天応元(781)年時点で、山部親王の強攻策は失敗したと考える人はたくさんいました。ですが、山部親王は政策を変えるどころか、より強固に推し進めました。
 それは、光仁天皇が高齢と病気を理由に退位し、山部親王が桓武天皇として即位したことでさらに加速します。
 桓武天皇は天応元(781)年8月25日に戦乱終結を宣言し、派遣した軍勢を凱旋させています。ですが、残党はかなり多く残っており、東北地方の情勢は混迷していたものと推測されます。それでも戦乱終結を宣言したのは、個々の戦闘では負けていても戦争全体では勝っている、縄文人の日本人化は進んでいると考えたからです。東北遠征の目的は縄文人に侵略されない平和な暮らしを構築することであり、その目的が達成できていると考えたからこそ、戦乱終結を宣言したのです。
 しかし、現場から挙がってくる声は真逆でした。戦乱は終結どころか日常と化し、国境はいつどこでどのように縄文人が攻め込んでくるかわからない状態だというのです。
 桓武天皇は硬軟両方の対応をとりました。まずは軟ですが、天応2(782)年6月1日に、宝亀の乱の被害のあった地域については3年間の免税とする決定が出ました。それまでは日本に降伏した縄文人だけが免税でしたが、このときは日本人であるか縄文人であるか否かは関係なく、ただ単に戦乱の被害を受けたかどうかだけで免税かどうかが決まったのです。
 そして硬のほうですが、6月17日、征東大使として万葉集の編者としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)を、副使に文室与企(ふんやのよぎ)と大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を任命しました。大伴氏は日本書紀のかなり早い時期には登場する豪族で、朝廷の武門を主に担当していました。このときに大伴家持が征東大使に任命されたのも、有名な歌人を選んだのではなく、武門で有名な豪族のトップを選んだからでした。
 ところが、大伴家持は桓武天皇の期待に応えることができませんでした。大伴氏がいくら武門の家系であると言っても、大伴家持自身が武人として優れていることを意味するわけではありません。大伴家持は戦況を悪化させはしませんでしたが、好転させることもできず、延暦4(785)8月、陸奥の地で亡くなりました。
 桓武天皇は大伴氏のトップに軍を預けることで東北地方の平定を実現できると考えていたのですが、東北地方から帰ってきたのは、戦況の好転がない状態でのトップの死。ここで桓武天皇の東北地方制圧は根本からの見直しを迫られることとなりました。
 戦争全体では勝っていても戦闘では負けているのです。そもそもの目的が縄文人からの侵略そのものを無くすことなのに、今は無くすどころか食い止めるだけで精一杯。しかも縄文人からの侵略に終わりは全く感じられないのです。早いうちに平和になることを期待していた民衆も、戦争開始から既に12年を迎えただけでなく、戦争の終わる気配の全くないことにいらだちを隠せませんでした。
 桓武天皇は時間を稼ぎつつ大軍を整え、一気に縄文人制圧を実現することを計画しました。
 まずは現状の把握です。
 東北地方に展開する朝廷軍は縄文人の侵略を食い止めてはいます。ですから、現状のまま兵士を前線に張り付かせれば縄文人からの侵略の被害を最小限に食い止めることができます。とはいえ、同じ兵士を何年も前線に張り付け続けさせるなどできません。兵士を適宜交代させなければ、兵士の老齢化による前線の弱体化が始まるのです。
 また、日本に降伏した縄文人の一部を除き、この時代の兵士は職業ではありません。あくまでも本業は農民をはじめとする生産者であり、兵士にさせている間は本業を一時中断させているのです。戦場で命を落とさなければいつかは兵士でなくなります。そのとき、元の職業では食べていけないとなるとその人は失業者になります。国のため、地域のため、家族のために国境を守った者を失業者にさせてしまうことは統治者として失格です。
 延暦5(786)年8月8日、東北遠征の兵士の検閲と武器の点検をするため、東海道と東山道に使者を派遣します。このとき、兵士の選抜も行われました。守るべき家族のいる者、特に、その兵士が一家の働き手であり、戦場で命を落とすと一家の生活も破綻してしまう者を前線から外しました。と同時に、現在失業している者のうち、希望する者を兵士として雇い入れました。戦争中は兵士として本人と家族の生活を保障し、戦争終了後は班田収受に基づく生活の構築を約束したのです。

