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新人賞投稿作品

犬が西向きゃ尾は?

村西 和紀
2013年08月06日 投稿

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自民党がダメなら、民主党!?
考え方はそれであっているのか。
多くの人が勘違いしている、自分の考え方。現代の教育観を通して、今の社会の思考について考えていく。

カテゴリ

教育

内容紹介

犬が西向きゃ尾は東。当たり前のことを当たり前に思っている人が多い。しかし、それはあっているのか。

つめこみ教育の後に生まれたゆとり教育は現代の人々にはどのような影響を与えているのかを考えていくことで、現代の人々の思考を考えていく。多くの人が勘違いしている「自分の考え方」。実は、自分では考えているつもりでも、それは考えることになっているのか。自分たちで思っている自分たちの姿は、本当は勘違いしていることが多い。どのように考えることがこれからの社会に必要か、教育と心理学の目線で考えていく。

目次案・語りたい項目


第一章 スパイラル
 繰り返し学習をすることでだんだんと知識が身についていく。それは、日本が目指した脱つめこみ教育なのか。

第二章 生きる力
 今の日本の教育の根幹にある「生きる力」。これは具体的に何なのだろう。偽りの脱つめこみ教育では身につくはずがない。

第三章 最近の若者
 最近の若者はキレやすい、ということを言われて久しい。これは子どもが昔と変わってきたとためと言われる。しかし、本当に昔の子どもは「優等」だったのだろうか。

