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HOME > 新人賞 > 新人賞投稿作品 > わたしらにとっての国際化ってなんですのん。ー脱国際化幻想ー

新人賞投稿作品

わたしらにとっての国際化ってなんですのん。ー脱国際化幻想ー

三村 眞知子
2015年06月27日 投稿

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国際化/巨大市場、市井の人/日常。「国際化」、それってあなたの日常生活に必要ですか。

カテゴリ

紀行・旅行

内容紹介

日本では今、どこへ行っても「国際化」「グローバル化」。自治体も国際化に本腰入れて、悪戦苦闘しているという。そして付いてくるのが「やっぱ英語できないとね」。それで、英語教育に政府も学校も親も必死だ。けれど、若い時に、イギリス、フランスを経験し、今、アジアの片隅で働くわたしには、彼らの言葉が空虚に聞こえる。外国人と仕事できたら「国際化」?英語でコミュニケーション取れたら「国際化」?いったい何が国際化なの?と「世界で働くわたし」は思う。きっと政治や経済が絡んだ大きなものが目指すのがグローバリゼーションや国際化であって、普通に暮らす人々にその声は届かないはずだ。だって、彼らの利益と市井の人々のそれは違うから。普通に日常を送る小さき者の目線で、一方では日本の知人から「インターナショナルだね」と言われつつ、「ぶっちゃけ、結局、人と人じゃないの?」と思いながら、国際化とかグローバリゼーションとかってなんだろうと考えてみる。

目次案・語りたい項目


エピローグ:国際化とかグローバルの意味がわからん。
第1章:あらゆる国での人間関係の作り方
ルール1:好きなローカルの店に通いつめるべし
ルール2:おっちゃん、おばちゃんを味方につけるべし
ルール3:現地語を必死で話すべし
第2章:その場所で必要なものはその場所でまかなっている
ルール1:英語の通じないハノイ、コミュニティでまかなう日常
ルール2:FBもどきから怪しい食べ物までは自給自足の中国ー海外入る隙もない―
ルール3:英語を操る香港人に垣間見えたローカルな横顔
第3章:でもって日本、どこへ行きたいの?
ルール1:どこへ行っても日本流ブランド信仰
ルール2:根深い英語コンプレックスーI’m hungryが言えたらそれでよし―
ルール3:日本のスーパーのおばちゃんは国際化なんて考えてない
プロローグ:でもって我々の向かう先はどこだろう。