<大規模攻勢計画>
 国境と言うと、鉄条網が張り巡らされ、兵士が武器を持って警備をし、通過するためにはパスポートを提示しなければならないというイメージがありますが、この時代の国境はそこまで堅牢ではありません。それどころか、国境の付近では日本人と縄文人の入り交じった商取引が展開されていたのです。
 縄文人が国境を越えて日本に攻め込んでくるのは、何よりもまず食べていくためです。食べ物がなくなったからこそ襲いかかってくるのであり、食べ物があれば襲いかかることはありません。さらに、食べ物が多くあれば物々交換もします。思い出してほしいのは、縄文人たちが広い交易を行なっていたことです。蝦夷と自称するようになったあとも、縄文人達が広い交易をしていたことに違いはありません。
 日本との国境で展開されている商取引は、双方にとってWIN―WINの関係になることが多々あり、双方ともメリットのあることと考えられていたのです。
 ただし、それは縄文人からの侵略の絶好の名目にもなりました。軍勢が組織されたときはときでもない限り、縄文人たちは最初から襲撃を掲げて行動はしませんでした。あくまでも商取引のために国境に赴き、国境付近の市に行くためという理由で国境を越えたのです。違いは、売り物を持って行くか、売り物に見せかけた武器を持っていくかだけです。
 その縄文人が商取引ではなく強盗であると気づいたときには遅すぎました。奪われるだけで済めば御の字で、捕らえられて奴隷として連れて行かれるか、その場で殺されるかという運命が待っていたのです。日本側の抵抗もありましたが、そのときでも全く被害が出ないということはありませんでした。
 延暦6(787)年1月21日、桓武天皇は縄文人との交易そのものを禁止する命令を出しました。これにより、縄文人たちは国境を越える名目を一つ失いました。と同時に、国境の内側だけでは生活できず、縄文人との交易でいきる日本人も失業することとなりました。縄文人との交易は危険ではあっても利益の出るビジネスだったのです。国境付近で土地が痩せていて満足な収穫があげられない地域の中には縄文人たちのとの交易で集落そのものを維持していた地域もあったのですが、桓武天皇の命令を最後に、集落そのものが捨てられることとなりました。
 これは縄文人たちにも同じことを招きました。縄文人たちが日本人たちに襲いかかるのは生活のためですが、襲いかかることなく交易で生活できればそのほうがより安寧とした暮らしになります。人道的観点はともかく、ビジネスとして見た場合、戦争は効率の良いものではありません。戦争に訴えることなく交易で生活の必要が満たせれば、そのほうが日本人にとっても縄文人にとってもハッピーなことなのです。
 桓武天皇はそのハッピーを奪い去りました。
 私はこれまで、縄文人の側からの攻撃を侵略と記しながら、日本からの攻撃については制圧とか遠征とか書いています。これは私の書き手としての立場が日本にあるからで、縄文人の立場になると当然ながら真逆になります。縄文人からの攻撃のほうが制圧であり、日本からの攻撃は侵略となります。日本は縄文人が日本領に襲いかかってきたと考えますが、縄文人にとっては、自分たちの領土に住み着く異国人を制圧し、自分たちの領土を取り戻す戦いになります。
 多少なりとも現実主義的な人は、現状を現状として捉え、戦闘に訴えることなくこれまでのように交易をして生活できればいいではないかと考えますが、桓武天皇はその考えも奪い去りました。
 安全を考えた結果のはずの交易中止により、縄文人たちは追いつめられ、より攻撃的となりました。何しろ生きていけないのです。それまでであれば「交易すればよい」と説得すれば攻撃を控えることもできたのですが、今はその説得も不可能です。
 縄文人たちに不穏な動きが見られることを知った桓武天皇は、延暦7(788)年3月2日、大規模な蝦夷征討の時が来たと考え、陸奥国に命じて兵糧を多賀城に運ばせ、東海道、東山道、北陸道の諸国に対し食料や塩を陸奥国に運ばせました。遠征する軍勢の兵糧となるようにするためです。
 さらに、翌日には東海道、東山道の諸国に対し、歩兵、騎兵あわせて5万3000名を翌年3月までに多賀城に集結させるよう命令しました。この5万3000名という数字は古代史において他に類を見ない兵士数ですが、壮大すぎる命令で実状が伴っていない数字でもあると考えられます。もともと兵士は既に選抜を終えていますから、この兵士数は選抜前の兵士候補者の数字なだけである可能性もあります。それでも、当時としては異例の規模の軍勢であることに違いはありません。
 延暦7(788)年7月6日には、その軍勢を率いる紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に、多治比浜成(たじひのはまなり)を副使に任命しました。
 現在のように交通網も情報インフラも整備されていない時代ですので、任命してすぐに軍勢を動かせるわけではありません。兵士を多賀城に集結させよという命令で「翌年3月まで」となっているのも、1年以上の期間が必要だというのが共通認識としてあったからです。
 延暦8(789)年3月9日、多賀城の兵士集結を確認したという連絡を受けた桓武天皇は、東北地方征討の開始を宣言しました。桓武天皇はこの大規模攻勢で国境を一気に津軽海峡まで持って行き、本州統一を実現させようとしたのです。
 ところが、桓武天皇に届いた報告は全く予想しない結果でした。
 日本軍敗北。