第四章 犬が西向きゃ尾は?
 犬が西向きゃ尾は東。これは本当なのか。世の中にはそんな単純ではないことがあふれている。

第五章 性善説
 人間が持つ理性とは本能の対なのか。本能も理性も動物が進化する過程で手に入れてきたものであるはずだ。

第六章 「何があっても」
 よく漫画やドラマで「何があってもお前を信じる」と言うがそれは本当に「信じている」といえるのか。

第七章 キャリアパス
 今の社会では、キャリアパスが一本化されていることが多い。それで本当に社会は発展していけるのだろうか。

書き出しの第1章

まず、この二つの公告を見てほしい。ちなみにどちらも定価が2980円だとしておこう。
 「商品をお買い上げの100人に1人は無料」
 「今なら低下の2%OFF」
 この広告を見たらどちらに食いつくだろうか。私としては、前者の方を選択する人が多いと思う。
 では、この二つの広告ではどちらがお得かを考えてみよう。前者は100人に1人のため、100個買ってその内の1つが無料になる。つまり、全体でみると2980円分得だということになる。
 後者は1個につき2980円×0.02(2%)=約59円の得である。59円×100個となる。すると、5900円分の得となる。
この結果から、後者の方がお得という計算になる。しかし、人間とは単純なもので、自分は特別で100人のうちの1人になるだろう(なる可能性がある)と思ってしまうのだ。実際は、たかが1%しか無料にならないのに。そして、99%の人は後者の広告のときの方がお得なのに。
これは、コントロール錯覚の理論に似ている。コントロール錯覚の理論とは、例えば宝くじを一枚買ったとしよう。そして、それとは別に誰かからまた一枚もらったとする。このときに、どちらの宝くじの方が当たりそうか、と尋ねられると自分で買った方だと答える。
これは、単純に自分で買ったということが要因である。自分で買ったものももらったものも当然のことながら当たる確率など同じに決まっている。だが、自分で買った物の方が、価値があるような気がするのだ。
では、なぜこのような勘違いが生じるのだろうか。それを解くためには今の日本の教育を見ていく必要がある。なぜなら、学校ではさきほどした簡単な計算(暗算でできなくても計算式を立てることくらいはできるはずだ)は教えるが、その計算をこのような問題に使うことができる、と教えられていないからだ。それはどうしてだろうか。
 今の日本の子どもたちの学力は低下している。以前は日本の学力はトップだったが、最近は専らトップテンに入ることで精いっぱいになりかけている。2000年から3年に一度行われるOECDの国際学力調査(PISA)では2000年と2009年で比較すると、読解力は8位から8位で変わらないが2003年では14位、2006年では15位と平均すると8位よりも下がっている。そして、数学的リテラシーでは2000年では1位だったが、2009年では9位である。日本が得意としていたはずの科学的リテラシーでは2000年では2位で、2009年では5位と下がってきている。
 このように数値だけで見ても、日本は学力が下がっているようだ。実際にGDPでは、2010年以前ではアメリカに次いでの2位をずっと保ってきていたのに、2010年では中国に抜かれて3位になってしまった。まぁGDPは単純に日本人の能力と比例しているとは言えないが(輸出入の量や諸外国の経済状況の影響もうけてしまうため)、知的創造物で勝負している日本では知的な能力が低下していると考えられるだろう。
 これらの日本人の学力が低下していることを防ごうとして、脱ゆとり教育をしていこうという意見が出ている。
 そもそも、ゆとり教育とは何だろうか、ということを考えないと脱ゆとり教育を理解することなどできない。しかし、ゆとり教育を理解するためにはその考えが出始めたことを考えなくてはならない。
 ゆとり教育とは、そもそも脱つめこみ教育として出てきた。そうすると、今度はつめこみ教育を考えなくてはならない。ややこしい話であるが、つめこみ教育の対にゆとり教育があり、今の脱ゆとり教育を目指すということは、つめこみ教育に近づいてきているということだ。
 では、日本の教育の最初はつめこみ教育だったのだろうか。実は、答えは否だ。
 もともと、日本では学校に関する法律ができる前から学校のようなものがあった。一般的に寺子屋と言われるものである。