書き出しの第1章

幼少期から英会話を始めて、仏文の修士出身なのにも関わらず、大手英会話学校で非常勤になったという「英語だけが武器」のわたし。中国の大学で日本語講師に転身してからはや4年。英語だけじゃないよ、中国で覚えたサバイバル北京語もあるよ、なんならサバイバルベトナム語もあるよー、そして忘れかけてはいるがフランス語もオッケーよ!と意気揚々に香港入りしたのは2015年の初め。とある語学学校に転職した時だった。会社の公用語は英語、そこに経理や受付の広東語や、中国語学科の北京語や、日本語学科の日本語が交じり合っている。
 英語に関しては、ほんと、すげーの一言で、街で、会社で、みんな普通に話せる!そして、めちゃ難しい語彙を使ってくる!しかも英国統治下からもうだいぶ経っていて、学校教育メインなのにも関わらずである。
 みなさんもご承知の通り、香港は今、ビミョーな時期にいる。老獪中国政府に飲まれるか!、それとも独自路線で歩むのか!!学生とも政治談義をすることもしばしばである。そして、大量にがやがやとやって来る中国人観光客のマナーの悪さとうるささに辟易している人も多いらしく、彼らの北京語(普通語)へのアレルギーも強いということだった。実際、ある日、薬屋さんに買い物に行って、英語がいまいち通じないからとっさに北京語で話したら、店員さんの態度がコロッと変わって、最後には手で追い払う仕草をされた。
 聞くところによると、彼らの英語への気持ちも、これまたビミョーらしい。統治下にあった、つまり強く言ってしまえば、占領した国の言葉。だから、話せるけど、あんまり良く思っていない人も多いという。
 とまぁ、でも広東語を話せないわたしは、北京語拒絶事件(既出)も手伝って、この4ヶ月、ずっと英語で通してきた。どこか英語という言葉に上目線な感覚があることに気付きながらである。
 さて、わたしの家の近くには猫がどーんっと商品の間で寝ている、果物屋兼煙草屋兼何でも屋がある。その横にはコンビニがあって、この二店を利用することが多い。どちらも、最初はびっくりするほど部愛想で、そこに行った後、自分を後悔するほどだった。この二店には毎日くらい通うのだけれど、果物屋さんでは、3回、4回と通ううちに言葉(英語)を交わすことが増えてきた。コンビニの感じ悪い方のおばちゃんは相変わらず、こちらの英語での指示に対してちょっと好戦的なままだった。けれど、ある日から、小出しにし出した北京語で、彼らに話しかけた時から、相手の態度がガラッと変わった。手で追い払うのではなく、なんだか雰囲気が柔らかくなったのだった。そして「何人だ?」「仕事は?」「どこに住んでいるんだ?」「今日はアレ買わないのか?」「今日は元気ないな?」などと話しかけ始めてくれたのだった。最初、ちょっと相手の態度に混乱した。中国嫌いなんちゃうの?したら北京語だって嫌なはずなのに…これが商人根性か?
 そこである結論に達した。コンビニのおばちゃんは英語が苦手で英語で指示されることにうんざりしてたんだろうなと。英語より、まだ北京語の方が中国語でわかる。何より、わたしがちょっとしか話せない北京語を話そうとしている姿を見て憐れみじゃなくって同情があって、ちょっと心を開いてくれたんだと。そして果物屋のおっちゃんも同じ。英語と北京語ミックスで話しているけど、通いつめるうちにちょっと値引きをしてくれるようになった。
 あと通いつめるお粥やさんがあるのだけれど、彼らも同じく、常連になるにつれ、距離が縮まり、そして北京語で話しては「お前の北京語はまだまだだ」「いやそっちこそ」と話ができるようになった。
 あ、そういえばハノイでもだった。老夫婦の営む煙草屋、おじいもおばあも80超えの店。そこに惹かれて通い詰めを決意。が、最初は「こいつなんやねん」という目で見られただけだった。それでも、毎日、通い詰めた。全く英語の通じないハノイの世界、最初の訪問も「アレ、アレをプリーズ(シモイ ※ベトナム語)」みたいなめちゃくちゃな言葉だった。3、4回目の訪問の時かな、「お前、何人だ?」とおばあ。生きるために少しずつ覚えていた、ベトナム語を単語合わせた言葉で答えた。その後から、おばあが商品を出すまでの間、「ゆっくりしてちょっとここに座りな」、とおばぁが銭湯の椅子風を出してくれた。さらに通いつめる。そして、少しベトナム語がまぁまぁできるようになったころ「何歳だ?結婚は?仕事は?」などと興味津々で質問攻めにしてくれつつも、おじいは「ま、座ってお茶飲んで行きな」と濃いベトナム茶を出勤前で急いでいるわたしにふるまってくれるようにまでなった。
 遡って、中国北部の街に居る時も「通い詰め」は効果があった。通い詰めスーパー、日本人がわたしくらいしかいないエリア、みんなはすぐに顔を覚えてくれて、なんだかんだと世話を焼いてくれた。グーグル翻訳と筆談片手のわたしにである。ある時、ラーメンを探していると食品係のおばちゃんにいうと、「日本製のラーメンあるよ!」と大きな店内の端から端まで探し回った挙句、「アジセンラーメン」を紹介してくれた。一回、カゴに入れるふりをして、後から戻してしまったんだけれども。
 そして忘れられない味にもなった復建の小さめの包子の店。あんまりにも毎日通うものだから、忙しい手を止めて、「中に座って待っときー」と声をかけてくれて、他の人を優先して、ほっかほかのをビニールに直接入れてくれた…。
 お惣菜屋の若い女の子もそうだったな。店に入ったら「おう!来たな!」、そして、あまりにも優柔不断でおかずが決められないわたしを根気よく待って、こえがオススメだよとか言ってくれた。
 わたしには、中国、ハノイ、さらに遡れば日本でも「通い詰め」癖はあったのだが、これは現地の人との距離を縮めるのにとても有効だと、今、思っている。最初の「匂い」みたいなものが肝心で、「よさげー」と直感で思ったところにはひつこいくらいに、顔を出す。それがバーとかカフェとかレストランじゃないい辺りがわたしの泥臭さの証明でもあるのだけれど、ツンと澄まして、ただ買いたいものを運んでくる人たちになんて興味が持てない。たいてい、おしゃれしか頭になくって「労働」している人じゃないから…とまぁ仮定しておこう。そんなおしゃれかわいこちゃんや、おしゃれイケメンさんには心は動かされないし、だいたい、彼らが持ってる店じゃないから、「通い詰め」は不毛に終わる。
 わたしは、この小洒落た香港の「表参道ヒルズ+渋谷」という街の片隅で、自分の身を動かして「働いている」人を見るのが好きだし、そういう人こそローカルと思っていて、わたしは「通い詰め」によって、東京と変わらない小洒落た香港を見るのではなく、ローカルの汗水垂らしている本物の香港人たちの世界が見たいのだ。
 さらに付け加えると、いくら得体の知れない外国人(わたし)だとしても、いっつもその店に顔を出していたら、相手も悪い気はしないはずで、毎日通いつめれば、必ず、相手は応えてくれるようになる。
 海外行ったら、狙いを定めて「通い詰め」。これがわたしが海外でやっている「ローカルの人と触れ合う時間」の作り方なのである。
 そうして、ローカルの人と触れ合った時、今、自分がいる場所が日本ではなく海外で、それでも通じるもんは通じるんだと、高層ビル地獄のなかで意気消沈していても、前を向いて歩く力を与えてくれるのだ。
 今日も世界のおっちゃん、おばちゃんに救われて生きている。