<アテルイの登場>
 このときの縄文人たちには、縄文人を束ねるリーダーが存在していたのです。
 その者の名は、「阿弖流為(アテルイ)」。胆沢を本拠地とする縄文人グループのトップでしたが、日本の大規模攻勢を前に団結した縄文人たちをまとめ上げ、このときは縄文人全体を一つの軍事組織にすることに成功していました。
 兵士の数が少なくても、あるいは武器が劣っていても、戦場を操る指揮官が優れていると劣勢であるほうが戦闘で勝利を収めることがあります。縄文人たちはアテルイのもとに集結し、数でも質でも勝っている日本軍と戦闘をし、完全なる勝利を得たのでした。
 その戦闘が何月何日に行われたのかを資料は伝えてくれません。ですので、延暦8(789)年の5月から6月にかけてのある日としか記せません。
 その頃、日本軍は部隊を三つに分けて、北上川の西岸に陣を敷いていました。東岸には縄文軍が陣を敷いているらしいことはわかるのですが、日本側には詳細な情報が掴めませんでした。
 何時頃かは記録に残っていませんが、三つに分かれているうち、もっとも南に駐屯していた部隊に対し、アテルイ率いる300名の縄文軍が川を渡って攻撃を仕掛けてきました。南の部隊と中央の部隊、合わせて4000名の日本軍が応戦し、川を渡って反撃します。
 300名に対する4000名ですから日本軍は自軍の優位を確信して攻撃に打って出て、アテルイも退却して巣伏村まで逃れます。ですがこれは、アテルイの作戦でした。
 巣伏村まで来た日本軍に待っていたのは、アテルイ率いる300名の縄文軍だけではありませんでした。前後から挟み撃ちをするように合計1200名の縄文軍が襲いかかってきたのです。三方向を縄文人の軍勢に囲まれた日本軍は、数は多くても戦況は圧倒的に不利となりました。撤退しようとしますが、撤退しようにも縄文人の軍勢が武器を持って立ちはだかっています。
 戦場での戦死者は25名と少なかったのですが、戦場に取り残された者245名、北上川に飲み込まれて亡くなった者1036名、武器も防具も全て捨ててたどり着けた者1257名という大損害となりました。
 先に桓武天皇は5万3000名を多賀城に集結させよと命じ、集結なったために攻撃を始めたと記しましたが、このときの損害の人数をみる限り、実際の兵士数は多く見ても5000名程度であったろうと考えられます。それでも、縄文軍は1500名です。3倍以上の軍勢に対して圧勝したことで、アテルイは縄文人たちの絶大な支持を勝ち取り、日本軍は計り知れない大ダメージを受けることとなりました。
 延暦8(789)年9月8日、征東大使紀古佐美、帰京。それは、16年間に及ぶ長く苦しい戦争が今度こそ終わると期待していた長岡京の人たちに絶望を与える、逃避行を重ねた敗軍の姿でした。