 寺子屋とは、江戸時代に存在した教育施設である。しかし、今のように教師がいたわけではなく、時間のあった町人や寺の住職、下級武士などが教えていた。しかも、ただで教えていたという。ところで、武士が教えていた理由としては、武士は参勤交代などできちんとした場があったために、町人よりも学があったためである(あと、下級武士は暇だがお金がなく生活ができなかったため、教える代わりに食事をもらっていることがあったようだ)。このように、市民同士で教育をしていたのである。
 寺子屋は手習塾と言われてもいた。しかし、塾というよりも学校に近い機関である。実際に、江戸時代が終わり、明治5年に今の教育基本法の基となる学制が敷かれると、寺子屋を国が管理する学校に作り替えた。
 この寺子屋では、つめこみ教育とは違い、教師(師匠)が複数の子どもたちに教授するというよりも、子どもたちが自分のやりたい事をやっていてそれを教師が見ている、という形が主流だった。あっちではそろばんをやっていて、こっちでは文字を覚えている、そして教師は他の子どものために本を読んでいる、といった雰囲気である。
 寺子屋は今の学校の基になったが、今の教育方法とはまったく違っていたようである。まさに、今の日本が目指している「自主性」と「個性」を伸ばす場だったのである。
 しかし、当然この寺子屋のやり方では全ての子どもを対象としている学校の雰囲気とは合わない。そのために、今の学校のような一斉教授が中心となってきたのである。そして、寺子屋のように自習形式ではなく、一斉教授形式にして全国民に基礎的な学力をつけさせたのである。日本はこの寺子屋から学校にうつるということがスムーズにできたために、日本では識字率が99%を超えている。世界大戦のときにも日本ではしっかりとした教育がされていたために、敗戦後もすぐに日本の経済が立て直せたのも、日本人は識字率が高かったために戦車や武器を作るときに設計図に書かれているものをみんなが読めてスムーズにことがはこんだためとも言われている。
 これらのことから、寺子屋の形式もよかったと思うが、今の一斉教授の形も悪くないということであろう。しかし、この一斉教授がつめこみ教育を生んだ。
 第二次世界大戦のとき、修身の授業(今でいう道徳)で「ほしがりません、勝つまでは」ということを言いだしてしまったのだ。これをきちんと子どもたちにしみこませるために、日本の戦況、日本の誇りを徹底的に教えたのだ。そうして、子どもたちに戦争のことを詰め込んで、洗脳していった。そして、1950年代1960年代ではそれらの洗脳教育を受けてきた子どもたちが教師となった。すると、悪意なくつめこみ教育をするようになっていく(当然、第二次世界大戦のときにつめこみ教育をしていた側が日本の政治を牛耳っていることも原因の一つである)。
 さらに、日本の経済がどんどん良くなり、最高学府に子どもを進めようとする人が少しずつ増えてきて、学力競争が激化してきた。それらに対処するために、知識を詰め込んでいく必要が出た。これらの要因が重なり、つめこみ教育が生まれた。
 しかし、決してつめこみ教育が間違っていたわけではない。実際に、つめこみ教育を受けてきた人たちが今の日本経済を支えてきていた。外国からも日本人は頭がいいという印象を与えていたくらいである。
 ただ子どもたちが荒れ始めてしまった。1970年代には社会問題となるくらい学生が荒れてきてしまった。これの原因としてつめこみ教育が挙がった。
 つめこみ教育はとにかく努力を重要視する。なぜなら、努力して知識を知っていかないと、詰め込むことすらできないためである。どんなに柔軟な思考能力を持っていようとも、歴代の総理大臣の名前を読んだり聞いたりしない限り社会科ではいい点が取れないというわけである。そのために、その人がどんな勉強法が合っていようが、みんな同じようにやたらめったら努力をする必要が出てしまった。そして、その努力が子どもたちにストレスを与えてしまう。そのストレスが限界に達すると荒れるというわけである。
 子どもたちが荒れないためにもつめこみ教育に変わるもの(努力を必要としないもの)が必要となった。それが脱つめこみ教育であり、ゆとり教育というわけである。このゆとり教育というものは、簡単に言うと詰め込む内容を少なくして子どもたちに趣味や好きなことができる時間を作り、心にゆとりを与えようというものである。
 このようにして生まれたゆとり教育はつめこみ教育とは逆へ逆へと行った。つめこみ教育では単語や公式のような知識を覚えることを重要視して、その逆のゆとり教育では単語や公式を覚えなくても思考力があれば解ける問題を重要視した。このため、3割くらいの知識を覚える必要がなくなった。