応募者紹介

三村 眞知子さん

神戸市生まれ。父親の仕事の関係で5歳まで仙台で育つ。幼稚園に入園するも「こどもっぽい」と、2ヶ月で退園。その同時期、3、4歳より英会話を始める。小学校、中学では、集団とどう関われば良いかわからず、浮きまくる。神戸高校在学中に、浮きまくり同士と「ドイツ語研究会」を30年ぶりくらいに復活させるが、花形ラグビー部のネタにされ笑われまくる。高校卒業の後、一浪して、大阪市立大学文学部に進学。大学ではジャズ研究会に所属。担当はピアノ、でも無理から力技の演奏をしまくっていた感がある。父親も同大学に教授として在籍していたが、裏口ではないことは強調。とまぁっ順風満帆っぽいんですが、反抗期のなかった「いい子ちゃん」は、二十歳でいきなりうつ病になり、大学を三年休学する。なお、病気のリハビリはDIYで自宅の5つの部屋を漆喰とあらゆるペンキと電ノコで改装しまくることだった。ほどなく、回復に向かい、パリ、イギリス滞在をちょこっと経験。イギリスでは勘違いにより、税関と大げんかの後、オーバーステイとなり強制送還に遭う。パスポートを取り上げられ、泣きながらビックベンを見て去ったあの日は忘れられない。日本に一旦帰国後、今度はフランス、パリへ語学留学。学校へはほとんど行かず、ツレから直接、言葉や文化を学ぶ。半年の滞在の後、帰国し、24歳の時より、大阪、あびこに在住。なんとか卒論を書いて卒業するころには、人より3年遅れていた。卒業後、「知らない、わからない」を理由に就職活動をせず、新聞広告で見つけた、大手英会話学校にて非常勤英会話講師として勤務。1年後、やはりもう少し勉強したいと、出身校の前期博士課程に入れて頂く。2年で書くはずの論文が、私生活が荒れ放題になったことにより3年かって、ようやく完成、2006年、人文科学系で修士号取得。この辺りで人より5年遅れ。そして、大学には1996年から十年所属していたことになる。同時期、あらゆるおもろい人が入れ替わり立ち替わりする、あまりにも昭和な某ハイツにて、非常勤英会話講師とツレと一緒のアパートの別部屋で半主婦的な生活をしていた。32歳、親の希望もあり、実家の横にある、かの麗しの芦屋へ引っ越し、しかし、下町を愛する故、居心地が悪く、暗い日々を送る。しばらくして、結婚を決めたため、「したいことをしよう」と英会話講師を引退、編集会議のライター講座に通い、本屋でバイトし、編集プロダクションで大手出版社の下請けをする。が、一個年上の上司の無茶苦茶さと、30超えての取材と締め切り間際の何度もの徹夜で、体力の限界を感じたこと、何よりも情報誌のライターのペーペーでは自分が書きたいことなんて微塵もかけないことが負担になり、編プロを3ヶ月で辞める。翌年、嫁、土地問題で婚約から逃げて石垣島。島では時給650円のウェイトレス、塾講師、沖縄県庁の「八重山農林水産センター」で非常勤公務員に就職。あまりにものんびりした空気の中で、「これでは終わってしまう!」と、半年で、上京を決意、阿佐ヶ谷に1年半ほど住む。東京での就職活動は難航し、なんとか鎌倉にある病院の英会話講師で半分身を立てる。さらに英会話講師では色んな人を見送ったが、今度はわたしが外へ行きたい、見送られたい、という単純な理由から「日本語講師」を目指す。34、5歳より、見たことのない外の景色を見るべく、そして、放浪じゃなく、その場所に「働きながら住む」をコンセプトに、約2年周期で、中国、ハノイ、香港と、アジアの片隅を移動中。エゴとそれにまつわる思考と開放を愛する自分大好き女。現在、北京語、広東語、英語、日本語が飛び交う香港のオフィスにて、契約講師として週25時間授業を行っている。特技、言葉(英仏日中越ちょっと)。性格、人には打ちまくるが、自分は打たれ弱い。世界中のおっちゃんとおばちゃんを愛する。

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