<坂上田村麻呂>
 アテルイの登場により桓武天皇の計画は何もかも破綻してしまったのです。
 その上、交易中止の命令はなおも有効だったのです。
 その結果、東北地方の国境付近では縄文人の襲撃がよりいっそう激しさを増すこととなりました。国境は破られ、国境に近い集落は次々と縄文人に襲撃され、収穫を根こそぎ奪われるだけではなく、家は焼かれ、住人は殺され、生き残った者は奴隷として連れ去られたのです。
 桓武天皇は追加の軍勢派遣を決めたのですが、延暦8(789)年の軍勢派遣計画自体かなり無理をしての派遣でしたので、劣勢を立て直すための軍勢の追加派遣がすぐにできるわけではありません。アテルイとの戦闘で生き残った者は東北地方に張り付いて国境警備にあたらせることとしましたが、国境防衛が限度であり、国境を越えて縄文人たちのもとへ攻め込むことができる兵力ではありません。
 桓武天皇は次の軍勢派遣を延暦12(793)年実施と定め、3年間かけて軍勢を再構築することとしました。
 何しろ軍勢をゼロから作り直さなければならないのです。武器も防具もありません。そのため、武器と防具を作るように命令しますが、延暦9(790)年閏3月4日に出された命令は2000人分の革製の鎧を3年後までに作るようにとの命令でした。
 食料についても同じです。戦闘に負けたときにそれまで用意していていた兵糧を縄文人に奪われてしまったため、ゼロから集めさなければなりませんでした。閏3月29日に、兵糧の乾飯(ほしいい・炊いたご飯を乾燥したもので、最大20年間の保存が可能)を用意するよう命令が出ました。1年間の収穫だけで軍勢の兵糧を満たせる量を用意はできませんので、これも3年間かけての用意となります。
 延暦10(791)年1月18日、兵士の選抜が始まりました。さらに半年を経た7月13日、次の指揮官と副官が決まりました。征東大使に任命されたのは7年前に副使として派遣された大伴弟麻呂、そして、征東副使には坂上田村麻呂をはじめとする4名です。
 このときの坂上田村麻呂の採用は抜擢でした。坂上田村麻呂の父は奈良時代に活躍した武人でしたが、坂上田村麻呂自身はそれまで近衛府の武官ではあっても戦場に出て軍勢を指揮した経験がなかったのです。それでも4人のうちの1人としてでも征東副使に抜擢されたのは、1月18日の兵士の選抜を担当したのが坂上田村麻呂だったからです。このとき坂上田村麻呂35歳。
 実際に前線にまで赴いて兵士候補者を見た坂上田村麻呂は桓武天皇に一つの助言をします。
 兵士の質が低すぎるので、抜本的な見直しが必要だという助言です。
 兵士の質の低さに理由がないわけではありません。兵士として選抜されたのは、普段は農地を耕す農民がほとんどで、ごく一部、失業中のために兵士になることを選んだ者がいるのみ。
 東北地方遠征は日帰りでできるものではありません。最低でも1年間は田畑を空けなければならないのです。これは兵士の心情に大きなストレスとなっていました。自分がいなくなったら家族はどうなるのか、自分が亡くなったら家族はどうなってしまうのか。兵士候補者達はそのことを考え、坂上田村麻呂に対し、どうにかして遠征から外して貰うように懇願する者が続出しました。また、選抜した兵士の中には途中で逃亡する者も多く、軍勢を指揮する者にとっては昔から頭痛の種になっていました。
 指揮官として、この現状を考慮せずに兵士を無理矢理戦場に連れて行っても満足行く結果は出ません。それはアテルイの前に完敗を喫したという前例があれば証明に充分です。
 坂上田村麻呂の助言を受けた桓武天皇は、延暦11(792)年6月7日に防人制度の部分的廃止を宣言します。防人は徴兵制とも言うべき国民皆兵の制度で、日本の男性であれば誰もがこなさねばならない義務でしたが、今後はその義務がなくなるのです。この桓武天皇の宣言を多くの市民が支持し、以後、明治になるまで、兵士になることは国民の義務ではなく職業となりました。
 6月14日には健児(こんでい)の制を導入し、地方の豪族の子弟を兵士とすることが決まります。豪族の子弟の中には官僚となることもできず、プライドの高さゆえに農地を耕す農民となることもしない者も多かったため、国としても処遇を悩ませていたという問題がありました。第5章で述べるように健児の制は後に問題を生みますが、この時点では、健児の制によって兵士の質の向上が図れるようになったのです。
 健児の制による軍勢の集結は延暦12(793)年になってからです。
 その年の2月17日、それまで「征東大使」と呼ばれていた遠征軍の総指揮官の名称が「征夷大使」と改められました。ただ単に東北地方を平定するのではなく、日本に侵略する縄文人を征討する職務に改められたのです。縄文人であっても、日本に服属し日本人として生きる決意をした者は征討する対象ではありません。敵はあくまでも日本に侵略してくる縄文人だけであり、それは生まれや外見ではなく、日本人として生きるか否かだけが敵か否かの判断基準となったのです。
 さらに翌延暦13(794)年1月1日には「征夷大使」の称号が「征夷大将軍」へと改められました。のちに幕府のトップの称号となる職務になりますが、この時代はあくまでも縄文人と戦闘する武人のトップとする職務です。これが資料上最初に登場する「征夷大将軍」です。よく、「日本史上最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂である」とする本がありますが、正確に言えば、延暦13(794)年の大伴弟麻呂が日本史上最初の征夷大将軍です。
 征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂は健児の制で整えられた兵士を率いて東北地方に進撃します。
 大伴弟麻呂率いる軍勢は東北地方各地で勝利を収め、朝廷の支配地を拡大していきます。その中で抜群の活躍を見せたのが坂上田村麻呂でした。このときの遠征の記録自体は少ないのですが、その数少ない記録の一つである「類聚国史」に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」と記されており、その活躍は征夷大将軍である大伴弟麻呂を凌ぐものがあったのです。
 東北地方からは華々しい戦果が届きましたが、同時に、朝廷の軍勢の限界も伝えられました。3年間かけての準備も1年の戦闘で使い果たしてしまったのです。何しろ戦闘に訴えて勝った後、降伏した縄文人達が生活できるよう再建をするための援助もするのです。そのために持って行った兵糧はみるみるうちに減っていきました。延暦13(794)年10月28日、戦闘に勝利はしているが兵糧が残り少ないため戦闘を一時中断するとの連絡が届きます。延暦14(795)年1月29日には征夷大将軍大伴弟麻呂が帰京し、作成の終了を上奏しました。
 兵制の抜本的見直しと戦闘での勝利で桓武天皇の信頼を掴んだ坂上田村麻呂は、延暦15(796)年1月25日、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任じられ東北地方の経営にあたります。京に戻らず東北地方に留まって軍事拠点の構築を始めた坂上田村麻呂は、都市を構築することで地域の失業を減らすと同時に、軍事的にも堅牢な拠点を作ることで縄文人からの侵略をより食い止めやすくしました。
 桓武天皇は延暦15(796)年10月27日に坂上田村麻呂を鎮守将軍に任命して、東北地方に駐留する軍勢の総指揮権をあたえ、延暦15(796)年11月21日には伊治城(これはるじょう)を東北地方の軍事と経済の拠点とすると宣言し、合計9000名の民衆に対して伊治城に移住するよう命令を出しました。
 そして、延暦16(797)年11月5日、坂上田村麻呂は征夷大将軍に就任します。ここで坂上田村麻呂の職掌をまとめますと「征夷大将軍」「近衛権中将」「陸奥出羽按察使」「従四位下」「陸奥守」「鎮守将軍」となります。これは、東北地の政治、軍事の全ての指揮権を握るだけでなく、遠征軍の総指揮権と、制圧後の統治に関する全権を坂上田村麻呂に委ねたということです。
 坂上田村麻呂は東北地方と京都を往復します。前回と同様、兵士と武具と兵糧を集めるためです。そしてこちらも前回と同様、1年かそこらで用意できるものではないことに違いはありません。
 遠征開始は延暦20(801)年と決め、それまでの3年間を準備期間とします。ただし、このときの坂上田村麻呂にはそれまでの準備期間と違い、もう一つのミッションが加えられていました。
 それは日本領に組み込んだ地域に住むこととなった縄文人の処遇です。国境の北に逃れた縄文人は多数いましたが、日本領に留まった縄文人も多数います。彼らは日本の元に暮らす決意をして留まったのですが、留まると決意しただけで日本の暮らしができるわけではありません。彼らの生活を作り上げることも坂上田村麻呂には託されたのです。
 蝦夷が攻めてくるのは生活が苦しいからです。また、一度は日本に帰順した蝦夷が反乱を起こすのも生活が苦しくなったからです。ということは、生活を安定させれば無意味に侵略してくることはなくなります。
 坂上田村麻呂は桓武天皇の信頼に応えます。延暦19(800)年11月6日に坂上田村麻呂に対して日本領内に住むことになった縄文人たちの調査を行うように指令が出ましたが、その調査結果は桓武天皇を満足させるものでした。