 そうすると、記憶する時間で考えると3割以上減っただろう(つめこみ教育では細かなところまで覚える必要があったため、細かくなればなるほど記憶には時間がかかる)。そうすると、当然勉強へのストレスが減って子どもたちの荒れもおさまると考えられていた。しかし、実際は違った。教育の内容を変えようとも子どもたちは荒れ続けた。
 さらに、悪いことは続いた。最近になってゆとり教育が定着してきたと同時に子どもたちの学力が低下してきたのだ。2001年の「国語に関する世論調査」で「情けは人のためならず」という言葉の意味の誤答が正答を上回った。このことからも、子どもの学力が下がってきている。
 その学力低下を抑えるための教育方法が最近進んできた脱ゆとり教育である。当然、脱ゆとり教育というものはゆとり教育の反対である。前述したように、ゆとり教育の反対はつめこみ教育である。つまり、つめこみ教育が悪かったらゆとり教育、ゆとり教育が悪くなったらまたつめこみ教育に戻るということだ。全く何の意味があるのかわからない。またそのうちゆとり教育に戻るのかもしれない。
 そして、2011年4月から脱ゆとり教育として考えられた教育指導要領に完全移行した。その中でいくつか強調されていることがあった。そのうちの1つに「スパイラル(繰り返し学習)」というものがある。
 スパイラルとは、前に学習した単元を復習して繰り返すこと、である。これにより、以前に学習したが、忘れていたものを思い出して、次に学習する単元の内容をスムーズにしたり、繰り返すことで定着を図ったりする。
例えば、三年生で習う割り算をするときには、掛け算の知識を必要とする。つまり、掛け算を忘れている子どもは割り算を学習することができない。そのために、割り算を学習するために掛け算を思い出せるようにする。
このように、スパイラルは新しい単元をスムーズに進めるために行われる。
そして、他には繰り返すことで掛け算を覚えられやすくする。当然、一度しか学習しないよりは二度、三度学習する方が覚えることができる。実際に、自分たちもそうした勉強方法をとったのではないだろうか。英単語を覚えるときに、単語帳を何度も何度も読み返すだろう。
さらに、記憶力の定着を調べる実験で、被験者には複数の単語を覚えてもらう。このときに被験者を一度しか学習しない群と二度学習する群、三度学習する群を用意した。そして、それぞれ内容をきちんと覚えているかの確認テストをしてみると、一度しか学習しない群より二度学習する群、二度学習する群より三度学習する群の方が覚えていた。さらに、一度学習した群と二度学習した群の差よりも、二度学習した群と三度学習した群の差の方が抜群に覚えているという結果になった。つまり、三度学習すると定率が一気に跳ね上がるというわけだ。
さらに、記憶力というものは一気に行うよりも少し時間を空けてから再度学習する方が定着率はあがる。1日に10時間学習するより、10日間毎日1時間ずつ勉強する方が定着するのだ。
では、もし毎日の学習の間に他の学習を挟むとどうなるだろうか。毎日複数の単語を覚える群と、隔日に複数の単語を覚えて単語を覚えない日に他の学習を行う群ではどちらが記憶の定着率が高いのか。これは不思議なことに日数が短いと毎日学習する群の方が定着率は高まるが、日数が長くなればなるほど隔日に単語を覚えた群の方が定着率はあがるのだ。
これらの記憶力の実験からもわかるように、スパイラルのように繰り返し学習は通常の学習よりも成果が高い可能性がある。まずは何度も学習することに意味がある。繰り返し何度も学習することで覚えられる。
そして、スパイラルは他の単元を間に挟む。そのため、少し間隔をあけることができる。さらに、別の単元を挟むということは、別の学習を間に挟んでいることと同じである。
では、スパイラルは推奨されるべきなのだろうか。当然私は能力が身に着くかという点では反対をするつもりは毛頭ない。しかし、ゆとり教育で目指していた「自主性」と「個性」がスパイラルで身につくとは思えない。単純にスパイラルは計算方法を身につけるためにはよいかもしれないが、それは計算の意味を理解しているのではなく解き方を覚えているにすぎない。記憶しているということは、やはり詰め込んでいるだけといえる。
では、「自主性」と「個性」とはなんだろうか。まずは、自主性を見ていこう。
自主性は、自ら進んで色々なことに挑戦することだろう。詳しくは第2章で述べるとする。では、自主性の対はなんだろうか。反対のものは、自ら進んで色々なことに挑戦しないことだ。つまり、自ら活動をしないということである。