<アテルイの最期>
 延暦20(801)年2月14日、坂上田村麻呂に出陣命令が下ります。
 そして、その年の9月27日に、東北地方から縄文人との戦闘に勝ったとの連絡が京都に届き、10月28日には坂上田村麻呂率いる軍勢が凱旋します。
 その間、坂上田村麻呂が東北地方でどのような戦闘を展開していたのかの情報はわかりません。
 ただし、アテルイの率いる軍勢に対し坂上田村麻呂の率いる軍勢が勝利を収めたのは間違いありません。
 アテルイは確かに12年前の延暦8(789)年に日本軍に対して勝ち、国境を押し戻すことに成功しています。しかし、アテルイの元に集った縄文人を食べさせていくことには失敗していたのです。縄文人の軍事攻勢は生活の苦しさから起こした軍事行動であり、日本軍を打ち破ったことで一瞬ではあっても生活を獲得しましたが、それは永続的なものではありませんでした。
 アテルイは戦場で素晴らしい活躍を見せる優れた指揮官ではありましたが、縄文人たちに豊かな暮らしをもたらす優れた政治家ではなかったのです。日本に勝ったという前例がアテルイの指導者の地位を維持させていましたが、現実の生活苦が縄文人たちの心をアテルイから離していきました。
 縄文人は一人、また一人と、日本のもとに投降していきました。日本に投降すれば生活が保証されます。その上、日本に降伏した縄文人は奴隷になるわけでもなく、日本から技術支援を受けて田畑を新たに起こし、それまでの暮らしではあり得なかった安定した収穫による安定した暮らしをできるようになったのです。ついこの間までは共に戦う仲間だったのに、プライドを捨てて日本の支配を受け入れるか、プライドを胸に日本の支配を拒否するかで、全く違う暮らしをするように分かれてしまいました。
 縄文人たちは、集まっている場では日本の支配に抵抗すると誓い合っていましたが、仲間の目を盗んで、家族全員で日本に投降するようになったのです。
 アテルイはこの現状をどうすることもできませんでした。生活を保障できず、日本に対する反発心、蝦夷としての誇り、祖先から受け継いできた暮らしを捨てることへの躊躇、こうした精神論だけで縄文人たちをまとめるしかなかったのです。
 いくら格好つけた精神論でまとめ上げていても、生活できないという現実は覆しようがありません。兵士の数が目に見えて減っていきました。食料もありません。食料を手に入れる方法もありません。その状態で坂上田村麻呂と対戦したのです。
 どこでどのような戦闘が行われたかの記録はありませんが、アテルイは戦場からの脱走に成功したことは明らかです。自分が本拠地としていた胆沢の地が坂上田村麻呂の手に落ちたことも情報としては聞いたようですが、その感想を伝える資料はありません。
 一方、戦勝を朝廷に報告した坂上田村麻呂は、これまでのように準備期間を空けて改めて攻撃するのではなく、多少無茶してでも、ここで一気に行動をするべきだと桓武天皇に上申しました。
 桓武天皇は坂上田村麻呂の上申を受け入れ、蝦夷征討を命令します。
 延暦21(802)年1月9日、桓武天皇は坂上田村麻呂に胆沢城を建造させ、鎮守府を移転させるよう命令しました。アテルイが本拠地としていた胆沢の地が、東北地方へ攻撃を仕掛けるにあたり重要な軍事拠点となると判断した坂上田村麻呂の上申を受け入れたからです。
 さらに2日後の1月11日には、4000人の兵士を胆沢城に移動させるよう命令が出ました。
 それから坂上田村麻呂の遠征の記録は途絶えます。
 ただし、その間に戦闘が行われたことは間違いありません。
 延暦21(802)年4月5日、アテルイと、副官の母礼(モレ)が日本軍に対し投降したとの情報が入ってきました。この情報を聞いた者は狂喜乱舞し、これで戦争が終わる、これで平和がやってくると誰もが考えました。
 アテルイはここで降伏すること以外に、自分についてきてくれた縄文人たちを助ける方法はないと考えて降伏しました。そして、坂上田村麻呂はアテルイの申し入れを受け入れ、アテルイの元に集っていた縄文人を、敵兵ではなく、これまで日本に投降してきた縄文人と同じとして扱うことを約束しました。
 兵士たちの中には不満が生まれました。これまで縄文人たちにどれだけ奪われ、犯され、殺されてきたかわかりません。兵士たちの中には家族の敵を討つために軍勢に加わった者もいます。その憎き敵を赦し、生かすよう坂上田村麻呂は命じたのです。
 不満はありましたが、それでも兵士たちは坂上田村麻呂の命令に従いました。ついさっきまで自分たちに武器を向けていた縄文人たちに食料を与え、技術を与え、彼らの生活を作ることに協力したのです。感情ではいくら許せなくても、理屈ではそのほうが平和に役立つと理解したからです。
 ですが、京都にいる貴族たちまで坂上田村麻呂の思いに同調するわけではありませんでした。
 延暦21(802)年7月10日、坂上田村麻呂がアテルイとモレを連れて凱旋します。敵将を伴って凱旋するのはこれ以上ない戦勝の証であり、その凱旋を見た京都市民は、改めて戦勝を実感しました。
 坂上田村麻呂は戦勝を報告するためにアテルイとモレを連れて凱旋したのですが、凱旋した後は故郷へ帰すことを考えていました。そのほうが結果として平和になると考えたからです。ですが、貴族たち、そして、京都の市民たちの声の多くは「殺せ」でした。
 もはや坂上田村麻呂が何を言っても受け入れられませんでした。桓武天皇も坂上田村麻呂ではなく京都の民衆の声を選びました。
 アテルイはモレとともに、京都の地で処刑されました。

<一時休戦>
 坂上田村麻呂は征夷大将軍を辞任しました。アテルイを生かしておくことで東北地方の平和を建設しようとしていたのに、そのプランが崩れたのです。プランが崩れてなお征夷大将軍としての役割を果たせるとは約束できなかったのです。
 桓武天皇は坂上田村麻呂の征夷大将軍辞任を受け入れ、その代わりに、延暦22(803)年3月6日、最前線基地として志波(しわ)城を建設するよう命令しました。坂上田村麻呂はこの最前線基地の最高責任者として任命されました。
 アテルイ亡き後の縄文人たちはかえって統率できない集団になってしまいました。いつどこでゲリラ的に襲いかかってくるかわかりません。アテルイを生かしておけば縄文人たちを一つに束ねることに成功していたのに、今はもう不可能。坂上田村麻呂にできるのは、ゲリラの攻撃を一つ一つ食い止めることだけでした。
 アテルイの死により戦争は終わり平和になったと考えていた京都の民衆は、東北地方から届く以前と変わらぬ縄文人たちからの襲撃に絶望します。そして、もう一度坂上田村麻呂に登場してもらうことを願うようになりました。
 桓武天皇は民衆の声に押され、東北地方遠征を行うと宣言。延暦23(804)年1月19日には東北地方遠征に備えて食糧の輸送を始めるよう命じ、1月28日には坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任命しました。
 坂上田村麻呂は朝廷からの命令を受け入れ、再び征夷大将軍として軍勢を率いて戦場に出ます。
 敵はまとまった軍勢ではなく、ゲリラ的に襲いかかってくる縄文人たちです。いつどこで襲いかかってくるかわからない、統率なき軍勢は恐ろしく、坂上田村麻呂も苦戦します。縄文人の襲撃があったと聞きつければ志波城を出て縄文人と対峙し、縄文人の襲撃がやんだら志波城へ戻る。これでは戦略も立てられず、いつ終わるのかも計画できません。それでも、朝廷の領地は少しずつではありますが北へのばすことができ、当初の目的であった津軽海峡も見えてきました。苦戦は続いているが、いつかは報われる。坂上田村麻呂も、坂上田村麻呂のもとで戦う兵士たちもそう考えました。
 ところが、苦戦は突然終わりを迎えます。
 延暦24(805)年12月7日、朝廷で菅原真道と藤原緒嗣とで相論(天皇を前にして行われる討論)が行われました。若き秀才として名を馳せるようになっていた藤原緒嗣はここで、かねてからの持論を展開します。
 「平安京建設と東北地方遠征が大きな負担となっている。この二つを直ちに中止しなければ国家財政はただちに破綻する」というのが藤原緒嗣の主張です。
 この藤原緒嗣の意見が採用され、東北地方遠征が何の前触れもなく中止となりました。このときの相論を「徳政相論」と言い、藤原緒嗣は国家財政を救った若き論客として名を挙げることとなります。
 一方、坂上田村麻呂は、これまでの自分の功績も、現在の苦労も、そして平和の構築もこれで全てが無に帰したと考えました。征夷大将軍の称号はその後も保持し続けますが、それは実行力を伴わない名誉職の称号となり、坂上田村麻呂は東北地方から去っていったのです。
 坂上田村麻呂のいなくなった東北地方では、相変わらず縄文人たちの襲撃が断続的に発生します。それを、坂上田村麻呂の残した遺産である軍勢が押し返すというのが日常の光景となりました。