自ら活動をしないということは誰かに言われて行動するということだ。いつも後手後手で自分より上のものを求めるということである。上のものがいないと自分を命令してくれないからだ。
そうすると、当然上のものになるとまた上のものが必要になる。これの繰り返しだ。そうして、上司の上にまた上司、そのまた上司の上にまた上司、となっていくのだ。だから、平社員の次は係長、係長の次は課長、課長の次は部長、と決まった出世街道しか残されていない。そうして、社長からだんだん下のものへ命令が下っていく。下のものは社長からの命令を遂行して、また下のものに指示を出すだけ。
その下の人間とは一昔前に会社で流行っていた「なんでもやります」人間ではないのだろうか。
バブル前後では労働力がほしかったために、上司の言うことを「なんでもやります」という部下が重宝された。カバン持ちなどそれの典型だろう。カバンを渡されたら(渡されそうな雰囲気になったら)カバンを持つ、といった自分から動かないが上司に言われたらカバン持ちでもする人間が求められていたのだ(上司が渡す前にカバンを持ったとしても、そういう状況や雰囲気によってカバンを持っているためにそれは自主的にやったとは言えない)。
つめこみ教育のときには自主性は求められていなかった。つめこみ教育では自主性があまり育たなかったのは、自主性を必要としていなかったために無視していたのだ。つまり、育たなかったのではなく、育てなかったのだ。
しかし、今はそうはいかない。昔と違って、今は労働力が重宝されているわけではなく、知的創造物を生み出す想像力や思考力などが必要だ。だから、自主性が必要なのだ。
そうすると、今の教育は自主性を育てなくてはならない。だが、スパイラルでは自主性は育たない。さらには、またつめこみ教育に戻していくと自主性を養うことができないために、結局は元も子もない。こうしてみてみると、やっぱり脱ゆとり教育とは詰め込み教育のことを言っているだけだ。そのため、脱ゆとり教育はつめこみ教育以外の方法で進めなくてはならない。
その問題を解決するためにはゆとり教育とつめこみ教育を対極なものとしてだけ考えるのではなく、ゆとり教育とつめこみ教育以外の他の方法があるということを認識しなくてはならない。
哲学者のヘーゲルが提唱した弁証法のように、ゆとり教育がテーゼ(命題)なら、つめこみ教育をアンチテーゼ(反命題)とする。テーゼとアンチテーゼは一見対のようなものに見える。まるで、生きると死ぬの関係のように。生きていることは死んでいないこと、死んでいることは生きていないことのように。テーゼでなければアンチテーゼしかないように見える。しかし、ゆとり教育とつめこみ教育はそうではない。テーゼとアンチテーゼのいいところを兼ね備えたジンテーゼ(統合命題)があるはずだ。
例えば、最初はスパイラルをして計算方法を覚える。そして、そのあとに計算の意味を理解できるようになる年齢になってから、計算の意味を教える。そうすると、最初に計算方法を教えているために、その計算はできる。その後、計算方法を覚えたあとに計算の意味を理解して、そこから新たなる単元(例えば割り算)にも生かせるようにする。このように、計算方法と計算の意味を別々の観点で捉えればいいのだ。
掛け算なら計算方法として掛け算の筆算を教える。そして、その筆算を用いる計算問題をスパイラルとしてたまに解いていく。そうして、筆算を用いた計算方法を覚えていく。すると計算ができるようになる。その後、また間隔をあけてスパイラルとして掛け算の意味を教えていく。
足し算は原則として同じものを足す、そして掛け算は違うものを掛ける。例えば、足し算なら、財布に1000円入っていて、お小遣いとして300円もらったら合計で1300円になる(お金+お金=お金)。掛け算なら、クッキーが3枚入っている袋が4袋あるとクッキーは全部で12枚になる(クッキー×袋=クッキーの総数)。
掛け算の計算方法を教わった子どもは掛け算という新しい知識を手に入れてわくわくしている。このわくわくが自ら掛け算を使おうとしていくこととなる。
掛け算は2年生で学習する。2年生くらいだと掛け算の計算方法を知り、掛け算の単純な計算(文章問題ではなくともただの筆算でもよい)を繰り返し行うだけで楽しめるものなのだ。子どもにとって「理解した」ということはそれくらい嬉しく、自分の能力を「発揮する」ことはそれくらい楽しいものなのだろう。
そして、計算方法を教わったわくわくがだんだん減少していくときに、次には掛け算の意味を理解させていく。そうすることで、日常生活に掛け算がありふれていることに気付く。買い物のときや、みんなの手の数、野球の試合に出場する選手の数など掛け算で表そうと思ったら、ものすごい数表せるのだ。
割り算を学習するのは3年生である。つまり、2年生で掛け算を習って、そこから3年生の割り算を習うまでにスパイラルで少しずつ掛け算の計算方法を理解させて計算の意味も理解させていく。
3年生になると、子どもたちは世界が広がっていく。周りの世界が広がっていくのだ。だから、掛け算が世の中にありふれていることに気付くことができて、その気付きは子どもたちに楽しみを与える。
その楽しみがあるからこそ、子どもたちの自主性が伸びて勉強する気が起こるのだ。
そして、次にゆとり教育で目指している「個性」を見てみよう。前述したようにつめこみ教育では「なんでもやります」人間が求められていた。労働力が求められていた。この労働力はむしろ自主的であるべきではなかった。だから、言われたことのみをやってくれる方がありがたかった。
個性とは当然自主的であることが必須だ。自分から考えるようにしないと自分だけの個性を発揮することができない。自主性は第二章で述べる。
個性とは他の人と違う特徴のことをいう。ナンバー1よりオンリー1ってことだ。
最近はオンリー1という言葉をよく聞く。巷で流行っているようだ。そして、今の若者には特に受け入れられているようだ。
ナンバー1はこの世の中で一人だけだが、オンリー1はこの世のすべての人がなれるものだ。だから、みんな自分だけの称号がほしいためにオンリー1を目指すのだ。
だれでもなれるということは努力が必要ないということだ。昔はつめこみ教育が主流だったために努力が重要だった。しかし、昨今はそれと逆のゆとり教育を目指している。
昔は努力が重要視されていたからこそナンバー1が輝いて見えた。今は努力が軽視されている。だからこそ、努力ではなく誰もが持っているなにかしらの能力を見るオンリー1が大切にされているのだ。
努力が軽視されていくと、努力をしなくなるだけではない。努力をしている人がバカな行いをしているように見えてきてしまうのだ。
なぜ努力がバカらしいのだろう。それは、努力が個性とは反対のように見えるからだ。頭がよくなるためには当然勉強をしなくてはならない。勉強をするということは基本的にみんなと同じことをするということである。みんな同じことをしたらオンリー1ではなくなってしまう。だから、努力は個性と反対だと思われるのだ。
面白いことにこれは漫画の趣味の変遷でも見てとれるのだ。TUTAYAの年代別コミックランキングによると、1970年代に流行った漫画は「エースをねらえ!」や「あしたのジョー」、「ドカベン」などのスポーツ系である。そして、2000年代は「ONE PIECE」や「NARUTO」、「鋼の錬金術師」などのファンタジーが流行っている。
1970年代に流行ったスポーツ漫画は努力・熱血・友情が話のメインだったろう。「エースをねらえ!」ではひたすらボールを拾い続けたり、「あしたのジョー」では力石徹と刑務所内で戦いそれを糧に努力し続けたり、「ドカベン」では毎日毎日素振りをしていたりした。
では、2000年代に流行った漫画はどうだったろうか。
今のどの漫画も修行をしたり努力をしたりは一応している。しかし、「ONE PIECE」では悪魔の実を食べて特殊能力が身に付いたり、「NARUTO」では主人公には九尾のキツネの力が眠っていて尋常な能力を持っていたり、「鋼の錬金術師」では主人公は天才と言われるくらいの才能を持っていたりする。このことから、今の漫画は努力が前に比べると欠けてきているようだ。それぞれの持つオンリー1が強調されているように。
昔の漫画は、主人公は特別な人間ではないことが多い。岡ひろみも矢吹ジョーも山田太郎も努力をする前はただの人だ。このただの人が努力して、力をつけて才能を発揮していく。
それに対してルフィやナルトやエドワードはいきなり特別な力があるのだ。その特別な力が扱いにくいものだとしてもほかの登場キャラクターとは同じではない能力である。
この対比はまさにつめこみ教育とゆとり教育を示しているだろう(私は決して今の漫画を否定したいわけではない。私も漫画は今も読んでいるくらい好きだ。ただ今の漫画は努力よりも友情に重点を置いているように感じる)。
話は戻るが、オンリー1であるためには努力が必要ない、というわけではない。人間は日々高めていかなくてはならない。本来なら自分を高めていかなくてはならないのだが、如何せんオンリー1には好敵手がいない。だから、自分を高めなくてもオンリー1はオンリー1なのだ。