<崩れた均衡>
 それから5年間が経過します。
 その間に桓武天皇が亡くなり、桓武天皇の後を受けた平城天皇もわずか2年で退位。平城天皇の弟である嵯峨天皇の即位からしばらくして薬子の変と呼ばれる奈良を中心とする反乱が発生し、反乱鎮圧に坂上田村麻呂は功績を残しました。東北地方では、縄文人が国境を越えてゲリラ的に攻め込んできては、後手後手に回っているものの朝廷軍が押し返す。この光景が5年間展開されました。
 東北地方はこの状態で均衡がとれていたのですが、弘仁元(810)年10月27日、嵯峨天皇の元に均衡を崩す難問が届きます。北海道から200人ほどの難民が陸奥国にやってきたのです。5年間の空白の間も桓武天皇や坂上田村麻呂の示した指針は変わりませんでした。日本に投降してきた縄文人は、日本の手によって生活を保証するという指針です。北海道からやってきた200人ほどの縄文人が求めていたのもそれでした。
 しかし、日本にはそれに応じられないという問題がありました。
 藤原緒嗣が国家財政の危機を前面に掲げて東北地方遠征を中止させたことからも明らかなように、この時代の国家財政は危険水準に達していたのです。この時代は赤字財政などありません。税収だけが国家財政の収入源であり、税収を超える出費はできないのです。
 財政を切り詰めた結果は東北地方にも現れていました。現状の軍事力の維持はできても、日本に投降する縄文人の生活までは財政が許さなくなっていたのです。
 北海道からやってきた縄文人たちに対し日本は故郷へ戻るよう命じますが、縄文人たちは既に冬になり海が荒れていること、また、北海道での暮らしが厳しいことを挙げて、これまで日本に投降した縄文人たちと同様に、日本の生活支援の元、日本で暮らすことを迫ります。交渉の結果、とりあえずの保証として、食料と衣服を支給し、翌年まで保護することが決まりました。
 最初は誰もが一時的な問題だと感じましたが、嵯峨天皇は長期化する問題だと考えました。
 先にこの時代の国家財政の収入源は税収のみであると記しましたが、その税収が減っているのです。脱税が横行したからではありません。全国的に不作だったのです。不作から田畑を捨てて平安京に逃れてくる人が続出していましたし、不作のため税を免除してほしいという誓願も各地から届いていました。
 田畑が不作なのに自然の恵みが豊かであるなどということはあり得ません。北海道から縄文人たちがやってきたというのは北海道の自然の恵みが厳しいということ、それはすなわち、縄文人たちの暮らし全体が厳しくなったということなのです。
 食べるのに困った縄文人たちが大挙して押し寄せてくる可能性があると嵯峨天皇は考えました。
 弘仁元(810)年末から弘仁2(811)年初頭にかけて、1万人規模の縄文人たちが日本に逃れてきました。当然ながら彼ら全員を食べさせていけるだけの食料などありません。それどころか、日本国内の不作も深刻で餓死者も出る状態だったのです。
 食料を求める縄文人たちの集団は、難民からいつしか暴徒へと化しました。食料を求める難民ではなく、食料を奪いに来た暴徒へと変貌したのです。
 その上、彼らには絶好の口実がありました。日本からの支配から脱し、蝦夷としての誇りと暮らしを取り戻すという口実です。暴徒はいつしか、日本の支配から故郷を解放するための「解放軍」へと変貌しました。とは言え、その内容は、役所を襲い、倉庫を襲い、村々を襲い、略奪の限りを尽くす、秩序無き武装強盗集団でした。
 厳重に警備を重ねているはずの国境はいとも簡単に破られました。東北地方北部一帯が、日本の支配からの独立を求める蝦夷解放軍の暴れる場所となったのです。
 縄文人にとっては解放軍による解放運動であっても、日本にとっては武装強盗集団による反乱です。この反乱鎮圧のために嵯峨天皇は坂上田村麻呂の出動を命じようとしました。ですが、坂上田村麻呂はこの命令を受け入れませんでした。より正確に言えば、受け入れたくても受け入れられませんでした。このとき54歳になっていた坂上田村麻呂は、病に倒れ、身動きのできない状態となってしまっていたのです。
 坂上田村麻呂を頼れないと悟った嵯峨天皇は、まず、反乱の規模がこれ以上拡大しないようにしました。それまでは、日本に投降し、日本のもとで生活することとなった縄文人は、本人一代に限り生活の支援を受けられることとなっていたのですが、弘仁2(811)年2月8日、本人だけでなくその子も生活支援の対象とするとしたのです。ただし、当然ながら反乱参加者はこの資格に該当しません。
 そして、翌2月9日、坂上田村麻呂の副官として戦場を渡り歩いた文室綿麻呂を筆頭に、佐伯清岑や、田村麻呂の弟である坂上鷹養らを東北地方へ派遣することとしました。桓武天皇の頃は3年の準備期間を経た上での遠征開始でしたが、今回はそのような悠長なことを言っていられません。兵士は現地で集めよという命令を嵯峨天皇は出しました。