ナンバー1を目指さなくてはいけなかったことが、ストレスになる。しかし、オンリー1を目指しているゆとり教育ではこのストレスがかからなくなる。だからこそ、子どもたちが荒れなくなるのだ、という考えからゆとり教育が始まったのだ。しかし、実際子どもたちが荒れなくなったわけではない。
子どもたちが荒れる理由にはいくつかあると考えられていた(つめこみ教育のストレスと言ったが、そのストレスがどう影響しているかの理由である)。その原因の一つに他人の気持ちを想像できない、ということが挙げられた。勉強をしていると他人のことを考える必要がなく、考える暇もない。そうした環境で育った子どもたちは他人の気持ちを考えることができなくなってしまうのだ。
では、ゆとり教育ではどうだろうか。ゆとり教育では確かに勉強に対するストレスは減る(厳密に言うと勉強に対するストレスだけで考えると私立学校の方がストレスが多くかかる可能性があるが、あまり私立学校での暴力事件は耳にしない)。
しかし、その代わり個性を尊重しすぎて他人との比較をしなくなってしまった。なにせオンリー1だから。
他人と比較が必要なくなると、人間は内省的になる。自分のことをよく考えるようになるのだ。自分のことばっかり考えていると、他人のことを理解しなくなる。2011年に起こった東北関東大震災のときに大人たちはお店にあるものをこぞって買い溜めていった。周りの人が困っていても、自分はそんなに消費する予定がなくても、買い溜めたのだ。
最近の若者は「他人の気持ちを理解できない」?何を言っている。大人たちこそが理解できていないのだ。しかし、大人たちはずるがしこい。自分たち大人のことをバカにする必要がないため、「大人たちは周りの人を考えずに買い溜めをするほど、他人の気持ちが理解できなくなっている。思いやりがないのは最近の若者ではなく、私たち大人なのだ」と報道しないのだ。これも単純に自分たちを比較できないために自分は正しいが若者は正しくない、と勝手に決め込む。実状、若気の至りを持っている若者と同じレベルの大人など正しいわけがないのだ。
そして、これが子どもたちへの負のスパイラルを生んでいるのだ。大人たちの道徳水準が下がってきているために、子どもたちに大人がバカにされないようにしなくてはならない。だから、子どもたちには自分たちよりも他人の気持ちを考えることができないようにしなくてはならない。それがナンバー1よりオンリー1の教育への変遷の原因なのだ。
しかし、根本的にこれらの論法は間違っている。なぜなら、個性と周りの気持ちを考える社会性とは対のものではないのだ。つまり、個性と社会性の間でジンテーゼを見つけることができるはずなのだ。
このことは当然だろう。メジャーでも活躍している松井秀樹選手は自分だけの個性的な能力を持っていながら、チームメイトに好かれる社会性も持っている。個性と社会性、どちらも持つことができることなのだ。
では、社会性を見てみよう。社会性とは周りの社会に同調することができる能力といえるだろう。つまり、周りに合わせることが重要だという能力である。周りに合わせるためには周りと同じようなことをする必要がある。社会のルールを守ることが社会性だろう。例えば、赤信号は止まる、といったものはみんなで守るところから社会性だろう。赤信号に対して自分なりの考えとして個性を示していたら社会がなりたなくなってしまう。人によっては止まるし、人によっては動き出す、これでは社会としてあり得ないだろう。
社会性はルール以外にも人間関係でも通用するものである。誰かのためを思った行動も時には社会性といえる。例えば、道に迷っている人に道を教えてあげることも社会性だろう。
単純に考えてみると、社会性とはより多くの人が困らないように、喜んでくれるように行動することが社会性といえる。人を喜ばせるためには、相手と共通の喜びをわかり合う必要がある。だからこそ、相手の気持ちを考える社会性が必要になるということだ。
相手の気持ちを考える社会性は個性とどのような関係だろうか。社会性は共通の喜びで人のための行動をするが、個性は他の人と違う行動をすることである。一見すると共通と違う行動で逆のことを言っている気がする。しかし、相手とは異なる行動が共通の喜びではないとは限らないのだ。例えば、人は殴られるのが嫌いだ。だから、人を殴らない、ということは社会性だろう。実際に、法というルールでは人を殴ってはいけないと書いてある(刑法208条「暴行罪」)。
ところで、アンパンマンはバイキンマンを殴る。これは単純に考えると社会性に反している。しかし、多くの人を困らせているバイキンマンを倒すことで社会性を示していると考えられる。多くの人は社会性を発揮するために暴力を振るわない。だから、アンパンマンは社会性を発揮するために力という個性を発揮している。つまり、アンパンマンは個性を持っていて、さらに社会性も持っているといえる。
他のアニメキャラクターもそうだろう。ドラえもんも人のためになることをする(のび太くん個人ではなく周りの人のことを考えて道具を出す場合)。しかし、存在自体が個性的なうえに、四次元ポケットという個性的なものを持っている。
このように、個性と社会性は対するものではない。個性的であろうとも人のことを考えて行動することができる。
しかし、今の世の中では個性が尊重されすぎて、社会性を尊重していない。福沢諭吉は「人は他人に迷惑をかけない範囲で自由である」と述べている。自由に力を発揮するためには他人に迷惑をかけてはいけないのだ。つまり、個性とは社会性を基盤にしていないといけないのである。
人間のパーソナリティが固まるのが10歳前後と言われている。そのときまでに、しっかりと社会性を固めてあげることが大切である。そうすると、10歳以降にもその人は社会性を持つことができる。それに対して、10歳までに社会性を伸ばしてあげていないと、なかなか社会性は身につかないようになってしまう。
10歳といえば、小学4年生くらいである。昔であれば、まだまだ子ども扱いであった年齢だろう(農家などだと一人前の働きでとなっていたが、まだ継がせるわけにはいかなかっただろう)。しかし、今は子どもを大切に思うあまり(?)に、しつけのための力すら許されない。学校で正座をさせるだけで体罰となる。もう少し言うと、放課後に教室に残してお説教するだけで体罰となる(子どもを拘束することになるためらしい)。
体罰の問題で今の子どもは甘やかされている。おそらくゆとり教育が進んだ要因の一つも子どもがかわいく甘やかしたかったからだろう。しかし、子どもには社会のルールを教えなくてはならない。見聞したことのないものを想像して考えられるほど子どもの能力は高くない。だから、教えてあげなくてはならない。「痛い」とはなにか、「困る」とはなにか。それこそ、スパイラルで教えてあげるべきなのだ。勉強と違って、理屈ではなくルールなのだから、理解ではなく記憶させなくてはならない。
まぁ教育の世界でそのようなことをしたらすぐさまくびになるだろう。本当は社会性の基盤となるある程度のしつけは家庭でするべきなのだが、大人たちの道徳水準が低下しているから仕方がない。
スパイラルとは教育の世界のささやかな抵抗だったのかもしれない。内容を濃くすることができないために、せめて必要なものくらいは身につけてほしかったのだろう。しかし、ゆとり教育がダメだったからといって、脱ゆとり教育としてスパイラルを行えばいいわけでもない。
スパイラルはつめこみ教育に近い考え方なのだ。だから、過去にやった単元を繰り返すのではなく、過去に行った単元をさらに追求した内容にしていく必要がある。繰り返すだけではなく、進んでいく必要があるのだ。
そして、スパイラルのように単純に繰り返して学習するものは勉強よりも社会性だ。そうして、社会性をしみこませてから、そこから子どもたちの好きなものを伸ばせるような環境の提示が大切なのだ。そのために、高学年になればなるほど、勉強を楽しいものにしなくてはならない。
私もスパイラルをすることは反対ではない。しかし、Aがダメなら反対のBをする、ということが間違っているのだ。つめこみ教育がダメだからゆとり教育ということが間違っているといっているのだ。そもそも、つめこみ教育をしていたときに子どもたちが荒れ出すからといってそれがつめこみ教育が原因なのか、仮につめこみ教育だとしたらつめこみ教育の何が原因なのかを明確に知る必要がある(ちなみにおそらく勉強に対するストレスが原因であるという考えは間違っている)。頭ごなしに、つめこみ教育とゆとり教育の間を揺れ動くだけでなく、そこから新しいジンテーゼを提案していかなくてはならないのだ。

応募者紹介

村西 和紀さん

武蔵野大学 人間関係学部 卒業。
大学では心理学を専攻しながら、小学校教員免許を取る。大学では、さらに手話を学び、福祉と関わっていく。心理学、教員、福祉、様々な人と関わることで、様々なものの見方を身につけていく。
卒業後は、埼玉県で小学校教員を始める。

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