<最後の遠征>
 文屋綿麻呂の率いる軍勢は縄文人の軍勢を次々に撃破し、それまで京都の権力の及ばなかった地域にまで進みました。と同時に、縄文人に襲われた集落の再建も行いました。
 集落の再建のために行われたことの一つに、道路の建設があります。軍隊が容易に進軍できるよう森を切り開き道を通すのですが、その工事に参加するのは縄文人であろうと日本人であろうと区別されませんでした。道路建設は今回の反乱で生活が苦しくなった者の失業対策であり、道路建設に参加すれば同じだけの給与が支給されます。
 区別のない作業は日本人と縄文人の融和を図れました。その上で、今回の敵は縄文人ではなく、反乱参加者であると明言しました。縄文人であろうと日本人であろうと、反乱の被害を受けた者は等しく被害者であり、反乱を鎮圧すれば誰もが平和になれると説いたのです。
 そんな中、かつての自分の部下たちの活躍を耳にした坂上田村麻呂は、弘仁2(811)年5月23日、静かに息を引き取りました。享年54歳。坂上田村麻呂の死を文屋綿麻呂らが聞いたかどうかの記録は残っていません。
 文屋綿麻呂の率いる軍勢は次第に北上を続け、反乱軍はその勢いを弱めていきました。この時点の軍勢はおよそ1万5000人。その多くは、反乱鎮圧のために現地で参加した兵士たちです。兵士たちもまた日本人であるとか縄文人であるとかの区別はありませんでした。この軍勢は反乱鎮圧の軍勢であり、そこに民族の違いはないという意識で上から下まで統一されていたのです。
 また、嵯峨天皇に働きかけて、反乱鎮圧の軍勢に参加した者は3年間の納税免除とすることも決まりました。文屋綿麻呂の軍勢は、理念への共鳴だけではなく、実利も伴った軍勢でもあったのです。
 文屋綿麻呂の軍勢に圧されて反乱軍は壊滅状態になりました。当初は日本の勢力内に侵攻していたはずでしたが、それが逆に自分たちの勢力を縮めることとなり、内部分裂さえ起こすようになっていたのです。それまで日本の侵攻を許してこなかった地域も今や文屋綿麻呂の率いる軍勢の占領下となり、反乱参加者の故郷の村にも戻れず、反乱軍の食料もないという状態になったのです。
 それまでは日本に抵抗する解放軍を名乗れていましたし、縄文人の支援も受けることができました。ですが、今や支援はおろか、仲間であるはずの縄文人の集落からも見捨てられたのです。
 反乱軍には兵站という概念も、根拠地からの補給路という概念もありませんでした。それ以前に、自分たちで充分な食料を用意することもありませんでしたし、食料確保の手段も計画してはおりませんでした。必要なものは必要なときに現地で調達するのが反乱軍の面々だったのです。
 国境を越えて進撃しているときは日本の役所や村を襲って現地調達できました。ですが、今や現地調達の対象となる日本の役所や村はありません。そこにあるのは縄文人たちの集落だけです。
 反乱軍は、仲間であるはずの縄文人の集落を襲いました。
 これが反乱軍に内部分裂を生みました。
 反乱軍の中にはその集落出身の者もいます。その集落を、そして、集落の家族を守るために反乱軍に参加した者もいます。その集落が敵である日本軍ではなく、まさに自分たちに襲われることとなったのです。
 襲う前に反乱軍の中で激論が展開されました。襲うべきとする意見と、襲うべきではないとする意見です。激論は襲うべきとする意見が勝ち、縄文人の集落は被害を受けることとなったのですが、襲うべきではないとする一派は襲撃に参加しませんでした。
 その代わりに、文屋綿麻呂の元に降伏したのです。
 文屋綿麻呂の元へ逃れた者のリーダーであるツルキは、故郷であるオラシベ(岩手県二戸市浄法寺町)がかつての仲間たちに襲撃されたこと、襲撃した者のリーダーがニサテ(岩手県二戸市仁左平)出身のイカコであること、現在はトゥモ(青森県七戸町)を本拠地とし、周辺の蝦夷を集めて軍事訓練を積み、文屋綿麻呂に対抗しようとしていることを伝えました。
 この情報を受けた文屋綿麻呂の軍勢は、最後の戦いを終えれば長い戦いも終わると確信しました。
 最後の戦いが何月何日に行われたのかを伝える資料はありません。ですが、時期から逆算して弘仁2(811)年の11月にはその戦いが終わっていたと考えられます。
 戦いを終えた文屋綿麻呂の軍勢が京都に凱旋し、戦勝を報告しました。
 そして、そのときはついに訪れました。
 弘仁2(811)年12月13日、朝廷は勝利を宣言し、38年間に及ぶ戦争が終わったこと、日本の国境が津軽海峡に達し本州は統一されたこと、津軽海峡より南に住む者は誰もが日本人であり、かつて縄文人であったことなど関係なく誰もが等しい権利を得ることが宣言されました。
 この日、縄文時代は終わったのです。

応募者紹介

徳薙 零己さん

1996年帝京大学文学部史学科卒業
卒業後デザイン会社勤務を経てソフトウェア会社に勤務
2007年よりブログ「Short+α(http://ameblo.jp/treiki)」でエッセイを、「いささめ(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki)」で小説とコミックを作成。
2008年より平安時代を舞台とする歴史小説を発表。
当作品が著者初の単行本となる。

塾長からのコメント

塾長

柿内 芳文

タイトルと視点は良いが、歴史好きからはツッコミが入り、歴史に興味のない人間からすると、「歴史好きな人の?オレ歴史知ってるぜ自慢?」にしか見えないのが残念。

ジセダイユーザからのコメント